鴎秋
長年大切に扱われたものには魂が宿る事がある、それは長年人々に読まれ愛されてきた本や物語そのものにも言えることだろう。その本が侵食されてしまう一大事に立ち上がったのがアルケミストである司書であり、物語や本に宿った魂達だった。既に書き手を亡くした魂達が眠る本、そこから司書によって見出だされた魂は、少しずつ文豪としてその形を取り戻していく。何度か見出だされ、しかし複数の同一人物を転生させるのは叶わず物言わぬ魂になる事も、少なくはない。しかしとある文豪の魂は、司書がその任についた日に姿を現してからとんと見掛けなくなってしまっていた。
それでも、魂は宿っている。物言わぬ、しかし後世に先人たちの想いを伝える手段として残された本に。そしてそれに宿った文豪の魂を転生させるという奇跡を成した場所だからだろうか、今宵も不思議な出来事が起こっていた。
「……そろそろ、か」
丁度丑三つ時のこと、この図書館で転生を果たした鴎外はペンを走らせるのを止めて、部屋をうすぼんやりと照らしていた小さな蝋燭を吹き消す。彼はただ一人の、不思議な現象の目撃者であった。
「今夜こそ話せるといいが」
誰に言うでもなく呟くと締め切っている扉を少しだけ開け、鴎外はベッドに横になる。瞼は閉じるが、意識は落とさない。そうすると、音もなくやって来るのだ。不思議な現象と呼ぶ、その原因が。そもそも不思議な現象とは何ぞや、となる所だろう。鴎外にも、よく分かっていないのだが。
丑三つ時とは、この世のものではない存在が活発になる時間であるという。そのせいなのだろうか、ある日を境に、鴎外の下にとある人物の姿をした魂がやってくるようになったのだ。その人物の名は、徳田秋声。この図書館に一番最初に転生を果たしたものの、その後とんと姿を現さない男の姿をした魂が、何をするでもなく毎晩鴎外を訪ねてくる。
初めてそれと遭遇したのは、鴎外が転生して少し経った頃。潜書で深傷を負ってしまい、補修室で眠りこけてしまった夜のことだった。誰かの気配を感じ、うっすらと重い瞼を抉じ開けたその瞬間、自分を見下ろす秋声と目が合ったのだ。その時はすぐ消えてしまったので寝惚けたに違いない、と思ったのだがそうではないと知ったのは三日ほど経った夜。やはり気配を感じて瞼を開くと、補修室で見た彼が立っていたのである。その時は目があっても消えず、何か用かと声を掛けるとすうっと消えてしまって。
勿論翌朝、秋声本人に自分を訪ねてきたかと問い掛けたが、秋声には自分はそんな時間に人を訪ねるほど、非常識な人間ではないと怒られてしまったのである。ではあれは一体何か、と考え司書に相談してみたものの、司書が居れば訪ねてこないし話し掛ければ消えてしまう。そんないたちごっこを続けた結果、害はないから好きにさせてやろう、となったのが一月ほど前の事だった。
司書はもし悪い霊の類いだったら不味いんじゃないですか、と心配してくれたものだが、秋声と瓜二つのそれはきっと秋声の作品の中に未だに眠る魂の一部なのだろう、と仮定して言いくるめたのはつい最近だ。何故そう思うんですか、と言いたげな顔をしていたが、司書には分からないだろう。何せ鴎外もかつては本に、森鴎外という人物の魂と想いを抱えて宿っていたものだったから。その頃の個としての確固たる存在を持たなかったあやふやな何かを、毎晩訪れてくる秋声から感じとったのだ。断言しなかったのは、確定ではないからだが。
だから、鴎外は今宵も待った。眠っていなくても自分の傍に佇むその魂と、一度でいいから言葉を交わしたくて。出来るならば、何か望みがあれば叶えてやりたい。そう思ってしまうのは、既に転生を果たした秋声をよく知るからだろう。彼は最古参の文豪だ、生前は生憎と深い交流があった訳でも文壇に華々しく名を飾った所をみた訳でもない。自分の文学が何処にあるのか分からない、なんて弱音を吐くその背中を何度か見た。
