【短編】ファーストデート・イン・アグラバー
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その日もアグラバーの街はいつも通り賑やかで、空はどこまでも青々と広がっていた。快晴のこの日、たった一人ガチガチに緊張している男がいた。
「あーっ、やっぱ無理!!帰る!わしは帰ってカレーを食べます!」
三流マジシャンのシャバーンは、頭を抱えたまま家路の方向に歩きだそうとしている。すかさず、召使いのアシームがしがみつく。
「シャバーン様!勇気出さないと永遠にこのままですよ」
「良いよ別に。毎日広場で見られるだけで幸せだもん」
主人の呑気な回答に、アシームがずっこける。しかしそこにナイスなタイミングで、ベキートが辛口コメントを差し入れた。
「はーん。あんな可愛い子を、いつまでも男が放っておくとは思えないけどな」
「…………何だと?」
「そのままの意味さ。あんたが頑張らないと、あの子は永遠に手に入らないってこと」
シャバーンの顔色が青白く染まる。わかりきっているはずなのだが、いざ第三者からそう言われると辛いらしい。アシームはショックを受けている主人に寄り添いながら、喋るコブラに苦笑いした。
「ベキート、ちょっと言いすぎかな…………」
「ま、頑張っても手に入らねぇかもしれないけどな!ギャハハハ!!」
いつもなら、ここでシャバーンのげんこつか踏みつけが炸裂する。しかし、今日の彼は違った。
「あれ、シャバーン様?どこに行くんですか?」
「行ってくる。わしもこの年だ。傷つく辛さも知ってるが、何より最早失うものも無いだろう…………」
そう言い残すと、シャバーンは花束片手に歩きだしていった。目指すのは広場の一角である。
広場に近づくにつれて、軽快なダンスミュージックがシャバーンの耳に届き始めた。その中心に居るのは、視界に入るだけでも胸が苦しくなる麗しの踊り子、ラティーファだった。
あぁ…………今日も綺麗だ。
彼は瞳を輝かせながら、ラティーファの一挙一動を見守った。初めて観た時から変わらぬエネルギッシュで気品あふれる彼女のダンスは、他の人には踊ることができないような独自の色を持っていた。そして、その色に惹きつけられる人はシャバーンだけではなかった。彼女は今日も多くのファンの声援を受けながら、心の底から楽しそうな表情で踊っている。もちろん、シャバーンも最初はエンターテイナーとして嫉妬することもあった。だが、今では外野の様子すら視界に入ってこないくらいに、彼は文字通りラティーファに夢中だった。
不意に、二人の視線が合う。慌てて目を逸らそうとしたシャバーンだったが、それより前にラティーファが微笑みを向けた。彼は息が詰まりそうになりながらも、必死に笑顔を返した。けれどもふとあたりを見回すと、自分のように何だかソワソワする男どもが大勢視界に入る。よく考えたら自分の勘違いかもしれないと思ったシャバーンは、急に悲しくなってきてしまった。
ダンスが終わると、彼は花束を隠していそいそとその場を後にしようとした。だが人々が散り散りになった直後、その背中に透き通った声が掛けられた。
「シャバーン様!今日も観に来てくれたのね。本当にありがとう」
心の底から嬉しそうに笑っているラティーファが眩しすぎて、シャバーンは思わず目を逸らした。それは、決して自分の感情の後ろめたさが理由ではない。ただ単に、50になっても好きな人の笑顔を直視できないだけである。彼は間の抜けた声を上げると、いつもの饒舌を置き去りにして辿々しく話し始めた。
「…………あー。えーと……ああ、そうだ。まあ、一応同業者として興味はあるさ」
おっと、これはミスチョイスだ。
シャバーンは緊張のあまり意味不明な言葉を並べ立てる自分に、心のなかで悪態をついた。けれどラティーファはいつも通り肯定的に受け取ってくれた。毎度シャバーンの失言は、彼女の前向きすぎる思考によって何とか繕われているのだ。
「まあ、嬉しい!」
ふと、ラティーファはシャバーンの手に花束が握られていることに気づいた。しかもそれは、彼女が子供の時初めて会った日に見せてくれたマジックの花と同じものだった。無邪気な踊り子は瞳を輝かせながら、緊張で硬直しているマジシャンを覗き込んだ。ふわりと、ラティーファの甘やかで清楚な香りがシャバーンの鼻腔を擽る。もちろん彼の頭の中は、ささやかな幸福と引き換えに真っ白になったが。
「ねえ、その花束…………誰に渡すつもりなの?」
ラティーファの声には、微かに不安が陰っている。どうやら別の女性に渡すものだと勘違いしているらしい。流石にそこまで疎くないシャバーンは、慌てて花束を前に差し出した。失敗よりも誤解の方が怖かったようだ。
「えっ!?あっ、いやこれはお前に…………だな。その…………ええと……ああもう!これはお前に渡す花束なんだよ!」
シャバーンは言葉に詰まりながらも、震える手でラティーファに花を押し付けた。
何やってんだわしは。こんなに可愛い子なら、男からの花束なんて貰い慣れてる。どうせ決まり切ったリアクションしか返ってこないだろ。期待するな、シャバーン。
そんなことを考えながら、マジシャンは返事を待った。だが次の瞬間、予想外の反応が不意打ちのように彼を襲った。
「本当…………?私に……?シャバーン様が、私に?」
顔を上げると、そこには悶死必至の愛らしい反応をしているラティーファが立っていた。何故か頬は夕焼けに照らされているわけでもないのに真っ赤だ。当惑しながらも、シャバーンは小刻みに首を縦に振った。
「えっと……ああ、そうだ」
「嬉しい……!ありがとう」
ラティーファは大切なものを抱きしめるかのように花束を抱えると、花びらに頬ずりして微笑んだ。そんな様子を眺めながら、本来自信過剰なシャバーンは不意にこんなことを考えた。
ひょっとして、こいつもわしのこと好きなんじゃないのか?えっ、こんな若くて可愛くて綺麗な子に、わしがモテちゃっていいの?えっ若者たち、なんかごめんね。
あまりにも尊大かつ傲慢な独り言を脳内で巡らせているシャバーンを置いて、ラティーファは何かを真剣に考えていた。そして、唐突にこんなことを尋ねてきた。
「ねえ、何かお礼させて。何でもするわ」
「へっ……!!?」
何でも、と聞いてシャバーンは目を白黒させた。頭の中は、書き起こすのも憚られるほどに良からぬ妄想で埋め尽くされていく。そして一頻り妄想にケリを付けてから我に返った彼は、自信満々の顔でこう言った。
「じゃあ、1日だけわしに時間をくれないか?」
帰宅したラティーファは、豪奢なドレスに身を包みながらうわの空で夕食を食べていた。その様子は誰が見てもおかしかったようで、普段は比較的無口な父のハイサム国務大臣でさえも怪訝そうな顔で声をかける始末だ。
「ラティーファ、どうしたのだ」
「えっ?あっ、ええと……」
「その喋り方。とても全貴族令嬢の手本となる国務大臣息女には思えませんよ、ラティーファ」
戸惑う娘に、母のアルターフが言葉遣いを咎めた。慌てて、ラティーファは口調をお嬢様モードに切り替えた。
