【短編】最後のマジックショー
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三日月がナイフの切っ先のように美しい日の夜。アグラバーで最も大きな劇場にて、一人のマジシャンのワンマンショーが開かれようとしていた。
ショーの主役は御年80歳のマジシャン、シャバーン。相変わらずマジックの腕は一流と言い難いものだが、少なくともそのトークはどんなマジシャンですら敵わないほど饒舌だ。アグラバーのご長寿の一人である彼は、今日も年の割にはしゃきっと歩きながら準備を自ら進めている。時折よろめく素振りを見せているが、そのたびに妻でありアシスタントのラティーファが支えていた。
「シャバーン様、今日はアシームに任せて休んだほうが良いのでは?」
「だいじょ、だいじょ、大丈夫に……大丈夫に決まってるだろ!全く、お前はすっかりわしをおじいちゃん扱いするようになったな」
「おじいちゃん扱いも何も、お互い少年少女じゃないでしょ」
シャバーンは顔を上げて妻に微笑みかけた。ラティーファは既に40歳を過ぎているが、少しだけ皺が増えたくらいで昔と変わらない美しい笑顔を浮かべている。シャバーンは準備の手を止めると、妻の頬にそっと触れた。それからふわりと笑いながらこう言った。
「…………相変わらず、綺麗だな。いつもありがとう、ラティーファ」
珍しく素直な夫の姿に、ラティーファはつい嬉しくて口許を綻ばせた。
「ありがとう。あなたも、いつだって素敵ね。ハンサムよ」
「当たり前だろ。なんて言ったって、わしは偉大なマジシャン・シャバーン様だからな」
そう言って裾をヒラつかせるシャバーンは、昔と一つも変わっていない。ラティーファは穏やかな笑みをこぼし、夫の服とマントを整えた。
二人が準備を進めていると、柔らかくも芯が通った男の声が響いた。
「シャバーン様、そろそろ出番ですよ」
「はいはい。でもまずはお前のソロマジックだろ、アシーム」
アシスタントの男――――アシームは自身の主人の言葉に耳を疑った。
「えっ。ワンマンショーなのに、僕がマジックをしてもいいんですか?」
シャバーンといえば、ワンマンショー実現のためにアシスタントを監禁したこともあるほどに目立ちたがりの性分の男である。その彼が、弟子兼アシスタント兼召使いのアシームに、ワンマンショーのファーストマジックを許可しているのだ。
耳を疑いながら硬直するアシームの隣で、ラティーファも眉をひそめてシャバーンを見つめている。対して当の本人は、全員の反応に心外そうな声を上げている。
「お前たち、わしのことを何だと思ってるんだ」
その問いに、二人は示し合わせたわけでもないが、息ぴったりに答えた。
「傍若無人で」
「目立ちたがりの」
「「シャバーン様です」」
「ズキーン」
そう言いながら、シャバーンが心臓を抑えてよろめいたふりをする。しかし今や高齢となった彼がすると、冗談に見えないらしい。ラティーファは手にしていた小道具を放り投げると、慌てて夫を支えた。
「大丈夫!?」
「おいおい、ラティーファ。いつもの冗談じゃないか。そんな本気で心配しないでくれ」
「心配するわよ。今日のあなた、なんだか変よ。どうしちゃったの?」
心配そうに顔を覗きこむラティーファを置いて、アナウンスが響き渡る。本番がやってきたようだ。シャバーンは杖を妻に預けると、しっかりとした足取りで立ち上がり、舞台へと歩き出した。
「さて、もう流石に入口は間違えんぞ」
「ええ、そうしてください」
ラティーファは舞台袖から歩いて遠ざかっていくシャバーンの背中を、静かに見守った。心のなかには僅かに漠然とした不安が広がっていたが、やがて自身の出番の準備をしていないことに気づき、楽屋へと消えていくのだった。
シャバーンのワンマンショーは、初めてのワンマンショーからは想像もつかないほどに大喝采で幕を閉じた。万雷の拍手を受けながら、ラティーファはちらりと夫の横顔を見た。そして、ハッと息を呑んだ。
