【短編】或る踊り子の一日
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アグラバー貴族街の昼下がり。午後一時丁度を告げる鐘が鳴った。その数分後、国務大臣ハイサム邸の扉の開閉音が響く。
同時に、一人の女性が部屋を飛び出した。彼女の名前はラティーファ。密かにアグラバー1の踊り子を目指す、ハイサムの実子だ。
「お母様、ヨシ。ナーサーヤ、ヨシ。さぁて、今日も踊るわよ」
ラティーファは密偵のように廊下を見回した。屋敷は数十人の召使いが居るものの、静まり返っている。それもそのはずだ。この時間はハイサム邸で最も人が少なくなる時間なのである。まず、主人であるハイサム国務大臣は昼夜問わず国務のため当然不在にしている。そして国務大臣夫人アルターフ――――ラティーファの実母は、大勢の召使とともに午後2時から毎日開催される貴族夫人会に向かう。更にラティーファ付きの侍女であり元乳母のナーサーヤは、空っぽの屋敷を切り盛りするために忙しい。
そう、この時間はラティーファにとって絶好のチャンスだった。彼女は一目散に倉庫へ向かうと、颯の速度で衣装に着替え、地味なローブに身を包んだ。そして裏口に移動すると、買い出しから戻ってきた使用人たちとその荷物の背後に紛れて屋敷を後にした。
生家から遠のいたことを確認して、ラティーファは離れの敷地にローブを置いた。それから路地裏に飛び出し、今日も華麗な脱出劇が成功したことを喜んだ。
「さて…………いざ、市場へ!」
一分一秒も惜しい彼女は、全速力で貴族街の裏道を駆け出した。そう、この自由な時間も永久ではない。理想は日が落ちる17時までに、少なくともハイサム氏が帰宅するであろう18時には帰り着かないといけないのだ。
ラティーファはそんな、限られた時間と制限の中でダンスを毎日続けている。基礎体力を身につけるトレーニングを屋敷ですることもできないため、この行き帰りの全力疾走はちょっとしたランニングでもある。
どんなに身体が疲れている日でも、足が筋肉痛で痛い日でも、ダンスを本気で続けている彼女にとって選択肢はなかった。雨の日も風の日も(流石に砂嵐の日は休むが)、若き踊り子の努力は日々積み重ねられているのである。
貴族街から市場まではスムーズに走って5分。更にいつもの広場までは人混みをかき分けるために屋根や路地裏を走り抜けて10分。14時前までにたどり着かないと、いつもの場所は取れない。
このように全身に鞭打ってでも場所を変えずに公演することは、ラティーファの策略だった。毎日同じ場所で踊っていれば、ファンも見つけやすい。そして何より、新しい縄張り争いに貴重な時間を割かずに済む。
屋根の上を伝って移動するラティーファは、いつものように日光浴を楽しむおじいさんに挨拶した。彼女が唯一立ち止まるのは、この人との会話だけだ。
「こんにちは、カミールさん」
「ああ、こんにちは。今日もダンスかね?」
ラティーファは瞳を輝かせながら元気よくうなずいた。
「ええ、もちろん!だって、世界一のダンサーを目指しているから!」
「そうかい、応援しているよ」
「ありがとう〜〜っ!!」
そう言いながらラティーファは隣の家の屋根へと移動していく。遠ざかっていくその後ろ姿を眺めながら、カミールはにこりと微笑んでいる。
「…………まるで、若い頃のあいつのようだな」
そう呟いたカミールの隣には、見覚えのある白い花が一輪飾られているのだった。
ラティーファはほぼ定刻通りに広場へたどり着くと、待ってくれていた演奏家たちに挨拶をした。
「いつもありがとう。さ、始めましょうか」
「おう、今日もよろしくな。ところで、お前いつもどっから来るんだ?毎日走ってきてるみたいだけどよ……」
「えっ、あっ、えーっと………ちょっと、郊外に住んでるからね……」
ラティーファは演奏家の一人からの質問を受け流すと、ダンスの準備に取り掛かった。息を整え、裾の汚れを払い、広場の地面に指を触れる。
演奏家たちが無言で合図を送る。そして、ラティーファらしいエネルギッシュな音楽が始まった。彼女はリズムに合わせて全身を動かすと、この瞬間のために耐えてきた全てを解放し始めた。
ああ、私………ダンスが好き!