「いえ、お気遣いなく。私少々考え事をしていたようです」
「考え事、か。真面目に珍しく何を考えているのだ?」
「それは……」
「きっと結婚のことですよ、ハイサム様」
母の言葉に、ラティーファは戦慄した。ところが違う、と否定する前にハイサムが嬉しそうな声を上げる。
「そういうことか、アルターフ。確かに、そろそろ考えるべき頃だな。お前ももう20歳か……」
ラティーファは筆舌に尽くしがたい不快感を感じながら、豪華すぎる夕食からサラダと鶏むね肉だけを選びながら無理矢理に口の中へ放り込んだ。既に両親は娘の食事作法などどうでも良いらしく、すっかり結婚の話で盛り上がっている。ラティーファはため息を漏らさないように口角を上げると、優雅にお辞儀をしてディナーから少々早く退席する許可を乞うた。それから足早に自室へ戻ると、扉を閉めてようやく息を吐き出した。
「ふぅ。結婚なんて私は……」
絶対に嫌。だって二度とダンスが踊れなくなっちゃうもの。
ラティーファは苛立つ感情を抑えながら、ベッドに倒れ込んだ。不意に、視界の中へシャバーンから貰ったイヤリングが飛び込んでくる。彼女はため息をつくと、ついこんな言葉を零した。
「……あの人なら、どんな旦那様になるのかしら」
あの人、と口に出しながらラティーファはシャバーンのことを思い出している。刹那、とんでもないことを考えていることに気づいたラティーファは、慌ててベッドから飛び起きた。
「やだ、私ったら何考えてるの?あの人は30歳も年上なのよ。私なんて、娘みたいにしか思ってないんだから……良くて友達よ」
自分にそう言い聞かせながら、ラティーファはクローゼットの前まで歩みを進めた。中には、あまりに豪奢すぎる服がずらりと並んでいる。その中で目を引いたのは、母親に地味すぎると咎められた薄紫色の衣服だった。ラティーファは戸惑いながらもその服に手を伸ばし、大きな鏡の前で衣装を合わせてみた。
「うん。いつもらしさもありながら、ちょっと特別って感じ。あと、ちょっと大人な感じ」
腰回りが露出するほんのちょっと大人っぽい服は、まさに今のラティーファが求めているものだった。彼女はこれを着て、明日はダンスを休んでとある予定のために街へ繰り出す。しかし残念ながら、その予定を表す的確な言葉を知らないのだが。
「ダーッ!ダッ!だッ!ダーッ!!」
その頃、シャバーンは辛うじて雨風が凌げるレベルのボロ屋でのたうち回っていた。その様子を引き気味に眺めていたアシームが、恐る恐る声を掛ける。
「何やってるんですか、シャバーン様」
「見てわかんねぇのか?哀れな老いぼれマジシャンは、分不相応な恋が儚く砕け散って嘆いてるんだよ」
ベキートの辛辣な発言に、時間が一瞬止まる。争いごとが苦手な少年アシームは、またしても拳骨が飛んでくることを恐れて肩を竦めた。しかし、何故か今日は罵声も何も主人から飛んでくる気配はない。流石にバツが悪くなったベキートは、尻尾で額を掻きながら俯いた。
「……こりゃ図星だったかな」
「……そういうこと、なのかな」
アシームは少しだけ、意地悪主人のことを気の毒に思いながら隣に腰掛けた。
「シャバーン様、悲しいのは分かるんですが家が壊れちゃいますよ。ほら、元気だしてくださ――――」
次の瞬間、アシームは言葉を失った。うつ伏せからひっくり返した主人が、恐ろしいほどにニヤけていたからだ。
「げっ……!ベキート、シャバーン様がとうとう失恋でおかしくなっちゃった!!」
「あちゃー、こりゃ当分このままだな」
眉を潜めて哀れみの眼差しを向ける二人を気にも留めず、シャバーンは継ぎ接ぎだらけのクッションを抱きしめながら変な声を上げている。
「うきゅきゅ……うきゅっ……♡」
「……大丈夫ですか、シャバーン様。明日のマジックと仕事はお休みしますか?」
仕事、というのはシャバーンが副業(正確にはマジックの何百倍も家計を支えているので本業)で働いているカレー店のホールスタッフのことだ。アシームの予想通り、シャバーンは大きく何度も頷いている。
「わかりました。明日はゆっくり……」
ゆっくり休んでくださいと言おうとしたアシームだったが、言い終わる前にシャバーンが言葉を被せてきた。
「ああ、明日はデートだからな!」
「そうですね、デートですね……って、えっ!?」
アシームは聞き流そうとした発言に対し、自分の耳を疑った。あまりにも自分の耳が信じられないらしく、彼は強張る表情のままベキートを見た。しかし、喋るコブラも同じ反応だ。
「ええと、シャバーン様。明日は何ですって?」
「デートだっ!!」
シャバーンは立ち上がると、その場でくるくる回り始めた。そして開いた口が塞がらない二人を置いて、満面の笑みでこう付け足した。
「明日はわしとラティーファが、デートする日なんだ!」
翌朝、いつもの広場には上機嫌なシャバーンが立っていた。朝起きるのが苦手な彼だが、今日は家の誰よりも早く起床し、自慢の髭と眉毛をしっかりと整えてきた。来る途中、彼は頭の中でデートプランを必死に復唱していた。幸いにも、誘うずっと前……即ち恋心を自覚してからすぐの時点で勝手にデートプランは練っていたので、前日の夜に頭を抱えることは避けられたようだ。
あとはラティーファを待つだけ。
「あれ?待ち合わせは1時間後なはずだけど……」
そんなことを考えていると、背後から突然声をかけられた。驚きで飛び上がったシャバーンは、勢い余って背後の噴水にダイブするところだった。寸でのところで声の主に腕を引っ張り戻され、彼はデート前にずぶ濡れにならず済んだ。
「わっ!急に声を掛けるな!びっくりするだろ」
「ごめんなさい、怪我はない?あとちょっとで噴水に飛び込むところだったわよ」
声の主は、なんとラティーファだった。彼女はいつもと少し違う、上品かつ大胆な格好をしている。薄紫色の服から覗く胸元と美しいへそ周りのせいで、シャバーンは目のやり場に少しだけ困ってしまう。しかも普段はズボン姿なのに、今日は可憐さ溢れるロングスカートだ。更に耳には彼がプレゼントしたイヤリングが揺れているではないか。トドメは、ハーフアップで下ろした艷やかな黒髪だ。ふわりと風が吹く度に、少しだけウェーブがかかった髪が揺れて香水の匂いが漂う。片方の髪を掻き上げて悩ましい首筋を見せながら、ラティーファは頬を赤らめて尋ねた。
「……変かしら」
「えっ!?あっ、いや!いつもと違って良いね。うん、すごく……良いと……思う」
シャバーンは心のなかで特大級の悪態をついた。どうしていつも気の利いた言葉の一つも言えないのだろう。同時に、彼女の前では50年という年月で培った大人の余裕などは跡形もなく消え失せてしまい、少年のようになってしまう自分を嘆いた。
けれどラティーファは言葉足らずすぎる褒め言葉にすら、いつものように嬉しそうに笑ってくれた。そんな彼女の純真さが、またしてもシャバーンの心をくすぐる。
「ありがとう……!ねえ、今日はどうするの?」
