佐久早聖臣

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臣くんとわたしの夢同期現象


 その夜、わたしは夢を見た。

 まるで、雨上がりの紫陽花の色を溶かし込んだかのような、深く湿った墨絵の世界。そこは京都の町並みによく似ていたけれど、現実のそれとはどこか違う、静謐な空気が漂っていた。鈍色の瓦屋根は曇り空の下でしっとりと濡れそぼり、家々の黒漆喰の壁と固く閉ざされた雨戸が、迷宮のような路地を形作っている。その奥に、隠れ家のようにひっそりと息衝く一軒の町屋があった。

 ただ、矢張りここは現実の京都ではない。奇妙なことに、その古風な町屋の裏手には、見慣れた、しかしここにある筈のない井闥山学院の体育館が、何の脈絡もなく繋がっていたのだ。体育館の床には、磨き上げられた光沢の中に、青竹を緻密に組み合わせた模様が、最初からそこにあったかのように彫り込まれている。その不調和が、妙に腑に落ちるのが夢の不思議だ。

 わたしは夢の中で、意識に導かれるまま、その町屋を目指していた。履いているのはいつものローファーではなく、柔らかな鼻緒の草履。石畳を叩く軽やかな、しかしどこか澄んだ音が、湿った空気に吸い込まれては響く。服装も制服ではなく、夢の中のわたしに誂えられたかのような、落ち着いた色合いの和装だった。梅雨入り前の、纏わり付くような湿気が肌に感じられ、それは単なる気候ではなく、何かが静かに、けれど確実に動き出す予兆の匂いを孕んでいた。

 やがて辿り着いた町屋の軒先には、深い緑色の苔に覆われた石畳が続き、その傍らには小さな祠がひっそりと祀られていた。風が吹く度、真新しい注連縄に付けられた紙垂(しで)が、さわさわと音もなく揺れる。そして、どこからともなく漂ってくるのは、白檀や沈香とは似て非なる、異国の香辛料の複雑で芳しい香り。ふと目をやると、祠の隣に設えられた簡素な木彫りの棚の上に、ターメリックの鮮やかな黄色、クミンの土っぽい香り、パプリカパウダーの深い赤……明らかに古都の風情にはそぐわないスパイスの瓶が、薬棚のように整然と並べられていた。

 その光景を前にして、わたしは自分がいつの間にか一冊の本を手にしていることに気づいた。

『異文化を楽しむ佐久早聖臣の旅』

 装丁は妙に凝っていて、表紙にはトレードマークのマスクをした彼が、何故か梅干しを一粒摘まみ上げながら、心底不機嫌そうな顔で大きなスーツケースを引いているイラストが描かれている。どうしてこんな本を、しかも、わたしが持っているのか――理由は皆目見当もつかないけれど、夢の中ではそれが当然のことのように思えた。わたしは吸い寄せられるように祠の前へ進み、供物でも捧げるかのように、その本をスパイスの瓶が並ぶ棚の前にそっと置いた。

「よ、ナマエちゃん」

 不意に掛けられた、太陽みたいに明るい声。はっとして振り向くと、体育館の入口と思しき場所から、古森元也くんが人懐っこい笑顔で手を振りながら近づいてくるところだった。彼の出で立ちは、どこか古風な観光案内人のようで、首から提げた手作りの竹札には、墨痕鮮やかに"案内人・古森"と書かれている。

「聖臣にさ、ちょっと助けてもらいたいことがあるんだけど」
「……助けるって、クエストか何か?」

 夢の中のわたしは、妙に状況をすんなり受け入れている。

「そうそう、そんな感じ! いや、実際には"旅"って言った方が近いかな? あいつ、知らない文化とか場所に飛び込むの、めちゃくちゃ苦手だろ? 特にこういう……なんて言うか、"雑多な気配"が濃い所。でも、ナマエちゃんが一緒なら、ほら、あいつも少しはガードが緩むって言うかさ。安心するでしょ?」

 古森くんが悪戯っぽく笑う。

 その言葉を裏付けるように、町屋の入り口に掛けられた藍色の暖簾が、ゆらりと静かに揺れた。そして、その向こうから現れたのは、矢張り――彼だった。

 佐久早聖臣くん。

 白いマスク越しでもはっきりとわかる、眉間に刻まれた深い皺。けれど、その鋭い黒曜石のような瞳がわたしを捉えた瞬間、ほんの一瞬、険が和らぐのをわたしは見逃さない。

「……なんで俺が、こんな場所に居るわけ? しかも、何この匂い……スパイスとか、本気で無理なんだけど。鼻がおかしくなるし、服に匂いが染み付くの、ほんとやだ」

 開口一番、不満が堰を切ったように溢れ出す。その潔癖さも、彼らしい。

「旅って、そういう予期せぬ出会いや発見があるものでしょう?」

 わたしは、自分でも驚くほど穏やかな微笑みを浮かべていた。夢の中だと、どうしてこんなにも素直に、彼に言葉を掛けられるのだろう。現実では、もう少し躊躇ってしまうのに。

