国見英
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運命の否定形
放課後の喧騒が潮のように引いた教室には、もう殆ど人影はなかった。窓際の、自分の定位置である席に腰を下ろしたままの国見英と、そのすぐ前に、そこが世界の中心であるかのように静かに立つミョウジナマエだけが、その空間に取り残されていた。空はまだ昼の名残を惜しむように明るいが、西の窓からは確実に傾き始めた夕陽が、温かくもどこか物憂げな金色の光を投げ掛けている。その光は埃の舞う教室の空気を可視化し、国見の艶のある黒髪に淡い輪郭を与えていた。まるでスポットライトのように。
「国見くん」
静寂を破ったのは、ナマエの声だった。低過ぎず高過ぎず、けれど凛とした響きを持つ声。国見は、手元のノート、そこに書き連ねられた無機質な文字から視線を上げない。ただ、ゆるりと一度だけ瞬きをした。眠りから覚めたばかりの猫のように。
「……なに?」
相変わらず、温度というものが感じられない、気の抜けた声だった。感情の起伏を極力排し、エネルギー消費を最小限に抑える。それが国見英という人間の、デフォルト設定のようなものだ。けれど、その声を発するほんの僅か前、ノートの上でシャーペンを走らせていた彼の指先が、一瞬、硬直するように微かに震えたのを、ナマエの観察眼は見逃さなかった。そして国見自身も、その微細な反応を自覚していた。
「わたし、国見くんのこと――好きじゃない」
静かに、けれど揺るぎなく、はっきりと、ナマエは言った。明日の天気予報でも告げるかのように淡々と。
その瞬間、それまで慣性に従ってノートの上を滑っていた国見のシャーペンが、鉛の跡を残して、ピタリと止まる。まるで時間が凍り付いたかのように。
微かな、しかし濃密な沈黙が、二人の間に落ちた。窓の外で、遠くの部活動の声が微かに聞こえる。それ以外は、何も聞こえない。やがて、国見はゆっくりと顔を上げた。感情の読めない、いつも通りの無表情。だが、その奥で何かが揺らめいたのを、彼は自覚していた。
「……は?」
絞り出すような、掠れた声。彼の黒い瞳が、目の前の少女の、吸い込まれそうなほど深い瞳を捉える。ナマエの双眸は、凪いだ水面のように静かで、揺れることなく真っ直ぐに国見を見つめ返していた。
「好きじゃないんだ」
ナマエは、壊れたレコードのように、もう一度、同じ言葉を繰り返した。その声には、先程よりも僅かに強い意志が込められているように聞こえた。
教室の窓が、不意に吹き込んできた風にカタ、と小さな音を立てる。白いカーテンが、幽霊のように静かに揺れた。国見は暫く、瞬きすらせずに、目の前の、不可解な言葉を紡ぐ少女を見つめていた。何を言っているんだ、こいつは。普段なら、面倒臭い、と一蹴して思考を停止させるところだ。しかし、何故か今日はそれができない。彼女の言葉が、妙に耳の奥に引っ掛かる。
やがて、国見は緩く眉を寄せた。表情筋を動かすことすら億劫だというのに、今はそうせずにはいられない。
「……何それ?」
低い、地を這うような声が落ちる。それは疑問と言うより、困惑と、ほんの少しの苛立ちを含んでいた。
ナマエは、薄い、桜貝のような色の唇をゆっくりと開いた。大切な秘密を打ち明けるかのように。
「だって、好きっていうのは、もっと軽くて、曖昧で、移ろい易いものじゃない?」
言いながら、ナマエはそっと自分の胸の前で指を絡ませるように手を組んだ。その仕草は、祈りのようにも、或いは何かを固く決意しているようにも見えた。
「本を読んでいても、映画を観ていても、そんな風に描かれていることが多い気がするの。好きだったのに、些細なことで嫌いになる。好きだったのに、いつの間にかどうでもよくなってしまう。好きだったのに、もっと魅力的な他の人を好きになってしまう。……そういう、風に吹かれて簡単に形を変えてしまうようなものなら、わたしは国見くんのことを好きじゃない」
その理屈とも屁理屈ともつかない言葉の羅列に、国見はゆっくりと、肺の底から息を吐き出した。溜まっていた澱を吐き出すように。面倒臭い。矢張り、こいつは途轍もなく面倒臭い。だが、同時に、その面倒臭さが、奇妙な引力を持っていることも、彼は知っていた。
「……俺に言いたいのは、それだけ?」
声音はあくまで平坦を装う。
「ううん」
ナマエは小さく、しかしはっきりと首を振った。さらりと揺れた髪が、夕陽の光を反射して煌めく。
「国見くんのことは――好きじゃない。でも、嫌いにもなれない。絶対に。どうでもよくなるとも、到底思えないし、この先、他の誰かを好きになるとも思えない」
淡々と、それでいて、どこか絶対的な確信に満ちた声だった。その言葉の一つ一つが、小さな石のように、国見の心の水面に投げ込まれ、波紋を広げていく。国見の、シャーペンを握ったままの指先が、再び、今度ははっきりと分かる程に震えた。それを隠そうと、彼は無意識に指に力を込める。
