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鴎秋



それはある日突然、僕の右手の小指に現れた。いつものように眠って起きた朝、見るとそれはあったのだ。血潮のように真っ赤で、運命の赤い糸のように小指に巻き付いて、長く伸びている何か。しかし僕はそれがどうやら実在しないものなのだろう、とは理解できていた。何故ならその糸は切ろうとしても切れない上に、僕以外には誰にも見えていないものだったからだ。初めは病なのかと心配したものだが、その糸の出所が案外早く判明してくれたから助かった。
「昨夜はよく眠れたか?」
「おはよう、お陰様でね」
 僕の小指に巻き付いている糸の先を辿ってみると、なんとたった今、食堂で僕に声をかけ隣に座った鴎外の小指から伸びていて。さらにその糸は、よくよく見ると小さな赤い文字の集合体だった。
 愛してる、という文字だけで出来たそれ。僕達の身体は人と違い、洋墨と本に宿っていた魂が核となって出来上がった不安定なものだ。この糸は鴎外の隠しきれない感情なのだろう、と僕は思っている。僕らが絶筆してしまう時に、身体が病や痛みといった文字に埋め尽くされるように。僕への感情が、僕にだけそれを伝えて束縛するのだ。
「今日は非番だってさ、その代わり外に買い出しを頼みたいらしくて、荷物を持ってくれるかい?」
「あぁ、構わない」
 基本的に転生された文豪達は、図書館の外を勝手に出入りする事を許されていない。それは酒やら何やらで問題を起こしそうだったり、不意に命を絶ちかねないからだ。けれど僕と鴎外はよく司書について外に出ている回数が多いこともあり、今回は二人だけでのお使い。それを告げてからちらりと文字の糸を見ると、細かったものがいつの間にか太くなり、まるで喜ぶように蠢いていた。どうもこれは、鴎外の機嫌によって動くし、太さも変わるらしい。
 まるでご主人に構われて嬉しい犬の尻尾のようなそれが微笑ましく、これの事はまだ司書にも鴎外本人にも秘密にしていた。特に支障もないし、構わないだろうと。
「流石に軍服で行くのは目立つな、着替えよう」
「あぁ、ならあの紺色の着物に袖を通してくれないか? あれが一番好きだ」
 敢えて、似合っているとは言わないで。普段軍服を着ていて滅多に着ない、紺色の着物を指定すると糸は面白い程跳ねた。しかし鴎外の表情はいつもと全く変わらない、隠すのが上手だなと思うと、糸の存在がとても愛しく思えてしまう。僕にだけ分かる、鴎外の心の内が。
「なら、あれで行くとしようか」
 やはり表情は変わらない、けれど糸は僕の身体をぐるぐる巻きにしていく。あぁ、これが実在するものでなくてよかった、そうでなければ今頃僕は窒息していたに違いない。僕の一言でこれだけ変わるんだ、出先でどうなるかなんて想像するに容易い。
「ところで話は変わるけど、その盆の上のものが今日の朝食とは言わないだろうね」
 つい頬が緩みそうだったので話題を変える、鴎外が手にしていた盆の上には白米が盛られた茶碗が一つ、そして小皿に饅頭が二つと急須と湯呑。その組み合わせは、とても嫌な予感しかしない。鴎外の好物の一つ、饅頭茶漬けなるものを拵えるのでは。そんな僕の予想は大当たりのようで、僕に何を言われるのか予想できたのか、それまで元気に跳ねていた糸が萎んでいる。
「それが朝食なんだね、全く君は手の掛かる。こっちを食べなよ」
 まぁ本当は最初からこうなるだろうと思っていたから、予め準備をしていたのだけど。そっと鴎外の盆の上から饅頭を避けて、しっかり焼いた鮭と漬物とホウレン草のおひたし、それからだし巻き卵を置いていく。僕の分、ではなく鴎外の為に用意しておいたもの。
「しっかり焼いたから、食べてよ」
「焼いた? それはつまり」
