私がどんな私になっても
カウンターの向こうで、お巡りさんと少年が何かを話している。私はパイプ椅子に座ったまま、辺りをきょろきょろと見回した。煤けた壁。薄汚れた床。掲示板に貼られた、警告だらけのポスター。ここは……交番だろうか。
「お孫さんですか?」
お巡りさんが尋ねると、少年が「はい」と返事をした。
「今度から気をつけてくださいね。ちゃんと見ていてあげないと」
「すみません……」
少年が深く頭を下げてお巡りさんに謝った。少年は何か悪いことをしたのだろうか。でもお巡りさんは怒っている風でもなく、困ったように少年と私を交互に見ている。私が何か関係あるのだろうか。そもそも、私はどうしてこんなところにいるのだろうか。
突然、少年がカウンターの脇を通り抜けてこちらにやってきた。少年は私の前まで来ると、少しかがんで視線を合わせ、笑いかけてきた。少年は薄着で、手に冬物の上着を持っている。
「迎えに来るのが遅くなってごめん。帰ろうか」
この少年は、誰だろうか。親しげに笑いかけてくるが、私はこの少年のことが分からない。
「あなた、どちらさま?」
私が訊くと、少年は少しだけ困ったように黙って、すぐに笑顔を作った。
「あい、だよ。君を迎えに来たんだ」
あい……。口の中で繰り返し、首を傾げた。どこかで聞いたことがあるような気がするが、女の子によくある名前だからだろうか。
「大丈夫、ボクが君の家に連れて帰ってあげるから」
少年はしゃがみ、私を見上げた。ずいぶんと顔が整っている。それに、何か悪いことをしそうな雰囲気ではない。
家――家には帰りたい。でも、家にはどうやって帰るんだっけ。わからない。
「真冬なのにこんな格好で外出ちゃダメだよ。風邪ひいちゃうでしょ」
少年が手に持っていた上着を差し出してきた。それは、少年ものではないだろうか。私が戸惑っていると、少年は手を伸ばして私の腕を取り、上着の袖を通し始めた。いやだ、何するの、と抵抗する間もなく、すっかり上着を着せられてしまった。
「ほら、こんなところまで歩いて疲れたでしょ?おぶってあげる」
そして少年はしゃがんだまま、背中を丸めて私に向けた。特段足が疲れているようには感じていないけど、私は少年の背中に体重を乗せた。少年が立ち上がると同時に、私の身体もふわりと持ち上がる。
「ご迷惑をおかけしました」
少年がお巡りさんに向かって頭を下げ、ガラス戸を押し開けて外に出た。
「さっきはごめんね。孫だなんて嘘ついて。前に同じようなことがあったとき、正直に恋人だって言ったらものすごく怪しまれて、色々訊かれて大変だったんだ」
私を乗せて歩きながら、少年が言った。声変わりがまだなのか、少年は透き通った女性のような声をしていた。少年の発した言葉は長くて、その意味を理解する前に解けて消えてしまったけど、その声だけは耳心地が良くて、なぜか嬉しい気分になった。
「あなたの声、きれいね」
そう私が言うと、少年は、ふふ、と笑った。
「ありがとう。君はいつもそう言って褒めてくれるよね」
少年がなぜか得意げに言ったので、私もつられて笑った。いつもって、一体いつのことだろうか。少年は何か勘違いをしているのかな。色々な思いが巡ったけど、急に眠気が襲ってきて、私はそのまま少年の肩に顔を埋めた。
少年が何かの歌を歌い始めた。歌詞の意味は分からない。でもやっぱり、声がとても綺麗だ。
私は、とてもふわふわとした世界を生きている。身の回りに何かが起きても、その何かは砂漠の砂みたいに指の間をすり抜け、私の中から消えていってしまう。何がしたくて、何をやろうとして今に至っているのか、分からない。自分が何者なのかも、よく分からない。分からないから常に戸惑っている。それを周囲に伝えたいけど、次の瞬間には何を伝えたかったのかがわからなくなっている。
そしてずっとずっと、何か大切なことを忘れているような気がしているのだ。絶対に、忘れてはいけないこと。忘れまい、忘れまいと、自分に言い聞かせて刻みつけてきたもの。思い出したくても思い出せない。それがとてももどかしくて、辛い。
目が覚めると、知らない部屋だった。大きな窓から明るい光が射して、とても眩しい。私は起き上がり、窓のカーテンを閉めた。そして辺りを見渡し、薄暗くなった室内に、外に繋がりそうな引き戸を見つけた。私は引き戸に手をかけ、ゆっくりと開けた。再び眩しい光に見舞われ、思わず目を閉じた。
「起きた?そろそろお薬飲まないとね」
声がして恐る恐る瞼を押し上げると、顔立ちの整った少年がダイニングテーブルの向こうから私を見ていた。
ここは、外ではない。開けた空間に、ダイニングセット、テレビ、ソファが置かれている。居間だろうか。
「ほら、座って」
少年が椅子を引いて指差した。
「あなた、どちらさま?」
私が訊くと、少年は、
「あい、だよ。君の、――。付き合ってもう何十年にもなる」
と答えた。肝心なところが聞き取れなかった。名前は「あい」と言うらしいが、私の何だというのだろうか。でも、言い方も優しいし、私に危害を加えるような人ではなさそうだ。それに、「あい」という名前にはどこか良い印象を覚えた。男の子にしては珍しいし、漢字もいろんな字が思い浮かぶけど、何よりもその響きにどこか懐かしさを感じる。
「あいって、素敵な名前ね」
私が言うと、少年はふんわりと笑った。
「ありがとう。君がそう言ってくれるから、ボクもこの名前が大好きなんだ」
少年の、さも彼と私が顔馴染みであるかのような口ぶりに、どこか引っ掛かりを覚える。でも、小さな違和感はすぐに溶けてなくなり、何に対しておかしいと思ったのかは思い出せなくなってしまった。
そして、消えゆく違和感と入れ替わるように、少年の笑ったその顔から何かを思い出しかけた。そうだ、早く家に帰らなければ。
「家に帰りたい。ここはどこなの?」
思い切って少年に尋ねた。
「どうして帰りたいの?」
少年はそう言って、つぶらな瞳で私を案じるように見つめた。
「……一人で待っているから」