常に貪欲で足るを知らないシャバーンが、今日は珍しく満ち足りた笑顔を浮かべているのだ。彼は徐ろにラティーファの方を見ると、優しい笑顔を向けてくれた。同じく、アシームにも穏やかな笑みを向けながら小声で「よくやった」と褒めているではないか。
嬉しさと共に、ラティーファの表情に不安の影が落ちた。そして然りげ無くシャバーンの手を握り、その体温を確かめた。その手は初めて手を繋いだときと同じぬくもりを宿している。
暖かな手に安堵したラティーファは、幕が下りるまで空いた方の手を振って笑顔を作った。しかし彼女は舞台袖に戻ったあとも暫く夫の手を離すことはなかった。それはまるで、魔法が解けることを厭う子どものようであった。
ワンマンショーの夜、夫婦はバルコニーのカウチに腰掛けながらアグラバーの街を眺めていた。夜風が堪える年になった二人は、1枚のひざ掛けを分け合って座っている。
こんな静かな夜は、いつもラティーファから他愛もない話を切り出す。だが今日は違った。
「――――カミール先生は、今のわしを見たらなんて言うだろうな」
カミール――――シャバーンのマジックの師匠であり伝説のマジシャンだった男だ。ラティーファも生前は何度か挨拶や交流をさせてもらった人物である。しかし、カミールの偉大さはシャバーンの焦燥を駆り立てる原因の一つでもあった。だからこそ彼は普段、敢えて自身の師の話を避けていた。
しかし、今日は素直に胸の内を話している。
「結局、マジックの腕前は先生の足元にも及ばんかったなぁ。でもまぁ、綺麗な嫁を持つトークが面白いマジシャンになれたから、ある意味偉大か」
「シャバーン様……?」
すっかり真っ白になった髭を撫でつけながら、シャバーンが笑う。ラティーファは今にも泣き出しそうな顔で、月明かりに照らされた夫の横顔を見つめている。妻の視線にようやく気づいたシャバーンが、きょとんとした様子で首を傾げた。
「……どうした?」
「どうしたって……まるでこの先もう上達しないかのような言い方をするから……」
深刻な面持ちのラティーファとは対象的に、シャバーンは高笑いを上げた。
「はははははっ!お前、そりゃそうだろう。わしはもう80歳のおじいちゃんだぞ。お前と歩いても、とうとう初対面で夫婦だと気づく人はだれも居なくなった。何より細かい手先の動きが、すっかりおぼつかなくなった」
そんなシャバーンの言葉に、ラティーファは思わず抱きつかずにはいられなかった。
「……そんなこと言わないで。私……幾つになっても貴方が男性として好きよ。いつだって、私の心をときめかせられるのは貴方だけなんだから」
真剣な眼差しでそう言うラティーファに、シャバーンはまたしても穏やかな笑みを向けた。そして皺だらけの細い指で、彼女の黒髪をそっと優しく撫でた。僅かに白い毛束が増えているが、それもまたシャバーンにとっては愛しく思えた。
「お前には苦労をかけたな」
「シャバーン様、やめて。私…………」
「いいや、言わせてくれ。でないと、もうチャンスがない気がするんだ。頼む」
両目に涙を浮かべるラティーファを抱きしめながら、シャバーンは目を閉じた。思い出すのは、アグラバーで初めて出会った日のことだ。
「覚えているか。まだギリギリ青年だったわしと出会った日のことを」
「……ええ、忘れるはずないわ」
幼い日のラティーファは、両親にダンサーを目指すことを禁じられ、泣きながら家を飛び出して市場を彷徨っていた。そして駆け出しの三流マジシャンをしていたシャバーンに出会い、夢を追う約束を交わしたのだ。
「あの泣き虫の小さなダンサーちゃんが、まさかこんなに綺麗になるなんてな。しかもわしの嫁になるなんて」
「私だって驚いたのよ。ホント、最初はただの恩人だと思っていたから」
それを聞いてシャバーンが悲しそうな顔をする。慌ててラティーファは傷心の夫をフォローした。
「あっ、でっ、でもね。再会してからは少しずつ、ほんの少しずつ、あなたに惹かれていったのよ。気づいたときには、どうしようも無かった。身分も全て捨ててあなたと共に生きる夢を、毎晩のように繰り返し見ていた」