けれど彼は筆を決して折らなかった、華々しく名を馳せた師である紅葉や兄弟子の鏡花の傍にあっても、例えその影にひそりと隠れてしまう事になっても、作家であり続けた努力の人。その魂の一部が師や兄弟子ではなく己の所へ現れるには、何か彼らには言えない抑圧された悩みか、望みがあるのではないか。そう思ってしまうのだ。
どうすれば言葉を発してくれるのだろう、なんて思っていると不意にひやりとした空気が漂う。それは彼が現れた合図、瞼をゆっくりと開くと秋声が現れるようになってから置くようになった丸椅子に、ちょこんと座る魂が。彼だ、彼がやってきた。今夜も現れてくれたその存在に鴎外は視線を遣ると、いつも無表情でいることの多い彼にしては珍しく、少し柔らかな表情を浮かべている。何かあったのだろうか、と思ったところではたと気付いた。
「……」
その視線の先には、供え物とでも言うべきか。彼の好物の餡がたっぷり入った餅が並んだ箱があり、彼の為に用意してみたことをすっかり失念していた事を少しばかり恥ながら、鴎外は体を起こす。一つ一つラッピングされたそれを取り出して、袋を外して差し出してみる。接触を試みたのはこれが初めてで、消えやしないかと心配したが、秋声は消えることなく鴎外が差し出すそれに手を伸ばした。触れられるのか、と思ったがどうやらそうではないらしい。
すぅ、と餅に触れたと思えば、その手にはうすぼんやりとした餅が。まるで餅の魂を掴んだかのようで、見詰めていると秋声はそれを食べ、鴎外の掌の上に個体の餅が残る。流石に物質は食べられないのか、と興味深そうにしながらも、折角なので鴎外は残ったそれを口にした。
「うん、うん。やはり旨いな」
深夜に食べるべきではないが、以前に美味しいからおひとつどうぞ、と差し出されたそれを食べたときから気に入りの一つになったのだ。残すなら食べた方が作り手にも良いだろう、久し振りに口にしたがやはり旨い。思わず溢した言葉に鴎外は秋声が消えてしまう、と咄嗟に口を手で覆ったが、今夜は珍しい事に変わらず椅子に座っていた。でしょう、と言わんばかりの微笑みをたたえて。ならと、一つまた言葉を紡ぐ。
「君はそうして笑っている方がいい」
秋声はほんの少し驚いたような顔をしたかと思うと、照れ臭そうにする。地味と言うが、整った顔であるのには違いないのだから笑っていた方がいいに決まっている。反応があった事も嬉しくて、もう一つどうだ、と餅を箱ごと差し出してみると今度は緩やかに首を横に。無理強いはしたくないので蓋をして、明日にもまた出してやろう、と決めた所で秋声は何かに反応したように顔を上げる。
コンコン、と控え目だが明確に己を呼び出す音。そちらに気をとられ一瞬目を放した隙に、秋声は姿を消してしまった。
「……あの、森さん」
「徳田君? 何か、あったか?」
扉の向こうからしたのは、転生している方の秋声の声。こんな夜更けに、激務の彼が来るのは珍しい。消えてしまった秋声への名残惜しさを少しばかり感じながらドアを開けてやると、尾崎一門が揃いで身に付けている羽織を羽織った寝間着姿の秋声が立っていた。
「その、えっと」
どうやら緊急の用、と言うわけではないらしい。しかしながら眠っていた訳でもない鴎外は無下にすることもなく、部屋へ入るよう誘うと秋声は申し訳無さそうに踏み入れてくる。
「俺は少しの睡眠で足りるから、時間はあまり気にしなくていい。何か相談があるのだろう?」
出来るだけ優しい声色で訊ねると、秋声は意を決して口を開いた。
「笑わないで欲しいんですけど」
「うん?」
「何故だか貴方に、会わなければいけない気がしたんです」
✳︎
自分の魂が与り知らぬところで夜な夜なとある人の所へ訪ねている、と秋声が知ったのは助手仕事の最中だった。司書の手によって乱雑に貼られたやることリスト、と銘打たれたメモの山の中に己の名と丑三つ時、それから森鴎外とだけ書かれたものがあってなんの事かさっぱりだったので司書に訊ねてそこで初めて知ったのである。丑三つ時になると、司書は見た事がないが、秋声と瓜二つの何かが鴎外を訪ねるのだと。
鴎外の見立てではそれは秋声の魂の一部で、悪さをする訳でもなく只訪れるだけ。ならば害もないから、好きにさせてやるつもりなのだとも聞いた。それを聞いた瞬間、秋声は思わず顔を顰めてしまったものだ。