そう答えて、口をつぐむ。誰が待っているんだっけ。誰がいるから家に帰りたいんだっけ。とても大切な人が、家で私の帰りを待っていてくれているはずだったのに、それが誰かを思い出せない。
「そっか。その人にはボクが連絡しておくから、今日はとりあえずここでゆっくりしなよ。ここは君が安心して過ごせる場所だよ」
少年が諭すように言って、椅子を手のひらで指し示した。どうしたらいいか分からなくなって、とりあえず私は少年に言われた通りに過ごすことにした。
少年は私が椅子に座ったことを確認すると、どこかへ行って、すぐに何かを持って帰ってきた。少年は私の目の前、テーブルの上にその何かを置いた。コップに入った水と、二つの錠剤。
「何のお薬ですか?」
「病気の進行を抑えるためのお薬だよ。君のもやもやが軽くなって、少しでも快適に暮らせるようにね」
私は病気ではないけれど、確かに頭がもやもやしていて、快適ではない。私は言われるがまま、その薬をつまみ取って口に入れ、コップの水で流し込んだ。すると少年は微笑み、「ありがとう」と言って私の目の前からコップを回収した。
少年がまたどこかへ行ったので、私は部屋の中をゆっくりと眺めた。エル字型の本棚にたくさん詰まった本、槍と盾を持ったキャラクターのぬいぐるみ。壁際に大きなテレビがある。私は立ち上がって、テレビのリモコンを探し始めた。
「テレビが観たいの?」
声がして振り向くと、少年が私の傍に立っていた。あれ、テレビが観たいんだっけ。分からないけど、とりあえず頷いてみせた。
「ご飯を食べたら一緒に観ようか」
少年は私の肩に手を置き、テーブルの方向を指差した。少年は意外と背が高いらしい。もしかすると顔つきが幼いだけで、年齢はもう少し上なのだろうか。考えては、疑問が頭から離れていく。
見れば、テーブルの上にはお皿やお椀が置かれていた。それぞれ料理が入っているみたいだけど、料理名が思い出せない。ひとまず料理がある側の椅子に座り、お箸を手に取ってみた。すると、少年は私の向かい側の椅子に座って、両手をテーブルの上に乗せた。少年が座った方には、料理が置かれていない。
「あなたは食べないの?」
「うん、ボクはいいんだ。君が眠っている間に食べたから」
少年はさらりと答え、テーブルで頬杖をついた。私は手に取ったお箸に視線を落とし、そして料理を見た。お腹が空いている。目の前にあるものを、早く食べたい。でも、手に取った二本の棒の使い方がわからない。わからないことに、苛々する。
「スプーンにする?」
声がして顔を上げると、少年が心配そうな顔を私に向けていた。私は何かおかしいのだろうか。少年を困らせるようなことをしてしまっているのだろうか。少年も、私なんかに構わなくてもいいのに。なんとなく、この少年には迷惑をかけてはならないような気がする。
そういえば、とてもお腹が空いている。早く目の前にあるものを食べてしまいたい。
私はお箸を右手で握りしめた。そしてお皿の真ん中に突き刺し、刺さったものから順番に口の中に入れていくことにした。名前の分からない料理、名前の分からない食材、何でもいい。飲み込む間もなく、次から次へと口に入れる。
「ねえ、ちょっと、お願いだからたまにはお茶も飲んで」
少年が立ち上がり、私の手を制した。こんなにお腹が空いているのに、どうして止めるのだろうか。私は少年の手を力いっぱい振り解いた。勢いで机の上の食器が弾け飛び、大きな音を立てて床に落ちた。勿体無い。立ち上がり、落ちたものを食べるために床に手をつこうとした私を、少年が向かい側から飛んできてまた止めた。
「割れてるから、危ないから、そこで座って待ってて」
少年が必死に訴えているけど、まるで意味が入ってこない。私の前に立ち塞がって止めようとする少年を、手で払い除ける。しかし少年は見た目よりも力が強いみたいで、押そうが叩こうが、びくりともしない。そうこうしているうちに、自分が何をしたかったのかが分からなくなって、とりあえず背後の椅子に腰掛けた。
眼下では少年が身を屈め、床に散らばった何かを集めている。あれは、何かが割れた破片だろうか。少年はどうして破片なんかを集めているのだろうか。どうしてあんなにたくさんの破片が、またたくさんの汚れが床に散らばっているのだろうか。
「誰がやったの?」
声をかけると、少年は身を屈めたまま私を見上げた。そして、貼り付けたような笑みを浮かべた。
「……ボクがうっかり落としちゃったんだ。危ないし汚いから、ボクが全部片付ける。君はそこで待ってて」
そして少年はまた床に這いつくばり、触れれば切れそうな破片を躊躇なく掴んで回収していった。どうしてか、薄らだけれども、胸が痛んでいる。少年が破片に触れるたび、危ないよ、と思わず手を出したくなってしまう。少年が傷つくのではないだろうかと怖くなる。その怖くなるような気持ちがどこか懐かしくて、不思議で仕方がない。
そういえば、お腹がとても空いているのだった。どこかに食べるものはないだろうか。私は椅子から立ち上がり、辺りを見渡した。
「テレビ観るんじゃなかったの?」
少年の声に答えることもできず、身体が動くままに部屋を歩いた。ここはどこだろうか。どこかに出口はないだろうか。
「テレビ点けてもいい?ボクが観たい番組がちょうど始まるんだ。一緒に観ようよ」
少年が追いかけてきて、また私の前に立ち塞がった。そして私の背中に手を回し、軽く押してソファへと誘導した。抵抗する気も起きず、私は少年と一緒にソファに腰掛けた。肘掛けのところに革を破いたような大きな傷がある。見渡せば、床も壁も、家具も全て、何かが当たって凹んだような傷が無数に付いている。この家はどうしてこんなに傷だらけなのだろうか。少年がやったのだろうか。
『懐かし映像大放出!昔のアイドル曲集!』
目の前で、テレビが賑やかな音を発し始めた。画面が鮮やかな色でいっぱいになり、歌が流れる。私はソファから腰を浮かせ、テレビに顔を近づけた。
