彼氏の使命 彼女の特権
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「も・・・もうダメ!動けない!」
午前中の練習が始まってすぐ、比奈はヨロヨロとベンチに腰掛けた。
「先輩・・・サボらないでくださいよ」
傍で靴紐を結び直しながら呆れたように日吉が呟く。
「サボりじゃなくて休憩だもん」
「練習開始してまだ何もしてないじゃないですか」
「朝ご飯食べ過ぎちゃってさぁ」
お腹苦しくて困った~と開き直って笑えば、日吉は深々と溜め息を吐いた。
「・・・昨日死にかけた人とはとても思えませんね」
「無傷だったしねー。私も段々とリアルな夢に思えてきたよ」
「俺の体張った努力を夢にせんといてくれ・・・」
不意に後ろから聞こえた呟きに比奈は笑って肩を竦めた。
「夢の中でも侑士かっこよかったよ」
「夢オチ決定なん?ホンマ、お姫さんには敵わんなぁ」
ヘラッと笑みを零す忍足の様子に、日吉は(そのうち尻に敷かれるな)と予想し、さっさとコートへ入って行った。
「ほら、侑士も早く練習始めないと!昨日は結局練習しないまま終わっちゃったから今日はその分頑張らないとね」
「せやな。けど体力作りにはなったと思うで?寒中水泳の後に比奈を背負って長距離歩いたんやし」
ニッと悪戯っぽく笑うと忍足は比奈の隣に腰掛けた。
「それに、ちょっと聞いときたい事があるんや」
「聞きたい事?なに?」
怪訝そうに比奈が首を傾げると、忍足は視線を合わせたまま静かに言った。
「本当は昨日聞きたかったんやけど、比奈も俺も疲れとったしなぁ」
「だから、何の事?」
「―――何で崖から落ちかけとったかや」
忍足の言葉に比奈は咄嗟に口を閉ざした。
「跡部達が理由を知りたがっとる。もちろん俺もや。・・・ウチの大事なマネージャーに何があったかをな」
先程までとは打って変わったような真剣な表情だった。
比奈は一瞬視線をさ迷わせ、やがて観念したように口を開いた。
「・・・が・・たの」
「何やて?」
「む・・・虫が・・いたの・・・」
気まずげに呟く比奈。
目を丸くして固まる忍足。
暫くその場に不思議な沈黙が訪れた。
「・・・・・・・・まさかとは思うんやけど、虫に驚いて足を滑らせた、なんてオチやないやろな?」
「・・・ご名答です」
ボソッと肯定する比奈に忍足は一瞬クラッと目眩を感じた。
「あんなぁ・・・比奈が虫苦手なんわ知っとるけど、ここは山やで?虫がおることくらい分かっとるやろ」
「で、でも!すっごい大きかったんだから!小型犬くらいはあった!!」
「っんな虫が日本におるわけないやろ!」
「いたもん!」
「おらん!」
「絶対いた!」
「絶対おらん!」
両者とも譲らず、暫く延々と言い合いは続いた。
先に折れた、と言うより、大人になったのはやはり忍足の方で、頑として意見を曲げない比奈に渋々引き下がる。
「・・・わかった。取りあえず虫に驚いたんやな」
「『大きな』虫にね!・・・私が枝に引っ掛かった後もガサガサ動き回ってたみたいでさ、いつ降りて来るかと思うと気が気でなかったよ」
「せやけど俺らが行った時には何もおらんかったで」
「暫くしたら静かになったしどっか行ったんじゃない?亮ちゃんが来てくれた時の足音もまた虫が来たのかと思って一瞬焦ったよ」
亮ちゃんで良かった~と笑う比奈をジッと見つめ、やがて忍足は気が抜けたように笑みを漏らした。
「まぁ、足を滑らせただけならえぇんやけどな」
「そうそう!侑士達のお陰で私も無事だったしね」
「せやな・・・」
漸く忍足がいつもの穏やかさを取り戻し、比奈は無意識に安堵した。
「ほな、崖から落ちた理由は跡部達にも話しとくな」
「ちゃんと『大きな』虫に驚いたって言っといてね!」
「はいはい・・・」