「早起きしたから、たまには自分で支度しようと思ってね。君の朝食、ここ最近饅頭茶漬けしか見てなかったから、一緒に用意したんだけど……」
 迷惑だったかい、と付け足す。少し伏し目がちにすれば、今度は少し表情に変化が。僕が落ち込んだのだと思ったらしい、残念ながら演技なのだけれど。その事を知ったら、何と思われるのだろう。ネタばらししても良かったが、やっぱり僕は黙っておく。
「味噌汁も、温かい方がいいと思って鍋に用意してあるんだ」
「折角用意してくれたんだ、有り難く頂こう。勿論、味噌汁も」
すっくと立ち上り、鴎外は真っ直ぐカウンターの方へ。その足取りは軽く、喜んでもらえたのが嬉しくて僕は僅かに微笑んだ、が。視線のはしに写った鴎外の大ファンの視線が刺さるので、まずは其方の方を向く。
「……花袋、そんなに見詰められると困るんだけど」
「俺にもくれよ、卵」
 拗ねた表情の花袋に、仕方無いなと皿を差し出す。今日焼いただし巻き卵は自信作だ、久し振りにしては上手く焼けたと思う。一つつまんだ花袋はそれを、サッと口に運んだ。
「ん、旨い! にしても先生、朝から饅頭茶漬けとは……」
「たまにならいいけど、毎朝だからね。流石に止めさせないと」
「へ~」
 僕の呟きに、花袋が何故かにやにやしている。にやつくような事を、言った覚えはないのだけれど。それとも、花袋にもこの赤い糸が見えてるのか。そんな事を思ってもみたけれど、どうやらそうではなかったようだ。
「毎朝見てるとは、本当に先生の事が好きなんだな」
「ンゴフッ!?」
「うわっ噴くなよ!」
 啜っていた茶が変なところに入って噎せる、花袋は文句を言いながらもハンカチを貸してくれ、背中を擦ってくれた。何してんだよって、そりゃ吹くさ。確かに彼とはそういう仲だけど、公言はしていないのに。
「はぁ、変なこと言わないでくれよ、僕は……」
「だって当番の人が居るのに朝から態々作ってるってなぁ、照れるなよ秋声!」
「あぁもう、そんなんじゃないってば」
 バシバシと背を叩く花袋に、止めるよう言っていると碗を大事そうに持って鴎外が戻ってくる。そうすると花袋はお邪魔だろうから、なんて余計な一言を付け足して、それじゃあと去っていく。
「彼は朝から元気だな、さて頂くとしよう」
「召し上がれ」
 きちんと座り、手を合わせての頂きます。転生する前は妻がいたから、僕はそれをする側ばかりだった。だから、少しばかり緊張してしまう。もし口に合わなかったら、なんて柄にもなく。けれど鴎外は焼いた鮭に箸をいれ、ほろりと一口程の大きさに解すと口に運んだ。なに、只の塩焼きだ。不味いことなんてない筈、とつい己の箸を止めていると、その視線に気付いた鴎外がふっと微笑んだ。
「何故だろうな、いつもより美味く感じる。秋声が俺を想って焼いたからか?」
「……只の塩焼きだよ、誰が作っても変わらないさ」
「そんな事はない、俺のためになんだから俺がそう感じるのも仕方ないだろう?」
「もう、黙って食べてくれよ」
 あぁ、顔が熱い。思わず刺のある言い方をしてしまったけれど、鴎外はにこにこしていて。遠くに見えた啄木が僕に口の動きだけでお熱いことで、なんて言っていたので彼は絶対に後で殴っておく。許さないからね、と僕も口の動きだけで応戦しておいて、残り一口になった鮭を放り込み茶碗に残った白飯を掻き込んだ。飲み込んで、御馳走様をきちんと言って、それから僕は一つ思い出した事があって買い物メモを取り出す。
「あぁそうそう、これ…買い物メモなんだけれど餡パンは買わないからね」
 司書から渡された買い物リストには、殆ど此処に缶詰になっている司書の生活用品と、それからいくらかの嗜好品の名がある。その一番下、餡パンと少し大きな字で書かれたものを指差すと鴎外は不思議そうにするではないか。
「何故だ」