画面の中でマイクを手に、歌いながら踊る四人の男性。身長も系統もバラバラみたいだけど、なぜかとても楽しそうにハーモニーを奏でている。カメラが彼らの歌う顔を大きく映し始めた。私の視線はそのうちの一人、明るい髪色をした少年に吸い寄せられた。少年は整った顔で様々な表情を作りながら、美しい歌声を発している。私はテレビに映った少年と、横に座っている少年とを交互に見比べた。
「あなた、この人に似てるわね」
テレビ画面を指差し、少年に言った。すると少年はソファに座ったまま、可笑しそうに目尻を下げた。
「よく言われるんだよ。だって、本人だからね」
そう言って、少年がすまし顔をした。どういうことだろうか。少年の言っていることがよく分からない。
そういえば、この少年は誰だろうか。テレビの中にいる人と似ている気がしたけど、人の顔がよく分からないから、本当に似ていたか確信が持てない。
「あなたは、誰ですか……?」
少年の顔をじっと見て、尋ねた。幼いようにも見えるし、大人びているようにも見える。そしてどことなく、意識が吸い込まれるような容姿をしている。私はこの少年を知っているのではないか――いや、知らない。
「あい、だよ。君のことを誰よりも大切に思ってる存在だよ」
あい。それがどんな意味合いを持つかは分からないが、直感的に、良い名前だと思った。その感覚すら、知っているような気がする。小さな違和感の正体が分かりそうになっては、靄に包まれて分からなくなっていく。霧を掻き分けるようにして掴もうとしても、霧は視界を覆うように濃さを増していって、私の思考を覆い尽くした。頭を掻きむしり、思い出そうと足掻いても、分からないものがより分からなくなるばかり。分からない、分からない、分からない――。怖い。
自分が失われ、最も大切なものさえ手放そうとしているのかもしれない。それが怖くて怖くて、たまらない。
「それは、ダメ!!」
頭を何かに打ち付ける最中、誰かの叫び声が聞こえた。額に手を当てて抱え込まれ、その誰かと二人で床に崩れ落ちた。仰向けになって、身体を強く押さえ込まれる。私を押さえつけているのは誰?目を開けて確かめようとしても、何もかもが滲んで見えた。何が悲しいのか分からないのに、涙が出ている。
「痛いよね、ごめん」
私を押さえつけている誰かがそう言って謝った。痛いかと訊かれれば、よく分からない。でも、怖い。怖いという感情を伝えたいのに、言葉が出てこない。その代わりみたいに、手足だけがじたばたと動こうとしている。
眼球に溜まっていた涙が瞬きの拍子にこぼれ落ち、視界がクリアになった。|誰《・》|か《・》は、肩ぐらいまである髪を振り乱し、全身で私を押さえ込んでいるみたいだった。まだ顔に幼さの残る、少年のようだった。怖い。襲われているのだろうか。いや、この人は悲しそうな顔をしている。今にも泣きそうに顔を歪ませ、唇をぎゅっと噛み締めている。
「あなたは、誰……」
二、三度繰り返しまばたきをして、彼に問いかけた。
「あい、だよ。君を愛してる。君が傷つくところは見たくないんだ」
耳に届いたその声があまりにも優しくて、不思議と心が落ち着くような気がした。そして全身から力が抜け、乱れていた呼吸が落ち着くと同時に、私を押さえつける力が少しだけ緩んだ。
ピンポン、と、どこかから玄関のチャイムが聞こえた。少年が弾かれたように顔を上げ、その表情をこわばらせた。
「来客……?こんな時に……」
少年が呟いた。やけに焦っているみたい。ピンポン、ピンポン、ピンポンと、繰り返しチャイムが鳴り響く。玄関がどこにあるかは知らないけど、お客さんならば出迎えなければ。私が立ち上がるため上体を起こそうとすると、少年は手で優しく動きを制した。
「ボクが行ってくる。だから君はここで待ってて。ほら、ソファに座って」
少年に抱き起こされ、誘導されるままソファに座った。少年はどこかへ行き、一人残された私は辺りを見渡した。
ずいぶんと荒れた部屋だ。無数に散らばった本、床に横たわる、槍と盾を持ったキャラクターのぬいぐるみ、倒れた椅子。物盗りでも入ったのだろうか。あれ、テレビが点けっぱなしじゃないの。
テレビの音に紛れ、誰かの声が聞こえる。いったい誰だろうか。部屋を歩き回り、ドアらしきものを見つけると、恐る恐るドアノブを回した。廊下の向こうに、人影が三つ見えた。
「お一人ぐらしのお年寄りを――」
「ボクが――お世話を――」
「先ほども、大きな物音が――どうかご様子を――」
人影は何かを神妙に話し合っているらしかった。ドアを押し開け、廊下に進み出る。
人影のうちの一人が、私を見て固まった。そして残る二人も一斉に私を見、話し合いを止めた。ここは、玄関だろうか。タイルの床に、スーツを着た男女が靴を履いたまま立っていた。それに背の高い少年が、廊下側に立って振り返るように私を見ていた。
スーツ姿の女の方が、一瞬のうちに笑顔になった。
「こんにちは。ここへはお一人で暮らしていらっしゃるんですか?」
女が朗らかな声で尋ねてきた。ここへ、一人で、暮らしているか?少し考えて、ここは私の家ではない……と思う。でも、自信が持てない。
「この方は誰ですか?お孫さん?」
私の返事を待たず、女が質問を重ねた。女が指し示した先には、背の高い少年がいた。私は少年のそばまで進み出て、その顔を見た。
大きな目、細く形のいい鼻、小さめの口、少し変わった色の髪の毛。その美しい顔は、怯え、不安、焦りなんかが入り混じったみたいに曇っていた。これは誰だろう。少年の憂い顔を見ていると、私まで不安な気分になりそう。誰だっけ、誰だっけ、誰だっけ。思い出せ、思い出せ、思い出せ。
孫ではない。それよりももっと近く、親しい何か――分からない。分からなくて、私は首を横に振った。ああ、と少年が悲しげな声を漏らしたのが聞こえた。美しい声だった。
「続柄を証明できるものは――せめて身分証でも――」
「荒れているのは――興奮してしまって――」
スーツ姿の男女と少年は、また何やら話をし始めた。内容が難しくて理解できなかったし、少年が何かを堪えながら話しているように見えて、なぜだか逃げ出したくなった。でもどうすればここから逃げられるのかが分からなくて、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