懐かしさに口元を綻ばせるラティーファの頬に、シャバーンが優しく触れる。
「でも、夢じゃない。お前はわしの妻になり、ずっと一緒に支えてくれた」
「ええ、そうね。大好きなダンスを続けさせてくれて、本当にありがとう」
ダンス、と聞いてシャバーンがばつの悪そうな表情に変わる。彼は暫し何かを考えると、やがて決意したように独白した。
「まあ、正直なところ……格好いい男からのファンレターと贈り物の一部は裏庭で焼き捨てたけどな」
「えっ、なにそれ聞いてない」
「今思えば、馬鹿な嫉妬だ。この通り、謝る。すまんかった」
呆れて言葉も出ないラティーファだったが、冷静に考えると昔のシャバーンならやりかねないと思ってため息を付いた。何しろ、妻のエンターテイナーの才能とそのファンの存在に嫉妬して、挙句の果てにダンスを止めさせようとしたこともあるのがシャバーンだからだ。ラティーファはあのときの大喧嘩を思い返すと、苦笑いを浮かべた。
「……ファンの人には気の毒だけど、過ぎたことだしいいわ。あのとき以来はしてないんでしょ」
「ああ、もちろん。……流石に、わしの前でお前にプロポーズを始めたヤツのことは殴ってしまったがな」
ラティーファは当時の様子を思い出したのか、吹き出してしまった。経緯としては、熱烈なラティーファのファンの一人が、シャバーンの目の前でプロポーズを始めたのだ。もちろんラティーファは既婚者なので、男は姦通教唆罪でハイサム国務大臣直々に連行されていった。普段は気弱なシャバーンも、あの時ばかりは手が出ていた。何しろ男の言い分としては『自分もシャバーンと同い年だから、チャンスが有る』ということなのだから、シャバーンの逆鱗に触れるのも無理はない。
「あれは殴られても仕方ないんじゃない?アシームも最後は蹴りを入れてたくらいだし……」
「あいつもなのか?じゃあ、しょうがないな」
二人は顔を見合わせて笑った。それから、彼らは宮殿の方を見た。
「……シハーブは、元気にしているんだろうな」
「ええ。あの子は、あなたのお父様と私のお父様に似たのね」
シハーブとは、二人の初子であり長男だ。今はアグラバーの宮殿で、若いながらも次期国務大臣候補として外交貿易大臣を務めている。ラティーファの器用さと二人の端正な顔立ちを継いでいた彼に、当初シャバーンはマジシャンになることを望んでいた。だが最終的に二人は和解し、それぞれの道を尊重する選択をしたのだ。
それから二人は、庭の方から聞こえてくる軽快なリズムに耳を傾けた。演奏している人物は、二人の長女アリージュだ。
「……あいつは、どうやらお前に似たようだな」
「そうかしら。『説明不足』の言い方はどう見てもあなたに似てるわよ」
「見た目はお前で、中身はわし……って感じの子だな」
アリージュは幼い頃からマジックとダンスに興味を持っており、今では次世代のダンサーマジシャンとして一世を風靡している。似た者同士のシャバーンとは、しょっちゅう喧嘩をしては仲直りを繰り返していた。
ラティーファはシャバーンの方に向き直ると、昔と変わらない暖かく広い胸に顔を埋めた。
「……シャバーン様。あなたは本当に、最高のマジシャンで最高の夫よ。私にたくさんのサプライズをくれた」
「ラティーファ。お前も、最高のダンサーだ。そして同じくらいに最高の妻だ」
二人は見つめ合うと、そっと口づけを交わした。それはいつもとは違う、初めてのキスを思い出させるようなキスだった。
二人は手を繋いで寝室に向かうと、長年一緒に並んで眠り続けたベッドに横たわった。ラティーファはシャバーンの隣へにじり寄ると、手を握ったまま肩に頬を寄せた。
「……シャバーン様、もう寝た?」
「いや、起きてるよ」
ラティーファは息を吸い込んで目を閉じた。それから、虫の知らせを感じて潤む涙を拭って愛する人の方を見つめた。
「あのね。シャバーン様。私ね、あなたのことが大好き……ううん、愛してるわ。これからもずっと、永遠に愛してる」