『大きな』を強調する比奈に忍足は苦笑を漏らす。
そして静かに比奈の手を握ると、両手で包み込むように弄んだ。
「・・・なぁ、比奈」
「なに?」
口元に笑みを浮かべ、レンズ越しに自分を見つめる忍足の瞳を比奈も見返す。
いつもの穏やかな眼を微かに細め、忍足は表情を崩さぬまま言った。
「―――何で崖の近くまで行ったんか、まだ聞いとらんで?」
「・・・・っ!?」
咄嗟に忍足に握られている手がビクッと震えた。
「崖から落ちた理由はよぉ分かった。・・・せやけど、何でボールを取りに行った比奈が倉庫からあんな離れた所におったんや?」
視線を逸らさないまま忍足の手が比奈を引き寄せる。
それで漸く比奈は自分が忍足から離れようとしていた事に気付いた。
逃がさないかのように比奈を抱き寄せると、忍足は宥めるようにその背を撫でながら耳元で囁いた。
「頼むから俺にまで隠さんでくれ・・・」
「ゆ・・・し・・」
悲しげな忍足の声に比奈の声も小さく震える。
「比奈・・・自分、誰を庇っとるん?」
「あっつ・・・」
乾と軽くウォーミングアップを兼ねて打ち合った後、越前は顔を洗おうと水道へと向かっていた
帽子を団扇代わりにパタパタと扇ぎながら歩いていると、不意に小さな話声が耳に届く。
誰かいるのかと辺りを見渡すと、ちょうど水道の傍の木の下に人影が映っていた。
特に気にせず水道へと向かうと、段々と鮮明に聞こえる声が意外な人物である事に気付く。
(瑞穂先輩?女テニと一緒にコートにいたはずじゃ・・・)
怪訝そうに顔を顰め、越前は音をたてないよう静かに近づいた。
何かを言い争うような声にそっと覗き込むと、越前は思わず目を見開いた。
(竜崎・・・!?)
越前に背を向けて立つ瑞穂と向かい合っている長いおさげの少女。
それは紛れも無く越前の知る同級生だった。
「少し脅かすだけだって言ったじゃないですか!一ノ瀬さん・・・死ぬかもしれなかったんですよ!?」
「私にも計算外だったのよ。まさか比奈ちゃんが泳げないなんて思いもしなかったわ」
「・・・・っ!?じゃあ・・・最初から一ノ瀬さんを崖から落とすつもりで?」
驚愕の表情を浮かべる桜乃を見て瑞穂が嘲笑したのがわかった。
「そうじゃなかったらわざわざあそこに呼び出してもらわないわよ」
「そんな・・・!私、一ノ瀬さんに本当の事を話します!」
「あら、いいの?貴女も立派な共犯者よ。比奈ちゃんを呼び出したのは貴女なんだから」
「でも・・・やっぱりこんなのしていいことじゃ」
「―――彼がこの事を知ったら、貴女をどう思うかしら?」
言い募ろうとした桜乃の言葉が瑞穂の一言で断ち切られる。
泣きそうに顔を歪める桜乃に、満足そうに瑞穂は笑った。
「大丈夫、貴女が黙っていれば誰にも知られないわ。例え貴女が呼び出したと知られても、比奈ちゃんは不注意で落ちたのよ」
クスクスと笑うと、瑞穂は桜乃の肩をポンッと叩き、そのままその場を後にする。
残された桜乃は徐々に俯くと、崩れるようにその場に膝をつき静かに泣き出した。
黙って観ていた越前は来た時と同様に音をたてないようその場を離れて歩き出す。
先程まで熱くてしょうがなかった体が今では冷え切っていた。
(比奈先輩が崖から落ちたのは瑞穂先輩と竜崎が仕組んだから、か・・・)
思いもしなかった現実に越前の頭は珍しく混乱した。
なぜ瑞穂がそんな事をするのか。
なぜ桜乃が瑞穂に協力したのか。
そして、なぜ比奈は桜乃に呼び出された事を一言も言わなかったのか。
様々な疑問が越前の中で渦巻いていった。
「庇ってるって・・・何?私別に誰のことも庇ってなんか」
漸く比奈が声を発すると、忍足はそれを遮るように話し出した。
「比奈が俺にまで話さんのは、話すと立場が悪うなる奴がおるからやないんか?」