その質問で、シャバーンは想定外の1時間をどう過ごすかという現実的な課題に向き合う羽目になった。そしてそれはラティーファも同じだった。実は二人とも、今日という日が楽しみすぎるあまりに1時間も早く待ち合わせ場所に来てしまったのだ。
もちろんそんなことなど知る由もないシャバーンは、必死に頭を回転させた。そして泣く泣く、早速相手に判断を委ねるという禁じ手に逃げた。
「そうだな……えーと……何か、したいことあるか?」
シャバーンも覚悟していることだが、アグラバーに住む普通の女性なら間違いなく呆れているだろう。しかし、彼の天使ラティーファは違った。彼女は瞳を輝かせながら考えると、笑顔で返事をしてくれた。
「じゃあ、市場を見たい!」
助かった、と思いながらシャバーンは心の中で胸をなでおろした。こうして前途多難な二人の初デートが始まったのである。
市場は早朝というのに、沢山の人で溢れかえっていた。その人混みの様相は、歩き慣れているシャバーンですら戸惑うほどの量だ。彼はちらりと、隣のラティーファを見た。彼女はどうやら人混みに慣れていないらしく、必死に隣を着いてきている。勇気を出して、彼は所在無い華奢な手を掴もうとした。だがその前に誰かが背中を押し、シャバーンの手は空を切った。そんな奮闘も知らず、ラティーファは不慣れながらも楽しそうに市場を見回している。
「すごい人の量ね。どうして人が多いの?」
「朝は特売する店や、朝食食べる人が多いからね……」
浮いた話の一つもない会話である。シャバーンは押してきた顔も知らない相手を恨みながら、笑顔を作ってラティーファの質問に答えた。しかし、見るもの全てが珍しい彼女の質問は終わらない。
「ねえ、あれは何?」
「あれはスパイスだな。カルダモンに、シナモン、クローブ、ナツメグ……」
「すごーい!ねえ、何に使うものなの?」
シャバーンはその質問に、今度は自分で転ける羽目になった。彼は信じられないと言いたげな顔を、デートの相手に向けた。
「お前、スパイスを何に使うか知らんのか?」
「ええと……」
ドキリ。ラティーファは冷や汗をかいた。どうやら彼女は、アグラバーの庶民にとっては一般常識レベルの質問をしてしまったようだ。幸いにも、シャバーンはデートですっかり舞い上がっているので直ぐに気を取り直して答えてくれた。
「料理に使うんだ。そうだな、主にカレーにだが」
「へぇ……」
感心するラティーファを置いて、シャバーンは得意げに続けた。
「――――食べるか?カレー」
もちろん、返事は決まっている。ラティーファは笑顔で頷いた。
「ええ、ぜひ!」
カレー店……と言ってもいつも働いている例の店にやって来たシャバーンは、まるで初めて来るかのような素振りで足を踏み入れた。だが、常連客と厨房のアシーム、そして店長は、この特徴的な男を見逃さなかった。最初に反応したのは店長だ。
「んー?シャバーンのやつ、仕事休んで何やってんだ?」
「ええと……」
アシームが口ごもっていると、近くに座っていた常連の一人がこう言った。
「へぇ!あいつにあんな年の娘がいたのか。随分可愛いなぁ」
「娘にしちゃあ、全然似てなくないか?」
「そんじゃあ、女ってことになるけどよ……」
店長と客は、顔を見合わせて肩を竦めた。まさか、と言いたいのだろう。もちろん真相を知っているアシームは、独り苦笑いをしている。そんな彼に、予想通り二人は興味津々な表情で質問を繰り出してきた。
「……で、どっちなんだ?」
「女か、娘か。それかもっと怪しい関係か」
「えっ!?そっ、それは……」
口ごもるアシームを他所に、シャバーンが近づいてきた。彼は三人のことなど気にも留めず、にこやかな笑みでこう言った。
「端っこの二人席って空いてるか?」
端っこといえば、仲睦まじい男女が座る席だ。店長と常連客はとうとう我慢できず、身を乗り出してシャバーンを掴んだ。その間に、アシームが別のスタッフを呼んでラティーファを先に案内させた。
「おいおいおいおいおい、シャバーンさんよぉ」
「一体ありゃどういう関係なんだい?なけなしの給料でデートのお願いでもしたのかな?」
暗に、金で時間を買ったと言われたことに気づいたシャバーンは憤慨した。だが、今日の彼はそんな悪口さえ吹き飛ばせるだけの余裕がある。二人を嘲笑しながら、三流マジシャンは髭を撫でつけて厭味ったらしく言った。
「ふん、お前らの浅はかでトンチキな発想には驚かされるわい。あの子はな……わしが自分でデートに誘って連れてきたんだ」
店長と常連客は、再び顔を見合わせた。今度は信じられないと言いたげな顔だ。
「えっと……つまり……」
「そう!今日わしは、あの可愛い女の子とのデートで忙しいんだ。悪いがそういうことなんで、さっさとメニュー表を持って来い」
シャバーンは勝ち誇ったような笑みを浮かべると、ラティーファが座っている席へと歩き出した。だがふと大事なことを思い出したらしく、再び店長へと向き直った。彼は突然小声になると、しおらしく店長に頼み込んだ。
「ところで店長。明日倍働くから、今日も賄いつけてくれる?」
「はぁ?まあ、構わんが……いつ食べるんだ?今日の夕飯か?」
その問いに、シャバーンは慌てて首を横に振った。どうやら違うらしい。彼はラティーファに聞こえないように、一層声のトーンを下げて耳打ちした。
「ちがーうよ。今、この昼食を賄いで処理してって言ってんの」
「はぁ?そいつはどういう……」
「だけど、わしは2人分出すフリをする。それで、あの子が店を出てから1人分の金返してちょうだい」
「おい、それは――――」
「んじゃ、頼んだ。わしの恋路はあんたに掛かってるんだぞ」
戸惑う店長を置いて、シャバーンは続けた。しかし、今度は先程の間の抜けた声とは違ってドスが効いている。
「…………もし変なマネしたら、お前の店の脱税とスパイスの横流しに関わってる証拠を持って王宮に行くからな」
店長の顔が青ざめる。シャバーンの脅しが、決して虚仮威しでは無いことを知っているからだ。この男、一見飄々間抜けな三流マジシャンなのだが、その本性は狡猾且つ大層な惨忍さで満ち溢れているのだ。おそらく、この男がやるというなら本気なのだろう。そう思った店長は留飲しながら、表情を強張らせて頷くしかなかった。最高の作戦の成功を確信したシャバーンは、満足げに頷くと子鹿のように震える店長の肩を叩いて笑った。
「じゃ、よろしくな。店長さん」
「あ、ああ……わかったよ、シャバーン」
シャバーンが席へ向かったあと、真冬並みに震えている店長を見たアシームは恐る恐る尋ねた。
「あの……僕の主人が何か……しました?」
「あいつはとんでもない奴だ。あの根性なら、マジックは三流でも国務大臣の娘とだって結婚しちまうだろうよ」
アシームは苦笑いを浮かべながら、消え入りそうな声で謝罪を呟いた。もちろんここにいる誰もが――――発言した店長自身も含め、その例え話が現実のものになるなど今は知る由もないのだった。