スーツ姿の男女が礼をして踵を返し、玄関のドアらしきものを開けて外へと出て行った。少年は素早くドアの鍵を閉め、私に向き直った。そして、無理やり笑顔を作った。
「……リビングに戻ろう。廊下は冷えるから」
少年が静かに言って、私の背中に手を添えた。
「結局怪しまれるんだったら、素直に恋人だって言えばよかったな」
まるで独り言のように呟き、少年が自嘲するみたいに笑った。扉を開け、ぐちゃぐちゃになった空間を二人でそろそろと歩く。この部屋は、どうしてこんなに荒れているのだろうか。それを問いかける間もなく、少年が誘導するままにソファに座り込んだ。少年も私の隣に座って、こちらに向き直った。
「君のこと、少しだけ抱きしめさせてくれない?」
少年は私を真っ直ぐに見て、静かに言った。何故だか悪い気がしなくて、私はゆっくりと頷いた。
少年が両腕を左右に広げ、私を優しく包み込んだ。私も両手を少年の背中に回してみた。どうしてだろう。少年の身体は暖かくはないのに、密着していると心がほかほかする。
「万が一離れ離れになっても、ボクは君のことを愛し続けているから。それだけはどうか忘れないで」
少年が耳元で言った。優しくて切ない声だった。少年が、何を、なんだっけ。忘れないでと言われたはずなのに、もう思い出せない。どうしてだろう。忘れてはいけなかった、忘れたくなんかなかったという思いだけが、胸の中に残っている。
なんだか寂しくなってきて、少しだけ涙が出た。泣きたくなるようなことなんか、なかったはずなのに。
ダイニングチェアに座った少年が、テーブルに置かれた紙の上に高速でペンを走らせている。テーブルの脚付近には大きなキャリーケースが置かれていて、まるでどこか遠くへ行こうとしているみたい。少年はちらりと私を見て、柔らかな笑みを浮かべた。
「旅行?」
私が訊くと、少年は寂しそうに目を伏せた。
「少し、身を隠す必要があるかもしれないんだ。大丈夫、君のことはこうやって書き残しておくから、きっとこの先不便はないよ」
少年が指先で紙を摘み上げ、私に見せた。何やら細かく文字が書かれてあるみたいだけど、何が書かれてあるのかは分からない。
そういえば、この少年は誰だろうか。顔を見ると温かな気持ちに包まれるが、どうしてそう感じるのだろうか。
少年の名前を尋ねようとしたのと同時に、どこかでチャイムが鳴った。少年が顔を強張らせ、チャイムの方向を振り返る。そして壁に据え付けられたモニターを観て、ぎゅっと目を細めた。
「……警察だ」
少年が呟いた。この家に、警察が来たのだ。近くで事件があったのだろうか。それとも、少年が何か悪いことをして警察に追われているのだろうか。いや、そんなはずはない、と心のどこかで思う。この少年は、悪いことをするような人ではない。美しく、優しく、いつも私のことを……どうしてくれているんだっけ。少年のことを知らないはずなのに、なぜ少年に関わる事柄を思い出そうとしているのか。
チャイムが何度も鳴り響き、続けて戸を乱暴に叩くような音が聞こえた。少年がモニターの前を離れ、歩き始めた。
「行かないで」
私は少年の背中に縋りつき、呼び止めた。とても嫌な予感がする。少年が私の前から消えて行ってしまうようで、とても怖い。
「大丈夫だから、君はここで待ってて」
少年は振り返って私の頭を撫で、優しく笑った。そして額に口付けをし、ドアを開けて廊下らしき空間に出て行った。
あの笑顔、見覚えがある。額に手を当て、少年の唇の感触を思い出そうと目を瞑った。柔らかくて滑らかで、少しだけ冷たい。私はあの少年を、知っている……はずだ。
立ち上がり、少年の背中を追いかけるように、ドアを目指して歩いた。今すぐ少年に会いたい。会って抱きしめたい。ドアは……このドアだっただろうか。迷っている暇はない。ドアノブを強く握りしめ、押し開けた。
廊下の先に少年の背中が見えた。その向こうに、大柄な男性が二人、物々しい雰囲気を醸し出しながら立っている。
「身分を証明できるものは――高齢者拉致の疑い――署までご同行を――」
男性二人は警察官の格好をして仁王立ちをし、少年に険しい顔を向けていた。強い口調でやり取りをしていて、とても入り込めそうにない。
少年は名前を呼べば来てくれるだろうか。でも、少年の名前が分からない。
警官が少年に詰め寄り、少年が避けるように身を引いた。少年は苦しそうに首を横に振り、警官に何かを訴えかけているようだった。警官がまた少年に近づき、その腕を取って引っ張った。少年はどこかへ連れて行かれようとしているのだろうか。――嫌だ。
私は廊下に飛び出し、少年の背中目掛けて歩き始めた。転ばないように壁に手をつき、見逃さないように目を見開いて。物音で気がついたのか、少年が首を捻って振り返り、私を見た。
少年はとても悲しそうな表情をしていた。いまにも泣きそうに顔を顰めているのに、涙は出ていなかった。泣きたくても泣けないのだ。泣くという機能が備わっていないのだ。だけどいま少年は、心に大粒の涙を流している。少年を抱きしめに行かなければ。直感的にそう思った。
「あい……あい……藍!!」
気がついたときには、そう叫んでいた。藍、藍、と繰り返し、手繰り寄せるように両手を掻き分け、藍の姿を追いかける。藍、行かないで。藍、側にいて。
藍が警官の手を振り解き、私に駆け寄ってきた。藍は私の手を取り、そのまま引き寄せて強く抱きしめた。
警官達は驚いたように目を見開き、床で抱きしめ合う私たちを見ていたけれど、やがて顔を見合わせ、苦笑いをしながら扉を開けて外へと出て行った。
藍、藍、藍。二人だけになった廊下で、忘れないように何度も何度も叫ぶ。私を愛してくれる存在、それが藍。もう絶対に忘れたりなんかしない。
「藍だよ。君が愛してくれてる存在。安心して。ずっと君の側にいるって誓ったんだから」