「明らかに君の筆跡だろ、勝手に司書のメモに書き足したね。しかも老舗の名前じゃないか」
 何をちゃっかり自分の嗜好品を潜ませてるんだ、と釘を刺せば必要なものだ、なんてしれっとしながら味噌汁を啜る鴎外。全く、普段は頼りになるのに、餡パンとなるとこうなんだから。
 でも今は、彼の心の内が知れる物が身近にあるのだ。糸は明らかに、落ち込んでいるように見えて。それを見るとご褒美に一つくらい、買ってあげてもいいかなんて思ってしまうから僕も甘い。
「さて、僕は先に支度するから。後でね」
「あぁ、また後で」
 外に出る時にいつも着ている洋装に着替える必要が僕にもある、今日は冷えるから、コートも必要だろう。只の買い出しなのに何だか逢瀬のようで、浮き足立つ自分を浮かれるなと叱咤しながら、代わらず僕の小指に巻き付く糸を揺らしていた。




 鴎外はリクエスト通り、着物姿で着てくれた。それは嬉しかったけれど、何故か買う荷物が当初の倍になっていて、現在それを楽しむどころの話では無くなっていた。聞けばいつも彼が詰めている修復室の備品の発注が手違いできちんと手続きされておらず、ついでだから買ってこいと言われてしまったらしい。全く困ったものだ、僕はそれを知らなかったものだから、買い物リストにあった物をいくらか多めに買ってしまっている。流石に荷物を大量に抱えて店内に入るのは気が引けて、人通りの少ない脇道で荷物と共に鴎外を待っている所だ。最終的に荷物はどれくらいの量になるのだろう、そんな不安が過るがどうしようもない。
 いくら洋墨を用いて治療するような身体であったとしても、日常生活で負う程度の怪我は自然治癒するものだ。それがまだ辛うじて、人と同じところだと言えよう。だからそれの治療に必要な物は取り揃えておく必要があるし、僕だって使うことになる。それでも、だ。
「……はぁ、カフェにでも誘おうと思ってたのに」
 外に出たとき、司書に決まって連れられるカフェがある。落ち着いた雰囲気で、美味しい珈琲が楽しめるから今日は其処へ二人きりで、なんて画策してたのに荷物が多いとそれも億劫だ。はぁ、と息を吐く。顔見知りが誰も居ないところで二人きりになる機会なんて、滅多にないのに。
 そんな溜息ばかりの僕を、慰めるように糸が揺れる。あぁ、これに触れられるなら只の言葉の羅列と分かっていても撫でくりまわしたいくらいには、僕は参ってるようだ。
「……僕もお前みたいに、素直だったら良かったのにね」
 愛してる、で出来た糸。鴎外は愛してるといった感情を口にすることを、全くと言っていいほど躊躇わない。いつだって優しい笑みと共に、僕にそれを降り注ぐ。けれど僕はひねくれてる、可愛げもない言葉ばかり投げ掛けて、何度傷付けたのだろう。これが見えるようになってから、それに気付かされたのだ。愛してる、と告げたのだって片手で数える程度だから、鴎外には申し訳なく思う。買い物の最中にだってそうだ、つい少しでも安いものを、と目を凝らしていて周囲への注意を疎かにしてしまったのに。危ないぞ、と優しく掛けられた声と抱き寄せられた事に照れてしまってツンとしてしまったし。本当は重くて難儀していたのに、重いだろうと声を掛けてくれた鴎外に女性じゃないんだから、なんて言ってしまって。こんなのじゃ、いつか嫌われてしまうのが明白だ。
 この糸がもし鴎外からでなく僕から伸びて、鴎外の小指に巻き付いたのなら何れだけ良かったのだろう。どれだけ僕がこれに負けないくらい、彼を好いているか見てもらいたいくらいだ。
「なんで僕、こんなに悩むくらいなら素直にならないんだろ」
 誰に言うまでもなく小さく呟いていると、不意に背後から人の気配を感じた。人の行き来が多い道の方を向いていたから、脇道を通ってきた人だろう。ならば抱えていては重いからと地面に置いていた荷物は通るのに邪魔でしかない、端に寄せようと屈んだ所で、此処には不釣り合いな物が見えた。
