佐久早聖臣
名前変換
チョコレート・ハザード
二月十四日。世間が浮足立つその日付が、俺の中で特別な意味を帯び始めたのは、ミョウジナマエという存在が俺の日常に不可逆な変化を齎してからだ。それ以前の俺にとって、バレンタインデーなどという行事は、正直なところ、不快指数を高めるだけの厄介な一日でしかなかった。
どこぞの誰とも知れぬ女子生徒が、恐らく社交辞令か何かで差し出してくる、個包装すらされていない剥き出しのチョコレート。受け取る義理もなければ、そもそも俺の衛生観念がそれを許容しない。更に悪質なのは、俺のテリトリーである机の中に、無断で侵入してくる甘ったるい匂いを放つ物体だ。所有物への不法侵入であり、断じて許される行為ではない。毎年、その手の無神経な押し付けに、俺は内心で舌打ちを繰り返していた。俺にとって、それは単なる迷惑行為を超え、一種の精神的攻撃ですらあったのだ。
だが、今は違う。
俺の世界には、明確な"特別"が存在する。
他でもない、ナマエだ。
その"特別な存在"から贈られるものを受け取る資格が、今の俺にはある。その事実は、バレンタインデーという日そのものに、今まで感じたことのない、僅かな期待と温かみを与えていた。柄にもなく、少しだけ、心が浮つくのを感じていたのかもしれない。
だからこそ――目の前の惨状に、俺は言葉を失った。
「……で、これは?」
俺の視線の先、キッチンカウンターに置かれたステンレス製のボウル。その中で、黒く、不気味な光沢を放つ塊が、異様な存在感を主張していた。それは、且てチョコレートであったものの、成れの果て、とでも言うべきか。
「臣くん、見て。わたしの手作りチョコレートだよ」
隣で、ナマエがどこか誇らしげに、そして期待に満ちた瞳で俺を見上げながら言う。エプロン姿は可愛らしいが、その手に持っているゴムベラには、例の黒い物体がべっとりと付着している。
"手作りチョコレート"
その単語の響きと、現実との乖離が激し過ぎる。
確かに、彼女の手によって作られたのだろう。その点は疑いようがない。しかし、これが"チョコレート"と呼べる代物なのかどうかは、極めて疑わしい。どちらかと言えば、それは"起源不明の炭化物質"と表現する方が的確に思えた。
「……ナマエ。お前、本気でこれがチョコレートだと?」
疑念を隠さずに問う。
「うん。ほら、ちゃんとカカオの良い香りがするでしょう?」
ナマエはそう言って、ボウルを俺の鼻先に近づける。
……確かに、微かに、チョコレート特有の甘く香ばしい匂いがする。だが、それ以上に、明らかに何かが燃えたような、鼻を突く焦げ臭さが勝っていた。視覚情報と嗅覚情報が、揃って危険信号を発している。
「どうしてこうなった。経緯を説明しろ」
「湯煎していたら、何故か焦げたんだよ」
「……湯煎で焦がすって、どういう技術だ。まさかとは思うが……」
「お鍋を直火に掛けたら、勝手にこうなった」
ナマエは、さも当然のように、きょとんとした顔で答える。
……矢張りか。俺は額に手を当て、深く溜め息をついた。この女は、時々、俺の想像の斜め上を行く。
「当たり前だろうが。チョコレートは繊細なんだ。直火に掛けるとか、言語道断だ」
「そうなの?」
「……ナマエ、お前、もしかして料理、壊滅的にできないのか?」
「できるよ」
「どのレベルで?」
「お湯を沸かせる」
「それは、"できる"とは言わない」
淡々と言い切るナマエに、俺はもはや反論する気力も失せた。それは料理とは言わない。生存の為の最低限のスキルだ。
「それじゃあ、臣くんが教えてくれる?」
不意に、ナマエが俺の腕を取り、小さく首を傾げる。近い。その無防備な仕草と、潤んだ瞳が、至近距離で俺を捉える。消毒液の匂いよりも、彼女のシャンプーの甘い香りが鼻腔を擽る。マズい。この距離は、俺のなけなしの理性を著しく削ぐ。
「……仕方ない。俺がやる」
気づけば、承諾の言葉が口をついていた。
「わぁ、本当? じゃあ、わたしは臣くんの優秀なアシスタントだね」
ぱあっと顔を輝かせ、嬉しそうに笑うナマエ。
「頼むから、余計なことは絶対に、何一つするなよ」
釘を刺すように言うと、俺は気を取り直して冷蔵庫から新しい板チョコレートを取り出した。まずは、この惨状を生み出した根本原因――ナマエの危険な手つき――を封じなければならない。
「いいか、まず、このチョコレートを細かく刻む。均一に熱が伝わるようにする為だ」