その言葉に、シャバーンが微笑む。その笑顔は儚いほどに暖かく、妻への愛しさで溢れていた。
「ああ、ラティーファ。わしもお前のことを愛しているよ。永遠に、わしの隣はお前一人だけだ」
二人は額をくっつけて微笑みを交わし、互いのことが見えなくなってしまう事を惜しみながら目を閉じた。
「おやすみなさい、シャバーン様」
「おやすみ、ラティーファ」
お互いに、また明日の言葉を言うことは無かった。いや、何故か出来なかった。
夜中、目を覚ましたラティーファはシャバーンの胸に手を当て、口許に手をかざした。暖かな寝息が手のひらにかかるのを感じ、彼女はホッと胸をなでおろした。
夫を起こしてしまわないように注意を払いながら、ラティーファはその耳元で囁いた。
「愛してるわ。永遠に、あなただけを想い続けます」
そう言うと、彼女は再び眠りについた。このとき少しだけ、シャバーンの口許が綻んだことにラティーファが気づくことは無かった。
朝の光が部屋に差し込み、眩しさでラティーファは目が覚めた。伸びをしながら、彼女はいつまでも寝ている夫に声をかけた。
「シャバーン様、起きて。朝よ。今日は久しぶりに家族みんなでご飯でも――――」
そう言って何気なく伸ばした手が、いつもと違う感触に強張る。ラティーファは息を呑んで愛する人に呼びかけた。
「シャバーン様……?」
だが、返事は無い。
「シャバーン様!?シャバーン様!?」
ラティーファの悲鳴で、アシームとアリージュが駆けつける。パニックになっている母親をなだめながら、アリージュは眠っている父の横顔を見つめることしか出来ない。
こうして、アグラバーで最も偉大なマジシャン・シャバーンは、波乱万丈の生涯に幕を閉じた。葬儀は生前の希望に則って、意外にも親しい者たちだけでひっそりと執り行われた。
そしてそれからわずか5年後、ラティーファもまた突然の心臓病によりこの世を去ることとなった。最期はダンスを踊ることもままならない状態だったが、ダンス教室で最後まで教鞭を取り続けていた。
そんな彼女の最期の表情は、激動の前半生を窺い知ることは出来ないほどにとても穏やかだったという。
目を覚ましたラティーファは、身体が酷く軽いことに気づいた。身体を起こした彼女は、若々しい手と腕に驚きながら辺りを見回した。周囲には色とりどりの花が咲き乱れ、鳥の囀り声も聞こえている。
そんな調子に驚きで唖然としている彼女の背後から、懐かしい声が聞こえた。振り返らずとも誰であるか明白なその声は、あの日と変わらない様子でこう言った。
「――――フィナーレには早すぎだぞ、ラティーファ」
ラティーファは息を呑んで目を丸くした。そして考えるより先に弾き立つと、少女のように駆け出した。
「シャバーン様っ!」
「ラティーファ……!会いたかったけどまだ会いたくなかったぞ」
素直に嬉しいが悲しいと言えない男――――シャバーンにため息を付くと、ラティーファは二度目に会ったときのように口を尖らせた。二人共あの頃と同じ姿で顔を見合わせている。
「何よそれ。じゃあ私帰る」
「あーっ、ちょっと待て!わしが悪かったから帰らんでくれ!」
真剣に引き止める様子が面白かったのか、ラティーファがケラケラと笑い出す。シャバーンはバツが悪そうな顔をしながら、愛する人の手を取った。
「……ずっと、想い続けていた。約束どおりな」
「あら、私もよ。ずっとあなただけを想い続けていたわ」
思いがけない嬉しい告白に、シャバーンが赤面する。咳払いをした彼は、ラティーファの手を取って歩き出した。
「そりゃ嬉しいな。じゃあ、行くとするか」
「ええ、そうね」
どこまでも続く花畑と青空を見ながら、ラティーファが目を細める。
「どこへ行くのかしら、私達」
シャバーンは問に対して少し考えると、肩を竦めた。
「さあな。でも、二人ならどこだって最高のショーになるさ」
「そうね、シャバーン様」
二人は互いを見つめて微笑みを交わした。そして光の彼方へ、ゆっくりと歩き出すのだった。
