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鴎秋


平和な日常を望む秋声にとって、戦いに明け暮れる日々は苦痛でしかない。元々不安定な精神をもつ彼に久方ぶりの暇を出された今日は、己の思うがままに過ごせる安息日。だったというのに、どうしてこうなった。心の中でそう呟いている秋声に構わず、その足元に一人の文豪がしゃがみこんでいた。
「……それは、楽しいのかい?」
「ええ、とっても」
 日当たりのいい場所に設置された気に入りのソファーに腰掛け、読書をしていた秋声に近付いてきたのは谷崎潤一郎。この図書館の古株の一人であり、よく共に潜書に出ているメンバーの内の一人だ。そんな彼が、頼みがあるので聞いてほしい。そう言うので、自分に出来ることならと引き受けたのがほんの数分前の事。そうすると潤一郎はとても歓び、秋声の足元に跪いたのである。
 男である秋声から見ても美しい、と思う潤一郎が突然地味な自分の足元に跪くというのは焦るものだ。一体何をと思えど了承してしまった手前、見守ることしか出来ずにいると美しく整えられた手が徐に秋声の右足を持ち上げた。何か塵でもついていたのか、そう思ったが草履に手を掛けて、それを脱がせたのである。そして足袋なども脱がせて素足にさせ、熱い溜め息を溢しながら潤一郎は素足を眺めているのだ。
「君の性癖はしっているけれど、僕は女性じゃない」
「ええ、存じております。けれど此処には女性が居ませんし、連れ込む事も許されないでしょう? ならば存在する者でそれを満たすしかありません」
「で、僕なのかい」
 再び転生するならば、女性の履く靴がいい。そう断言する程脚に執着している潤一郎に、まさか自分が目をつけられるとは。流石に素足を舐めるように見詰められながら読書をする気にはなれない秋声は、本を閉じて潤一郎に話し掛ける。
 幸いにも、他の文豪達はいない。怪しいこの状況をネタにされる事もない事には安堵したが、突拍子もないことをやらかす潤一郎を前に気を抜けずにいた。

「爪を綺麗に整えられていますね、ご自分で?」
「この間割れてしまって、お……森さんが整えてくれたんだ、君も頼んだらどうだい?」
「私は自分で整えたいので、あぁ……この爪の色といい形といい、男性にしておくには勿体無い美しさだ。やっぱり見込んだ通り……」
 するりと足の甲を滑る手、秋声にはよく分からないがどうやら彼にとっては好みの足のようだ。桜貝のような爪、と呟くその目は獲物を見る獣。そろそろ、離させたほうがいいかもしれない。そんな危機感を抱いた秋声に、妖しく笑う潤一郎。
「この足を、少しだけ愛でていいでしょう?」
「何を……ひっ!?」
 ひょい、と持ち上げられた足。膝をついた潤一郎の顔の高さまで上げさせられ、それから感じた暖かさと柔らかさに思わず声が。足の甲に感じたそれは、潤一郎の唇が押し付けられた感触だ。まさかの事に小さく上がる悲鳴に、いいですねぇと潤一郎は喜ぶ。
「そう、その目……堪らないなぁ! もっと此方を見て、私を穢らわしいものを見るように見てください、罵っても構いません!」
「は、離してくれないか! 僕は」
「このような場所で、何をしている?」
 コツ、と妙に響いたブーツが床を踏み鳴らす音。その声色は、普段の優しさは鳴りを潜め、明確に怒っている事を伝えている。潤一郎は足音の持ち主である鴎外を見遣ると、くすりと笑って秋声の足を離す。
 潤一郎は知っているのだ、鴎外と秋声の関係を。彼は秋声の事を深く愛し、秋声もまた同じであると。秋声の方は隠そうとしているが、鴎外は隠しもしないものだから、からかうのが楽しいのだ。そして同時に向けられる視線に、人知れず快感を覚えている。
「ふふふ、すみません。余りにも魅惑的でしたので、眺めるだけのつもりが……ね?」
「どうだか、最初から手を出すつもりだったんじゃないか?」
「とんでもない、今の私では貴方の体術で一方的に痛め付けられるのが目に見えてますからねぇ」
 それではまた、そう言って去っていく潤一郎。残された二人はというと、何とも言えない微妙な空気の中、気まずそうに俯く秋声の足元に鴎外が膝をつく。
「全く、油断しすぎだ。もう少し警戒しろ」
「女性の履く靴になりたいとか言ってる人が、男の足に興味を持つなんて思わないだろう……」
 手袋に包まれた手が素足に触れる、脱がされた足袋を手にしているあたり履かせようとしてくれているらしい。子供ではないのだから、自分でやる。普段ならばそう言うところなのだが、苛立っている鴎外をあまり刺激したくないと、秋声は黙ってそれを受け入れた。
 肌触りのいい綿の足袋に再び包まれた右足、後は草履だと探した所でふと気付く。
「……谷崎が持っていったか」
「草履を持っていって、どうするつもりなんだ彼は」
 全く、と一つ溜め息を吐く。私室まで少し距離はあるが、そこに戻れば予備がいくらでもあるのだ。一つなくした所でどうという事も、と立ち上がろうとしたが、それよりも先に鴎外が動き出す。文豪といえば、部屋に籠って小説を書き身体を鍛える事はなさそう。なんて思われているが、彼等は戦うべく転生された身。
 そして鴎外は軍医だった、というのもあり鍛練を怠らず比較的がっしりとした体型をしている。対する秋声は、そこまで大柄でも、華奢すぎるという訳でもない。それなのに、鴎外はひょいと抱えあげてしまった。よりにもよって、所謂お姫様抱っこのスタイルで。
「別に怪我をした訳じゃあない、降ろしてくれ!」
「耳元で叫ぶな、暴れるのも駄目だ落としてしまう」
「落とすな、だけど降ろせ! 誰かに見られたら僕は恥ずかしさのあまり死ぬぞ!」
「蘇生措置なら任せろ」
 夢見る乙女なら、さぞかし嬉しい状況だろう。顔立ちの整った紳士の逞しい腕に抱かれ、部屋まで送り届けられるなど。だが残念ながら乙女でもなければそもそも男である秋声からすれば、今の状況は師匠である紅葉にも兄弟子の鏡花にも絶対に見られたくないものだ。
 止めろ降ろせと暴れようとするも、鴎外は涼しい顔で歩き出す。だが秋声もプライドが高い男だ、簡単には大人しくしない。しかし鴎外は秋声に二択の選択肢を提示する事で、大人しくさせる事に成功した。
「このまま暴れて騒いで誰かに見付かる上に距離的に近い俺の部屋に連れ込まれるか、大人しくして自室に連れていかれるかどちらが好みだ?」
「っ……後者で頼むよ」
「ならしっかり掴まっているんだな」
 くそ、と悔しげな声に鴎外は小さく笑う。秋声はせめて顔を見られないようになのか、鴎外の首に腕を回してしっかりと密着する。初めからそうしてくれたら助かったんだが、と言おうかと思ったが、それは止めておく事にした。
 弓を扱う者の腕力を舐めてはいけない、首という急所に腕を回されてる今、不利なのは圧倒的に鴎外なのだ。それに気付かないで秋声が諦めて大人しく運ばれていると、不意にふわりと甘い香りが鼻孔を擽った。

