第1章―少女ミズラ、海を超えて運命の場所へ―
靴屋を出ると、すでに約束の夕暮れに近づいていた。
早く宿に戻らないと、姉が心配するかもしれない。
「あの、本当にありがとうございました。せめて、お名前を…」
「いいよいいよ、名乗るほどのものじゃないし。それに、君のお姉さんにはお世話になってるからね」
え?と首を傾げるミズラに、彼は笑って「ベスマの妹、だろう?」と言う。
「よく似ているから、すぐわかったよ。それにその服と靴は、ノーマッドの装束だろう?」
「姉のこと、ご存じだったんですか…」
ということは、少なくとも宮廷に出入りのある人間に違いない。体つきからしても、帝国兵なのか。
しかし一般兵では、直属部隊の人間と親しくするような機会が、そうそうあるとは思えない。
「それじゃ、僕はこれで。気をつけてね」
思考を巡らせているうちに、そう言われてしまった。
しどろもどろになりそうな言葉を飲み込み、ミズラは素直に「ええ、それじゃ…」としか言えなかった。
夕暮れの街の中を、彼はスタスタと行ってしまう。
服装も平凡で、特に大柄なわけでもない彼は、人混みの中にスッと紛れ込んでしまった。
「(まあいっか、姉さんに聞いてみればわかるかもしれないし…)」
そう思ったところで、ふと気が付く。
そう言えば、自分はなんでそこまで彼に執着しているのだ。
もちろん、助けてもらったお礼をしなければという思いはあるのだが、それとは違うなんとも言えない感情が、ミズラの胸の内で渦巻いていた。
彼が触れていたというだけで、愛用のサンダルまで愛おしく思える。
「あたし、どうしちゃったんだろう…」
独り言をつぶやいたところで、動悸は収まらない。
それは、走りすぎて息が切れた時とも、馬を飛ばしてスリルを楽しむ時のドキドキとも違う。
冷静に考えようとすると、あの吸い込まれるような笑顔が脳裏をよぎった。
町中で一人ぶつぶつと悩む彼女を、通りがかりの人間が不思議な目で見ていたが、本人はまるで気づいていない。
その思考が止まったのは、本人には数時間に感じられた、ほんの数十秒後。
遮った物は、アバロンの街全土に響く鐘の音だった。
意識が戻ってきた時には、すでに街の彼方に日が沈もうとしている。
「いけない、約束がっ!!」
ミズラは真新しい靴で、いきなり全力疾走する羽目となった。