永遠の愛という、終わらないマジックショーを続けるために。
END
ショーの主役は御年80歳のマジシャン、シャバーン。相変わらずマジックの腕は一流と言い難いものだが、少なくともそのトークはどんなマジシャンですら敵わないほど饒舌だ。アグラバーのご長寿の一人である彼は、今日も年の割にはしゃきっと歩きながら準備を自ら進めている。時折よろめく素振りを見せているが、そのたびに妻でありアシスタントのラティーファが支えていた。
「シャバーン様、今日はアシームに任せて休んだほうが良いのでは?」
「だいじょ、だいじょ、大丈夫に……大丈夫に決まってるだろ!全く、お前はすっかりわしをおじいちゃん扱いするようになったな」
「おじいちゃん扱いも何も、お互い少年少女じゃないでしょ」
シャバーンは顔を上げて妻に微笑みかけた。ラティーファは既に40歳を過ぎているが、少しだけ皺が増えたくらいで昔と変わらない美しい笑顔を浮かべている。シャバーンは準備の手を止めると、妻の頬にそっと触れた。それからふわりと笑いながらこう言った。
「…………相変わらず、綺麗だな。いつもありがとう、ラティーファ」
珍しく素直な夫の姿に、ラティーファはつい嬉しくて口許を綻ばせた。
「ありがとう。あなたも、いつだって素敵ね。ハンサムよ」
「当たり前だろ。なんて言ったって、わしは偉大なマジシャン・シャバーン様だからな」
そう言って裾をヒラつかせるシャバーンは、昔と一つも変わっていない。ラティーファは穏やかな笑みをこぼし、夫の服とマントを整えた。
二人が準備を進めていると、柔らかくも芯が通った男の声が響いた。
「シャバーン様、そろそろ出番ですよ」
「はいはい。でもまずはお前のソロマジックだろ、アシーム」
アシスタントの男――――アシームは自身の主人の言葉に耳を疑った。
「えっ。ワンマンショーなのに、僕がマジックをしてもいいんですか?」
シャバーンといえば、ワンマンショー実現のためにアシスタントを監禁したこともあるほどに目立ちたがりの性分の男である。その彼が、弟子兼アシスタント兼召使いのアシームに、ワンマンショーのファーストマジックを許可しているのだ。
耳を疑いながら硬直するアシームの隣で、ラティーファも眉をひそめてシャバーンを見つめている。対して当の本人は、全員の反応に心外そうな声を上げている。
「お前たち、わしのことを何だと思ってるんだ」
その問いに、二人は示し合わせたわけでもないが、息ぴったりに答えた。
「傍若無人で」
「目立ちたがりの」
「「シャバーン様です」」
「ズキーン」
そう言いながら、シャバーンが心臓を抑えてよろめいたふりをする。しかし今や高齢となった彼がすると、冗談に見えないらしい。ラティーファは手にしていた小道具を放り投げると、慌てて夫を支えた。
「大丈夫!?」
「おいおい、ラティーファ。いつもの冗談じゃないか。そんな本気で心配しないでくれ」
「心配するわよ。今日のあなた、なんだか変よ。どうしちゃったの?」
心配そうに顔を覗きこむラティーファを置いて、アナウンスが響き渡る。本番がやってきたようだ。シャバーンは杖を妻に預けると、しっかりとした足取りで立ち上がり、舞台へと歩き出した。
「さて、もう流石に入口は間違えんぞ」
「ええ、そうしてください」
ラティーファは舞台袖から歩いて遠ざかっていくシャバーンの背中を、静かに見守った。心のなかには僅かに漠然とした不安が広がっていたが、やがて自身の出番の準備をしていないことに気づき、楽屋へと消えていくのだった。
シャバーンのワンマンショーは、初めてのワンマンショーからは想像もつかないほどに大喝采で幕を閉じた。万雷の拍手を受けながら、ラティーファはちらりと夫の横顔を見た。そして、ハッと息を呑んだ。
常に貪欲で足るを知らないシャバーンが、今日は珍しく満ち足りた笑顔を浮かべているのだ。彼は徐ろにラティーファの方を見ると、優しい笑顔を向けてくれた。同じく、アシームにも穏やかな笑みを向けながら小声で「よくやった」と褒めているではないか。