カレーを食べ終えたシャバーンは、計画通り先にラティーファを退店させて見事会計をごまかすことに成功した。姑息すぎるマネーロンダリングに、店長もアシームも呆れて言葉が出ない。もちろんシャバーンは、そんな反応を気にしていない。彼は店先で待っているラティーファに声を掛けると、次のプランを提案した。
「さて、次なんだが……ちょっと海の方まで散歩しないか?」
ラティーファは海の方、と聞いて離宮のあるアラビアンコーストの方角だと理解した。ここから少し距離があるので、彼女の脳裏に門限が過る。しかし今日は少しだけ遅くなってもいいように、両親にはジャスミン王女のお使いで遠出をすると伝えてあった。
ラティーファはシャバーンの目をまっすぐに見つめながら、はにかんだ笑みで答えた。
「ええ、いいわよ」
道中の店を見て回ったり、立ち止まって甘い飲み物を堪能しているうちに、アラビアの海岸には夕日が射していた。ラティーファとシャバーンの会話も、いつの間にか沈黙の時間が無くなっていた。
「それで、わしは言ってやったんだ。スプーンを曲げたり戻したりするやつは、二流、三流のすることだ。このシャバーンは一流です。超一流!ってな」
「あははははっ!じゃあ何をしたの?」
シャバーンは懐からスプーンを取り出すと、徐ろに柄を伸ばした。スプーンが出てくることも驚きだが、柄が伸びる突拍子もない展開にラティーファは言葉を失った。
「どうだーっ!すごいだろ」
単に柄の仕掛けを伸ばしているだけなのだが、ラティーファはとても嬉しそうだ。何故か拙いマジックを披露している側も嬉しそうだが。
「すごーい!えっ、これどうやって伸ばしてるの?」
「それは内緒」
「えー、教えてよ。ねっ、秘密にするから」
素直にお願いしてくる様子でいい気になったシャバーンは、意地悪な笑みを向けた。
「だーめ。わしのアシスタントになってくれたら教えてあげても良いよ」
それは少しだけ、いや大いに本気を込めた条件だった。しかし意外にも、ラティーファは首を横に振った。
「じゃあ、いい」
「えっ、わしのアシスタントは嫌?」
「ううん、違うわ。でも、もうあなたには素敵なアシスタントのアシーム君がいるじゃない」
ああ。なんていい子なんだ、ラティーファは。
心のなかで感嘆しながら、シャバーンはため息を漏らした。同時に、この提案では上手くいかないということに気付かされ密かに頭を抱えた。
そんなやり取りをしているうちに、波の音が心地よく耳を擽る距離にまでやって来た。シャバーンはなけなしの勇気を出すと、徐ろにラティーファの手を取った。驚く彼女を直視出来ず、マジシャンはそっぽを向いたままこう言った。
「……砂は、足を取られると転けるから。ダンスするのに怪我したらダメだろ」
「ありがとう……」
ラティーファは初めて触れる父以外の男の手に、ほんの少しだけ怯えた。だがそれ以上に、イメージとは違って繊細なシャバーンの手に胸が高鳴った。更に息まで苦しくなってしまい、彼女は自分の身体に何が起きているのかを理解できず戸惑った。そして無意識に、その手をそっと握り返した。
振りほどかれることを覚悟していたシャバーンは、確かに伝わる温もりに目を丸くした。恐る恐る隣を向くと、俯きながら耳まで顔を真っ赤にしているラティーファが居るではないか。
これは、流石に勘違いしても良いよな。いや、勘違いじゃないよな。
シャバーンは心臓の音が相手に聞こえてしまわないか不安になりながらも、一歩ずつゆっくりと砂浜を進んだ。ラティーファも無言で足元に視線を落としたまま歩みを進めている。
やがて、夕日が西の海に溶けて紫色の夜の帳が降りた。二人は波打ち際までやって来ると、波音を聞きながら暫く足元を見つめていた。その間、エスコートするために握られた手はそのままだ。
どれくらい時間が経っただろう。シャバーンが震える声で、愛する人の名前を呼んだ。
「ラティーファ、顔を上げてごらん」
「えっ?あっ、ええ」
殆ど名前を呼んでくれたことのないシャバーンに、名前を呼ばれたことにラティーファは驚いた。そして慌てて顔を上げた。するとそこには……
「――――――――わぁ……!」
紫色の夜の帳は星々を呼び出し、二人の目の前には暁と夜の境目で輝き始める夜空が広がっていた。ラティーファはこの時間にこの場所で初めて見る景色に、一瞬で心奪われた。
「わぁ……すごい!シャバーン様、すごいわ!」
「だろ?アラビアンコーストは少々外れにあるが、その分景色も良い」
シャバーンはそう口にしながらも、視線は既に空ではなくラティーファの方に注がれている。そんな熱い眼差しに気づくこと無く、彼女は無心に星空を眺めている。その様子は、まるで生涯に一度しか見ることが出来ない貴重な景色を目に焼き付けているかのようだった。どこか切なくそれでいて必死な様子を見て、シャバーンは反射的に呟いた。
「……また来よう。良ければ、二人で」
その言葉を聞いて、ラティーファがようやく横を向いた。彼女は大きく頷くと、精一杯絞り出したような声で応えてくれた。
「ええ、絶対。約束ね」
二人は束の間視線を交わした。シャバーンはラティーファの瞳の中に自分と同じ気持ちを感じ取ったが、その想いがまだ淡く不確かなものである事に気づいてしまった。彼はこのまま抱き寄せてキスをしたい気持ちを抑え、帰り道が暗くなる前にラティーファの手を引いた。
「さ、帰ろう。遅くなるといけないからな」
こうして二人の初めてのデートが終わった。
この後二人は別の日に偶然再会し、シャバーンは互いの身分の違いを知ってしまうのだがそれは別のお話。それより、話は2年後のアラビアンコーストに飛ぶ。
あの日と同じ砂浜に、一組の夫婦の姿が見える。一人は赤い上着に黄色いターバンを巻いており、もう一人は紫色のワンピースを着ている。二人は肩を寄せ合いながら、星空の下で指を絡めた。
「……約束、ちゃんと覚えてたのね」
「ああ、もちろん。なんて言ったって、わしは超一流マジシャンだからな」
二人――――夫婦になったシャバーンとラティーファは、あの日のようにはにかんだ笑みを浮かべながら見つめ合った。暫く互いを眺めていると、徐ろにシャバーンが切り出した。
「あのさ、ラティーファ。その……あの……ええと……」
「なぁに?どうしたの?」
「その……あのとき本当は……」
「本当は?」
不思議そうに顔を覗き込んでくる美しい妻の顔に耐えられず、シャバーンは唐突に唇を重ねた。驚きと喜びで、ラティーファの頬が赤く染まる。
「本当は、キスしたかった……です」
「あらま。それは気づかなかったわ」
顔を真赤にしながらこくりと頷く夫が可愛らしかったのか、ラティーファはふわりと微笑んだ。それから彼の頬を両手で包み込み、鼻先を相手の鼻に近づけてこう言った。
「……じゃあ、今からでもいいならどうぞ」
「では、遠慮なく」
シャバーンが無邪気に笑う。軽口を叩きながら、彼は愛する妻の瞳を見つめた。その奥には、あの日確かに感じた淡い恋心が、今ではしっかりと揺らめいていた。同時に、彼は新しい感情がその目に宿っていることに気づいた。
その気持を、人は愛と呼ぶのだろうな。