司書はそれをまるで自分が深夜、鴎外の眠りを邪魔しているようで気が引けるからそんな顔をしているようだと取ってくれたようだが、半分正解といった所である。もう半分は、余計なことをしないでくれという嘆きと憤り。秋声には経験が無いが既に図書館にて転生を果たした文豪達の魂が、再び司書に見出だされるも魂の欠片に成り果ててしまうのだが。その欠片になる直前に、まるで此方に居るのと同じように記憶を共有している節がある言葉を発する者がいる、と司書から聞いていた。
もしもそれが、本当ならば。夜な夜な鴎外を訪ねる己の魂は、隠し通したい秋声の心の内を何もかも知っている可能性があるのだ。
だから深夜であったのに秋声は胸騒ぎがして、昨夜鴎外を訪ねたのである。本来なら追い出されてもいい筈なのに、あんな馬鹿らしい理由で訪問した自分に、一番好きな菓子を出してもてなしてくれまでしたのだ。申し訳無さに現在秋声は一人、司書が不在の司書室で机に伏せている所だった。鴎外に聞けば魂の方は、普段無表情だったのがようやっと微笑みを浮かべ、そして言葉は話さなかったものの仕草で意思の疎通が取れたらしい。
あぁ、どうか。言葉はそのまま、話さないでくれ。秋声がそう祈るのには、理由があった。
「なんだ、ふて寝か?」
「五月蝿いよ、悩んでるんだ」
換気のために開けていた窓から入ってきたのは、珍しく一匹でやってきたネコ。ネコは何故だか秋声によく構う、自分が連れてきたからだろうか。司書の机にぴょいと飛び乗り、声をかけてきたので身体を起こすと器用に隙間に潜り込んで膝に乗る。
「例の、森の所へ行く魂の事か?」
「そう、それだよそれ。撫でてやるから聞いてよ」
「仕方ニャイ、吾輩はお前の撫で方が好きだからな」
何が仕方ニャイだよ、と呟きながら顎を一撫で。それだけで簡単に喉を鳴らすネコは可愛らしいものだ、みゃあみゃあ鳴いてくれたらもっといいものの。
「あれがもし僕の気持ちをバラしたりなんかしたら、僕は多分首を括るね」
「全く素直じゃニャイ奴だ、憧れが変わっただけだろう。さっさと言った方がいいんじゃニャイか?」
ぴたりとネコを撫でる手が止まる、しかし催促するように刷りついてくるので再び動くが、動揺したのかその動きはかなりぎこちない。そう、秋声は鴎外に対して最初は憧れてたのだ。己では到底届かない雲の上の人、遥か彼方の存在の筈だったのに。共に戦うようになって、言葉を交わし触れ合う内に、秋声の心に一つ変化をもたらしたのだ。
知らない内に、恋に落ちた。落ちた理由は分からない、けれどずっと彼を目で追うし暇があれば想ってしまう。それを打ち明けたのはネコにだけで、ネコは言い触らしもせず秋声の愚痴に付き合ってくれていた。
「それが出来たら苦労しないんだけどね……」
「なら文に書いたらどうなんだ」
「生前交流も無かったのに、手紙なんて出して読んでくれる筈がないだろう」
脳裏にちらつく、生前の紹介状。とある人が、秋声の紹介状を鴎外に書いてくれたことがある。それがどうなったかはあやふやだが、届いたにせよ秋声は選ばれなかった。ぐるぐる鳴くネコの腹に手を回し撫でると、ネコは仰向けになる。頭が秋声の膝からはみ出てるので空いた左手で支えてやりながら、わしわしと撫で続けているとネコは目を細めて言った。
「森があれはお前の一部と仮定したなら、少なくとも好きにさせてやるくらいには気を許している。そんなもの気にせずとも良いのではニャイか?」
「けれど……」
「焦れったい奴だ、森から借りた万年筆に語るくらいなら本人に語れば良いものを」
「普通じゃないからね、この感情は」
ちらと、話題に上がった万年筆を見る。愛用していたものを紛失してしまい、鴎外が代わりに気に入るものができるまで使うといい、と貸してくれたものを現在愛用しているのだが。この想いが、これを通じて伝わってくれたなら、そんな事を呟いたのをネコに見られたことがあった。そこからだ、彼にこうして焦れったい気持ちを語るようになったのは。
