1、幸せと軛
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アグラバーはサルタン国王の治世。市場の郊外にほんの少し大きな邸宅を構えているマジシャンの男がいた。その名をシャバーンと言い、若く美しい妻とその乳母、心根の優しいアシスタント兼召使、そして毒舌な喋る蛇と共に暮らしていた。彼はいつものように優雅な夕食後のティータイムを楽し…………
「シャバーン様っ!」
「はっ、はいぃ」
…………とはいかないようだ。シャバーンは今日も、滾々と美しい妻に説教されていた。妻のラティーファの右手には、綺麗に折れ曲がっているマジック道具の棒が握られている。
「シャバーン様、道具はパフォーマーの命と同じなのよ。…………正確には、自分の命が一番大事なんだけどね」
「わしにとってはお前が世界で一番大事だぞ」
「そーいう話をしてるんじゃなくて!全くもう…………」
シャバーンの特技、余計に怒らせるが炸裂した。ラティーファはすっかり呆れており、マジックの棒をアシームに返して夫にこう言った。
「とにかく、次の公演までには直してね。間違っても新しいのは買わないでよ。まだ使えるんだから……」
そう言い残して、彼女は部屋を後にしてしまった。残されたシャバーンは気まずそうに、上目遣いでアシームの方を見た。しかし、少年は逆に厳しい眼差しをシャバーンに向けている。彼はどこ吹く風の主人に呆れながら、折れた棒を突きつけた。
「シャバーン様が悪いと思います」
「えっ、わしのせい!?」
大げさに驚いているシャバーンに対して、少年は生真面目に頷いた。
「当たり前でしょ。僕も、マジックの道具は命と同じくらいに大切だと思いますよ」
「アシーム、お前いつの間に厳しくなったんだ」
「シャバーン様を甘やかすとろくな事にならないって、全員気づいたんじゃないんですか?」
「それはまぁ……」
シャバーンの歯切れが悪くなる。アシームはハッとして言い過ぎたと頭を下げた。だが、意外にも彼の主人は以前と違って素直な様子を見せている。
「いや、わしが悪かった。ラティーファにも謝ってくるよ」
「シャバーン様…………」
「いかんなぁ、ついつい昔の癖が……」
シャバーンは穏やかな表情を湛えながら立ち上がると、真っ直ぐラティーファの元へと歩き出した。既に外は夕日が落ちており、彼の妻はバルコニーのテラスの近くに置いてあるカウチに腰掛けていた。相変わらずダンサーとしても女性としても美しい居姿に、シャバーンは思わずため息を漏らした。
いつもなら、ラティーファの方が先にシャバーンの存在に気づいてくれて、隣に座るよう声をかけてくれるはずだった。しかし、今日はどこか違った様子だ。彼はそこまで怒らせてしまったのかと焦ると、ラティーファの隣に腰掛けた。それでも彼女は気づく様子もなく、無言で外を眺めている。視線の先には、アグラバーの王宮が見えた。外には無数の灯籠が打ち上げられており、きらびやかな街の様子はアグラバーに住む者なら誰でも心奪われる光景だった。
だがそんな中、ラティーファは一人涙を流していた。シャバーンは自分のせいで泣いていると思い込み、彼女を抱きしめて謝った。
「ラティーファ!?どうしたんだ、わしのせいなのか?あぁ…………すまない、本当に」
しかし、当の本人はいつの間にか現れた夫に抱きしめられたことに対し、驚きの眼差しを向けている。彼女は目を丸くしながら、慌てて涙を拭いて笑顔を作った。
「あぁ、なんだ。シャバーン様、来てたのね。大丈夫よ、あなたのせいじゃないから」
ラティーファはそう言うと、再び空に漂う灯籠に視線を戻した。
「…………幼い頃、両親と豊饒前夜祭の灯籠流しを一緒にしたことがあったの。もちろん、目的は国務だったけどね。それでも、私にとっては家族の思い出だった」
両親、と聞いてシャバーンの表情が憂いの色に変わる。ラティーファも俯きながら、呟くように続けた。
「あのね、私…………時々自分が嫌になるの。幸せな毎日を送るたびに、私の幸せは…………」
言葉に詰まる妻の肩を、シャバーンは無言で抱き寄せた。
「…………私の両親の不幸の上に成り立っているんだ、って思うのよね」
