月島蛍
名前変換
理性の炭化温度
換気扇が、ゴウンゴウンと低い唸りを上げている。だがその健気な努力も虚しく、部屋を満たしているのは、どう考えても純度100パーセント、肉が哀れな炭化物へと変貌を遂げた後の、鼻を突く焦臭だった。煙たい、と言うよりは、もはや物質がその存在意義を放棄した後の、終末的な匂いとでも言うべきか。
「……おかしいな。確かに弱火に設定していた筈なのだけれど」
背後から聞こえてきたナマエの声は、いつも通りどこか呑気で、穏やかでさえある。問題は、そのベルベットのように滑らかな響きの裏側に、余りにも明白な『わたし、知りません』という責任放棄のニュアンスが透けて見えることだ。
「ねぇ、蛍くん。こういう、カルビが炭になってしまった後の強烈な臭いって、どうしたら綺麗に消せるもの?」
「そもそも、カルビをそこまで炭化させる状況を作り出す時点で、根本的に論外なんだけど」
「うん、でも、現に焦がしてしまったのだから、仕方ない」
「そういう潔いまでの開き直りが、一番タチが悪いって、そろそろ学習してくれない?」
僕の視線の先、ダイニングテーブルの中央には、文明が滅びた後の遺跡めいたホットプレートが鎮座している。その表面には、且て食欲をそそる赤身だった筈の物体が、今は見る影もなく炭化し、無残な黒い塊となってこびり付いていた。もはや肉片と言うよりは、発掘された正体不明のオーパーツに近い。
「……これはもう、炭だね。いや、炭という存在にすら失礼なレベルの何かだ」
「ごめんね。夢中になって蛍くんの横顔を見ていたら、うっかり焼き過ぎてしまった」
……反則だろ、それは。心臓が、一瞬、不規則なリズムを刻んだ。しかも、狙ったようなわざとらしさが微塵もなく、本当に思ったことをそのまま口にした、という風情で言うから、なおのこと性質が悪い。
僕は小さく咳払いをして、意味もなく眼鏡のブリッジを指で押し上げる。物理的なレンズの向こうに、一瞬でもいい、自分の内心を隠せる遮蔽物が欲しかった。ナマエの真っ直ぐな視線を受け止め続けると、顔の温度が上がるのが自分でも分かってしまうから。
「……見なくていい時に限って、本当によく見てるよね。君は」
「うん、だって、好きだから」
さらっと、当然のように言うな。馬鹿。脳内で警報が鳴り響く。危険だ、この距離は。この屈託のなさは。僕が必死で築き上げている冷静さの壁を、彼女はいとも容易く、しかも無自覚に(或いは、確信犯的に)侵食してくる。こっちは常に君の半径30センチ以内で、理性という名の細い綱と、本能という名の獰猛な獣との間で、必死の綱引きを強いられているというのに。
焦げ付いた臭いは、窓を開けただけでは到底消えそうにない。部屋の中を漂う、目には見えないが存在感だけは抜群の煙の中で、僕が楽しみにしていた筈のカルビは、もはや食品としてのカテゴリーから逸脱してしまった。
「じゃあ、蛍くん。カルビの代わりに、わたしを食べる?」
「やめて。比喩表現だとしても、そういう冗談を軽率に口にするの」
「比喩じゃないけれど」
「……帰っていい?」
くすくすと、ナマエが悪戯っぽく笑う気配がする。こいつ、絶対に面白がってる。僕の反応を見て、楽しんでいるに違いない。
結局、窓という窓を全開にし、物置の奥から引っ張り出してきた扇風機を最大風力で回す羽目になった。ブォン、という頼りない機械音が、焦げ臭い空気と混ざり合って奇妙なハーモニーを奏でている。それでも、一度空間に染み付いた焦臭は、悪意ある残留思念のようにしぶとく漂い続けている。
「はぁ……焦げ臭い……」
「蛍くんの理性も、一緒に焦げ付いていたりする?」
「焦げてるのは、どう考えても君の料理センスと、その独特な発想の方でしょ」
それでも、僕が結局この女を許してしまうのは、きっと、彼女が僕の名前を――「蛍くん」と呼ぶ時の、その僅かに甘く、慈しむような声音が、どうしようもなく、僕の心を掴んで離さないからだ。理屈じゃない。悔しいけど。
「蛍くん、もしかして怒っている?」
ソファに凭れて天井を仰ぐ僕の顔を、ナマエがテーブル越しに覗き込んでくる。
「別に怒ってない。ただ、純粋に、僕は今日のカルビを心待ちにしてたってだけ」
「そう。じゃあ、今度は……焼かずに、生で頂く、というのはどう?」
「それ、完全にホラー映画が始まる直前の不穏な台詞なんだけど」
やれやれ、と内心で肩を竦めながらも、僕はキッチンに向かい、コーヒーを淹れることにした。何か別の香りで、この惨状を少しでも上書きしたかったのかもしれない。ナマエはテーブルに頬杖を突いたまま、黙って僕の背中をじっと見つめている。その視線からは、肉を焦がしたことへの反省よりも、この気まずいかもしれない空気をどうにかしたい、という気持ちの方が強く伝わってくる気がした。そういう妙なところで、聡い。
だから、ほんの少しだけ、棘を抜いた声で言ってやる。カップを二つ、テーブルに置きながら。
「まあ……君のその妙に満足気な顔を見ながらなら、この焦げ臭い空気も、そんなに悪くないかもしれないね」
わざと、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべて。
「ふふ、そう? じゃあ、わたし、もっと焦がそうかな」
「やめて、真剣に。僕の胃袋と、部屋の壁紙の為に」
恋の味とは、もしかしたら高級なカルビなんかよりも、ずっと焦げ付き易いのかもしれない。そして厄介なことに、その焦げ跡さえも、どこか香ばしく、忘れ難い記憶として刻まれてしまうのだ。部屋に満ちる不本意な香りと、胸の奥で燻るままの、このどうしようもない感情。
僕の理性は、また少し、決定的に焦げ付いてしまったような気がした。