封じるべき感情だと、秋声はずっと思っている。けれど溢れて止まらないのだとネコに告げればネコは腹を撫でる手の下から這い出て、机の上に飛び乗った。
「普通でなければいけないのか?」
「異常であるよりはいいんじゃない」
「吾輩は喋るぞ、それをお前達は受け入れたじゃあないか。それに比べればお前が同性を愛するくらい普通だろう、何を怖がっている臆病者」
何か、ネコの地雷を踏んだらしい。今にも唸りそうな姿勢に入ったネコに、秋声は落ち着いてよ、と言う。しかしネコは秋声を睨む、そしてぴくりと耳を動かしたかと思うと、しゃあと唸って飛び掛かった。
「いたっ……!?」
柔らかな肉球を押したときくらいしか見えなかった鋭い爪が、秋声の右手を襲う。掌に食い込んで、そのまま右から左へ。流れるように爪痕が残された、鋭い痛みからじわじわと血の代わりに墨が溢れてくる、痛い。何が彼をそこまで怒らせたのだろうか、初めての彼からの攻撃に戸惑いを隠せずにいると、声を聞き付けたのかバタバタと走る音が。
「徳田さん、何かあったんですか!」
「あっ……中野さん? その、僕がネコを怒らせたみたいで引っ掛かれて」
「そこの馬鹿を補修室に連れていけ! 墨は使わせるな!」
毛を逆立てたまま、ネコは窓から出ていってしまう。初めてのネコの様子に重治も不思議そうにしていたが、兎に角治療して貰いましょうと、優しく秋声の手をハンカチで包んでくれたのだった。
*
ネコに引っ掛かれました、そう告げて入室した秋声は、治療を終えても補修室から出ていこうとしなかった。鴎外は彼が自分の仕事を邪魔することはないと分かっているので、別段追い出すつもりもなく、やはり好きにさせてやるばかり。
「ねぇ、森さん」
「どうかしたかね」
一息入れるから、と鴎外に昨夜の茶菓子の残りを差し出された秋声が口を開けば、鴎外は向かい合う為に丸椅子に腰かけた。こうしてると患者と主治医のようだ、とぼんやり思ったことは口にしない。
「迷惑じゃありませんか、毎夜僕の魂に部屋に来られて。僕はどうして、貴方の所に僕の魂がお邪魔するのか分からないのです」
秋声がそう語りながら、右手に貼られたガーゼに触れる。その手付きは何処か、愛しそうなものに触れるような。本当は、秋声は気付いていた。自分の心の奥底に、嫉妬のような焔が灯っている事を。素直に言い出せない臆病な自分の筈なのにどうして、好いた相手の所へ夜な夜な通うことを許されているのか。
どうして己が出来ないことを、やってのけてしまうのかと。
「迷惑だとは思っていないが……師でなく俺の所へ来るのなら、何かしらで悩みがあるのではないかと心配してはいる。徳田君、君自身何か悩んでいることがあるのではないか? 言い出せない何かを、抱えているのでは?」
ええ抱えていますとも、貴方を愛しているのです。そうすらすらと言えたなら、どれ程楽になれるのだろう。しかし秋声は矢張り臆病な己に阻まれて、それを口に出来ずにいた。ネコが引っ掻いたのはさっさと告げてこい、と言う乱暴な後押しだったのだろう。代わりにいえ、今のところは兄弟子の小言に悩まされているだけです、と真っ赤な嘘をついた。
「そうか、悩みならいつでも聞くから、好きなときに此処か俺の私室を訪ねるといい」
待っているから、と告げる声は残酷なほど優しい。秋声はいっそ泣きついて、貴方が好きで仕方がないのですと泣いてしまえばこの男は受け入れてくれるのでないか、と思ってしまう。そんな愚かな考えを抱いた自分に泣きたくなって、そろそろ司書が戻る頃だからと、何とか立ち上り逃げるように部屋を出ていく。
残された鴎外はと言うと、それを見送るに止めた。何か腹の奥底に隠しているのは感じたが、無理に聞き出す事は出来ないから。ふぅ、と一つ溜息を吐く。これでも何かと相談役をやってのけた自分に言えない悩みとは何なのだろうか、まさか芥川のかつて悩まされたぼんやりとした悩み、に近いものではあるまいな。そんな心配をしていると、ふと閉めきった室内に冷たい空気が。