ダンス以外のものに心を奪われることなど、彼女にとって考えられなかった。いや、正確には制約だらけの人生を送るこの娘にとって、ダンス以外に割ける自由な時間は無かった。
そんな背景も露知らず、今日もラティーファのダンスを不機嫌そうに眺める男がいた。三流マジシャンのシャバーンである。彼は今日も場所取りに負けてしまい、素人顔負けのポンコツマジックを繰り出している。
「そこの綺麗なお嬢さん、お花はいかがですか」
と言いながらハンカチから出した花は萎れている。鼻で笑われてしまったシャバーンは、ついに力なく地面に座り込んでしまった。やり場のない怒りを、シャバーンはいつも通り召使いにぶつけた。
「アシーム!お前が毎回毎回場所取りに負けるからだろ!だいたい、あの小娘毎日絶対同じ時間に来るなんて…………」
「相当努力家なんですね」
心根の優しいアシームは、瞳を輝かせながらラティーファのダンスを見つめている。シャバーンも時折横目でチラチラと見ているが、その目には微かに殺気と嫉妬がこもっている。
「努力家?ふん、暇人の間違いだろ。だいたい、わしは日銭のために最近カレー屋で働いてるんだぞ。ほら、ご注文をどうぞ?お席はこちらです!いらっしゃいませ!今日のオススメは鳩カレーです!…………ふざけんなっ!わしだってマジックだけで食っていきたいわ!…………まかないのカレーは美味しいけど。」
シャバーンは見るからに軽そうな財布を持ち上げながら、わざとらしくため息をついてみせた。これに苦笑いをすることしかできないアシームとは対照的に、カゴの中に入ってうたた寝していたベキートは毒舌に言い返した。
「お前、可愛いお嬢さんに向かって酷いこと言うなぁ。そんなんだから――――ギャッ!」
シャバーンの足が、収まりきっていないベキートの尻尾に直撃する。おそらく、猛毒の喋るコブラを躊躇なく踏めるのは、アグラバー広しと言えどもシャバーンだけだろう。
「餌を減らすぞ、この蛇野郎」
「はーん……あんた、ひょっとしてあの子が気になるのかぁ?あー、なるほどね。だからあの子の話になると不機嫌に…………」
図星だったのかは定かではないが、シャバーンが青筋を立てた。彼は空き瓶に目をやると、殺意のこもった声でこう言った。
「アシーム。コブラ酒は高く売れるらしいな」
「なっ、なんちゅー物騒なことを言うんだ!だいたいお前みたいな三流マジシャン、偉そうに指図できる立場じゃあないだろ」
三流という言葉のせいで、とうとうシャバーンの怒りは沸点に達した。争いごとを嫌うアシームは慌ててその場を収めようと試みたが、すでに遅かった。
「何だと?もっぺん言ってみろ!その皮ぜんぶ引っペ返して職人に売りつけてやる!」
怒らせると何をするかわからないところがあるシャバーンに対して、流石のベキートも震え上がっている。アシームはマジックより注目を集めている二人の喧騒を眺めながら、大きなため息を付くことしかできなかった。
さて、彼らの大喧嘩など知らないラティーファは、今日の踊りを終えていた。彼女は一人一人に挨拶をして回り、優しい笑顔を観客全員に向けている。だが、最後の一人を見た彼女の顔が強張った。
「やぁ、ラティーファ。お元気かな?」
「あら、ディルガームじゃない。ひさしぶりね。お元気?」
「ディルガームじゃない!じゃねぇよ。俺はずーっとお前のことを毎日見てるんだがな」
ディルガームと呼ばれた男は、げんなりした顔でラティーファを見た。年は20代後半30代初めといったところだろうか。顔立ちはそこそこに目立つ、所謂美男子に近い。ラティーファは荷物から一握りの袋を取り出すと、ディルガームにサッと渡した。
「はい、所場代。あなたが欲しかったのはこれでしょ」
呆気にとられているディルガームの部下たちを置いて、ラティーファはさっさと荷物をまとめ始めた。楽士たちもトラブルを察知したのか、早足に帰っていく。
ディルガームは怒りで震える手を伸ばし、ラティーファの腕を掴んだ。鍛え抜かれた男の力に、彼女は一瞬にして危機を察知した。
「…………俺が欲しいのは端金なんかじゃねぇ。そう毎回言ってるだろ。この俺様が優しく言ってるうちに決めたほうがいいと思うぜ」
「えーっと……なんだっけ。忘れちゃった」
ラティーファの視線が泳ぐ。もちろん誰も助けてはくれない。こういうときの群衆は冷たい。そのことは貴族である彼女だからこそ、誰よりもよく知っていた。
「ははーん、忘れたフリか。いいか。もう一回言ってやる。俺が欲しいのはお前――――」
その時だった。ディルガームの顔面に向かってコブラが飛び込んできた。猛毒蛇を前に、流石の彼もラティーファの手を思わず離してしまう。その間に割って入るように、続いてツギハギだらけの服を着た男が飛び込んでくる。
