誰かの話

今思えば、あの懐かしい匂いは近所の行きつけの食堂の筑前煮の匂いだったのだ。

大嫌いなんて、言わなきゃ良かった。
進化して強くなった力に自惚れて、ジジイを怪我させてしまった。そんなところにいるから悪いんだ!と言ってしまえば技の1つもろくに使えないガキが何言っとる!とお互いに売り言葉に買い言葉。最終的にヒートアップした口から飛び出たのは大嫌い!だ。
いつもなら適当に話を聞いてくれるシガーも、今日に限ってどこかへ出かけている。引くに引けなくなったまま、気まずさに耐えかねて家出をしてしまった。
「なにさなにさ!くゆりは悪くないもん!」
そう強がりを自分に言い聞かせて人が滅多に来ない林の奥に木の葉を集めて簡単なベッドを拵える。気温も低くない。雨の季節でもない。きのみはこれから熟れていく。野生のポケモンなんかにそうそう負けない。うん、案外1人で生きていけるかも!
……なんて能天気な考えは10日と保たなかった。1人なのだ。誰とも話さないことがこんなに辛いことだとは。でもくゆりが寂しいって事はジジイも寂しいはず。ジジイが謝るならあの家に帰ってあげてもいいけど。うん、そうしよう。
イリュージョンを使えば人間に姿なんて見えっこない。ゾロアークなんてポケモンはこのキタカミにはいないから、きっとバレっこない。そっと家に戻ると誰もいない。この時間ならば畑の方か、とそちらに回っても誰もいない。それならば夜まで待てば帰ってくるだろう。しかし待てど暮らせど誰も帰ってこない。
やけに静かな夕闇に紛れて、遠くの方から祭囃子が聞こえてくる。そういえば今夜からはお祭りだったか。一緒に行こうって言ってたのに。焼きそばに綿菓子、りんご飴。いっぱいたべるんだ!って言ってたのに。
自分の身勝手が起こした事とはいえ、小さな後悔が勝手に涙を流そうとする。泣いちゃダメ、鼻を啜り俯きそうになる頭を無理矢理起こして涙を堪える。すぐ帰ってくるもん。今日は町内会の集まりか何かで遅いだけだもん!
鍵のかかっていない玄関を開けて上り框に腰をかけ、そうしていると知らぬ間に眠っていたようで顔を照らす朝日に煩わしさを覚えながら体を起こした。
ジジイは帰ってきていない。帰ってきたのならば、玄関なんぞで寝るな、と蹴飛ばしてきただろう。そんな事はない、そんなバカな事、と何度も何度も言い聞かせながら家の中の部屋を見て回る。よく見れば、台所には食事の用意がしてあって、食卓には2人分の食器が伏せてある。だけどコンロの上の鍋の中の味噌汁は変な匂いがするし、炊飯器の中の米は乾き切ってしまっている。
いつからいないんだろう。食べ物が痛みやすくなってきたとはいえ、昨日や一昨日に用意したものでは無さそうだ。背中を伝う冷たい汗を感じる。
「じ、ジジイはちゃんと片付けも出来ないんだから……。くゆりがやってあげないと……。」
どうして、この10日の間に何が?シガーは?どうして帰ってこないの?くゆりが大きくなってしまったから?ああ、そうだ。こんな姿にならなければ。子どものままならきっと帰ってきてくれる。こんなのは悪い夢なんだ。
片付けを終えて玄関にもう一度戻る。そこに置かれた全身鏡に写っているのはどうみても小さい時の自分。
ぐぅ、と鳴る自分の腹に気がつくと、途端に空腹を感じとる。祭囃子が呼んでいる。もしかしたら、ジジイは先にお祭りに行ってるだけかも!
なんて自分を騙してキタカミの社へと足を進めた。
誰も彼もが面をつけて楽しむ祭り。あいつらは余所者か。皆が面をつけて楽しむ祭りで顔を晒している。隣のやつに化ければ何か買ってもらえるかも。兎にも角にも腹が減った。そっと距離を詰め、人混みを利用してその"隣のやつ"に化ける。ふわりと香るそれは、なんだか。……。
「アンタ、何してんの!?」
少年の刺すような声から離れるように咄嗟に暗闇に姿を隠す。その前にせめてそのお菓子はもらってしまおう。
駆け寄ってきた黒い服のそれはコイツの仲間か。辺りに警戒を振り撒いている様から、自分と同じポケモンの姿になれるやつだ、と直感が囁く。勝てなくはない。だけども他にも仲間がいたらボロボロに負ける事はわかっている。
奪い取った菓子を抱えてそのまま、人気のない木々の中へ逃げこんだ。少しだけ息を整えると、ぼんやりと感じ取った懐かしい匂いが頭から離れない。ジジイの匂いだ!……帰ってこないジジイがアイツといるのなら行かない理由がない。キタカミから離れていいのか、という疑問は浮かばなかった。そうと決めたら迷う理由なんてないから。何が正確で不正確なのかはもう分からない。矛盾した思考は全ての事実をぐちゃぐちゃにしていく。手に入れた菓子はとりあえず食卓に置いて、その後にアイツの後を追うことにしよう。どうせこの辺の宿なんて数はない。さらにいえば駅や空港に行くためのバスは公民館の前のバス停からしか出ないのだ。そこにいれば、確実に見つけることができる。そうと決まれば一度帰って準備をしなければ。何を持って行こうか。まずは少しだけ残ってるお小遣い、それとお菓子と水と、いざという時に売るためのあの変わった石でできたボール。そういえばこのボールはなんだろうか。ジジイが大事にしとけば助けてくれるって言ってたけど、今この状況で全く役に立ってないじゃないか。ぷんすこと頬を膨らませながら襟の中へ荷物を仕舞ったのだった。
3/3ページ