毎夜感じるものにとても近いそれに、視線だけを巡らせると部屋の隅に物憂げな様子で立つ魂の秋声が。こんな時間に現れたのは初めてで思わず面食らっていると、彼はすいと自分に近寄ってくる。歩いてくるというより飛んでくるような、流れるような動きに思わず固まると傍に来た彼は自分の前に膝をつく。そして鴎外の右手に、ぽとりと何かを落とした。
物質を掴むことは出来ない筈なのに、それは確かに鴎外にも触れる何か。見れば司書が数が少ないからと、一部の文豪に交代で持たせている賢者の石と良く似た形をした石だった。あれと違うところといえば、色が彼の着物の一部を彩る青であるといったところか。
「これを俺に?」
訊ねてみると彼は一つ首肯く、綺麗なそれを掲げて眺めていると、秋声はその石に顔を近付けた。何をするのだろうと見ていると、鴎外が見ているのとは反対側に唇を押し当てて、そして不思議な事に石に吸い込まれるようにして姿を消してしまう。一瞬の事で何が起きたのか、よく分からないが鴎外は残された石を暫く眺めていたが、ハンカチに包むとベルトポーチにしまいこんだ。
✳︎
あれから数日が過ぎ、秋声の悩みは解消されるどころかより深いものになっていた。鴎外のもとに現れる魂が、妙な仕掛けを施したのである。
「何なんだよ……」
不思議な夢だと思うようにしたのだが、夢の中で自分は鴎外に会っていた。言葉を話す訳ではなく、鴎外がぽつぽつ話すことに首を縦か横に振ることで返事をする。そしてある程度過ごすと、鴎外が大事そうに持つ青い石に身を投じて終わる夢。しかしそれは夢ではなく、魂が鴎外とどう過ごしているのかを自分に見せているのだと気付いたのは、ビロードの貼った箱に大事に入れられたものに気付いた瞬間だった。
その箱に、夢で見た青い石が。どうしたのかと聞くと魂の方の秋声からの贈り物なのだと、優しげな顔で言ったのだ。あれはきっと、魂の塊なのだろう。それを鴎外に自ら与え、そして自分との逢瀬を見せつけているようにしか思えない。気が狂ってしまいそうだった、己が必死に隠す気持ちを暴かれているようで。それに加えて魂の方の自分と会う鴎外の表情も、その事を自分に話してくれる表情も、どちらも心なしか嬉しそうなのだ。
「自分に嫉妬してどうなるんだ」
ぐしゃぐしゃと髪を乱し、頭を抱える。そうしていると軽いものが机の上に乗った音がしたが、顔を上げるまでもない。
「このままじゃあちらに先を越されても仕方ニャイぞ」
「そうだね、臆病者はそうなっちゃうよ」
「煮干をチラつかせるんじゃニャイ! 話は聞いてやるから……あぐあぐ……」
「そう言う割にはしっかり食べるんだね君は」
つい先日怒って秋声に爪を立てたネコとは、煮干を与えて仲直りを果たしたのに。いつ彼が来てもいいよう準備していた煮干を与えながら膝へ移動させると、ネコは幸せそうに咀嚼しながら視線だけで話を促した。
「今この図書館に起こってること、君はどう見る?」
「あぁ、少しばかり探ったが……侵食者の密偵。というにはお前に情報を流すメリットはニャイ、ただ真っ直ぐ森の所へ通うだけなら、やはりお前自身の魂だろうと考えるべきじゃニャイか?」
「だよねぇ、いっそ侵食者だったら倒せば終いなんだけど」
厄介だねぇ、なんて呟いてネコの頬をこねる。煮干を与えてる間はされるがままの彼は、目を細めて言う。
「もうすぐ歯車への潜書じゃニャイのか?」
「うん、森さんも一緒。なんだか変な感じ……、ここ最近つい避けちゃってたのに夢のせいでそういう感じがしないんだ」
「いいことじゃニャイか」
口の端についていたカスを取ってやっていると、小さなノックの音。此処は秋声の私室だ、鏡花辺りだろうと鍵は開いてるから好きに入れば、と促してみると扉を開けたのは意外な人物だった。
「失礼する」
「えっ、あ、森さん!? 何かありました?」
「少しばかり気になる事があって」
ひょっこり現れたのは鴎外で、突然の来訪に驚いているとネコは秋声の膝から机の上に。吾輩は居ても構わないのか、と問えばむしろ居て欲しいと言われたので出ていきはしなかった。
