鴎秋
戦う事は嫌いだが、皆が作り上げてきた文学が汚されていくことの方が秋声は嫌いだった。とりわけ嫌ったのは鴎外が遺した舞姫が、どうやら穢されているようだと知った時である。
秋声は何度も、司書に舞姫への潜書を願い出た。しかし最古参の秋声ですらそこに向かうのは難しいだろう、そう宥められ、長く悔しい思いをした秋声がついに舞姫への潜書を果たしたのが先程までの話。早く、早く。敵を打ち倒し、浄化してやりたい。そんな気持ちに押されるまま、無理な進行を行なってしまったのだ。
「全く、無理をするなと止めただろう」
いくら古株で、場数を一番踏んでいようと急いてしまうと隙が生じるもの。敵はそこを見過ごしてはくれず、集中的に秋声を狙い、結果は秋声が喪失状態に陥って最深部より随分と前で、撤退を余儀無くされてしまったのだ。立つことも儘ならないボロボロの身体を、鴎外に抱き上げられ連れ帰られて。
情けない、そう呟く秋声に鴎外は小さく溜息を吐いた。司書から治療用に渡された洋墨の蓋を開け、注射器にそれを吸わせる。いくら医者と言えど、人とは言えない文豪達にどのくらいの墨が必要なのかはわからない。分量を読めるのは、司書だけなのだ。
「さぁ腕を出してくれ」
「ん……」
負傷者が秋声一人、というのもあって墨と共に渡されているものが一つ。治療を早める調速機を、どうか使ってやってくれと。あまり物資は豊富ではないが、己の書の穢れを浄化しようと奮闘してくれたのだ、鴎外もそうしてやろうと有り難く受け取ったのに。
「っ……そんな物まで使わせて」
「あまり拗ねないでくれ、頑張っているから使ってやってくれないかと渡されたんだ」
馴れた手付きで注射を射ち、拗ねる彼を宥めながら調速機を発動させる。これで、秋声の傷はたちまち消えていくのだ。しかし、二人はある事に気付いていない。それはほんの些細な、司書のミス。文豪達の身体を癒すのに必要な洋墨の量は、彼等の器を作り上げた司書だけが知れる。それなのに今回鴎外が渡された洋墨の量が、ほんの僅かに多かったのだ。
その狂いは、一つ大きな変化を起こす。二人はカチリと調速機のスイッチを入れたとき、それに気付くのである。
「……えっ?」
みるみるうちに傷は消えた、服の破れまでも修復されるのはとても有り難い、しかし秋声は髪が短いのに腰くらいまでの長さになっているではないか。突然の事に秋声だけでなく、洋墨を注射した本人である鴎外も驚いてしまっていて。しかし鴎外は手袋を外すと、直ぐに伸びた秋声の髪を手に取った。
「鴎外?」
「司書が墨の量を間違えたらしい、しかしこれも捨てがたいな」
「……邪魔だから切るよ」
伸びた髪は艶々とした、美しいもの。指に滑らせ、鴎外は何処かうっとりとした様子だ。しかし普段髪を短くしている秋声にとっては邪魔でしかなく、切ってくれよと差し出した鋏。鴎外はそれを手に取ったが、すぐに腰につけている小物入れの中に入れてしまう。切ってくれと願った筈が、鴎外は櫛と紐を手にするではないか。
「鴎外、何をしてるんだい」
もしこれで鋏を手にしていたら、何も気にせず任せていただろう。しかし秋声は、鴎外がそれを切る気がない事を既に悟っていた。綺麗だ、とうっとりしたその表情はベッドの上で何度も見ているそれに、とても近かったから。
櫛で整えられ、頭の後ろ。少し高い所に持ち上げられて、括られていた。馴れた手付きで括られた髪は、所謂ポニーテールとなっている。
「よし、いいな。似合ってるぞ秋声」
「なに満足げにしてるんだい、誰が括れと……!」
「今日だけでも駄目か?」
今すぐ切れ、秋声はそう言いたかった。しかし、今日だけと言う鴎外のその表情がとても切なそうにするので、はっきりと言うことが出来ない。
「分かったよ、仕方ないな。今日だけだ」
「それは良かった」
秋声は頭を抱えたくなった、どうも自分は鴎外に甘い。今日だけ切らないと約束すればとても嬉しそうにするその顔に弱いのだ、普段誰かに頼られてばかりいる鴎外のその表情を独り占め出来ているのだから、それも仕方がないのかもしれない。
