第2章―少女ミズラ、伝説の"皇帝の半身"と出会う―


「ところで、姉さんになにか用なら、さっきジャック兄さんのところへ…」

「いや、用があるのは君だから、全然問題ないよ」

「あたしに?」と首を傾げるミズラに、ハリーは持っていた小箱を差し出した。

「これ、引越祝い」

「これを、あたしに…?」

「そう。大した物じゃないけど、お近づきの印にってやつかな」

大したラッピングがされているわけではないが、ミズラはそれを丁寧に開けた。
中身は、白い陶器のマグカップ。

「普通のティーカップよりは、そっちの方が使い勝手いいかなと思って。本当に、大した物じゃないんだけど、良かったら…」

「ありがとう。すごく嬉しいわ。大切にする」

一国の皇帝が、食器店なり雑貨店なりでカップを物色しているところを想像すると、なんだかおかしかった。
それにしても、彼が人混みに紛れることについては、一種の才能ではないかと思う。

ミズラは、そのカップを大事に棚にしまった。

「ところで、洗濯紐なんか張って、なにをしてたんだい?」

「えっと、これを飾ろうかと思って…」

ベッドの上に放り出していた織物を広げる。
その鮮やかな色遣いに、ハリーは「これは凄いね」と目を見張った。

「これが、ノーマッドの伝統織りかい?」

「ええ。あたしが作ったの」

「君が?これを?」

驚くハリーに、ミズラはわざと小さく膨れて「あら、あたしこう見えても機織りは得意なのよ」と、机の上の織機を指さした。
そこには、織り掛けの布がセットされたままになっている。

「凄い。こういうのって、時間がかかるんだろう?」

「そうね。でも、雨とか降ってるとすることもないから、一日中ずっと織機に向かってることもあるし…そうすると、このくらいのものなら丸一日で出来ちゃうことだってあるわ。
でも、大抵は寝る前に少しずつとか、時間をかけてやるものだから…がさばるから、これ以外は村に置いて来たの」

しげしげと小さな織機を眺めて、ハリーは「それじゃ、飾らないともったいないね」と笑った。

その笑顔に、一瞬ミズラの胸が高鳴る。

「僕も手伝うよ。そこの窓枠から、ここまで渡せば良い?」

「あっ、うん…ありがとう」

ドギマギしながらも、ミズラは紐を渡した。
彼はそれを、何の苦もなく結びつける。

ここへ来て、男女の身長差は大きい。

「(そんなに大柄には見えないんだけどなぁ…)」

実際、全体的に大柄なトータスや、スラリと背の高いジェイコブに比べれば、ハリーは若干小柄にさえ見える。
しかも着やせする質なのか、衣服の上から見る分には、とても軍人出身とは思えない。

だからこそ、普通に外を出歩いていても、誰も気づかないのだろうが。

「はい、貸して」

ひょいと手を差し出されて、ミズラは一瞬何のことだかわからなかった。
そして、次の瞬間に気づき、持っていた自信作の織物を渡す。

彼はそれを、張った紐の中央に吊した。

「こんな感じで良いかな?」

「うん…ありがとう」

結局、ミズラはなにもすることがなかった。

よりにもよって、皇帝陛下にこんなことを手伝わせるなんて。
一般兵が聞いたら、怒り出しそうなことである。

「(まぁ、本人が率先して手を貸してくれたんだから、いっか…)」

彼のお人好しっぷりにも、ここ数日で慣れたつもりだったが…皇帝という看板をはずしたところで、ハリーが親切なことは変わらない。
当のハリーは、ミズラが織り込んだ布地の一部を、そっと指でなぞっていた。

夕暮れのステップ。紅い日の差す草原と、その向こうに小さく見える長い壁。

「これは、カンバーランドとの国境…?」

「そう。向こうの人たちが、『南の長城』って呼んでるあれよ。あたしたちは、『北のお城』って言ってるけど」

ミズラの故郷…大草原ステップは、西にマイルズの街、東にサバンナ、南西にはワイリンガ湖がある。
そして、北部で隣接するカンバーランドとの間には、強固な長城が築かれていた。

元々は、カンバーランド側がステップからのモンスターの襲撃を防ぐために、建設したものだ。
特に、七英雄ボクオーンが地上戦艦をもって、大草原を我が物顔で荒らしていた時期は、ステップは一際危険なものであった。