藍がそう言って、私の背中を何度も撫でた。私は藍の胸に顔を押し当て、名前を呼びながら涙を流し続けた。
「お孫さんですか?」
お巡りさんが尋ねると、少年が「はい」と返事をした。
「今度から気をつけてくださいね。ちゃんと見ていてあげないと」
「すみません……」
少年が深く頭を下げてお巡りさんに謝った。少年は何か悪いことをしたのだろうか。でもお巡りさんは怒っている風でもなく、困ったように少年と私を交互に見ている。私が何か関係あるのだろうか。そもそも、私はどうしてこんなところにいるのだろうか。
突然、少年がカウンターの脇を通り抜けてこちらにやってきた。少年は私の前まで来ると、少しかがんで視線を合わせ、笑いかけてきた。少年は薄着で、手に冬物の上着を持っている。
「迎えに来るのが遅くなってごめん。帰ろうか」
この少年は、誰だろうか。親しげに笑いかけてくるが、私はこの少年のことが分からない。
「あなた、どちらさま?」
私が訊くと、少年は少しだけ困ったように黙って、すぐに笑顔を作った。
「あい、だよ。君を迎えに来たんだ」
あい……。口の中で繰り返し、首を傾げた。どこかで聞いたことがあるような気がするが、女の子によくある名前だからだろうか。
「大丈夫、ボクが君の家に連れて帰ってあげるから」
少年はしゃがみ、私を見上げた。ずいぶんと顔が整っている。それに、何か悪いことをしそうな雰囲気ではない。
家――家には帰りたい。でも、家にはどうやって帰るんだっけ。わからない。
「真冬なのにこんな格好で外出ちゃダメだよ。風邪ひいちゃうでしょ」
少年が手に持っていた上着を差し出してきた。それは、少年ものではないだろうか。私が戸惑っていると、少年は手を伸ばして私の腕を取り、上着の袖を通し始めた。いやだ、何するの、と抵抗する間もなく、すっかり上着を着せられてしまった。
「ほら、こんなところまで歩いて疲れたでしょ?おぶってあげる」
そして少年はしゃがんだまま、背中を丸めて私に向けた。特段足が疲れているようには感じていないけど、私は少年の背中に体重を乗せた。少年が立ち上がると同時に、私の身体もふわりと持ち上がる。
「ご迷惑をおかけしました」
少年がお巡りさんに向かって頭を下げ、ガラス戸を押し開けて外に出た。
「さっきはごめんね。孫だなんて嘘ついて。前に同じようなことがあったとき、正直に恋人だって言ったらものすごく怪しまれて、色々訊かれて大変だったんだ」
私を乗せて歩きながら、少年が言った。声変わりがまだなのか、少年は透き通った女性のような声をしていた。少年の発した言葉は長くて、その意味を理解する前に解けて消えてしまったけど、その声だけは耳心地が良くて、なぜか嬉しい気分になった。
「あなたの声、きれいね」
そう私が言うと、少年は、ふふ、と笑った。
「ありがとう。君はいつもそう言って褒めてくれるよね」
少年がなぜか得意げに言ったので、私もつられて笑った。いつもって、一体いつのことだろうか。少年は何か勘違いをしているのかな。色々な思いが巡ったけど、急に眠気が襲ってきて、私はそのまま少年の肩に顔を埋めた。
少年が何かの歌を歌い始めた。歌詞の意味は分からない。でもやっぱり、声がとても綺麗だ。
私は、とてもふわふわとした世界を生きている。身の回りに何かが起きても、その何かは砂漠の砂みたいに指の間をすり抜け、私の中から消えていってしまう。何がしたくて、何をやろうとして今に至っているのか、分からない。自分が何者なのかも、よく分からない。分からないから常に戸惑っている。それを周囲に伝えたいけど、次の瞬間には何を伝えたかったのかがわからなくなっている。
そしてずっとずっと、何か大切なことを忘れているような気がしているのだ。絶対に、忘れてはいけないこと。忘れまい、忘れまいと、自分に言い聞かせて刻みつけてきたもの。思い出したくても思い出せない。それがとてももどかしくて、辛い。
目が覚めると、知らない部屋だった。大きな窓から明るい光が射して、とても眩しい。私は起き上がり、窓のカーテンを閉めた。そして辺りを見渡し、薄暗くなった室内に、外に繋がりそうな引き戸を見つけた。私は引き戸に手をかけ、ゆっくりと開けた。再び眩しい光に見舞われ、思わず目を閉じた。
「起きた?そろそろお薬飲まないとね」
声がして恐る恐る瞼を押し上げると、顔立ちの整った少年がダイニングテーブルの向こうから私を見ていた。
ここは、外ではない。開けた空間に、ダイニングセット、テレビ、ソファが置かれている。居間だろうか。
「ほら、座って」
少年が椅子を引いて指差した。
「あなた、どちらさま?」
私が訊くと、少年は、
「あい、だよ。君の、――。付き合ってもう何十年にもなる」
と答えた。肝心なところが聞き取れなかった。名前は「あい」と言うらしいが、私の何だというのだろうか。でも、言い方も優しいし、私に危害を加えるような人ではなさそうだ。それに、「あい」という名前にはどこか良い印象を覚えた。男の子にしては珍しいし、漢字もいろんな字が思い浮かぶけど、何よりもその響きにどこか懐かしさを感じる。
「あいって、素敵な名前ね」
私が言うと、少年はふんわりと笑った。
「ありがとう。君がそう言ってくれるから、ボクもこの名前が大好きなんだ」
少年の、さも彼と私が顔馴染みであるかのような口ぶりに、どこか引っ掛かりを覚える。でも、小さな違和感はすぐに溶けてなくなり、何に対しておかしいと思ったのかは思い出せなくなってしまった。
そして、消えゆく違和感と入れ替わるように、少年の笑ったその顔から何かを思い出しかけた。そうだ、早く家に帰らなければ。
「家に帰りたい。ここはどこなの?」
思い切って少年に尋ねた。
「どうして帰りたいの?」
少年はそう言って、つぶらな瞳で私を案じるように見つめた。
「……一人で待っているから」
そう答えて、口をつぐむ。誰が待っているんだっけ。誰がいるから家に帰りたいんだっけ。とても大切な人が、家で私の帰りを待っていてくれているはずだったのに、それが誰かを思い出せない。