嬉しさと共に、ラティーファの表情に不安の影が落ちた。そして然りげ無くシャバーンの手を握り、その体温を確かめた。その手は初めて手を繋いだときと同じぬくもりを宿している。
暖かな手に安堵したラティーファは、幕が下りるまで空いた方の手を振って笑顔を作った。しかし彼女は舞台袖に戻ったあとも暫く夫の手を離すことはなかった。それはまるで、魔法が解けることを厭う子どものようであった。
ワンマンショーの夜、夫婦はバルコニーのカウチに腰掛けながらアグラバーの街を眺めていた。夜風が堪える年になった二人は、1枚のひざ掛けを分け合って座っている。
こんな静かな夜は、いつもラティーファから他愛もない話を切り出す。だが今日は違った。
「――――カミール先生は、今のわしを見たらなんて言うだろうな」
カミール――――シャバーンのマジックの師匠であり伝説のマジシャンだった男だ。ラティーファも生前は何度か挨拶や交流をさせてもらった人物である。しかし、カミールの偉大さはシャバーンの焦燥を駆り立てる原因の一つでもあった。だからこそ彼は普段、敢えて自身の師の話を避けていた。
しかし、今日は素直に胸の内を話している。
「結局、マジックの腕前は先生の足元にも及ばんかったなぁ。でもまぁ、綺麗な嫁を持つトークが面白いマジシャンになれたから、ある意味偉大か」
「シャバーン様……?」
すっかり真っ白になった髭を撫でつけながら、シャバーンが笑う。ラティーファは今にも泣き出しそうな顔で、月明かりに照らされた夫の横顔を見つめている。妻の視線にようやく気づいたシャバーンが、きょとんとした様子で首を傾げた。
「……どうした?」
「どうしたって……まるでこの先もう上達しないかのような言い方をするから……」
深刻な面持ちのラティーファとは対象的に、シャバーンは高笑いを上げた。
「はははははっ!お前、そりゃそうだろう。わしはもう80歳のおじいちゃんだぞ。お前と歩いても、とうとう初対面で夫婦だと気づく人はだれも居なくなった。何より細かい手先の動きが、すっかりおぼつかなくなった」
そんなシャバーンの言葉に、ラティーファは思わず抱きつかずにはいられなかった。
「……そんなこと言わないで。私……幾つになっても貴方が男性として好きよ。いつだって、私の心をときめかせられるのは貴方だけなんだから」
真剣な眼差しでそう言うラティーファに、シャバーンはまたしても穏やかな笑みを向けた。そして皺だらけの細い指で、彼女の黒髪をそっと優しく撫でた。僅かに白い毛束が増えているが、それもまたシャバーンにとっては愛しく思えた。
「お前には苦労をかけたな」
「シャバーン様、やめて。私…………」
「いいや、言わせてくれ。でないと、もうチャンスがない気がするんだ。頼む」
両目に涙を浮かべるラティーファを抱きしめながら、シャバーンは目を閉じた。思い出すのは、アグラバーで初めて出会った日のことだ。
「覚えているか。まだギリギリ青年だったわしと出会った日のことを」
「……ええ、忘れるはずないわ」
幼い日のラティーファは、両親にダンサーを目指すことを禁じられ、泣きながら家を飛び出して市場を彷徨っていた。そして駆け出しの三流マジシャンをしていたシャバーンに出会い、夢を追う約束を交わしたのだ。
「あの泣き虫の小さなダンサーちゃんが、まさかこんなに綺麗になるなんてな。しかもわしの嫁になるなんて」
「私だって驚いたのよ。ホント、最初はただの恩人だと思っていたから」
それを聞いてシャバーンが悲しそうな顔をする。慌ててラティーファは傷心の夫をフォローした。
「あっ、でっ、でもね。再会してからは少しずつ、ほんの少しずつ、あなたに惹かれていったのよ。気づいたときには、どうしようも無かった。身分も全て捨ててあなたと共に生きる夢を、毎晩のように繰り返し見ていた」
懐かしさに口元を綻ばせるラティーファの頬に、シャバーンが優しく触れる。
「でも、夢じゃない。お前はわしの妻になり、ずっと一緒に支えてくれた」