ニッと表面的に笑みを浮かべると、忍足は抱き寄せていた比奈をそっと放す。
「そして今、氷帝以外の奴で比奈が庇おうと考えそうなんわ・・・あの女テニの一年くらいやなぁ」
比奈の表情から気持ちを読み零さないよう目を合わせ、忍足は一言一言注意深く発する。
一瞬で強張る比奈の顔と態度で自分の考えが肯定されたのを忍足は察した。
「・・・ホンマ、比奈はお人好しやなぁ」
呆れると同時に忍足は不思議と納得もした。
比奈の事だから少なからずその一年生に好感を抱いていたのだろう。
一度信じた相手はとことん信用する比奈である。
例え違和感を感じたとしても心のどこかで相手を信じたかったのではないだろうか。
忍足がそう結論を出そうとした時、比奈が小さく呟いた。
「―――違う・・・」
「ん?」
「違う・・・竜崎さんの為じゃない。私が・・・騙されたって思いたくないだけ。傷つきたくなかっただけだから・・・」
「比奈?」
俯いてポツリポツリと話す比奈に、忍足は静かに聴き入った。
「侑士や・・・皆にも知られたくなかった。私の昔を・・・虐められてた事を話した後だったから・・・」
段々と震え始める声に忍足の目が悲痛そうに細まる。
「まだ知り合って間もない竜崎さんにまで裏切られるなんて・・・本当は私に問題があるんじゃないかって・・・皆に思われるのが怖くて・・・」
「そんなん・・・誰も思ったりせん」
「分かってる。でも・・・怖いの。皆なら私の事を信じてくれるって思ってるけど・・・だからこそ皆がいなくなるのが怖いっ・・・皆に信じてもらえなくなるなるのが怖いの!」
かつて―――青学でそうなった時のように・・・
段々と悲鳴のように声を荒げる比奈をきつく抱き寄せ、忍足は比奈が落ち着くまでずっとその背を摩り続けた。
暫くすると激しく上下していた肩が徐々に静かになっていく。
それで比奈が落ち着いたと判断すると、忍足はそっと体を離し、比奈の顔を覗き込んだ。
微かに目元が赤くなっており、頬には涙の痕がある。
比奈が安心するよう小さく笑みを浮かべると、忍足は指先で濡れた目元を拭ってやった。
「比奈はここに来てから泣き虫になったなぁ」
「・・・涙腺壊れたのかも」
「普段泣かんから調度えぇんちゃう?」
クスクスとからかうように笑うと、忍足はコツンと比奈の額に自分の額を押し当てた。
「・・・なぁ、比奈」
「ん?」
「傷ついたら俺の所に来ればえぇやん」
「・・・へ?」
いつもの不敵な笑みを至近距離で見つつ、比奈は唐突な言葉に抜けた声を上げた。
「俺なら泣こうが怒ろうが全部受け止めたるでぇ。そらもう力尽きるまでとことん付き合うたるわ」
せやから・・・と言いつつ忍足は立ち上がり、軽く比奈の頭を撫でた。
「・・・独りで溜め込まんといてな」
辛くなったら自分が傍に居る事を思い出してほしい。
そんな願いを込めて呟くと名残惜しげに比奈の髪を撫で下ろし、忍足は集合し始めている部員の元へと駆けて行った。
残された比奈は走る忍足の背中を見送りながら、切なげに目を細める。
誰にも悟られないよう奥にしまい込んだ事も忍足が相手だと簡単に見つけられてしまう。
無意識に忍足には甘えてしまっているのだろうか。
「前はちゃんと隠せたのに・・・」
いつの間にか忍足の言葉が浸透したようだった。
『守られるのは彼女の特権』
いつも自分を気遣ってくれる。
立ち止まったら手を差し延べてくれる。
何があっても信じてくれる。
そんな忍足がなくてはならない存在に変わっていったのはいつの事だろう。
「・・・私、守られても・・・いいのかな?」
既に諦めた筈の願いが再び胸に宿るのを比奈は静かに感じた。
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