秋声は今まで自分が座っていた椅子を鴎外に譲ると、置いてあった簡易椅子に移る。流石にそちらに鴎外を座らせるのは気が引けたからであるが、鴎外はすまなさそうに秋声が譲った方に腰掛け、本題を切り出した。
「君の魂と仮定した彼から貰ったこの石なんだが、少し持ち歩いてみたところ、君の傍に近付けると光るようなんだが」
「……ふむ、これは確実に宿っているな。文豪の魂は散っている、数多ある本に宿るものだからな。秋声に近付けて輝くのであればやはりお前の魂だろう」
差し出された青い石、キラキラと輝いているそれを試しに鴎外の手から秋声の手に乗せてみると彼の言う通り輝きを増していた。そして鴎外の手に戻し少し離すと、言う通り輝きが落ち着いて。鴎外は自分がこれを持っている事で、秋声に何か影響があるのではないかと心配しているらしい。
何せ、魂の一部を手にしているのだ。貰ったものだが、もし秋声が望むのならこれを渡すと言う。それに関してネコは口を挟む気はないらしく、どうするのだと聞いた。
「これを持っていたくない、というなら僕が引き取るよ」
「貰ったものだから大切にしているし、君が許してくれるのなら持っていたいのだが」
「逆に聞くけど、これを持っていて貴方に何か不具合は?」
鴎外の手の上で光る石を取り、翳す。昨夜に見た夢でも、魂の自分は鴎外の所へ現れた。夢の最後はやはり、この石の中へと消えていったのを覚えている。そこへ消えていく瞬間、鴎外の顔が見えたがその表情は。
「いいや、むしろ生前に君と交遊は無かったものだが……折角共に戦っているんだ、これを機に魂の方だけでなく、君とも仲良くなりたいと思うのだが、迷惑だろうか」
「そんなことはない、よ……」
思わず石を取り落としそうになったが何とか堪えると、ネコが小さく笑っているような気がする。それは無視しておいて、秋声は昨夜に見た鴎外の顔を思い出す。まるで消えていくのを寂しがるような表情、思い出すだけで表情が緩んでしまいそうで。表情を引き締め、鴎外に石を返してやった。
「じゃあ、非番になったら。お茶にでも行こうか」
「行きつけのカフェがある、君にだけ紹介しよう」
「本当に? 嬉しい」
ふにゃり、ついに我慢できずに緩んでしまう顔。しかし鴎外も優しく微笑むものだから、そんな事は気にしなかった。
「じゃあ頑張らないとねぇ、森さん」
「あぁ、そうだな」
そろそろ時間だぞ、ネコがそう告げる。司書が決めた集合時間は近い、二人は立ち上がるとそれぞれ知らせてくれたネコの頭を撫でて、ゆっくりと部屋を後にするのだった。
*
痛い、熱い、苦しい、辛い。身体が、頭が、どうにかなってしまいそうだ。胸に深く刺さった矢。
どうしてこうなった、どこでしくじった。けれど答えなど出るはずもなく、ただ堂々巡りを繰り返すばかりだけ。また、絶えるのか。己は此処で埋もれてしまうのか、ならば林太郎の名を遺すべきか。愛した人の腕の中で、今気付いた心の奥底にあったものを漸く自覚したのに。
「いいえ、違いますよ」
酷く、泣きそうな声だ。どうしてそんな声をする、泣いてはいけない。どうか見送ってくれれば。
「貴方は僕が、救いますから」
待ってくれ、後生だから。何をするつもりなんだ、どうか、どうかそれだけは。
「臆病者の僕を、頼みます」
✳︎
現在確認されている有碍書の中で最高難易度を誇る歯車、そこへ派遣されるのは司書によって選び抜かれた精鋭達だけである。そんな彼らは決して舐めて掛かった訳ではない、敵が予想より上に居ただけだった。
「くそっ……他に怪我をした奴はいないか!」
「乱歩が!」
「いいえ私はまだ大丈夫、ですがどうなっているんでしょうねぇ!」
本の中の様子は、司書も伺い知る事が出来る筈。しかし彼等の周囲は現在深い霧に包まれて右も左も定かではなく、そんな中で敵との戦闘に追いやられていた。戦況はあまり宜しくない、敵の鞭に何度打たれた事だろう。
「……森さん、不味いぞ」