「待て〜っ!ベキート!わしから逃げるなぁっ!!」
「ギャーッ助けてえぇ!皮剥がれちまう!」
「肉はちゃんとカレーに入れてやるから、安心しろっ!!」
しかし、ベキートは蛇である。彼は華麗な身のこなしで逃げおおせると、そのままアシームの腕の中に抱えられているカゴの中に戻っていってしまった。機転を利かせた少年は、慌ててカゴに蓋をしてシャバーンに渡さないように抱きしめた。
さて、このタイミングで邪魔されたディルガームは面白くない。彼はシャバーンを睨みつけると、胸ぐらを掴んだ。
「誰かと思ったら、三流マジシャンのシャバーン様じゃねぁか」
「あらまっ、ディルガームさん」
「今日こそ所場代払ってもらうぜ」
シャバーンは苦笑いを浮かべながら、カゴを指さした。
「あー…………蛇一匹でどうですか?」
「シャバーン様っ!」
あまりのひどい発言に、アシームが主人を諌める。もちろん、シャバーンの冗談に笑ってくれるほどディルガームは優しい男ではない。彼はやり場のない怒りを拳に込めて、頭上高く振り上げた。その場にいた誰もが、次に聞こえてくるのはシャバーンの情けない悲鳴だと思っていた。
だが、それは違った。
「止めなさい!ディルガーム」
突然、ディルガームの目の前にラティーファの顔が割り込んできたのだ。危うく美しい踊り子の顔を殴りつけてしまうところだった彼は、慌てて拳を引っ込めた。
「ラティーファ!何の真似だ」
「シャバーン様の分は私が払うから。倍額出せばいいんでしょ」
「へっ……わしの分も出してくれるのか?」
「シャバーン様っ!」
あまりに情けない発言に、アシームがまたしても怒りの声を上げる。一方、自分は呼び捨てなのにシャバーンには敬称が付いていることが腹立たしかったのか、ディルガームはラティーファを睨みつけた。だが、彼女は一歩も引く様子はない。それどころか近くを歩いている衛兵を見つけると、彼を睨み返してこう言った。
「乱闘と所場代の徴収って、犯罪じゃなかったっけ?」
「なっ…………お前…………」
「今ここで、私が大声だしてもいいのよ。あなたのことを捕らえるために、衛兵たちも日々必死にあら捜ししてるみたいだから…………一発アウトね」
ディルガームは唸り声を上げると、シャバーンを乱暴に地面へ叩きつけた。今度はラティーファが危ない版だ。ディルガームの部下に囲まれた彼女は、逃げ場を失ってしまった。
「ラティーファ。今ここで決めろ。俺に楯突くのか、俺の女になるかを!前者を選ぶなら、ダンスは諦めることになるだろうがな」
「ディルガーム、あんまりにもそれって卑怯じゃない?」
「うるさい!いいから、さっさと選べ。どうせ恋人もいないんだろ?悩むことはないさ、アグラバーの誰もが恋する俺様を選べばいい」
そんな当惑するラティーファを、地面に尻もちをつきながら見ている男がいた。もちろんシャバーンだ。彼はそろりと立ち上がると、一目散にその場を離れようとした。だが、不意に肩越しにラティーファの顔を見てしまった。その表情は、普段の明るさとは違ってとても苦しそうだった。
ああ、お前はそんなにダンスが好きなのか。
まるで若い頃の自分を見ているかのような気分に陥ったシャバーンは、柄にもなく胸が締め付けられるのを感じた。そして何より、ほんの少しだけ何故かディルガームに嫉妬心を覚えた。彼は考えるより先に手下を後ろから蹴り飛ばすと、ラティーファの手を掴んで引き寄せた。一瞬の出来事のあまり、彼女は事態を把握できず目を丸くしている。シャバーンはよく通る声で、ディルガームを見てこう告げた。
「あー、すまんすまん!こいつ、わしの恋人でな」
「はぁ…………?」
「いやはや、ごめんなディルガーム。ラティーファからのアプローチが熱烈で、つい最近付き合い始めたんだよ。この子、どうやら年上…………しかも半世紀くらい離れてるのが好みらしい」
そう言いながら、シャバーンはラティーファの耳に囁いた。普段の騒がしさからは想像もつかないほどに、その声は魅力的な声をしていた。
「…………話を合わせて。お前はわしくらいのおっさんが好き。そういうことにしとけ」
「ええと…………そ、そうなの。シャバーン様って、オジサマなのに全然頼りなくって可愛いのよねぇ…………」
若干の棒読みっぷりに、ディルガームが疑いの目を向ける。シャバーンはラティーファを抱き寄せながら、その背中を肘で小突いた。
「もっとそれっぽく。ほっぺたにキスとか、適当になんかしなさい」
「えっ、いやちょっとそれは流石に……」
ディルガームを選んでダンスを続ける。それは選べない。いや、ラティーファは選びたくなかった。
あんなヤツより、この人のほうがずっと素敵よ!
