ある皇帝の叙情詩
若い青年だった。まだ、少年と言ってもいいかもしれない。
年齢もアメジストより少し下くらいで、細身で背もそれほど高くない。
相手の大男と比べれば、体躯的には圧倒的に不利だった。
それでも、彼はまったく怖じ気づいた雰囲気はない。
アメジストに向かって手を差し出し、訳も分からないまま彼女がその手を取ると、ひょいと抱き寄せた。
「ごめんねおじさん、オレの彼女、ちょっと抜けてる所があってさ。赦してあげてよ」
ひょい、と大男に向かって手を差し出し、ニコリと笑う。
含みがあることは、アグネスから「もう、頭良いくせに鈍いんだから」と言われるアメジストでも分かった。
大男はその手を見て、何故か血相を変え、口をパクパクさせたかと思うと、そのまま逃げるように去ってしまった。
「ったく、口ほどにもねえ酔っぱらいめ。日が高いうちから飲み過ぎだっつーの」
青年は肩を竦めて、転んだ拍子にアメジストが落としたインクの紙袋を拾い上げた。
「お嬢さん、大丈夫?ケガはない?」
「えっ、あっ、はい。ありがとうございます」
明らかに年下の青年に「お嬢さん」などと言われて、アメジストは反応に困ってしまう。
一呼吸おいて、やっと落ち着いたのか、「助けていただいて、ありがとうございました」と深々と頭を下げた。
「あの、何か御礼を…」
「えっ、いいよそんなの。ただの通りすがりだし。はい、これ君のでしょ?」
彼はそう言って、紙袋を差し出した。
それを受け取る時、袋にインクが滲んでいることに気づいた。
どうやら、落ちた衝撃でインク瓶にヒビが入ったらしい。
そして、その滲んだインクが、彼の服の袖にしっかり染みこんでしまっている。
「どうしましょう、インクが…」
「インク?あぁ、このくらい気にしないで。洗えば落ちるし」
「じゃあ、せめてお洗濯させて下さい!じゃないと、私の気が済みません!」
アメジストは必死に頭を下げる。彼はそれに、困ったような顔で「それじゃ、お願いしようかな」と呟いた。
もちろん、相手が皇帝だなんてことは知らずに。
「ちょっと来て。俺んち、すぐそこだから」
「あっ、はい!」
人混みの中へ去ろうとする彼を、アメジストはワンテンポ遅れて追いかけた。