秋声が少し動くだけで揺れる黒髪に、さっきから楽しげに触れる鴎外。これが怪我の功名って奴か、なんて思っていると不意に啄木が補修室にやってきた。彼は第二会派である、第一会派の秋声が手当てに向かっている間に、潜書に行ってきたようだ。洋墨を手にして入ってきたのだが、ベッドの上に座る秋声を見てビシリと固まっていた。
「……鴎外博士、秋声というものがありながら……?」
秋声と鴎外の関係は、大抵の文豪は悟っているがそれに対して何か言ってくることはない。そんな中で啄木はわりと二人の関係をよく知り、時に素直でない秋声に色々と吹き込んでいるせいか、つい何かと口にしてしまう。目の前の光景を前に、少し震えた声で言う啄木。何を勘違いしているのか、それは直ぐに分かった。
「む、何を勘違いしている。女性を連れ込んだとでも思っているのか」
秋声は第三者の来訪に、咄嗟にベッドの枕で顔を隠していて。そのせいで長い美しい黒髪を持った女性が、そこに居るように啄木には見えたのだ。動揺のあまり部外者の立ち入りは現在、禁止されているのも忘れていたらしい。
鴎外はあらぬ疑いに顔を顰め、秋声から枕を奪う。するとそこで初めてベッドの上の人物が秋声だと分かり、啄木は良かったと胸を撫で下ろしていた。文豪達は大抵愛人関係で何かしら問題を起こしていたのを知っているからこそ、博士と呼んで慕っている彼が転生した此処で泥沼に嵌まらなくて良かったと安心したようだ。扉の所で止まってしまった足を進め、二人の傍へ。
「何があったんだよ秋声、イメチェンか?」
「違う、司書が墨の量を間違えたみたいなんだ。そうしたら……森さんが気に入って」
「美しいだろう?」
ほら、と秋声の髪を啄木に見せる鴎外。すると啄木も一房ほどその髪を手に取り、ふぅんと呟く。
「なぁ秋声、ずっと伸ばすのか?」
髪を弄りながら訊ねた啄木、その表情は美しいものを愛でる鴎外とは違い、欲が孕んでいる。しかしそれには気付かないで、秋声は明日になれば切ると言う。すると今度は、それを捨てるのかと聞いた。
「捨てるけど」
「おいおいおい、勿体ないだろ秋声! こんなに綺麗で長いんだぜ! 切ったらくれよ、捨てるんだろ!?」
「啄木? 何をするつもりだ?」
捨てる、の一言に啄木がガッシリと秋声の肩を掴む。まさか髪を欲しがるなんて思っていなかった秋声が、ガクガクと揺さぶられ気圧されていると、それを止めさせ目的を問うた。返答しだいでは、サーベルを抜くぞといわんばかりの瞳である。
「おっ鴎外博士! 別にやましい事は……、かっカツラ、カツラに使えるかなって! 司書が世の中には病気の治療の副作用で髪が抜けてしまう人がいるって言ってて、そういう所に寄付したらいいかなって!!」
「ほう、咄嗟に考えたにしては上出来な答えだな?」
啄木の言葉に一応サーベルから手を離したが、鴎外の表情は険しい。普段から借金の事を口にする啄木だ、寄付などする筈がない、と分かっていた。男であるのに美しい髪である、というのに加え、地味とはいえ秋声も文豪である。その髪が、高く売れると分かっているのだ。
「そういう魂胆か、じゃあ駄目だよ。森さんがお怒りだ」
寄付なら喜んで差し出してたけど、と付け加えするりと二人の手から髪を取り戻す。そして治療は、と促せば鴎外は啄木の方へ手を差し伸べた。
「ふん、売り飛ばされるくらいなら俺が保管する」
「スミマセンデシタ……」
考えを見透かされ、しょぼくれながら秋声のいるベッドの傍に椅子を一つ寄せ、座りながら墨を差し出す啄木。鴎外はそれを受けとると、筆を手に取った。
「量を見るに、掠り傷か」
「食料調達だったんで」
見れば袖を捲った右腕に、引っ掛かれたような傷が。秋声のように喪失状態にまで陥ると、注射して内部から治療する方が手っ取り早いのだが、掠り傷ならば墨を塗った方が早い。少し染みるぞ、と前置きして鴎外は傷口に筆を滑らせた。
「いってて……あんの野郎共、また今度見たら借金苦を味わわせてやる……」
「その時にはまた傷をこさえない事だな」
サッと傷に墨を塗り、垂れないようガーゼを当てて貼り付ける。これで啄木の治療は終了だ、秋声も治療が終わっているしとベッドから立ち上がると、此れから何処かへと問われた。
「いや、今日は何処にも」
「そうか、司書から焼き芋の差し入れを貰ったんだ。鴎外博士と食べろよ」