彼女は意を決して、華麗な身のこなしで振り向くとシャバーンの頬にキスをした。
「なっ――――!!?」
一応唇ではなかったのだが、ディルガームにダメージを与えるには十二分だったようだ。彼は真っ青な顔で後退りすると、赤面するシャバーンを見て叫んだ。
「三流マジシャンのジジイだと!?しゅっ、趣味が悪いぞ!!お前がそんなやつだとは思わなかった!勝手にダンスでもしてくれ!」
ディルガームはそう言うと、転がるように駆け出してしまった。手下たちも彼の後を追ってどこかへ消えていく。一方、それまで静観していた広場の人たちは、突然口々にシャバーンの男気を褒め称えた。どうやら全員、ディルガームが嫌いだったようだ。
「あんた、見直したよ。男気あるねぇ」
「へっ…………わっ、わしが?」
「そうそう。お嬢ちゃんも迫真の演技だったね。ディルガームのやつ、まんまとウソに騙されて今頃ヤケ酒だろうな!」
演技、と言われたラティーファは目を丸くした。隣にいるシャバーンは、そりゃそうだろう!と言いながらも少しだけ寂しそうだ。
「私は…………」
ラティーファは指先で自分の唇に触れた。それから横目で、2度も自分を救ってくれた恩人を見つめた。胸の中に、感謝とは違う別の温かい何かが溢れていく。
しかし、その答えを考えるより先に17時を告げる鐘が広場に鳴り響く。ラティーファは慌てて荷物をまとめると、シャバーンとアシームに一礼した。
「ありがとう!それじゃ、さよなら!」
彼女はそう言うと、いつものように市場へ駆け出していこうとした。だが、その腕が誰かに掴まれる。シャバーンだった。
「あーっ!ちょっと待て!」
彼はハンカチを取り出すと、徐ろにラティーファの唇を拭こうとした。驚く彼女をよそに、マジシャンは申し訳無さそうに続けた。
「…………いや、その。わしは別に良いんだが……いくらディルガームのやつを騙すためでも、好きでもない奴の頬にキスさせてしまって申し訳なかったと思ってな」
心の底から罪悪感を感じているシャバーンを見て、ラティーファはふわりと微笑んだ。そして温かな笑顔を向けながらこう言った。
「私も別に嫌じゃなかったわよ。安心して」
シャバーンの瞳が潤み、頬は赤く染まる。そんな変化に気づくことなく、ラティーファはハンカチを握っているマジシャンの手にそっと触れた。
「ありがとう、シャバーン様。私を二度も助けてくれて」
「二度?一体何を――――」
「あら大変。本当に帰らないと。じゃあね、また明日!」
「おい、あっ、えっ、ちょっ、ちょっと待て!」
シャバーンの静止を振り切り、ラティーファは帰路に向かって駆け出してしまった。残されたシャバーンは、ハンカチを持ちながら呆然としている。隣にはいつの間にかカゴから出てきたベキートが、何やらニヤニヤしながら擦り寄っている。
「鼻の下伸びてるよぉ、シャバーン」
「そっ、そんなわけないだろ!あんな小娘、全然可愛くも何ともないわ!」
しかし、強気なシャバーンの手は震えたままだ。彼はラティーファが触れた場所にもう片方の手で触れると、ほんの少しだけ愛しそうに微笑むのだった。
家に帰ったラティーファは、国務大臣令嬢の格好に戻っていた。昼間とは違って、綺麗に下ろしてあるわずかにウェーブのかかった黒髪が風になびいている。アラビアの夜風に髪が揺れるたびに、彼女の心もまた淡く揺らめいていた。
「シャバーン様…………」
そんな二人が互いの気持ちに気づくのは、もう少し先の話である。そしてこの半年後、大マジシャンとなったシャバーンとラティーファが結婚することになるのだが、もちろんディルガームはニュースを受けてもう一度卒倒するのだった。
END
同時に、一人の女性が部屋を飛び出した。彼女の名前はラティーファ。密かにアグラバー1の踊り子を目指す、ハイサムの実子だ。