かける言葉が見当たらず、シャバーンは無言で俯いた。どんな言葉も、薄っぺらく聞こえてしまうような気がして、彼は唇を噛み締めた。
不自然な沈黙に気づいたラティーファは、慌てて立ち上がって両手を横に振った。ぎこちない笑みを浮かべながら、彼女は夫に頭を下げた。
「あっ、ごめんなさい。思うことがあるってだけだから。さて!明日は何カレーかな。アシームの当番だから、きっと美味しいご飯だと思うわ」
空元気を察したシャバーンは、その腕を掴んで真っ直ぐに妻の目を見た。いつになく真面目な表情に、ラティーファは驚いている。
「えっ……と…………棒のことなら、ごめんなさい。私も言い過ぎたし、気にしな――――――」
「そういう話じゃない」
シャバーンは普段からは想像もつかないくらいに強い力で彼女を引き寄せると、震える両手で力強く抱きしめた。
「もっと、わしのことを頼ってくれ。そりゃ、頼りないのは分かってる。だけど、だけどな。わしだってお前の夫なんだ。お前の幸せも、喜びも、そして痛みも、全部分け合って背負うくらいはしてやりたい」
「シャバーン様…………」
ラティーファは顔を上げると、皺の滲む端正な夫の顔にそっと右手を添えた。その健気な微笑みに、シャバーンの胸が痛む。
「ありがとう、シャバーン様」
素直に礼を言われて、シャバーンが頬を赤く染める。それからそっぽを向いて、歯切れの悪い返事をした。
「…………別に。夫として当然のことをしたまでだ」
「あーっ、また天邪鬼してる」
「べっ、別に!天邪鬼じゃないぞ!!」
そう言ってけらけらと笑っているラティーファは、いつもの彼女そのものだった。シャバーンは安堵のため息をつくと、愛する妻の頭を不器用に撫でた。
「良かった、元気になって」
「私はいつも元気よ!安心して!!」
ラティーファは不格好なファイティングポーズを取っている。シャバーンはふわりと微笑むと、妻の手を取った。
「さ、もう夜も遅い。寝ようか」
「そうね。明日は王宮で収穫祭の演目の打ち合わせだから、早起きしなきゃ」
「ジャスミン姫と思う存分話してきなさい。わしはクロちゃんとフリードたちとで仕事をするよ」
言い終わるや否や、シャバーンはハッとした。それから慌ててこう付け加えた。
「…………あと、ナルジス姫とも」
「そうね…………」
ナルジィ、と呟きながらラティーファは俯いた。二人の友情は、誰もが知るほどアグラバーの美談だった。だが、そんな美しい友愛は、ナルジスがジャファー国務大臣をひたむきに想い慕い続けるあまり、いつの間にか二つに引き裂かれてしまった。ジャファーが前国務大臣夫妻を暗殺したという噂と、その真実を知るラティーファ。彼女はいつしかナルジスを避けるようになっていた。そしてナルジスもまた、心の何処かで真実を知りたくないと思っているのか、自然と距離を置くようになってしまった。それでも二人は、会えば昔のように楽しい話に花を咲かせているらしい。それが返ってラティーファを苦しめていることも知らず。
シャバーンは余計なことを言ってしまったと気づき、妻を気遣い顔を覗き込んだ。しかし、それでもラティーファは笑顔を崩すことなく返事をした。
「ナルジス、最近はあまり調子が良くないみたい。私が元気づけてあげないとね!あと、ジャスミンに新しい本をプレゼントしないと。為政学の本は買ってくれないんだって嘆いてたわ」
シャバーンは空元気の返答に、悲しげに微笑んだ。
「そうか。夕刻には迎えに行くから、それまで楽しんでいなさい」
「ありがとう、シャバーン様!」
ラティーファはそう言うと、ベッドに腰掛けながら夫に抱きついた。シャバーンの心臓にはあまりに悪すぎるサプライズだ。彼は頬を赤く染めながら、新郎のように声を震わせた。
「おっと……こらこら、明日は早いんだから…………」
「でも、言わせて。ありがとう」
ラティーファが感謝するのも無理はない。アグラバーはまだまだ保守的な文化が根強く残っている国であった。何より、男女の別は薄れることなく残っており、本来結婚した妻は家か夫の傍に常にいなければならないという慣習があった。しかし、シャバーンはラティーファを信じて愛する故に、敢えてその風習に彼女を当てはめたがらなかった。そしてラティーファは、シャバーンの年代でアグラバーの慣習を破る人が少ないことを知っていた。何より、昔の気に入らないことがあればすぐに閉じ込めたり独善的に振る舞う夫が、ここまで変わったことが嬉しかった。