そんなことを思いながら、彼はラティーファに優しくキスをした。打ち寄せる波の音と共に、これまでの二人の歩みを噛み締めながら。
END
「あーっ、やっぱ無理!!帰る!わしは帰ってカレーを食べます!」
三流マジシャンのシャバーンは、頭を抱えたまま家路の方向に歩きだそうとしている。すかさず、召使いのアシームがしがみつく。
「シャバーン様!勇気出さないと永遠にこのままですよ」
「良いよ別に。毎日広場で見られるだけで幸せだもん」
主人の呑気な回答に、アシームがずっこける。しかしそこにナイスなタイミングで、ベキートが辛口コメントを差し入れた。
「はーん。あんな可愛い子を、いつまでも男が放っておくとは思えないけどな」
「…………何だと?」
「そのままの意味さ。あんたが頑張らないと、あの子は永遠に手に入らないってこと」
シャバーンの顔色が青白く染まる。わかりきっているはずなのだが、いざ第三者からそう言われると辛いらしい。アシームはショックを受けている主人に寄り添いながら、喋るコブラに苦笑いした。
「ベキート、ちょっと言いすぎかな…………」
「ま、頑張っても手に入らねぇかもしれないけどな!ギャハハハ!!」
いつもなら、ここでシャバーンのげんこつか踏みつけが炸裂する。しかし、今日の彼は違った。
「あれ、シャバーン様?どこに行くんですか?」
「行ってくる。わしもこの年だ。傷つく辛さも知ってるが、何より最早失うものも無いだろう…………」
そう言い残すと、シャバーンは花束片手に歩きだしていった。目指すのは広場の一角である。
広場に近づくにつれて、軽快なダンスミュージックがシャバーンの耳に届き始めた。その中心に居るのは、視界に入るだけでも胸が苦しくなる麗しの踊り子、ラティーファだった。
あぁ…………今日も綺麗だ。
彼は瞳を輝かせながら、ラティーファの一挙一動を見守った。初めて観た時から変わらぬエネルギッシュで気品あふれる彼女のダンスは、他の人には踊ることができないような独自の色を持っていた。そして、その色に惹きつけられる人はシャバーンだけではなかった。彼女は今日も多くのファンの声援を受けながら、心の底から楽しそうな表情で踊っている。もちろん、シャバーンも最初はエンターテイナーとして嫉妬することもあった。だが、今では外野の様子すら視界に入ってこないくらいに、彼は文字通りラティーファに夢中だった。
不意に、二人の視線が合う。慌てて目を逸らそうとしたシャバーンだったが、それより前にラティーファが微笑みを向けた。彼は息が詰まりそうになりながらも、必死に笑顔を返した。けれどもふとあたりを見回すと、自分のように何だかソワソワする男どもが大勢視界に入る。よく考えたら自分の勘違いかもしれないと思ったシャバーンは、急に悲しくなってきてしまった。
ダンスが終わると、彼は花束を隠していそいそとその場を後にしようとした。だが人々が散り散りになった直後、その背中に透き通った声が掛けられた。
「シャバーン様!今日も観に来てくれたのね。本当にありがとう」
心の底から嬉しそうに笑っているラティーファが眩しすぎて、シャバーンは思わず目を逸らした。それは、決して自分の感情の後ろめたさが理由ではない。ただ単に、50になっても好きな人の笑顔を直視できないだけである。彼は間の抜けた声を上げると、いつもの饒舌を置き去りにして辿々しく話し始めた。
「…………あー。えーと……ああ、そうだ。まあ、一応同業者として興味はあるさ」
おっと、これはミスチョイスだ。
シャバーンは緊張のあまり意味不明な言葉を並べ立てる自分に、心のなかで悪態をついた。けれどラティーファはいつも通り肯定的に受け取ってくれた。毎度シャバーンの失言は、彼女の前向きすぎる思考によって何とか繕われているのだ。
「まあ、嬉しい!」
ふと、ラティーファはシャバーンの手に花束が握られていることに気づいた。しかもそれは、彼女が子供の時初めて会った日に見せてくれたマジックの花と同じものだった。無邪気な踊り子は瞳を輝かせながら、緊張で硬直しているマジシャンを覗き込んだ。ふわりと、ラティーファの甘やかで清楚な香りがシャバーンの鼻腔を擽る。もちろん彼の頭の中は、ささやかな幸福と引き換えに真っ白になったが。
「ねえ、その花束…………誰に渡すつもりなの?」
ラティーファの声には、微かに不安が陰っている。どうやら別の女性に渡すものだと勘違いしているらしい。流石にそこまで疎くないシャバーンは、慌てて花束を前に差し出した。失敗よりも誤解の方が怖かったようだ。
「えっ!?あっ、いやこれはお前に…………だな。その…………ええと……ああもう!これはお前に渡す花束なんだよ!」
シャバーンは言葉に詰まりながらも、震える手でラティーファに花を押し付けた。
何やってんだわしは。こんなに可愛い子なら、男からの花束なんて貰い慣れてる。どうせ決まり切ったリアクションしか返ってこないだろ。期待するな、シャバーン。
そんなことを考えながら、マジシャンは返事を待った。だが次の瞬間、予想外の反応が不意打ちのように彼を襲った。
「本当…………?私に……?シャバーン様が、私に?」
顔を上げると、そこには悶死必至の愛らしい反応をしているラティーファが立っていた。何故か頬は夕焼けに照らされているわけでもないのに真っ赤だ。当惑しながらも、シャバーンは小刻みに首を縦に振った。
「えっと……ああ、そうだ」
「嬉しい……!ありがとう」
ラティーファは大切なものを抱きしめるかのように花束を抱えると、花びらに頬ずりして微笑んだ。そんな様子を眺めながら、本来自信過剰なシャバーンは不意にこんなことを考えた。
ひょっとして、こいつもわしのこと好きなんじゃないのか?えっ、こんな若くて可愛くて綺麗な子に、わしがモテちゃっていいの?えっ若者たち、なんかごめんね。
あまりにも尊大かつ傲慢な独り言を脳内で巡らせているシャバーンを置いて、ラティーファは何かを真剣に考えていた。そして、唐突にこんなことを尋ねてきた。
「ねえ、何かお礼させて。何でもするわ」
「へっ……!!?」
何でも、と聞いてシャバーンは目を白黒させた。頭の中は、書き起こすのも憚られるほどに良からぬ妄想で埋め尽くされていく。そして一頻り妄想にケリを付けてから我に返った彼は、自信満々の顔でこう言った。
「じゃあ、1日だけわしに時間をくれないか?」
帰宅したラティーファは、豪奢なドレスに身を包みながらうわの空で夕食を食べていた。その様子は誰が見てもおかしかったようで、普段は比較的無口な父のハイサム国務大臣でさえも怪訝そうな顔で声をかける始末だ。
「ラティーファ、どうしたのだ」
「えっ?あっ、ええと……」
「その喋り方。とても全貴族令嬢の手本となる国務大臣息女には思えませんよ、ラティーファ」
戸惑う娘に、母のアルターフが言葉遣いを咎めた。慌てて、ラティーファは口調をお嬢様モードに切り替えた。
「いえ、お気遣いなく。私少々考え事をしていたようです」
「考え事、か。真面目に珍しく何を考えているのだ?」
「それは……」
「きっと結婚のことですよ、ハイサム様」