「お母様、ヨシ。ナーサーヤ、ヨシ。さぁて、今日も踊るわよ」
ラティーファは密偵のように廊下を見回した。屋敷は数十人の召使いが居るものの、静まり返っている。それもそのはずだ。この時間はハイサム邸で最も人が少なくなる時間なのである。まず、主人であるハイサム国務大臣は昼夜問わず国務のため当然不在にしている。そして国務大臣夫人アルターフ――――ラティーファの実母は、大勢の召使とともに午後2時から毎日開催される貴族夫人会に向かう。更にラティーファ付きの侍女であり元乳母のナーサーヤは、空っぽの屋敷を切り盛りするために忙しい。
そう、この時間はラティーファにとって絶好のチャンスだった。彼女は一目散に倉庫へ向かうと、颯の速度で衣装に着替え、地味なローブに身を包んだ。そして裏口に移動すると、買い出しから戻ってきた使用人たちとその荷物の背後に紛れて屋敷を後にした。
生家から遠のいたことを確認して、ラティーファは離れの敷地にローブを置いた。それから路地裏に飛び出し、今日も華麗な脱出劇が成功したことを喜んだ。
「さて…………いざ、市場へ!」
一分一秒も惜しい彼女は、全速力で貴族街の裏道を駆け出した。そう、この自由な時間も永久ではない。理想は日が落ちる17時までに、少なくともハイサム氏が帰宅するであろう18時には帰り着かないといけないのだ。
ラティーファはそんな、限られた時間と制限の中でダンスを毎日続けている。基礎体力を身につけるトレーニングを屋敷ですることもできないため、この行き帰りの全力疾走はちょっとしたランニングでもある。
どんなに身体が疲れている日でも、足が筋肉痛で痛い日でも、ダンスを本気で続けている彼女にとって選択肢はなかった。雨の日も風の日も(流石に砂嵐の日は休むが)、若き踊り子の努力は日々積み重ねられているのである。
貴族街から市場まではスムーズに走って5分。更にいつもの広場までは人混みをかき分けるために屋根や路地裏を走り抜けて10分。14時前までにたどり着かないと、いつもの場所は取れない。
このように全身に鞭打ってでも場所を変えずに公演することは、ラティーファの策略だった。毎日同じ場所で踊っていれば、ファンも見つけやすい。そして何より、新しい縄張り争いに貴重な時間を割かずに済む。
屋根の上を伝って移動するラティーファは、いつものように日光浴を楽しむおじいさんに挨拶した。彼女が唯一立ち止まるのは、この人との会話だけだ。
「こんにちは、カミールさん」
「ああ、こんにちは。今日もダンスかね?」
ラティーファは瞳を輝かせながら元気よくうなずいた。
「ええ、もちろん!だって、世界一のダンサーを目指しているから!」
「そうかい、応援しているよ」
「ありがとう〜〜っ!!」
そう言いながらラティーファは隣の家の屋根へと移動していく。遠ざかっていくその後ろ姿を眺めながら、カミールはにこりと微笑んでいる。
「…………まるで、若い頃のあいつのようだな」
そう呟いたカミールの隣には、見覚えのある白い花が一輪飾られているのだった。
ラティーファはほぼ定刻通りに広場へたどり着くと、待ってくれていた演奏家たちに挨拶をした。
「いつもありがとう。さ、始めましょうか」
「おう、今日もよろしくな。ところで、お前いつもどっから来るんだ?毎日走ってきてるみたいだけどよ……」
「えっ、あっ、えーっと………ちょっと、郊外に住んでるからね……」
ラティーファは演奏家の一人からの質問を受け流すと、ダンスの準備に取り掛かった。息を整え、裾の汚れを払い、広場の地面に指を触れる。
演奏家たちが無言で合図を送る。そして、ラティーファらしいエネルギッシュな音楽が始まった。彼女はリズムに合わせて全身を動かすと、この瞬間のために耐えてきた全てを解放し始めた。
ああ、私………ダンスが好き!