「そっか。その人にはボクが連絡しておくから、今日はとりあえずここでゆっくりしなよ。ここは君が安心して過ごせる場所だよ」
少年が諭すように言って、椅子を手のひらで指し示した。どうしたらいいか分からなくなって、とりあえず私は少年に言われた通りに過ごすことにした。
少年は私が椅子に座ったことを確認すると、どこかへ行って、すぐに何かを持って帰ってきた。少年は私の目の前、テーブルの上にその何かを置いた。コップに入った水と、二つの錠剤。
「何のお薬ですか?」
「病気の進行を抑えるためのお薬だよ。君のもやもやが軽くなって、少しでも快適に暮らせるようにね」
私は病気ではないけれど、確かに頭がもやもやしていて、快適ではない。私は言われるがまま、その薬をつまみ取って口に入れ、コップの水で流し込んだ。すると少年は微笑み、「ありがとう」と言って私の目の前からコップを回収した。
少年がまたどこかへ行ったので、私は部屋の中をゆっくりと眺めた。エル字型の本棚にたくさん詰まった本、槍と盾を持ったキャラクターのぬいぐるみ。壁際に大きなテレビがある。私は立ち上がって、テレビのリモコンを探し始めた。
「テレビが観たいの?」
声がして振り向くと、少年が私の傍に立っていた。あれ、テレビが観たいんだっけ。分からないけど、とりあえず頷いてみせた。
「ご飯を食べたら一緒に観ようか」
少年は私の肩に手を置き、テーブルの方向を指差した。少年は意外と背が高いらしい。もしかすると顔つきが幼いだけで、年齢はもう少し上なのだろうか。考えては、疑問が頭から離れていく。
見れば、テーブルの上にはお皿やお椀が置かれていた。それぞれ料理が入っているみたいだけど、料理名が思い出せない。ひとまず料理がある側の椅子に座り、お箸を手に取ってみた。すると、少年は私の向かい側の椅子に座って、両手をテーブルの上に乗せた。少年が座った方には、料理が置かれていない。
「あなたは食べないの?」
「うん、ボクはいいんだ。君が眠っている間に食べたから」
少年はさらりと答え、テーブルで頬杖をついた。私は手に取ったお箸に視線を落とし、そして料理を見た。お腹が空いている。目の前にあるものを、早く食べたい。でも、手に取った二本の棒の使い方がわからない。わからないことに、苛々する。
「スプーンにする?」
声がして顔を上げると、少年が心配そうな顔を私に向けていた。私は何かおかしいのだろうか。少年を困らせるようなことをしてしまっているのだろうか。少年も、私なんかに構わなくてもいいのに。なんとなく、この少年には迷惑をかけてはならないような気がする。
そういえば、とてもお腹が空いている。早く目の前にあるものを食べてしまいたい。
私はお箸を右手で握りしめた。そしてお皿の真ん中に突き刺し、刺さったものから順番に口の中に入れていくことにした。名前の分からない料理、名前の分からない食材、何でもいい。飲み込む間もなく、次から次へと口に入れる。
「ねえ、ちょっと、お願いだからたまにはお茶も飲んで」
少年が立ち上がり、私の手を制した。こんなにお腹が空いているのに、どうして止めるのだろうか。私は少年の手を力いっぱい振り解いた。勢いで机の上の食器が弾け飛び、大きな音を立てて床に落ちた。勿体無い。立ち上がり、落ちたものを食べるために床に手をつこうとした私を、少年が向かい側から飛んできてまた止めた。
「割れてるから、危ないから、そこで座って待ってて」
少年が必死に訴えているけど、まるで意味が入ってこない。私の前に立ち塞がって止めようとする少年を、手で払い除ける。しかし少年は見た目よりも力が強いみたいで、押そうが叩こうが、びくりともしない。そうこうしているうちに、自分が何をしたかったのかが分からなくなって、とりあえず背後の椅子に腰掛けた。
眼下では少年が身を屈め、床に散らばった何かを集めている。あれは、何かが割れた破片だろうか。少年はどうして破片なんかを集めているのだろうか。どうしてあんなにたくさんの破片が、またたくさんの汚れが床に散らばっているのだろうか。
「誰がやったの?」
声をかけると、少年は身を屈めたまま私を見上げた。そして、貼り付けたような笑みを浮かべた。
「……ボクがうっかり落としちゃったんだ。危ないし汚いから、ボクが全部片付ける。君はそこで待ってて」
そして少年はまた床に這いつくばり、触れれば切れそうな破片を躊躇なく掴んで回収していった。どうしてか、薄らだけれども、胸が痛んでいる。少年が破片に触れるたび、危ないよ、と思わず手を出したくなってしまう。少年が傷つくのではないだろうかと怖くなる。その怖くなるような気持ちがどこか懐かしくて、不思議で仕方がない。
そういえば、お腹がとても空いているのだった。どこかに食べるものはないだろうか。私は椅子から立ち上がり、辺りを見渡した。
「テレビ観るんじゃなかったの?」
少年の声に答えることもできず、身体が動くままに部屋を歩いた。ここはどこだろうか。どこかに出口はないだろうか。
「テレビ点けてもいい?ボクが観たい番組がちょうど始まるんだ。一緒に観ようよ」
少年が追いかけてきて、また私の前に立ち塞がった。そして私の背中に手を回し、軽く押してソファへと誘導した。抵抗する気も起きず、私は少年と一緒にソファに腰掛けた。肘掛けのところに革を破いたような大きな傷がある。見渡せば、床も壁も、家具も全て、何かが当たって凹んだような傷が無数に付いている。この家はどうしてこんなに傷だらけなのだろうか。少年がやったのだろうか。
『懐かし映像大放出!昔のアイドル曲集!』
目の前で、テレビが賑やかな音を発し始めた。画面が鮮やかな色でいっぱいになり、歌が流れる。私はソファから腰を浮かせ、テレビに顔を近づけた。
画面の中でマイクを手に、歌いながら踊る四人の男性。身長も系統もバラバラみたいだけど、なぜかとても楽しそうにハーモニーを奏でている。カメラが彼らの歌う顔を大きく映し始めた。私の視線はそのうちの一人、明るい髪色をした少年に吸い寄せられた。少年は整った顔で様々な表情を作りながら、美しい歌声を発している。私はテレビに映った少年と、横に座っている少年とを交互に見比べた。