ほらよ、と投げ渡されたホイルに包まれた芋二つ。いつもは本を入れているポケットに入れていたらしい、そういえば妙にパンパンだったなと思いながら秋声がそれをしっかり受けとれば、焼き芋が好物な鴎外が僅かに顔を綻ばせて。
「あぁ、頂くとしよう。此処で食べるのもなんだ、私の部屋に行こう」
「はいはい、それじゃあ森さんは借りてくよ」
「あー分かった分かった、いちゃつくなら部屋で頼むぜー」
早く焼き芋が食べたいが、潔癖症な所がある鴎外は基本的に補修室で物を食べるのを良しとしない。そのため部屋へ行きたがるので、秋声は啄木に見送られながら補修室を後にした。
どうやら出来立てらしい焼き芋は温かく、甘い香りがする。それにほっこりしていた秋声だが、一歩歩く度に揺れる髪が、どうにも気になって。
「…………」
「どうした、痛むのか?」
つい項を触っていると、治療がまだ不十分なのかと心配される。しかしそうではないと首を横に振り、髪が長いのが気になるのだと言えば鴎外は安心したようだ。
「此処まで伸ばしたことがないから、凄く頭が重いよ……」
「だが、後ろからの眺めは中々いいぞ」
触る手を下ろさせ、少し先を歩けと鴎外が言うので首を傾げながら前へ。するとやはり、ふむと満足げな声。
「馬の尾のように見えるからポニーテールと言うが、白い項が動く時にちらりと見えるのがいい」
「鴎外?」
する、と後ろから手が伸びてくる。後で揺れていた髪を、左肩の方へ流されて。長さが足りない部分が、僅かに項に当たる。擽ったい、と思ったのは一瞬のこと。それよりも髪を左肩に流した手がそのまま肩を掴み、鴎外の吐息が当たったことに気を取られ。思わず足を止めると、鴎外も止まった。どうかしたかと声を掛ける前に、柔らかなものが当たるのを感じる。
「普段見えているものが隠されるというのもいいものだ、やはり暫く伸ばさないか?」
「っ……けだもの!」
わざとらしく立てられたリップ音、少しちくりとしたそれはキスマークを残された証だ。髪を切ってしまうと、誰かに見られる場所。肩を掴んでいた手を払い退け、項を押さえて鴎外に文句を言っていると、おやおやと聞き慣れた声が。
「その声と服装は、秋声だな?」
「うげっ、し、師匠……」
「長いのも似合っているではないか」
出来れば秋声にとって、この姿を一番見られたくなかった紅葉が、伸びた原因については全く言及せずに褒め称えた。どうも奇抜な色のものがいるが、やはり黒が一番良いと。
「しかしこう見ると女子のようだな、我の娘のように扱ってやろうか」
普段何かと女のようだと言われたり間違われる紅葉が、からかい半分で言う。しかし娘扱いは困るから止めてくれ、と乞えば至極真面目な顔で鴎外が口を開いた。
「ふむ、それではお義父様と御呼びした方が良いか」
「おやおや、娘が出来たと思ったら娘婿まで。歓迎するぞ」
真面目な顔をしておいて、全力で自分をからかいにかかる鴎外に秋声は心の中でこうなった原因を恨む。そう、墨の量を間違えた司書を。しかし今此処に居ない司書を恨んだところで、この状況がどうにかなる訳ではない。出来ることといえば、焼き芋をダシに紅葉から離れることくらいである。
「大好きな焼き芋が冷めるよ、旦那様?」
「……おっと、そうだな。美味しい時を逃してしまうのは勿体ない、失礼する」
「あぁ、引き留めて悪かった。我も貰ってくるとしよう」
それでは、と去っていく紅葉を見送り、二人も足を進める。一歩後ろから隣に並び歩いた鴎外は、焼き芋があると言われたときより上機嫌に見えた。きっと先程の旦那様、がお気に召したのだろう。機嫌が悪いより、断然にいい。
しかし、じわりじわりと顔が熱くなる。からかわれたから、旦那様と自分から呼んだのに。今更ながら恥ずかしいことをしてしまった、なんて思ってももう遅いのだ。
「熱でもあるのか」
「ない、大丈夫だから」
遅れてやってきた羞恥心に苛まれ、穴があったら入りたい心持ちの秋声に目敏く気付く。そういう所は嫌いだ、と思いながら見えてきた部屋の扉へ、パタパタと足を早めた。するりと自分の隣から先へ行った秋声に、鴎外は小さく笑う。
今日一日、旦那様と呼ばせてみようか。なんて事を思っているとは悟られないよう、転ぶぞと声をかけながらその後を追うのだった。