ダンス以外のものに心を奪われることなど、彼女にとって考えられなかった。いや、正確には制約だらけの人生を送るこの娘にとって、ダンス以外に割ける自由な時間は無かった。
そんな背景も露知らず、今日もラティーファのダンスを不機嫌そうに眺める男がいた。三流マジシャンのシャバーンである。彼は今日も場所取りに負けてしまい、素人顔負けのポンコツマジックを繰り出している。
「そこの綺麗なお嬢さん、お花はいかがですか」
と言いながらハンカチから出した花は萎れている。鼻で笑われてしまったシャバーンは、ついに力なく地面に座り込んでしまった。やり場のない怒りを、シャバーンはいつも通り召使いにぶつけた。
「アシーム!お前が毎回毎回場所取りに負けるからだろ!だいたい、あの小娘毎日絶対同じ時間に来るなんて…………」
「相当努力家なんですね」
心根の優しいアシームは、瞳を輝かせながらラティーファのダンスを見つめている。シャバーンも時折横目でチラチラと見ているが、その目には微かに殺気と嫉妬がこもっている。
「努力家?ふん、暇人の間違いだろ。だいたい、わしは日銭のために最近カレー屋で働いてるんだぞ。ほら、ご注文をどうぞ?お席はこちらです!いらっしゃいませ!今日のオススメは鳩カレーです!…………ふざけんなっ!わしだってマジックだけで食っていきたいわ!…………まかないのカレーは美味しいけど。」
シャバーンは見るからに軽そうな財布を持ち上げながら、わざとらしくため息をついてみせた。これに苦笑いをすることしかできないアシームとは対照的に、カゴの中に入ってうたた寝していたベキートは毒舌に言い返した。
「お前、可愛いお嬢さんに向かって酷いこと言うなぁ。そんなんだから――――ギャッ!」
シャバーンの足が、収まりきっていないベキートの尻尾に直撃する。おそらく、猛毒の喋るコブラを躊躇なく踏めるのは、アグラバー広しと言えどもシャバーンだけだろう。
「餌を減らすぞ、この蛇野郎」
「はーん……あんた、ひょっとしてあの子が気になるのかぁ?あー、なるほどね。だからあの子の話になると不機嫌に…………」
図星だったのかは定かではないが、シャバーンが青筋を立てた。彼は空き瓶に目をやると、殺意のこもった声でこう言った。
「アシーム。コブラ酒は高く売れるらしいな」
「なっ、なんちゅー物騒なことを言うんだ!だいたいお前みたいな三流マジシャン、偉そうに指図できる立場じゃあないだろ」
三流という言葉のせいで、とうとうシャバーンの怒りは沸点に達した。争いごとを嫌うアシームは慌ててその場を収めようと試みたが、すでに遅かった。
「何だと?もっぺん言ってみろ!その皮ぜんぶ引っペ返して職人に売りつけてやる!」
怒らせると何をするかわからないところがあるシャバーンに対して、流石のベキートも震え上がっている。アシームはマジックより注目を集めている二人の喧騒を眺めながら、大きなため息を付くことしかできなかった。
さて、彼らの大喧嘩など知らないラティーファは、今日の踊りを終えていた。彼女は一人一人に挨拶をして回り、優しい笑顔を観客全員に向けている。だが、最後の一人を見た彼女の顔が強張った。
「やぁ、ラティーファ。お元気かな?」
「あら、ディルガームじゃない。ひさしぶりね。お元気?」
「ディルガームじゃない!じゃねぇよ。俺はずーっとお前のことを毎日見てるんだがな」
ディルガームと呼ばれた男は、げんなりした顔でラティーファを見た。年は20代後半30代初めといったところだろうか。顔立ちはそこそこに目立つ、所謂美男子に近い。ラティーファは荷物から一握りの袋を取り出すと、ディルガームにサッと渡した。
「はい、所場代。あなたが欲しかったのはこれでしょ」
呆気にとられているディルガームの部下たちを置いて、ラティーファはさっさと荷物をまとめ始めた。楽士たちもトラブルを察知したのか、早足に帰っていく。
ディルガームは怒りで震える手を伸ばし、ラティーファの腕を掴んだ。鍛え抜かれた男の力に、彼女は一瞬にして危機を察知した。
「…………俺が欲しいのは端金なんかじゃねぇ。そう毎回言ってるだろ。この俺様が優しく言ってるうちに決めたほうがいいと思うぜ」
「えーっと……なんだっけ。忘れちゃった」
ラティーファの視線が泳ぐ。もちろん誰も助けてはくれない。こういうときの群衆は冷たい。そのことは貴族である彼女だからこそ、誰よりもよく知っていた。
「ははーん、忘れたフリか。いいか。もう一回言ってやる。俺が欲しいのはお前――――」
その時だった。ディルガームの顔面に向かってコブラが飛び込んできた。猛毒蛇を前に、流石の彼もラティーファの手を思わず離してしまう。その間に割って入るように、続いてツギハギだらけの服を着た男が飛び込んでくる。