「ええ、そうね。大好きなダンスを続けさせてくれて、本当にありがとう」
ダンス、と聞いてシャバーンがばつの悪そうな表情に変わる。彼は暫し何かを考えると、やがて決意したように独白した。
「まあ、正直なところ……格好いい男からのファンレターと贈り物の一部は裏庭で焼き捨てたけどな」
「えっ、なにそれ聞いてない」
「今思えば、馬鹿な嫉妬だ。この通り、謝る。すまんかった」
呆れて言葉も出ないラティーファだったが、冷静に考えると昔のシャバーンならやりかねないと思ってため息を付いた。何しろ、妻のエンターテイナーの才能とそのファンの存在に嫉妬して、挙句の果てにダンスを止めさせようとしたこともあるのがシャバーンだからだ。ラティーファはあのときの大喧嘩を思い返すと、苦笑いを浮かべた。
「……ファンの人には気の毒だけど、過ぎたことだしいいわ。あのとき以来はしてないんでしょ」
「ああ、もちろん。……流石に、わしの前でお前にプロポーズを始めたヤツのことは殴ってしまったがな」
ラティーファは当時の様子を思い出したのか、吹き出してしまった。経緯としては、熱烈なラティーファのファンの一人が、シャバーンの目の前でプロポーズを始めたのだ。もちろんラティーファは既婚者なので、男は姦通教唆罪でハイサム国務大臣直々に連行されていった。普段は気弱なシャバーンも、あの時ばかりは手が出ていた。何しろ男の言い分としては『自分もシャバーンと同い年だから、チャンスが有る』ということなのだから、シャバーンの逆鱗に触れるのも無理はない。
「あれは殴られても仕方ないんじゃない?アシームも最後は蹴りを入れてたくらいだし……」
「あいつもなのか?じゃあ、しょうがないな」
二人は顔を見合わせて笑った。それから、彼らは宮殿の方を見た。
「……シハーブは、元気にしているんだろうな」
「ええ。あの子は、あなたのお父様と私のお父様に似たのね」
シハーブとは、二人の初子であり長男だ。今はアグラバーの宮殿で、若いながらも次期国務大臣候補として外交貿易大臣を務めている。ラティーファの器用さと二人の端正な顔立ちを継いでいた彼に、当初シャバーンはマジシャンになることを望んでいた。だが最終的に二人は和解し、それぞれの道を尊重する選択をしたのだ。
それから二人は、庭の方から聞こえてくる軽快なリズムに耳を傾けた。演奏している人物は、二人の長女アリージュだ。
「……あいつは、どうやらお前に似たようだな」
「そうかしら。『説明不足』の言い方はどう見てもあなたに似てるわよ」
「見た目はお前で、中身はわし……って感じの子だな」
アリージュは幼い頃からマジックとダンスに興味を持っており、今では次世代のダンサーマジシャンとして一世を風靡している。似た者同士のシャバーンとは、しょっちゅう喧嘩をしては仲直りを繰り返していた。
ラティーファはシャバーンの方に向き直ると、昔と変わらない暖かく広い胸に顔を埋めた。
「……シャバーン様。あなたは本当に、最高のマジシャンで最高の夫よ。私にたくさんのサプライズをくれた」
「ラティーファ。お前も、最高のダンサーだ。そして同じくらいに最高の妻だ」
二人は見つめ合うと、そっと口づけを交わした。それはいつもとは違う、初めてのキスを思い出させるようなキスだった。
二人は手を繋いで寝室に向かうと、長年一緒に並んで眠り続けたベッドに横たわった。ラティーファはシャバーンの隣へにじり寄ると、手を握ったまま肩に頬を寄せた。
「……シャバーン様、もう寝た?」
「いや、起きてるよ」
ラティーファは息を吸い込んで目を閉じた。それから、虫の知らせを感じて潤む涙を拭って愛する人の方を見つめた。
「あのね。シャバーン様。私ね、あなたのことが大好き……ううん、愛してるわ。これからもずっと、永遠に愛してる」
その言葉に、シャバーンが微笑む。その笑顔は儚いほどに暖かく、妻への愛しさで溢れていた。
「ああ、ラティーファ。わしもお前のことを愛しているよ。永遠に、わしの隣はお前一人だけだ」