母の言葉に、ラティーファは戦慄した。ところが違う、と否定する前にハイサムが嬉しそうな声を上げる。
「そういうことか、アルターフ。確かに、そろそろ考えるべき頃だな。お前ももう20歳か……」
ラティーファは筆舌に尽くしがたい不快感を感じながら、豪華すぎる夕食からサラダと鶏むね肉だけを選びながら無理矢理に口の中へ放り込んだ。既に両親は娘の食事作法などどうでも良いらしく、すっかり結婚の話で盛り上がっている。ラティーファはため息を漏らさないように口角を上げると、優雅にお辞儀をしてディナーから少々早く退席する許可を乞うた。それから足早に自室へ戻ると、扉を閉めてようやく息を吐き出した。
「ふぅ。結婚なんて私は……」
絶対に嫌。だって二度とダンスが踊れなくなっちゃうもの。
ラティーファは苛立つ感情を抑えながら、ベッドに倒れ込んだ。不意に、視界の中へシャバーンから貰ったイヤリングが飛び込んでくる。彼女はため息をつくと、ついこんな言葉を零した。
「……あの人なら、どんな旦那様になるのかしら」
あの人、と口に出しながらラティーファはシャバーンのことを思い出している。刹那、とんでもないことを考えていることに気づいたラティーファは、慌ててベッドから飛び起きた。
「やだ、私ったら何考えてるの?あの人は30歳も年上なのよ。私なんて、娘みたいにしか思ってないんだから……良くて友達よ」
自分にそう言い聞かせながら、ラティーファはクローゼットの前まで歩みを進めた。中には、あまりに豪奢すぎる服がずらりと並んでいる。その中で目を引いたのは、母親に地味すぎると咎められた薄紫色の衣服だった。ラティーファは戸惑いながらもその服に手を伸ばし、大きな鏡の前で衣装を合わせてみた。
「うん。いつもらしさもありながら、ちょっと特別って感じ。あと、ちょっと大人な感じ」
腰回りが露出するほんのちょっと大人っぽい服は、まさに今のラティーファが求めているものだった。彼女はこれを着て、明日はダンスを休んでとある予定のために街へ繰り出す。しかし残念ながら、その予定を表す的確な言葉を知らないのだが。
「ダーッ!ダッ!だッ!ダーッ!!」
その頃、シャバーンは辛うじて雨風が凌げるレベルのボロ屋でのたうち回っていた。その様子を引き気味に眺めていたアシームが、恐る恐る声を掛ける。
「何やってるんですか、シャバーン様」
「見てわかんねぇのか?哀れな老いぼれマジシャンは、分不相応な恋が儚く砕け散って嘆いてるんだよ」
ベキートの辛辣な発言に、時間が一瞬止まる。争いごとが苦手な少年アシームは、またしても拳骨が飛んでくることを恐れて肩を竦めた。しかし、何故か今日は罵声も何も主人から飛んでくる気配はない。流石にバツが悪くなったベキートは、尻尾で額を掻きながら俯いた。
「……こりゃ図星だったかな」
「……そういうこと、なのかな」
アシームは少しだけ、意地悪主人のことを気の毒に思いながら隣に腰掛けた。
「シャバーン様、悲しいのは分かるんですが家が壊れちゃいますよ。ほら、元気だしてくださ――――」
次の瞬間、アシームは言葉を失った。うつ伏せからひっくり返した主人が、恐ろしいほどにニヤけていたからだ。
「げっ……!ベキート、シャバーン様がとうとう失恋でおかしくなっちゃった!!」
「あちゃー、こりゃ当分このままだな」
眉を潜めて哀れみの眼差しを向ける二人を気にも留めず、シャバーンは継ぎ接ぎだらけのクッションを抱きしめながら変な声を上げている。
「うきゅきゅ……うきゅっ……♡」
「……大丈夫ですか、シャバーン様。明日のマジックと仕事はお休みしますか?」
仕事、というのはシャバーンが副業(正確にはマジックの何百倍も家計を支えているので本業)で働いているカレー店のホールスタッフのことだ。アシームの予想通り、シャバーンは大きく何度も頷いている。
「わかりました。明日はゆっくり……」
ゆっくり休んでくださいと言おうとしたアシームだったが、言い終わる前にシャバーンが言葉を被せてきた。
「ああ、明日はデートだからな!」
「そうですね、デートですね……って、えっ!?」
アシームは聞き流そうとした発言に対し、自分の耳を疑った。あまりにも自分の耳が信じられないらしく、彼は強張る表情のままベキートを見た。しかし、喋るコブラも同じ反応だ。
「ええと、シャバーン様。明日は何ですって?」
「デートだっ!!」
シャバーンは立ち上がると、その場でくるくる回り始めた。そして開いた口が塞がらない二人を置いて、満面の笑みでこう付け足した。
「明日はわしとラティーファが、デートする日なんだ!」
翌朝、いつもの広場には上機嫌なシャバーンが立っていた。朝起きるのが苦手な彼だが、今日は家の誰よりも早く起床し、自慢の髭と眉毛をしっかりと整えてきた。来る途中、彼は頭の中でデートプランを必死に復唱していた。幸いにも、誘うずっと前……即ち恋心を自覚してからすぐの時点で勝手にデートプランは練っていたので、前日の夜に頭を抱えることは避けられたようだ。
あとはラティーファを待つだけ。
「あれ?待ち合わせは1時間後なはずだけど……」
そんなことを考えていると、背後から突然声をかけられた。驚きで飛び上がったシャバーンは、勢い余って背後の噴水にダイブするところだった。寸でのところで声の主に腕を引っ張り戻され、彼はデート前にずぶ濡れにならず済んだ。
「わっ!急に声を掛けるな!びっくりするだろ」
「ごめんなさい、怪我はない?あとちょっとで噴水に飛び込むところだったわよ」
声の主は、なんとラティーファだった。彼女はいつもと少し違う、上品かつ大胆な格好をしている。薄紫色の服から覗く胸元と美しいへそ周りのせいで、シャバーンは目のやり場に少しだけ困ってしまう。しかも普段はズボン姿なのに、今日は可憐さ溢れるロングスカートだ。更に耳には彼がプレゼントしたイヤリングが揺れているではないか。トドメは、ハーフアップで下ろした艷やかな黒髪だ。ふわりと風が吹く度に、少しだけウェーブがかかった髪が揺れて香水の匂いが漂う。片方の髪を掻き上げて悩ましい首筋を見せながら、ラティーファは頬を赤らめて尋ねた。
「……変かしら」
「えっ!?あっ、いや!いつもと違って良いね。うん、すごく……良いと……思う」
シャバーンは心のなかで特大級の悪態をついた。どうしていつも気の利いた言葉の一つも言えないのだろう。同時に、彼女の前では50年という年月で培った大人の余裕などは跡形もなく消え失せてしまい、少年のようになってしまう自分を嘆いた。
けれどラティーファは言葉足らずすぎる褒め言葉にすら、いつものように嬉しそうに笑ってくれた。そんな彼女の純真さが、またしてもシャバーンの心をくすぐる。
「ありがとう……!ねえ、今日はどうするの?」
その質問で、シャバーンは想定外の1時間をどう過ごすかという現実的な課題に向き合う羽目になった。そしてそれはラティーファも同じだった。実は二人とも、今日という日が楽しみすぎるあまりに1時間も早く待ち合わせ場所に来てしまったのだ。