「あなた、この人に似てるわね」
テレビ画面を指差し、少年に言った。すると少年はソファに座ったまま、可笑しそうに目尻を下げた。
「よく言われるんだよ。だって、本人だからね」
そう言って、少年がすまし顔をした。どういうことだろうか。少年の言っていることがよく分からない。
そういえば、この少年は誰だろうか。テレビの中にいる人と似ている気がしたけど、人の顔がよく分からないから、本当に似ていたか確信が持てない。
「あなたは、誰ですか……?」
少年の顔をじっと見て、尋ねた。幼いようにも見えるし、大人びているようにも見える。そしてどことなく、意識が吸い込まれるような容姿をしている。私はこの少年を知っているのではないか――いや、知らない。
「あい、だよ。君のことを誰よりも大切に思ってる存在だよ」
あい。それがどんな意味合いを持つかは分からないが、直感的に、良い名前だと思った。その感覚すら、知っているような気がする。小さな違和感の正体が分かりそうになっては、靄に包まれて分からなくなっていく。霧を掻き分けるようにして掴もうとしても、霧は視界を覆うように濃さを増していって、私の思考を覆い尽くした。頭を掻きむしり、思い出そうと足掻いても、分からないものがより分からなくなるばかり。分からない、分からない、分からない――。怖い。
自分が失われ、最も大切なものさえ手放そうとしているのかもしれない。それが怖くて怖くて、たまらない。
「それは、ダメ!!」
頭を何かに打ち付ける最中、誰かの叫び声が聞こえた。額に手を当てて抱え込まれ、その誰かと二人で床に崩れ落ちた。仰向けになって、身体を強く押さえ込まれる。私を押さえつけているのは誰?目を開けて確かめようとしても、何もかもが滲んで見えた。何が悲しいのか分からないのに、涙が出ている。
「痛いよね、ごめん」
私を押さえつけている誰かがそう言って謝った。痛いかと訊かれれば、よく分からない。でも、怖い。怖いという感情を伝えたいのに、言葉が出てこない。その代わりみたいに、手足だけがじたばたと動こうとしている。
眼球に溜まっていた涙が瞬きの拍子にこぼれ落ち、視界がクリアになった。|誰《・》|か《・》は、肩ぐらいまである髪を振り乱し、全身で私を押さえ込んでいるみたいだった。まだ顔に幼さの残る、少年のようだった。怖い。襲われているのだろうか。いや、この人は悲しそうな顔をしている。今にも泣きそうに顔を歪ませ、唇をぎゅっと噛み締めている。
「あなたは、誰……」
二、三度繰り返しまばたきをして、彼に問いかけた。
「あい、だよ。君を愛してる。君が傷つくところは見たくないんだ」
耳に届いたその声があまりにも優しくて、不思議と心が落ち着くような気がした。そして全身から力が抜け、乱れていた呼吸が落ち着くと同時に、私を押さえつける力が少しだけ緩んだ。
ピンポン、と、どこかから玄関のチャイムが聞こえた。少年が弾かれたように顔を上げ、その表情をこわばらせた。
「来客……?こんな時に……」
少年が呟いた。やけに焦っているみたい。ピンポン、ピンポン、ピンポンと、繰り返しチャイムが鳴り響く。玄関がどこにあるかは知らないけど、お客さんならば出迎えなければ。私が立ち上がるため上体を起こそうとすると、少年は手で優しく動きを制した。
「ボクが行ってくる。だから君はここで待ってて。ほら、ソファに座って」
少年に抱き起こされ、誘導されるままソファに座った。少年はどこかへ行き、一人残された私は辺りを見渡した。
ずいぶんと荒れた部屋だ。無数に散らばった本、床に横たわる、槍と盾を持ったキャラクターのぬいぐるみ、倒れた椅子。物盗りでも入ったのだろうか。あれ、テレビが点けっぱなしじゃないの。
テレビの音に紛れ、誰かの声が聞こえる。いったい誰だろうか。部屋を歩き回り、ドアらしきものを見つけると、恐る恐るドアノブを回した。廊下の向こうに、人影が三つ見えた。
「お一人ぐらしのお年寄りを――」
「ボクが――お世話を――」
「先ほども、大きな物音が――どうかご様子を――」
人影は何かを神妙に話し合っているらしかった。ドアを押し開け、廊下に進み出る。
人影のうちの一人が、私を見て固まった。そして残る二人も一斉に私を見、話し合いを止めた。ここは、玄関だろうか。タイルの床に、スーツを着た男女が靴を履いたまま立っていた。それに背の高い少年が、廊下側に立って振り返るように私を見ていた。
スーツ姿の女の方が、一瞬のうちに笑顔になった。
「こんにちは。ここへはお一人で暮らしていらっしゃるんですか?」
女が朗らかな声で尋ねてきた。ここへ、一人で、暮らしているか?少し考えて、ここは私の家ではない……と思う。でも、自信が持てない。
「この方は誰ですか?お孫さん?」
私の返事を待たず、女が質問を重ねた。女が指し示した先には、背の高い少年がいた。私は少年のそばまで進み出て、その顔を見た。
大きな目、細く形のいい鼻、小さめの口、少し変わった色の髪の毛。その美しい顔は、怯え、不安、焦りなんかが入り混じったみたいに曇っていた。これは誰だろう。少年の憂い顔を見ていると、私まで不安な気分になりそう。誰だっけ、誰だっけ、誰だっけ。思い出せ、思い出せ、思い出せ。
孫ではない。それよりももっと近く、親しい何か――分からない。分からなくて、私は首を横に振った。ああ、と少年が悲しげな声を漏らしたのが聞こえた。美しい声だった。
「続柄を証明できるものは――せめて身分証でも――」
「荒れているのは――興奮してしまって――」
スーツ姿の男女と少年は、また何やら話をし始めた。内容が難しくて理解できなかったし、少年が何かを堪えながら話しているように見えて、なぜだか逃げ出したくなった。でもどうすればここから逃げられるのかが分からなくて、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