俎板の上にチョコを置き、包丁を手渡そうとして……やめた。
「こう?」
俺が躊躇った隙に、ナマエが自分で包丁を手に取った。ひょろりとした頼りない手つきで、硬いチョコレートに刃を当てようとする。危なっかしい。見ているだけで心臓に悪い。
「待て、ストップ。貸せ、俺がやる」
「臣くんがやってくれるの?」
「お前がやると、チョコより先に、指が刻まれそうだから」
「そんなことないよ」
真顔で否定しているが、説得力は皆無だ。
「今、確実に指が刃に当たり掛けていたが?」
「……そうだったかも」
自信なさげに視線を逸らす辺り、自覚はあるらしい。まったく、手の掛かる。
俺はナマエから包丁を取り上げると、無心でチョコレートを刻み始めた。トントン、と小気味良い音がキッチンに響く。こういう単純作業は、寧ろ得意な方だ。
刻んだチョコレートを新しいボウルに入れ、今度は細心の注意を払いながら湯煎に掛ける。沸騰しない程度のお湯を張った鍋の上に、ボウルを慎重に乗せる。
「いいか、ナマエ。絶対に、ボウルに直接火を当てたり、熱湯を入れたりするなよ」
「どうして?」
「温度が急激に上がり過ぎると、チョコレートの油脂分とカカオ分が分離して、口当たりも見た目も悪くなるからだ。さっきのお前の"作品"は、その典型的な失敗例」
「ふぅん……。臣くんは、お菓子作りが得意なの?」
感心したように隣から覗き込んでくる。
「いや、そういうわけじゃない。……ただ、やるからには、完璧に、ちゃんとやりたいだけだ」
「……かっこいい」
ぽつり、と呟かれた言葉に、チョコを混ぜる手が僅かに止まる。
「……お前、俺が何をやっても、すぐにそう言うだろ」
「だって、本当にそう思うから。臣くんが真剣な顔しているところ、凄くかっこいい」
悪びれもせず、真っ直ぐな瞳で言われると、どうにも調子が狂う。
「……お前は本当に、俺に甘いよな」
呆れたように、しかし、どこか心地よさを感じながら言うと、ナマエは「ふふ」と、悪戯っぽく笑った。湯気の向こうで、その楽しそうな横顔が、妙に、どうしようもなく愛しく見えて――
気づいた時には、俺は身を乗り出し、彼女の唇に軽くキスを落としていた。
「……!」
柔らかな感触。ほんのりと甘い香り。唇が触れた瞬間、ナマエが驚いたように、ぱちくりと大きな瞳を瞬かせた。
「今のは……?」
「……口を塞いだだけだ。煩いから」
照れ隠しに、ぶっきら棒な言葉を投げる。我ながら、可愛くない言い方だとは思うが。
「ふふ、臣くんは甘えん坊だね」
しかし、ナマエは怒るでもなく、寧ろ嬉しそうに目を細めて、俺の意図などお見通しだと言わんばかりに笑う。
「違う。……お前が、可愛すぎるんだ」
本音が、思わず口をついて出た。
途端に、ナマエの白い頬が、湯気の所為だけではない、淡い赤色に染まっていく。その初々しい反応が、更に俺の庇護欲と独占欲を煽る。
もう一度。今度は、さっきのような衝動的なものではなく、もっと意識的に、ゆっくりと顔を近づけ、彼女の唇に自分のそれを重ねた。
「ん……」
今度は、ナマエも驚きはしなかった。ただ、少しだけ戸惑うように、小さな吐息が漏れる。
「……チョコレート、溶けてしまうよ……?」
唇が離れた隙に、辛うじて紡がれた言葉。まだ湯煎のボウルを気にしているらしい。
「……今は、それどころじゃない」
ボウルから手を離し、空いた方の手で、ナマエの細い腰をぐっと引き寄せる。エプロンの布地越しに、確かな温もりと、しなやかな感触が伝わってくる。
「臣くん……」
戸惑いながらも、拒絶の色はないナマエの声。寧ろ、どこか期待するような響きさえ含んでいるように聞こえるのは、俺の願望だろうか。
「お前の手作りチョコ、ちゃんと完成させるから。その代わり、報酬をくれ」
「……何がいい?」
俺は、ナマエの耳元に唇を寄せ、囁くように告げた。
「――お前」
びくり、とナマエの肩が小さく震える。熱い吐息が、俺の首筋に掛かった。
数秒の沈黙の後、彼女は静かに瞳を伏せ、そして、ゆっくりと俺の首に両腕を回した。しっかりと、しかしどこか頼りなげに。
そして、俺の耳元で、囁き返す。
甘く、蕩けるような声で。
「――いいよ、臣くん」
その夜、俺達が二人で完成させた"手作りチョコレート"は、市販のものよりずっと甘く、そして忘れられないほど熱いものになった。キッチンには、まだチョコレートの甘い香りと、湯気の湿った熱気が微かに残っていた。