「待て〜っ!ベキート!わしから逃げるなぁっ!!」
「ギャーッ助けてえぇ!皮剥がれちまう!」
「肉はちゃんとカレーに入れてやるから、安心しろっ!!」
しかし、ベキートは蛇である。彼は華麗な身のこなしで逃げおおせると、そのままアシームの腕の中に抱えられているカゴの中に戻っていってしまった。機転を利かせた少年は、慌ててカゴに蓋をしてシャバーンに渡さないように抱きしめた。
さて、このタイミングで邪魔されたディルガームは面白くない。彼はシャバーンを睨みつけると、胸ぐらを掴んだ。
「誰かと思ったら、三流マジシャンのシャバーン様じゃねぁか」
「あらまっ、ディルガームさん」
「今日こそ所場代払ってもらうぜ」
シャバーンは苦笑いを浮かべながら、カゴを指さした。
「あー…………蛇一匹でどうですか?」
「シャバーン様っ!」
あまりのひどい発言に、アシームが主人を諌める。もちろん、シャバーンの冗談に笑ってくれるほどディルガームは優しい男ではない。彼はやり場のない怒りを拳に込めて、頭上高く振り上げた。その場にいた誰もが、次に聞こえてくるのはシャバーンの情けない悲鳴だと思っていた。
だが、それは違った。
「止めなさい!ディルガーム」
突然、ディルガームの目の前にラティーファの顔が割り込んできたのだ。危うく美しい踊り子の顔を殴りつけてしまうところだった彼は、慌てて拳を引っ込めた。
「ラティーファ!何の真似だ」
「シャバーン様の分は私が払うから。倍額出せばいいんでしょ」
「へっ……わしの分も出してくれるのか?」
「シャバーン様っ!」
あまりに情けない発言に、アシームがまたしても怒りの声を上げる。一方、自分は呼び捨てなのにシャバーンには敬称が付いていることが腹立たしかったのか、ディルガームはラティーファを睨みつけた。だが、彼女は一歩も引く様子はない。それどころか近くを歩いている衛兵を見つけると、彼を睨み返してこう言った。
「乱闘と所場代の徴収って、犯罪じゃなかったっけ?」
「なっ…………お前…………」
「今ここで、私が大声だしてもいいのよ。あなたのことを捕らえるために、衛兵たちも日々必死にあら捜ししてるみたいだから…………一発アウトね」
ディルガームは唸り声を上げると、シャバーンを乱暴に地面へ叩きつけた。今度はラティーファが危ない版だ。ディルガームの部下に囲まれた彼女は、逃げ場を失ってしまった。
「ラティーファ。今ここで決めろ。俺に楯突くのか、俺の女になるかを!前者を選ぶなら、ダンスは諦めることになるだろうがな」
「ディルガーム、あんまりにもそれって卑怯じゃない?」
「うるさい!いいから、さっさと選べ。どうせ恋人もいないんだろ?悩むことはないさ、アグラバーの誰もが恋する俺様を選べばいい」
そんな当惑するラティーファを、地面に尻もちをつきながら見ている男がいた。もちろんシャバーンだ。彼はそろりと立ち上がると、一目散にその場を離れようとした。だが、不意に肩越しにラティーファの顔を見てしまった。その表情は、普段の明るさとは違ってとても苦しそうだった。
ああ、お前はそんなにダンスが好きなのか。
まるで若い頃の自分を見ているかのような気分に陥ったシャバーンは、柄にもなく胸が締め付けられるのを感じた。そして何より、ほんの少しだけ何故かディルガームに嫉妬心を覚えた。彼は考えるより先に手下を後ろから蹴り飛ばすと、ラティーファの手を掴んで引き寄せた。一瞬の出来事のあまり、彼女は事態を把握できず目を丸くしている。シャバーンはよく通る声で、ディルガームを見てこう告げた。
「あー、すまんすまん!こいつ、わしの恋人でな」
「はぁ…………?」
「いやはや、ごめんなディルガーム。ラティーファからのアプローチが熱烈で、つい最近付き合い始めたんだよ。この子、どうやら年上…………しかも半世紀くらい離れてるのが好みらしい」
そう言いながら、シャバーンはラティーファの耳に囁いた。普段の騒がしさからは想像もつかないほどに、その声は魅力的な声をしていた。
「…………話を合わせて。お前はわしくらいのおっさんが好き。そういうことにしとけ」
「ええと…………そ、そうなの。シャバーン様って、オジサマなのに全然頼りなくって可愛いのよねぇ…………」
若干の棒読みっぷりに、ディルガームが疑いの目を向ける。シャバーンはラティーファを抱き寄せながら、その背中を肘で小突いた。
「もっとそれっぽく。ほっぺたにキスとか、適当になんかしなさい」
「えっ、いやちょっとそれは流石に……」
ディルガームを選んでダンスを続ける。それは選べない。いや、ラティーファは選びたくなかった。
あんなヤツより、この人のほうがずっと素敵よ!