潜書した面子は秋声・鴎外・犀星・乱歩の四人である、だが現在そのうちの一人である秋声の姿が見えなかった。彼は筆頭、何かあれば撤退するための術が発動するが、今現在はそれも発動するという確約がない。それは何故かというと、本の中で戦う文豪達を進行させるか、それとも撤退させるか。それは本の外で待つ司書が決め、頭のなかに直接囁くように知らせる事で文豪達は進退を決めると言うのに、こちらの声もあちらの声も、聞こえていないのだ。外で様子を見ている司書に彼の行方を探ってほしいのに、それも叶わない。
「っ敵だ!!」「くそっ!」
はぐれた秋声は一体どこに、目を凝らして探すが目の前にふわふわと浮く不調の獣に邪魔される。鴎外は思わず其処を退け、と怒鳴りたくなったものだが身体が言うことを聞いてくれやしない。敵がさっきから無数に沸いてくるのだ、それらを相手にしている内に侵蝕が進み、鴎外は乱歩と犀星を庇い続けて弱っている。はぐれた秋声はと言うと持ち前の俊敏さで攻撃を一切食らっていなかったが、一度でも食らってしまえば脆い。
「徳田君、何処だ!!」
蝕まれる身体に鞭を打って目の前の不調の獣を貫く、追撃で乱歩が鞭を振るえばその姿は消えた。しかし代わらず、秋声の姿が見えない。声が聞こえない所に迷いこんだか、それとも。嫌な考えが過ったが、ふと鴎外はある事を思い出した。彼が何処に居るか、知るための手懸かりになるだろう。
「室生君、江戸川君。徳田君を探す手掛かりがある、少し協力を」
「任せろ!」
「あまり長時間は持ちません、手短に!」
敵を一度二人に任せ、ベルトポーチの中から大切に仕舞っていたものを取り出す。魂の方の秋声から貰った、あの石だ。潜書する前に実験していた輝きを思い出したのである、翳して回るととある方角でその光は強くなった。
「此方だ、走れるか!」
「乱歩、肩を!」
鴎外が先頭を行き、その後ろを乱歩に肩を貸しながら犀星が走る。勿論、援護射撃を行いながら。正直に言えば身体は限界だ、走りながら少し前にやられた脇腹の辺りを見れば、傷の文字が蠢いて。
「森さん、あまり無茶はしないでくれよ!」
「なに、君達に比べて頑丈な方だ。それよりはぐれた徳田くんの方が危ないだろう」
己を心配する犀星には強がりを言いながらも、鴎外は痛む脇腹を押さえた。心なしか、侵蝕してくるスピードが早いような気がしてしまう。しかしその足を止めることはない、立ち止まったら彼を救えない気がして止まる気にもなれなかったのだ。
「っ邪魔をするな!!」
再び行く手を阻む侵蝕者に、鴎外は吠えるように叫んだ。
*
敵の矢が、脚に深く刺さっている。そこから侵蝕される身体に、秋声は1つ舌を打つ。何が起こっているのかさっぱり分からない、分かるのは侵蝕者からの妨害を受け、図書館へ帰ることもままならずに絶筆の危機に瀕しているという事だけであった。
「ネコの言う通り、だったかな……」
じわり、痛みが広がる。鴎外を狙う弓を扱う侵蝕者を何体か己に引き付けたはいいものの、まさか一人になってしまうなんて。ついてない、と思うが過ぎたことは仕方がない。矢を受けたせいで裂けた袴の隙間から見えた素肌に、蠢く文字が見えた。傷と苦の文字が、肌の上を這っていた。このままでは助からないかもしれない、賢者の石は都合により乱歩と犀星に与えられていて秋声は未所持だ。ここで絶筆すれば自分はこの本に囚われてしまうのかも、そう思うと恐ろしいはずがそれより先に想ったのは未だ打ち明けられていない心の行方だった。あれは、伝えてくれるのだろうか。
ぼんやりと思考が霞む、遠くに敵が見えるのにもう動くことも儘ならない。張りぼてのような建物に身体を預けることで辛うじて立っていたが、それも限界に近かった。此方に向けられるものに気付いても、ただ其が此方に射られるのを待つしかない。
「⋯⋯鴎外、さん」
師でもなく、兄弟子でもなく。こぼれ落ちた名は、いつしか愛した人の名で。どうか毎夜現れる自分の欠片が、この想いを伝えてくれますように。そう祈って、秋声は瞼を閉じる。何れ程苦しむのか分からない、どうか手早く終われば。
「――徳田君!!」
「え……」
何もかも諦めた瞬間、目の前に飛び込んできたのは白だ。大きな背中が、確かに目の前に。しかしその背には文字が見える、可視化されているそれは絶筆の証であった。