かの内乱の後は、カンバーランドが帝国の領土となり、その国境には帝国兵が配備された。
しかし、先代アガタ帝の時代に、大事件が起こる。

ノーマッド達は、時のネラック城主ウルバンとコンタクトを取り、彼らが痛み止めに使っていた薬草を、城壁の向こう側…カンバーランド領内で預かってもらう約束を取り付けた。

ボクオーンは、その薬草から麻薬を作り出し、各地にばらまいて私腹を肥やしていたのだ。
そして、その麻薬汚染の波は、近隣のマイルズやカンバーランド国内にまで広がっていた。

ウルバン、そしてダグラスで皇帝代行を務める従弟のトーマ2世は、少しでも麻薬汚染拡大を防ぐために、ノーマッド達の申し出を受け入れたのである。

そして、村に残された薬草は、ノーマッド騎馬兵と、迎えに出たカンバーランド在駐の帝国兵、そしてホーリーオーダーたちに守られて、極秘裏にカンバーランド南城門を超えようとした。
ところが、どこからか最後の薬草の行方を聞きつけたボクオーンは、モンスターを差し向け、それらを強奪しようとしたのである。

城門周辺は戦場となり、迫り来るモンスターの大群を相手に一同は立ち向かい、なんとか薬草を城壁の向こうへ押し込むことはできたものの、多大な犠牲者が出た。
その数50名余り。ノーマッドの騎馬兵とその馬たち、護衛の帝国兵、そして引き受けに現れたホーリーオーダーたち。
一晩のうちに、城壁を紅い血で染めたその事件は、すぐさま帝都アバロンにも伝えられた。

そして、カンバーランド出身の皇帝アガタは、とうとう自らステップへ乗り込み、ボクオーン討伐を宣言したのである。

「父がよく言っていたわ。夕日に染まるステップは美しいけれど、あの壁が紅くなるところは、もう見たくいないって。
今でも、こちら側の壁には、あの戦いの跡が残っているの。飛び散った血がすべて雨で流されても、穿たれた爪痕や剣戟の跡は、決して消えることはない。
だから、平和でいられることは、とてもありがたいことなんだって…」

ミズラの父・アルタンは、薬草の輸送に携わって、無事に生き残ったうちの一人である。
かつてあのステップ大草原で起こったことを、ミズラは幼い頃から何度も聞かされていた。

織り込まれたその城壁を、指先でなぞっていたハリーは、小さく「そうだね」と呟いた。

この時、ミズラは気づいていなかった。
その平和を保つために尽くすのは、まさに目の前の彼だということに。

しばし続いた沈黙の意味が分からず、ミズラは「ハリー?」とその袖をつかむ。
彼は、「あぁ、ごめん」とこちらを向き直った。

「ミズラ、この後なにかすることはある?」

「えっ?特にないけど…もう片づけも終わっちゃったし、少し宿舎の中を歩いてみようかなとか思ってたところ」

「それじゃあ、ちょっと付き合ってもらえないかな。これから、知り合いのところへ行くんだけど、持って行く花を選んでほしいんだ」

「構わないけど…あたしで良いの?」

ミズラの感覚では、花などそこら辺に咲いている物を、適当につみ取ってくるものである。
そんな自分に、花屋で花を選ぶようなセンスがあるとは思えなかったが、あの笑顔で「ダメ、かな?」などと言われて、断れるわけがない。

「あっ、あたしで良ければ…」

「ありがとう。それじゃあ、宿舎の玄関口で待ってるから、支度が出来たら来て」

「うん、わかった…」

彼を見送ったところで、ミズラはしばらく呆然としていた。

そして、ハッと気づく。

「(えっ、ハリーと出かける?!えっと、何着て行けば…靴はあれしか持ってないし、他はえっと、その…)」

慌てて、しまったばかりの服を漁る。
心のどこかで、そんなに焦る必要などないことは分かっていたが、今のミズラはそれどころではなかった。

「姉さんから、小洒落た服の一着でも借りておけば良かったわ…」

それでも、手持ちの中では一番気に入っている服に着替え、姉が置いていった鏡をにらみ、髪を結び直す。

本人は気づいていなかったが、ミズラが人生で初めて、精一杯のおしゃれをした瞬間であった。


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