彼女は意を決して、華麗な身のこなしで振り向くとシャバーンの頬にキスをした。
「なっ――――!!?」
一応唇ではなかったのだが、ディルガームにダメージを与えるには十二分だったようだ。彼は真っ青な顔で後退りすると、赤面するシャバーンを見て叫んだ。
「三流マジシャンのジジイだと!?しゅっ、趣味が悪いぞ!!お前がそんなやつだとは思わなかった!勝手にダンスでもしてくれ!」
ディルガームはそう言うと、転がるように駆け出してしまった。手下たちも彼の後を追ってどこかへ消えていく。一方、それまで静観していた広場の人たちは、突然口々にシャバーンの男気を褒め称えた。どうやら全員、ディルガームが嫌いだったようだ。
「あんた、見直したよ。男気あるねぇ」
「へっ…………わっ、わしが?」
「そうそう。お嬢ちゃんも迫真の演技だったね。ディルガームのやつ、まんまとウソに騙されて今頃ヤケ酒だろうな!」
演技、と言われたラティーファは目を丸くした。隣にいるシャバーンは、そりゃそうだろう!と言いながらも少しだけ寂しそうだ。
「私は…………」
ラティーファは指先で自分の唇に触れた。それから横目で、2度も自分を救ってくれた恩人を見つめた。胸の中に、感謝とは違う別の温かい何かが溢れていく。
しかし、その答えを考えるより先に17時を告げる鐘が広場に鳴り響く。ラティーファは慌てて荷物をまとめると、シャバーンとアシームに一礼した。
「ありがとう!それじゃ、さよなら!」
彼女はそう言うと、いつものように市場へ駆け出していこうとした。だが、その腕が誰かに掴まれる。シャバーンだった。
「あーっ!ちょっと待て!」
彼はハンカチを取り出すと、徐ろにラティーファの唇を拭こうとした。驚く彼女をよそに、マジシャンは申し訳無さそうに続けた。
「…………いや、その。わしは別に良いんだが……いくらディルガームのやつを騙すためでも、好きでもない奴の頬にキスさせてしまって申し訳なかったと思ってな」
心の底から罪悪感を感じているシャバーンを見て、ラティーファはふわりと微笑んだ。そして温かな笑顔を向けながらこう言った。
「私も別に嫌じゃなかったわよ。安心して」
シャバーンの瞳が潤み、頬は赤く染まる。そんな変化に気づくことなく、ラティーファはハンカチを握っているマジシャンの手にそっと触れた。
「ありがとう、シャバーン様。私を二度も助けてくれて」
「二度?一体何を――――」
「あら大変。本当に帰らないと。じゃあね、また明日!」
「おい、あっ、えっ、ちょっ、ちょっと待て!」
シャバーンの静止を振り切り、ラティーファは帰路に向かって駆け出してしまった。残されたシャバーンは、ハンカチを持ちながら呆然としている。隣にはいつの間にかカゴから出てきたベキートが、何やらニヤニヤしながら擦り寄っている。
「鼻の下伸びてるよぉ、シャバーン」
「そっ、そんなわけないだろ!あんな小娘、全然可愛くも何ともないわ!」
しかし、強気なシャバーンの手は震えたままだ。彼はラティーファが触れた場所にもう片方の手で触れると、ほんの少しだけ愛しそうに微笑むのだった。
家に帰ったラティーファは、国務大臣令嬢の格好に戻っていた。昼間とは違って、綺麗に下ろしてあるわずかにウェーブのかかった黒髪が風になびいている。アラビアの夜風に髪が揺れるたびに、彼女の心もまた淡く揺らめいていた。
「シャバーン様…………」
そんな二人が互いの気持ちに気づくのは、もう少し先の話である。そしてこの半年後、大マジシャンとなったシャバーンとラティーファが結婚することになるのだが、もちろんディルガームはニュースを受けてもう一度卒倒するのだった。
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