秋声を探している間にも敵に遭遇し、鴎外のその身体はとうに限界を超えていたのだ。
「なんで、どうして!」
崩れ落ちたその身体を地面に叩きつけられる前に抱き止めた、左胸に深々と刺さる矢から急速に進む侵蝕。矢を放った敵は、犀星と乱歩が倒しに向かっていた。
「無事、か……」
「無事じゃない、無事じゃないよ。どうして、どうして庇ったのさ! 僕なんか、どうして……」
賢者の石を持たないものは、絶筆してしまうのに。荒い呼吸を繰り返す彼の胸に手をやれば、ぼろぼろになった手袋ごしの手がそれを包む。
「君は筆頭だ、君を……喪う、わけには」
「貴方を喪う方が……嫌だ、嫌だ、誰か」
無駄だとは分かっている、しかし侵蝕を止めたくて刺さる矢を掴んだ。
「何でもするから、生きてくれ!」
心からの叫び、どうか生きてほしかった。愛した人に先立たれる苦しみは、嫌と言う程しっていたから。
「何でもするんだね?」
「……え?」
不意に聞こえたのは己の声、顔を上げるとそこにはもう一人の自分が居た。その姿を見て思ったのは、彼こそが毎夜鴎外のもとを訪れていた自分なのだという事である。
「臆病な僕、まだあそこに喚ばれていない、この僕の魂を彼に与えてやれば絶筆から守ってあげられるよ。けれどそれは魂の喪失だ、……欠けたままになるだろうね。君はずっと歪な存在、永遠に完全な魂を持つことは出来ないだろう。その覚悟はあるかい」
「何を言っているのさ」
魂の自分が近付いてくる、秋声は近付いてくる自分の手を掴み、しっかりと目を見て言った。
「何でもするって言ったろ」
「そう、なら言って。僕の代わりに、その人をどう思ってるか。迷う時間はない、もう絶筆してしまう」
「とく、だくん……? なにを、なにをする……」
最早朦朧とする意識のなか、鴎外は秋声がしようとしている事に気付き首を横に振る。止めろ、と言うが秋声は覚悟を決めていた。たった一言で彼を助けられるのなら、それでいいのだ。
「貴方を、愛してる」
もう二度と、誰かに告げることなど思わなかった言葉を紡いだ。
✳︎
あの青い石は、ひび割れて輝きを失った。ネコに問えば、その魂は跡形もなくなってしまっているのだという。だが二つに割れてしまったそれは数週間が過ぎた今も、ビロードの貼られた箱に大切に飾られている。捨てないの、と秋声は問いかけたがそれは嫌だと鴎外は拒否した。
「君を捨てるようで、嫌だ」
「でも、もうただの石だよ?」
蝋燭に火を灯す、二人きりの部屋。夜の帳は降りて、外はきらきらと輝く星に彩られている。
「いいんだ」
「そう、……寂しい? 毎夜訪れてくれる彼が消えて」
「少し」
けれど、と続ける鴎外に秋声は目を細め、そうっと肩に凭れた。
「秋声、君が来てくれるから」
「うん、貴方が許すなら僕は毎晩だって来るよ。だって漸く……伝えられたんだから」
石に宿っていた、毎晩逢瀬を重ねていた自分はもう居ない。鴎外を救うため、その魂は鴎外に溶け合った。一際大きな輝きを放って、彼を蝕む侵蝕をはね除けて、個を失って。ちり、と鴎外に触れた手が痺れたような気がした。
いや、僅かな嫉妬の焔なのかもしれない。逢瀬を重ねていただけでなく、ひとつに溶け合うなんて、肉体を得た自分には出来ないことを成し遂げた事に。
「ねぇ、言って」
「ん? あぁ……愛してる」
耳元で囁かれる、背中に甘い痺れを感じた。もしかすると、あの日の潜書の異常は、彼に恋い焦がれた自分が引き起こしたことなのかもしれない。司書はああなった原因は長らく浄化できていなかった事による、侵蝕の進みだったのだろうと言っていたが。
鴎外を確実に自分に絡めとる為の、罠だったのかも。そうだったらなんと強かな事か、しかしそこまで自分が器用になれる気もしない。
「灯り、やっぱり消してくれないかい?」
「もう少しだけ」
ゆらり、風もなく蝋燭の火が揺れる。その揺らめきは、重なる影も揺らがせた。
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