二人は額をくっつけて微笑みを交わし、互いのことが見えなくなってしまう事を惜しみながら目を閉じた。
「おやすみなさい、シャバーン様」
「おやすみ、ラティーファ」
お互いに、また明日の言葉を言うことは無かった。いや、何故か出来なかった。
夜中、目を覚ましたラティーファはシャバーンの胸に手を当て、口許に手をかざした。暖かな寝息が手のひらにかかるのを感じ、彼女はホッと胸をなでおろした。
夫を起こしてしまわないように注意を払いながら、ラティーファはその耳元で囁いた。
「愛してるわ。永遠に、あなただけを想い続けます」
そう言うと、彼女は再び眠りについた。このとき少しだけ、シャバーンの口許が綻んだことにラティーファが気づくことは無かった。
朝の光が部屋に差し込み、眩しさでラティーファは目が覚めた。伸びをしながら、彼女はいつまでも寝ている夫に声をかけた。
「シャバーン様、起きて。朝よ。今日は久しぶりに家族みんなでご飯でも――――」
そう言って何気なく伸ばした手が、いつもと違う感触に強張る。ラティーファは息を呑んで愛する人に呼びかけた。
「シャバーン様……?」
だが、返事は無い。
「シャバーン様!?シャバーン様!?」
ラティーファの悲鳴で、アシームとアリージュが駆けつける。パニックになっている母親をなだめながら、アリージュは眠っている父の横顔を見つめることしか出来ない。
こうして、アグラバーで最も偉大なマジシャン・シャバーンは、波乱万丈の生涯に幕を閉じた。葬儀は生前の希望に則って、意外にも親しい者たちだけでひっそりと執り行われた。
そしてそれからわずか5年後、ラティーファもまた突然の心臓病によりこの世を去ることとなった。最期はダンスを踊ることもままならない状態だったが、ダンス教室で最後まで教鞭を取り続けていた。
そんな彼女の最期の表情は、激動の前半生を窺い知ることは出来ないほどにとても穏やかだったという。
目を覚ましたラティーファは、身体が酷く軽いことに気づいた。身体を起こした彼女は、若々しい手と腕に驚きながら辺りを見回した。周囲には色とりどりの花が咲き乱れ、鳥の囀り声も聞こえている。
そんな調子に驚きで唖然としている彼女の背後から、懐かしい声が聞こえた。振り返らずとも誰であるか明白なその声は、あの日と変わらない様子でこう言った。
「――――フィナーレには早すぎだぞ、ラティーファ」
ラティーファは息を呑んで目を丸くした。そして考えるより先に弾き立つと、少女のように駆け出した。
「シャバーン様っ!」
「ラティーファ……!会いたかったけどまだ会いたくなかったぞ」
素直に嬉しいが悲しいと言えない男――――シャバーンにため息を付くと、ラティーファは二度目に会ったときのように口を尖らせた。二人共あの頃と同じ姿で顔を見合わせている。
「何よそれ。じゃあ私帰る」
「あーっ、ちょっと待て!わしが悪かったから帰らんでくれ!」
真剣に引き止める様子が面白かったのか、ラティーファがケラケラと笑い出す。シャバーンはバツが悪そうな顔をしながら、愛する人の手を取った。
「……ずっと、想い続けていた。約束どおりな」
「あら、私もよ。ずっとあなただけを想い続けていたわ」
思いがけない嬉しい告白に、シャバーンが赤面する。咳払いをした彼は、ラティーファの手を取って歩き出した。
「そりゃ嬉しいな。じゃあ、行くとするか」
「ええ、そうね」
どこまでも続く花畑と青空を見ながら、ラティーファが目を細める。
「どこへ行くのかしら、私達」
シャバーンは問に対して少し考えると、肩を竦めた。
「さあな。でも、二人ならどこだって最高のショーになるさ」
「そうね、シャバーン様」
二人は互いを見つめて微笑みを交わした。そして光の彼方へ、ゆっくりと歩き出すのだった。
永遠の愛という、終わらないマジックショーを続けるために。
END
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