もちろんそんなことなど知る由もないシャバーンは、必死に頭を回転させた。そして泣く泣く、早速相手に判断を委ねるという禁じ手に逃げた。
「そうだな……えーと……何か、したいことあるか?」
シャバーンも覚悟していることだが、アグラバーに住む普通の女性なら間違いなく呆れているだろう。しかし、彼の天使ラティーファは違った。彼女は瞳を輝かせながら考えると、笑顔で返事をしてくれた。
「じゃあ、市場を見たい!」
助かった、と思いながらシャバーンは心の中で胸をなでおろした。こうして前途多難な二人の初デートが始まったのである。
市場は早朝というのに、沢山の人で溢れかえっていた。その人混みの様相は、歩き慣れているシャバーンですら戸惑うほどの量だ。彼はちらりと、隣のラティーファを見た。彼女はどうやら人混みに慣れていないらしく、必死に隣を着いてきている。勇気を出して、彼は所在無い華奢な手を掴もうとした。だがその前に誰かが背中を押し、シャバーンの手は空を切った。そんな奮闘も知らず、ラティーファは不慣れながらも楽しそうに市場を見回している。
「すごい人の量ね。どうして人が多いの?」
「朝は特売する店や、朝食食べる人が多いからね……」
浮いた話の一つもない会話である。シャバーンは押してきた顔も知らない相手を恨みながら、笑顔を作ってラティーファの質問に答えた。しかし、見るもの全てが珍しい彼女の質問は終わらない。
「ねえ、あれは何?」
「あれはスパイスだな。カルダモンに、シナモン、クローブ、ナツメグ……」
「すごーい!ねえ、何に使うものなの?」
シャバーンはその質問に、今度は自分で転ける羽目になった。彼は信じられないと言いたげな顔を、デートの相手に向けた。
「お前、スパイスを何に使うか知らんのか?」
「ええと……」
ドキリ。ラティーファは冷や汗をかいた。どうやら彼女は、アグラバーの庶民にとっては一般常識レベルの質問をしてしまったようだ。幸いにも、シャバーンはデートですっかり舞い上がっているので直ぐに気を取り直して答えてくれた。
「料理に使うんだ。そうだな、主にカレーにだが」
「へぇ……」
感心するラティーファを置いて、シャバーンは得意げに続けた。
「――――食べるか?カレー」
もちろん、返事は決まっている。ラティーファは笑顔で頷いた。
「ええ、ぜひ!」
カレー店……と言ってもいつも働いている例の店にやって来たシャバーンは、まるで初めて来るかのような素振りで足を踏み入れた。だが、常連客と厨房のアシーム、そして店長は、この特徴的な男を見逃さなかった。最初に反応したのは店長だ。
「んー?シャバーンのやつ、仕事休んで何やってんだ?」
「ええと……」
アシームが口ごもっていると、近くに座っていた常連の一人がこう言った。
「へぇ!あいつにあんな年の娘がいたのか。随分可愛いなぁ」
「娘にしちゃあ、全然似てなくないか?」
「そんじゃあ、女ってことになるけどよ……」
店長と客は、顔を見合わせて肩を竦めた。まさか、と言いたいのだろう。もちろん真相を知っているアシームは、独り苦笑いをしている。そんな彼に、予想通り二人は興味津々な表情で質問を繰り出してきた。
「……で、どっちなんだ?」
「女か、娘か。それかもっと怪しい関係か」
「えっ!?そっ、それは……」
口ごもるアシームを他所に、シャバーンが近づいてきた。彼は三人のことなど気にも留めず、にこやかな笑みでこう言った。
「端っこの二人席って空いてるか?」
端っこといえば、仲睦まじい男女が座る席だ。店長と常連客はとうとう我慢できず、身を乗り出してシャバーンを掴んだ。その間に、アシームが別のスタッフを呼んでラティーファを先に案内させた。
「おいおいおいおいおい、シャバーンさんよぉ」
「一体ありゃどういう関係なんだい?なけなしの給料でデートのお願いでもしたのかな?」
暗に、金で時間を買ったと言われたことに気づいたシャバーンは憤慨した。だが、今日の彼はそんな悪口さえ吹き飛ばせるだけの余裕がある。二人を嘲笑しながら、三流マジシャンは髭を撫でつけて厭味ったらしく言った。
「ふん、お前らの浅はかでトンチキな発想には驚かされるわい。あの子はな……わしが自分でデートに誘って連れてきたんだ」
店長と常連客は、再び顔を見合わせた。今度は信じられないと言いたげな顔だ。
「えっと……つまり……」
「そう!今日わしは、あの可愛い女の子とのデートで忙しいんだ。悪いがそういうことなんで、さっさとメニュー表を持って来い」
シャバーンは勝ち誇ったような笑みを浮かべると、ラティーファが座っている席へと歩き出した。だがふと大事なことを思い出したらしく、再び店長へと向き直った。彼は突然小声になると、しおらしく店長に頼み込んだ。
「ところで店長。明日倍働くから、今日も賄いつけてくれる?」
「はぁ?まあ、構わんが……いつ食べるんだ?今日の夕飯か?」
その問いに、シャバーンは慌てて首を横に振った。どうやら違うらしい。彼はラティーファに聞こえないように、一層声のトーンを下げて耳打ちした。
「ちがーうよ。今、この昼食を賄いで処理してって言ってんの」
「はぁ?そいつはどういう……」
「だけど、わしは2人分出すフリをする。それで、あの子が店を出てから1人分の金返してちょうだい」
「おい、それは――――」
「んじゃ、頼んだ。わしの恋路はあんたに掛かってるんだぞ」
戸惑う店長を置いて、シャバーンは続けた。しかし、今度は先程の間の抜けた声とは違ってドスが効いている。
「…………もし変なマネしたら、お前の店の脱税とスパイスの横流しに関わってる証拠を持って王宮に行くからな」
店長の顔が青ざめる。シャバーンの脅しが、決して虚仮威しでは無いことを知っているからだ。この男、一見飄々間抜けな三流マジシャンなのだが、その本性は狡猾且つ大層な惨忍さで満ち溢れているのだ。おそらく、この男がやるというなら本気なのだろう。そう思った店長は留飲しながら、表情を強張らせて頷くしかなかった。最高の作戦の成功を確信したシャバーンは、満足げに頷くと子鹿のように震える店長の肩を叩いて笑った。
「じゃ、よろしくな。店長さん」
「あ、ああ……わかったよ、シャバーン」
シャバーンが席へ向かったあと、真冬並みに震えている店長を見たアシームは恐る恐る尋ねた。
「あの……僕の主人が何か……しました?」
「あいつはとんでもない奴だ。あの根性なら、マジックは三流でも国務大臣の娘とだって結婚しちまうだろうよ」
アシームは苦笑いを浮かべながら、消え入りそうな声で謝罪を呟いた。もちろんここにいる誰もが――――発言した店長自身も含め、その例え話が現実のものになるなど今は知る由もないのだった。
カレーを食べ終えたシャバーンは、計画通り先にラティーファを退店させて見事会計をごまかすことに成功した。姑息すぎるマネーロンダリングに、店長もアシームも呆れて言葉が出ない。もちろんシャバーンは、そんな反応を気にしていない。彼は店先で待っているラティーファに声を掛けると、次のプランを提案した。