「……あのさ、ナマエ。うん、……まあ、別に、お前と一緒に行くこと自体は、構わないけど……」
「けど?」

 促すように見つめると、彼はふいと視線を逸らし、言葉を濁す。

「いや……なんでもない。……本当に、なんでもないから。ハァ~……」

 深い溜息と共に吐き出された彼の返事は、どこまでも素っ気なくて、つれない。
 でも、そのつれなさが、何故だか胸の奥を擽った。そう、これは現実の彼と少しも変わらない。どこまでも不器用で、過剰なくらい神経質で、けれどその奥底に、隠し切れない優しさを秘めている、臣くん。

「じゃ、決まりなー! 早速出発だ! こっちこっち!」

 状況を心得た古森くんが、待ってましたとばかりに声を上げる。彼に背中を押されるような形で、わたし達は町屋の裏口――いつの間にかそこは体育館ではなく、鬱蒼とした木々に続く小道へと変貌していた――から、奇妙な旅へと足を踏み出した。

 木々の騒めきが耳元を撫で、鮮やかな朱色の鳥居を幾つも潜り抜ける。足元には頼りない板で作られた、どこか妖しげな橋が掛かっていて、それを渡ると、もうそこは墨絵のような京都の面影すらなかった。まるで、迷い込んだ絵本の中の世界。目に映るもの、鼻を擽る香り、肌で感じる空気、全てが異文化の坩堝。強いスパイスの匂いは一層濃くなり、現実ではあり得ない色彩の花が咲き乱れている。そして……そんな非現実的な風景の中で、すぐ隣を歩く彼の指先だけが、異様なまでにリアルに感じられた。

 わたしが、ほんの少しだけ臣くんに近づくと、彼は条件反射のようにサッと距離を取る。けれど、わたしが諦めて元の距離に戻ろうとすると、今度は彼の方が、気づかれない程度に、僅かに歩幅を緩めて、また隣に並んでくるのだ。

 夢の中でも、こういうところは全く変わらない。彼のパーソナルスペースは厳格だけれど、わたしだけが、その境界線を一寸だけ曖昧にできる。

 そして、わたしはこの混沌とした、彼にとってはきっと苦痛ですらあるだろう旅路の中で、確かな幸福を感じている自分に気づいたのだ。
 こんな、ちぐはぐで不思議な旅でもいい。
 例え行き先がどこであろうと、彼と一緒に居られるのなら。
 だって、わたしは知っているから。その素っ気ない返事や、ぶっきら棒な態度の裏側に隠された、彼なりの不器用で、けれど真摯な"好き"の伝え方を。それは、言葉よりもずっと雄弁な、彼とわたしの間だけの特別なサインなのだと。

 ――ふっと意識が浮上したのは、アラームが鳴る数分前、朝の7時12分。

 見慣れた東京の自室のベッドの中。窓から差し込む朝日は、まだ柔らかい。わたしは夢の余韻の中で薄く笑みを浮かべ、誰に言うともなく小さく呟いた。

「……夢の癖に、スパイスの匂いまで、やけにリアルだったな」

 まだ鼻の奥に残っているような気さえする。

 その直後、枕元のスマートフォンが、控え目な着信音を響かせた。メッセージが一つ。

ナマエ、もしかして夢で俺と旅してた? ……昨日、多分うつ伏せで寝てた所為か、なんか変な夢見た気がするんだけど。お前は?』

 送り主は、勿論、彼。矢張り、臣くんも同じ夢を見ていたのだ。

 しかも、その短いメッセージには、一枚の写真が添付されていた。
 そこには、あの夢の中の町屋にあった、異国の香辛料が並ぶ棚の前に立つ、マスク姿の彼が写っていた。背景も、彼の少し困惑したような(でも、完全な拒絶ではない)表情も、夢の中で見た光景と、寸分違わぬ構図だった。

 ――夢の続きは、きっと今夜、また見られる。

 そんな確信にも似た予感が、胸を満たす。

 ねぇ、臣くん。
 今度は、どこの不思議な町屋を訪ねてみようか。
 どんな不機嫌な顔で、貴方はまた、わたしの隣を歩いてくれるのだろう。
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