 ナイフだ、と理解できたのは早い。それは常に戦いと隣り合わせの日々だからだろうか、悲しいことだと思いながらも今はなれていることに感謝するしかない。
「なぁそこの兄ちゃん、金あるんだろ? 命が惜しかったら寄越しなよ」
「……呆れた、こんなに買い込んでるんだから逆に使いきったとは思わないのかい?」
 男は大柄で、いかにもな風貌だ。僕はというと、世間一般の男性に比べて細っこく見た目だけで言うと弱そうに見えるだろう。だけど、弓は無くとも鴎外から叩き込まれた護身術が僕にはある。愚かなのは一人であること、一人くらいどうとでもなる。
 けれど、ふと僕は思った。僕らは転生された身、果たして一般人に絡まれたとは言え手を出してしまったらどうなるのだろう。やはり何らかの処罰があるか、それとも。
「こんなときに考え事とは随分余裕じゃねぇかオイオイ」
「渡す金はない、ハッキリ言って僕を襲うのは時間と労力の無駄。そのまま引き返してくれるなら僕は後も追わないし、警察にも言う必要がない」
 だから止めておいた方がいい、としっかり相手の目を見て言う。だがそれが相手の逆鱗に触れたようで、男はズンズンと此方に近寄ってくる。あぁ、こないでくれ。鳩尾に拳を撃ち込んで意識を失ったら転がしておけばいいのだろうか、なんて考えている僕は気付けていなかった。赤い糸の、大きな変化に。
「そのすました顔をナイフで滅茶苦茶に」
「誰に向かってそんな事を言っている小僧」
 酷く、冷たい声。それが聞こえた瞬間、足元から此方では有り得ないものが男に向かっていくのが見えた。それは闇のような色をした文字、此処は本の世界ではない筈なのに、その文字は地面を這って男に向かうと、男の身体を浸食する。振り向くと其処にはいつもの優しい顔をした鴎外ではなく、怒りの感情を露にした彼がいた。
「あ、あ……うぐ、あぁあっ!?」
 まず足元から、痛みという文字が男を襲う。男は蹲って足を抑えたが、今度はその手に文字が移った。
「なんで侵食が……一般人に……」
「侵食?」
 僕の呟きに、鴎外が何の事だと言わんばかりに首を傾げながらも男を睨んでいる。彼には見えてないのか、こんなにハッキリと彼の身体が文字に犯されているのに。そう思ったと同時に、視界に入ったもの。それは僕と鴎外を繋いでいたあの赤い糸が切れていて、その切れ目からどす黒い、まるで墨のようなものがボタボタと滴り落ちている様だ。それは地面に落ちる度、男に向かう。
 その様に、ゾッとした。これじゃあまるで鴎外は、浸食者ではないか。いったい何が起こってるのかなんて分からない、分かるのは今の鴎外は何処かいつもと違うと言うことだけ。そもそも医者の彼が、あんなに苦しみだした人間を放置するなんて有り得ないことじゃないか。
「っ鴎外、僕は大丈夫。大丈夫だから僕だけを見てくれ!」
 兎に角、男から意識を逸らせば浸食を止められるだろうか。柄にもなく冷静さを失っていたとは思うが、僕は男を見つめる鴎外の顔を無理矢理に此方に向けさせる。浸食は遅くなった、けれど完全に止まった訳じゃない。まだ意識が、彼方に向いているのだろう。
 本当は外でなんてしたくないけど、こうなったら仕方ない。完全に意識を向かせるにはこうしか、なんて言い訳をしながら、顔を此方に向かせて手でしっかり鴎外の頬をつかんで引き寄せる。そして唇を重ね合わせれば、文字は完全に停止する。
「ぐ、うぅ……」
 苦しそうな呻き声、身体に張り付いている文字にまだ痛め付けられてるのだろう。けれど僕は動けない、何故なら鴎外の左腕が僕の腰に回されて右手がしっかり後頭部を掴んでいるから。幸いなのは、鴎外で僕が隠れていて通りを歩いている人からは見えていないであろうという事くらいか。