「さて、次なんだが……ちょっと海の方まで散歩しないか?」
ラティーファは海の方、と聞いて離宮のあるアラビアンコーストの方角だと理解した。ここから少し距離があるので、彼女の脳裏に門限が過る。しかし今日は少しだけ遅くなってもいいように、両親にはジャスミン王女のお使いで遠出をすると伝えてあった。
ラティーファはシャバーンの目をまっすぐに見つめながら、はにかんだ笑みで答えた。
「ええ、いいわよ」
道中の店を見て回ったり、立ち止まって甘い飲み物を堪能しているうちに、アラビアの海岸には夕日が射していた。ラティーファとシャバーンの会話も、いつの間にか沈黙の時間が無くなっていた。
「それで、わしは言ってやったんだ。スプーンを曲げたり戻したりするやつは、二流、三流のすることだ。このシャバーンは一流です。超一流!ってな」
「あははははっ!じゃあ何をしたの?」
シャバーンは懐からスプーンを取り出すと、徐ろに柄を伸ばした。スプーンが出てくることも驚きだが、柄が伸びる突拍子もない展開にラティーファは言葉を失った。
「どうだーっ!すごいだろ」
単に柄の仕掛けを伸ばしているだけなのだが、ラティーファはとても嬉しそうだ。何故か拙いマジックを披露している側も嬉しそうだが。
「すごーい!えっ、これどうやって伸ばしてるの?」
「それは内緒」
「えー、教えてよ。ねっ、秘密にするから」
素直にお願いしてくる様子でいい気になったシャバーンは、意地悪な笑みを向けた。
「だーめ。わしのアシスタントになってくれたら教えてあげても良いよ」
それは少しだけ、いや大いに本気を込めた条件だった。しかし意外にも、ラティーファは首を横に振った。
「じゃあ、いい」
「えっ、わしのアシスタントは嫌?」
「ううん、違うわ。でも、もうあなたには素敵なアシスタントのアシーム君がいるじゃない」
ああ。なんていい子なんだ、ラティーファは。
心のなかで感嘆しながら、シャバーンはため息を漏らした。同時に、この提案では上手くいかないということに気付かされ密かに頭を抱えた。
そんなやり取りをしているうちに、波の音が心地よく耳を擽る距離にまでやって来た。シャバーンはなけなしの勇気を出すと、徐ろにラティーファの手を取った。驚く彼女を直視出来ず、マジシャンはそっぽを向いたままこう言った。
「……砂は、足を取られると転けるから。ダンスするのに怪我したらダメだろ」
「ありがとう……」
ラティーファは初めて触れる父以外の男の手に、ほんの少しだけ怯えた。だがそれ以上に、イメージとは違って繊細なシャバーンの手に胸が高鳴った。更に息まで苦しくなってしまい、彼女は自分の身体に何が起きているのかを理解できず戸惑った。そして無意識に、その手をそっと握り返した。
振りほどかれることを覚悟していたシャバーンは、確かに伝わる温もりに目を丸くした。恐る恐る隣を向くと、俯きながら耳まで顔を真っ赤にしているラティーファが居るではないか。
これは、流石に勘違いしても良いよな。いや、勘違いじゃないよな。
シャバーンは心臓の音が相手に聞こえてしまわないか不安になりながらも、一歩ずつゆっくりと砂浜を進んだ。ラティーファも無言で足元に視線を落としたまま歩みを進めている。
やがて、夕日が西の海に溶けて紫色の夜の帳が降りた。二人は波打ち際までやって来ると、波音を聞きながら暫く足元を見つめていた。その間、エスコートするために握られた手はそのままだ。
どれくらい時間が経っただろう。シャバーンが震える声で、愛する人の名前を呼んだ。
「ラティーファ、顔を上げてごらん」
「えっ?あっ、ええ」
殆ど名前を呼んでくれたことのないシャバーンに、名前を呼ばれたことにラティーファは驚いた。そして慌てて顔を上げた。するとそこには……
「――――――――わぁ……!」
紫色の夜の帳は星々を呼び出し、二人の目の前には暁と夜の境目で輝き始める夜空が広がっていた。ラティーファはこの時間にこの場所で初めて見る景色に、一瞬で心奪われた。
「わぁ……すごい!シャバーン様、すごいわ!」
「だろ?アラビアンコーストは少々外れにあるが、その分景色も良い」
シャバーンはそう口にしながらも、視線は既に空ではなくラティーファの方に注がれている。そんな熱い眼差しに気づくこと無く、彼女は無心に星空を眺めている。その様子は、まるで生涯に一度しか見ることが出来ない貴重な景色を目に焼き付けているかのようだった。どこか切なくそれでいて必死な様子を見て、シャバーンは反射的に呟いた。
「……また来よう。良ければ、二人で」
その言葉を聞いて、ラティーファがようやく横を向いた。彼女は大きく頷くと、精一杯絞り出したような声で応えてくれた。
「ええ、絶対。約束ね」
二人は束の間視線を交わした。シャバーンはラティーファの瞳の中に自分と同じ気持ちを感じ取ったが、その想いがまだ淡く不確かなものである事に気づいてしまった。彼はこのまま抱き寄せてキスをしたい気持ちを抑え、帰り道が暗くなる前にラティーファの手を引いた。
「さ、帰ろう。遅くなるといけないからな」
こうして二人の初めてのデートが終わった。
この後二人は別の日に偶然再会し、シャバーンは互いの身分の違いを知ってしまうのだがそれは別のお話。それより、話は2年後のアラビアンコーストに飛ぶ。
あの日と同じ砂浜に、一組の夫婦の姿が見える。一人は赤い上着に黄色いターバンを巻いており、もう一人は紫色のワンピースを着ている。二人は肩を寄せ合いながら、星空の下で指を絡めた。
「……約束、ちゃんと覚えてたのね」
「ああ、もちろん。なんて言ったって、わしは超一流マジシャンだからな」
二人――――夫婦になったシャバーンとラティーファは、あの日のようにはにかんだ笑みを浮かべながら見つめ合った。暫く互いを眺めていると、徐ろにシャバーンが切り出した。
「あのさ、ラティーファ。その……あの……ええと……」
「なぁに?どうしたの?」
「その……あのとき本当は……」
「本当は?」
不思議そうに顔を覗き込んでくる美しい妻の顔に耐えられず、シャバーンは唐突に唇を重ねた。驚きと喜びで、ラティーファの頬が赤く染まる。
「本当は、キスしたかった……です」
「あらま。それは気づかなかったわ」
顔を真赤にしながらこくりと頷く夫が可愛らしかったのか、ラティーファはふわりと微笑んだ。それから彼の頬を両手で包み込み、鼻先を相手の鼻に近づけてこう言った。
「……じゃあ、今からでもいいならどうぞ」
「では、遠慮なく」
シャバーンが無邪気に笑う。軽口を叩きながら、彼は愛する妻の瞳を見つめた。その奥には、あの日確かに感じた淡い恋心が、今ではしっかりと揺らめいていた。同時に、彼は新しい感情がその目に宿っていることに気づいた。
その気持を、人は愛と呼ぶのだろうな。
そんなことを思いながら、彼はラティーファに優しくキスをした。打ち寄せる波の音と共に、これまでの二人の歩みを噛み締めながら。
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