ナマエは、そんな彼の微かな動揺を見透かすように、じっと見つめながら、最後に一言、決定的な言葉を付け加えた。
「だから、好きじゃないんだ。国見くんは、わたしにとって――もっと別の、特別なものだから」
その瞬間、国見の喉が、ごくりと小さく上下した。彼は、ゆっくりと、細く長く息を吐く。全身の緊張を解きほぐそうとするかのように。しかし、それは逆効果だった。彼の内側では、普段は眠っている何かが、ざわざわと騒ぎ始めていた。
――ずるい。
――こいつ、本当に、ずるい。
国見英は、自他共に認める省エネ人間だ。無駄な感情は表に出さない。無駄な労力は使わない。そうやって、効率的に、平穏に生きている。少なくとも、そう努めている。
けれど。
目の前に居るこの少女、ミョウジナマエだけは、彼の中の揺るぎない筈の冷静さを、いつだって、いとも簡単に、木っ端微塵に壊していく。彼の防御壁など存在しないかのように。
「……もうちょっと、分かり易く言ってくれない?」
低く、緩く、普段通りのトーンを心がけた筈の声は、しかし、自分でも気づかぬ内に、どこか微かな熱を帯びていた。それは懇願のようでもあり、苛立ちのようでもあった。
ナマエは、その国見の変化を敏感に感じ取ったのか、ふっと、花が綻ぶように微笑んだ。そして、一切の迷いなく、真っ直ぐに国見の瞳の奥を見つめながら――
「国見くんは、わたしの"運命"なんだ」
そう、はっきりと告げた。
"運命"。その、ありふれている筈の言葉が、ナマエの口から発せられた瞬間、国見の心臓が、肋骨の内側で大きく、不規則に跳ねた。ドクン、という鈍い音が、鼓膜の内側に直接響き渡る。世界が一瞬、色を失い、スローモーションになったような錯覚。彼は、何かを言おうとした。反論か、疑問か、或いは別の何かか。けれど、言葉が喉の奥でつかえて、上手く出てこない。思考が、白い靄に包まれたように働かない。それが、自分でも全く理解できなくて、国見は僅かに口を引き結び、唇を噛み締めた。
ナマエは、そんな言葉を失った彼を、慈しむような、或いは全てを理解しているような、不思議な微笑みを浮かべて見つめながら、ふわりと身を屈め、彼の前にしゃがみ込んだ。床に膝を突き、彼と同じ目線になる。
「国見くん、わたしを好きにならないで」
予想外の言葉に、国見は思わず目を細める。今度は、はっきりと困惑が表情に表れた。
「……は?」
「わたしを好きにならないで。お願い。そうじゃないと、わたしは国見くんのことを、世間で言うところの"好き"にならなくちゃいけなくなるかもしれないから。でも、それじゃ全然足りないんだ。わたしのこの気持ちは、そんな簡単な言葉じゃ収まらないから――だから、わたしは"好きじゃない"ままでいたいの」
そう言って、ナマエはそっと、躊躇いがちに、自身の指先を国見の硬い手の甲に触れさせた。ノートの上に置かれた、少し骨張った彼の手に。
その指先は、驚く程にひどく冷たくて――けれど、同時に、触れた箇所からじわりと熱が伝わってくるような、矛盾した感覚があった。まるで、氷の下に炎が燃えているような。その熱は、国見の皮膚から神経を伝い、彼の全身に微かな痺れのようなものを広げていく。
「国見くんがわたしの"運命"であるように、わたしも国見くんの"運命"でありたい。だから、"好き"じゃないまま、ずっと一緒に居るの。そういう関係がいいの」
ナマエは、静かに、けれど有無を言わせぬ響きでそう言った。その声は、呪文のように国見の意識に染み込んでいく。
国見は、息を詰まらせる。喉が渇き、言葉が出てこない。けれど、彼はその突拍子もない、しかし絶対的な響きを持つ言葉を、否定することができなかった。否定する言葉が見つからなかった。或いは、心のどこかで、否定したくないと思っていたのかもしれない。
やがて、ナマエは名残惜しむように、ゆっくりと彼の手から指を離した。
――指先の、あの奇妙な冷たさと熱さの感触だけが、彼の皮膚の上に、ありありと残っている。焼き印を押されたかのように。
国見英は、静かに目を伏せた。長い睫毛が、頬に影を落とす。夕陽の光が、彼の顔の半分を金色に染めていた。そして、かすかに唇の端を引き上げると――
「……はぁ、もう……」
小さく、けれど確かに、彼は笑った。それは諦念か、困惑か、それとも、この理解不能な少女に対する、抗い難い感情の表れか。自分でもよく分からない、複雑な感情が綯い交ぜになった、乾いた笑いだった。
――この女には、どうやったって、敵わない。
心の奥底で、彼はそう呟いていた。それは、紛れもない真実だった。そして、その事実に、彼は奇妙な安堵と、ほんの少しの心地よさすら感じているのかもしれなかった。省エネモードは、この少女の前では完全に機能不全に陥る。そして、それもまた、悪くないのかもしれないと、国見はぼんやりと思っていた。夕陽が、教室を茜色に染め上げていた。
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