彼の地に花が咲かずとも
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そう言えば、姉からお茶を出すように言われたことを、すっかり忘れていた。
結局、伯父があっさり帰ってしまったことから、台所には急須と共に茶菓子が残されている。
ひとりで食べる気分にもなれず、サジタリウスはそれを懐紙で包むと、懐に入れ、そそくさと家を出た。
ワカサ家からほんの数軒先に、チバ家がある。
勝手知ったるシュウサクは、裏口から入って、母屋ではなく道場の方に近づいた。
風通しの為に開かれた入り口から中を覗くと、竹刀が打ち合わされる軽快な音が響いている。
そこでは、防具を着た小柄な剣士が、大人の練習相手に向かって必死に打ち込みを続けていた。
顔など見えなくとも、それがシュウサクとこの道場の主である師範であることは明白だった。
「おや、サジじゃないか」
入り口付近にいた人物が、こちらに気づいて声をかけてきた。
シュウサクの兄で、師範代のサダキチである。
「ご無沙汰してます、サダ兄さん」
「確かに、最近は君がこちらへ来るのも珍しいな。
…少し、待っていな。すぐに、シュウサクの稽古も終わるから」
促されて、サジタリウスは道場へ上がると、サダキチの隣に正座した。
剣には人が出るというが、シュウサクの剣はその温厚な人柄の割に激しい…サジタリウスは、そう分析していた。
もっとも、温厚なようで実は熱いものを内に秘めているのかもしれないが。
「(人の弓を美しいとか言っといて…自分の剣だって、充分美しいじゃないか。
そんな自覚、無いだろうけど)」
迷いや歪みがなく、真っ直ぐ…先日言われたことを、そっくりそのまま言ってやりたい。
そんなことをサジタリウスが思っているうちに、稽古は終わった。
深々と礼をして、2人が揃って面を外す。
「あれ、サジ?どうしたの?」
そこでようやくこちらに気づき、シュウサクが首を傾げる。
「珍しいな、サジがうちまで来るなんて」
「いや、ちょっとあってさ。
チバ先生、ご無沙汰してます」
サジタリウスが丁寧に頭を下げると、2人の息子にそっくりな顔をした師範は、「よく来たね、サジ君」と微笑んだ。
「で、今日はどうしたの?言ってくれれば、僕が出て行ったのに」
「いや、全然大した用じゃないんだ」
そう言って、サジタリウスは懐から懐紙の包みを取り出した。
「訳あって、茶菓子が余っててさ。ひとりで喰うのもなんだから、持って来たんだけど…」
「ありがとう。それじゃ、一緒に食べようか。
ちょうど、お腹が空いてたし」
そこへ師範が、「シュウサク、せっかくだから、茶でも点てたらどうだ?」と口を挟む。
「そうだな。たまには、茶器も使わないとだし…」
「そんな、そこまでしてもらうほどの茶菓子じゃないって!」
サジタリウスは慌てて手を振るが、その手を隣からサダキチが抑えた。
「遠慮するなって。
今日はこれから、俺も父さんも野暮用で出掛けなきゃならなくてな。
良かったら、今日はシュウサクの相手をしてやってくれないか、サジ?」
「…じゃ、お言葉に甘えて」
シュウサクはその言葉を聞くと、「着替えてくるから、客間で待ってて」と笑顔で道場を出て行った。
そう言えば、昔からそれなりに遊びに来ているチバ家の、客間に通されたのなど何度目だろう?
その昔、シュウサクの祖母が健在だった頃、たまにこの部屋でお茶を振る舞ってくれたものだ。
懐かしさを感じつつ、しばらく待っていると、茶器一式を抱えたシュウサクが顔を出した。