「……甘い香りがする」
「あぁ、館長がチョコレートを差し入れに持ってきたんだ。他の奴等の相談相手ご苦労、だとか言ってな」
 この図書館に集う文豪達の良き相談相手になっている鴎外を労って、だろうか。良かったら分けよう、と言う鴎外だが秋声は答えない。それより甘い香りのせいで、秋声は思い出したくない事を思い出してしまっているのだ。
 鴎外が秋声の事をベッドで愛に酔わせる時、自前に必ず一欠片のチョコレートをその口に入れるのだ。そのせいで身体がチョコレートの香りを嗅ぐと、秋声の意思に反して反応してしまう。なんて事を刷り込んでくれたのだ、と恨み言を言えたらどれだけ良かった事か。すん、とまた一つ鼻を鳴らして嗅いでいると、鴎外がある場所で足を止めた。其処は秋声の私室ではなく、鴎外の私室。扉を開けて中に入るが秋声はまだ気付いておらず、大人しく連れ込まれている。
「待っていろ、出してやる」
 ベッドの上に下ろされ、向けられた背中。それが少し切なく思う自分は、一体どうしたと言うのか。しかし鴎外はすぐ、洒落た箱を手に戻ってくるのだ。小さなまぁるいフォルムのそれ、手袋を外し、一つ包み紙を外すのを秋声は見詰めてしまう。カカオの芳醇な香りに、僅かに頬が染まった。
「中々に旨いぞ」
 ほら、と口許に運ばれたチョコレートを迎え入れる。柔らかく、口にいれて軽く転がしただけで蕩けて、中からまた別の味が。ウィスキーボンボンだったらしく、独特の味わいに秋声は目を細めた。
「ところで秋声、その顔はそう簡単に見せていいのか?」
 此処は俺の部屋で、俺のベッドの上だ。そう言うが、連れ込んだのは紛れもなく鴎外である。
「……洋酒に慣れてなくて、少し火照っただけさ」
「ほう、では慣れる為にももう一つ」
 ぷいと顔を背けるも、もう一つチョコレートが口許に運ばれて。それを大人しく迎え入れたと同時に、仕返しとばかりにつまんでいた人差し指に軽く歯を立てた。
「大人しくしていれば、僕を部屋まで戻してくれるって言ったくせに。結局此処じゃあないか、……けだもの」
「嫌じゃないだろう?」
「……ばかじゃないか」
 しゅる、と外される秋声の服を留める紐。馴れた手付きで、服を一つ一つ脱がされて。
「さっきみたいに誰かに手を出されないよう、印をつけておこう」
 今度は明確に、お前を抱く合図だと言わんばかりにもう一つチョコレートが与えられる。今抵抗も出来ないのは、入っていた洋酒のせい。
 そう己に言い聞かせて、秋声はきっちりと着こんだ鴎外の軍服の釦に手をかけた。


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