スーツ姿の男女が礼をして踵を返し、玄関のドアらしきものを開けて外へと出て行った。少年は素早くドアの鍵を閉め、私に向き直った。そして、無理やり笑顔を作った。
「……リビングに戻ろう。廊下は冷えるから」
少年が静かに言って、私の背中に手を添えた。
「結局怪しまれるんだったら、素直に恋人だって言えばよかったな」
まるで独り言のように呟き、少年が自嘲するみたいに笑った。扉を開け、ぐちゃぐちゃになった空間を二人でそろそろと歩く。この部屋は、どうしてこんなに荒れているのだろうか。それを問いかける間もなく、少年が誘導するままにソファに座り込んだ。少年も私の隣に座って、こちらに向き直った。
「君のこと、少しだけ抱きしめさせてくれない?」
少年は私を真っ直ぐに見て、静かに言った。何故だか悪い気がしなくて、私はゆっくりと頷いた。
少年が両腕を左右に広げ、私を優しく包み込んだ。私も両手を少年の背中に回してみた。どうしてだろう。少年の身体は暖かくはないのに、密着していると心がほかほかする。
「万が一離れ離れになっても、ボクは君のことを愛し続けているから。それだけはどうか忘れないで」
少年が耳元で言った。優しくて切ない声だった。少年が、何を、なんだっけ。忘れないでと言われたはずなのに、もう思い出せない。どうしてだろう。忘れてはいけなかった、忘れたくなんかなかったという思いだけが、胸の中に残っている。
なんだか寂しくなってきて、少しだけ涙が出た。泣きたくなるようなことなんか、なかったはずなのに。
ダイニングチェアに座った少年が、テーブルに置かれた紙の上に高速でペンを走らせている。テーブルの脚付近には大きなキャリーケースが置かれていて、まるでどこか遠くへ行こうとしているみたい。少年はちらりと私を見て、柔らかな笑みを浮かべた。
「旅行?」
私が訊くと、少年は寂しそうに目を伏せた。
「少し、身を隠す必要があるかもしれないんだ。大丈夫、君のことはこうやって書き残しておくから、きっとこの先不便はないよ」
少年が指先で紙を摘み上げ、私に見せた。何やら細かく文字が書かれてあるみたいだけど、何が書かれてあるのかは分からない。
そういえば、この少年は誰だろうか。顔を見ると温かな気持ちに包まれるが、どうしてそう感じるのだろうか。
少年の名前を尋ねようとしたのと同時に、どこかでチャイムが鳴った。少年が顔を強張らせ、チャイムの方向を振り返る。そして壁に据え付けられたモニターを観て、ぎゅっと目を細めた。
「……警察だ」
少年が呟いた。この家に、警察が来たのだ。近くで事件があったのだろうか。それとも、少年が何か悪いことをして警察に追われているのだろうか。いや、そんなはずはない、と心のどこかで思う。この少年は、悪いことをするような人ではない。美しく、優しく、いつも私のことを……どうしてくれているんだっけ。少年のことを知らないはずなのに、なぜ少年に関わる事柄を思い出そうとしているのか。
チャイムが何度も鳴り響き、続けて戸を乱暴に叩くような音が聞こえた。少年がモニターの前を離れ、歩き始めた。
「行かないで」
私は少年の背中に縋りつき、呼び止めた。とても嫌な予感がする。少年が私の前から消えて行ってしまうようで、とても怖い。
「大丈夫だから、君はここで待ってて」
少年は振り返って私の頭を撫で、優しく笑った。そして額に口付けをし、ドアを開けて廊下らしき空間に出て行った。
あの笑顔、見覚えがある。額に手を当て、少年の唇の感触を思い出そうと目を瞑った。柔らかくて滑らかで、少しだけ冷たい。私はあの少年を、知っている……はずだ。
立ち上がり、少年の背中を追いかけるように、ドアを目指して歩いた。今すぐ少年に会いたい。会って抱きしめたい。ドアは……このドアだっただろうか。迷っている暇はない。ドアノブを強く握りしめ、押し開けた。
廊下の先に少年の背中が見えた。その向こうに、大柄な男性が二人、物々しい雰囲気を醸し出しながら立っている。
「身分を証明できるものは――高齢者拉致の疑い――署までご同行を――」
男性二人は警察官の格好をして仁王立ちをし、少年に険しい顔を向けていた。強い口調でやり取りをしていて、とても入り込めそうにない。
少年は名前を呼べば来てくれるだろうか。でも、少年の名前が分からない。
警官が少年に詰め寄り、少年が避けるように身を引いた。少年は苦しそうに首を横に振り、警官に何かを訴えかけているようだった。警官がまた少年に近づき、その腕を取って引っ張った。少年はどこかへ連れて行かれようとしているのだろうか。――嫌だ。
私は廊下に飛び出し、少年の背中目掛けて歩き始めた。転ばないように壁に手をつき、見逃さないように目を見開いて。物音で気がついたのか、少年が首を捻って振り返り、私を見た。
少年はとても悲しそうな表情をしていた。いまにも泣きそうに顔を顰めているのに、涙は出ていなかった。泣きたくても泣けないのだ。泣くという機能が備わっていないのだ。だけどいま少年は、心に大粒の涙を流している。少年を抱きしめに行かなければ。直感的にそう思った。
「あい……あい……藍!!」
気がついたときには、そう叫んでいた。藍、藍、と繰り返し、手繰り寄せるように両手を掻き分け、藍の姿を追いかける。藍、行かないで。藍、側にいて。
藍が警官の手を振り解き、私に駆け寄ってきた。藍は私の手を取り、そのまま引き寄せて強く抱きしめた。
警官達は驚いたように目を見開き、床で抱きしめ合う私たちを見ていたけれど、やがて顔を見合わせ、苦笑いをしながら扉を開けて外へと出て行った。
藍、藍、藍。二人だけになった廊下で、忘れないように何度も何度も叫ぶ。私を愛してくれる存在、それが藍。もう絶対に忘れたりなんかしない。
「藍だよ。君が愛してくれてる存在。安心して。ずっと君の側にいるって誓ったんだから」
藍がそう言って、私の背中を何度も撫でた。私は藍の胸に顔を押し当て、名前を呼びながら涙を流し続けた。
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