「っ、ん……ん、はぁ」
「秋声」
 くっついて、離れて。僕から仕掛けたとはいえ、何度も重ねられて苦しくなる。その合間に鴎外はいつもの声色で僕の名を呼ぶし、けれど漏れた文字は未だに其処にあるしでどうしたものか。司書がいればまだ対処の仕様があったかも、と思った所で思わぬ助太刀が。

「おやおや、これはお邪魔でしたかな?」
「そうも言ってられないでしょう夏目さん、すみませんねぇ」
「っ江戸川さんに夏目さん!?」
 男のさらに向こうからやって来たのは、夏目さんと江戸川さんの二人。何故此処に、と聞きたいけれど彼等は蹲り呻く男を素通りして、僕らの方へと向かってくる。
「司書が、墨が不自然に減っている。とぼやいてたのですよ、其処で徳田さんには失礼ですが、我々が監視していたのです」
「司書以外で墨を触るのは森さんだけでしたので、もしやと思ったら……それはなんです?」
 夏目さんがそれ、と指差したのは未だに鴎外の指から伸びた文字の糸。ただ、赤かったそれは黒くなり、よくよく見れば敵という文字で形作られている。なんだこれは、と言いたいところだけど今まで異様な光景を放置していたのは僕なのだ。
「触れるな、寄るな、俺のものだ」
「鴎外っ……」
 鴎外の腕がより一層僕を強く抱き締める、最早正気ではない状態だろう。こんなになるまで放置するなんて、僕はとんだ大馬鹿者だ。後悔したってもう遅い、罰ならいくらでも受けるからどうか鴎外をもとに戻して。そう祈った所で、一発の銃声が。
「触れないよ、彼にはね?」
「ぐっ……!」
「あ、あぁ、鴎外っ!?」
「安心したまえ、それが伸びてる小指の表面を少し抉ったぐらいだから。御覧よ、糸も落ちてる」
 その銃声は通りの方に隠れていたらしい北原さんのもの、どうやら人払いがなされていたらしく通りに人の姿はない。僕はてっきり鴎外が膝をついたから、身体を撃ったのかと思ったけれど、どうやら撃ったのは糸が伸びていた小指だけ。しかも吹き飛ばした訳ではなく、的確に表面だけを削ぎ落とすようにだ。糸は落ち、少しずつ消えていく。
「さて、この男は乱歩君と白秋くんに任せましょう。徳田くん、事情はしっかり聞かせてもらいますからね」
「はい」

 結局カフェに行く所の話では無くなってしまった現在、僕は鴎外の部屋に居た。彼は今、眠っている。絡んできた男がどうなったかは知らないけれど、聞いた話だと無事らしい。鴎外は身体を作る核となった墨を消耗したらしく輸血のように投与する処置が取られている、司書の診断によるとあの糸は殆ど目には見えない本を食う紙魚のようなものが鴎外に寄生し、彼に傷を付け続ける事で僅かに出ていた出血のようなものなのだろうとの事だった。墨が不自然に減っていたのは、最近になって己で必要な墨の量を診断できるようになった鴎外が、己に必要な墨の量が増えていることに気付けていなかったからのようで。
 勿論僕の小指にその糸が巻き付いてて僕にしか見えていなかった事は白状した、師匠にこってり搾られたけど仕方ない。司書は罰として、僕に鴎外の看病を任せている。罰になってないけれど、師匠に搾られたから自分は何も言わなくていいと思ったのだろう。どうせならきつい罰でも良かったのに、甘い人だ。
「……悪かったね、鴎外」
 眠る鴎外の額にそっと口付ける、これくらいじゃ詫びにもならないのだけど。今度、老舗の餡パンでも買ってこようか。でもその前に、一言くらい。
「言えてなかったけどさ、僕も愛してるよ」
 眠っているけれど、一言くらい。素直になって、言ってみた。まさか、まさか。この時点で少し意識が浮上してて、後で俺もだなんて言われるなんて、予想もしていなかったのだけれど。


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