「……どういたしまして」
ラティーファは夫の返事を聞き終えると、満足げな笑みを浮かべてベッドに倒れ込んだ。そして行儀よく姿勢を正すと、長いまつ毛を揺らして目を閉じた。
「じゃ、おやすみなさい」
「はーい、おやすみなさ…………って、えっ!?えっ!?」
一体何をする気だったのかは明記しないが、出鼻をくじかれたシャバーンは驚愕の声を上げた。もちろんそんな夫の大声も気にせず、ラティーファはすやすやと寝息を立てている。
「ラティーファ…………これはあんまりだぞぉ…………」
と、嘆きながらもシャバーンは渋々隣に横たわった。彼は音を立てないようにそっと妻の方に姿勢を変えると、愛らしい寝顔を眺めながら微笑んだ。
「ま、いっか。おやすみ、ラティーファ。良い夢を見るんだぞ」
シャバーンの言葉に、心做しかラティーファの口許が綻んだ気がした。そして彼も、最愛の妻を抱きしめながら、心地良い体温を感じながら眠りにつくのだった。
夜中、シャバーンはラティーファの声で目覚めた。
「嫌…………お母様…………お父様…………」
「ラティーファ……?」
またか。シャバーンはため息をつきながら、魘されているラティーファを覗き込んだ。悪夢――――あの日の夢を見ているようだ。毎月、命日が近づくと彼女はこうして毎晩魘されていた。それはアシームも、そして本人すらも知らないことだった。シャバーンも本当は誰かに打ち明けて相談したかったのだが、目覚めた現実の日々でも苦悩するラティーファを見ていると何も言えなかった。口に出してしまえば、彼女が壊れてしまう。そんな気がしたのだ。
「ラティーファ…………」
いっそ、過去に戻ることができたなら。
「お前と、お前の家族を救えるのに」
例えそれが、二人が結ばれる結末を邪魔したとしても。シャバーンは毎回、苛烈な夢に囚われるラティーファを優しく抱きしめることしかできない。それでも、ほんの少しだけでもそれが彼女の救いになることを願って、彼は再び目を閉じた。
「シャバーン様っ!」
「はっ、はいぃ」
…………とはいかないようだ。シャバーンは今日も、滾々と美しい妻に説教されていた。妻のラティーファの右手には、綺麗に折れ曲がっているマジック道具の棒が握られている。
「シャバーン様、道具はパフォーマーの命と同じなのよ。…………正確には、自分の命が一番大事なんだけどね」
「わしにとってはお前が世界で一番大事だぞ」
「そーいう話をしてるんじゃなくて!全くもう…………」
シャバーンの特技、余計に怒らせるが炸裂した。ラティーファはすっかり呆れており、マジックの棒をアシームに返して夫にこう言った。
「とにかく、次の公演までには直してね。間違っても新しいのは買わないでよ。まだ使えるんだから……」
そう言い残して、彼女は部屋を後にしてしまった。残されたシャバーンは気まずそうに、上目遣いでアシームの方を見た。しかし、少年は逆に厳しい眼差しをシャバーンに向けている。彼はどこ吹く風の主人に呆れながら、折れた棒を突きつけた。
「シャバーン様が悪いと思います」
「えっ、わしのせい!?」
大げさに驚いているシャバーンに対して、少年は生真面目に頷いた。
「当たり前でしょ。僕も、マジックの道具は命と同じくらいに大切だと思いますよ」
「アシーム、お前いつの間に厳しくなったんだ」
「シャバーン様を甘やかすとろくな事にならないって、全員気づいたんじゃないんですか?」
「それはまぁ……」
シャバーンの歯切れが悪くなる。アシームはハッとして言い過ぎたと頭を下げた。だが、意外にも彼の主人は以前と違って素直な様子を見せている。
「いや、わしが悪かった。ラティーファにも謝ってくるよ」
「シャバーン様…………」
「いかんなぁ、ついつい昔の癖が……」
シャバーンは穏やかな表情を湛えながら立ち上がると、真っ直ぐラティーファの元へと歩き出した。既に外は夕日が落ちており、彼の妻はバルコニーのテラスの近くに置いてあるカウチに腰掛けていた。相変わらずダンサーとしても女性としても美しい居姿に、シャバーンは思わずため息を漏らした。
いつもなら、ラティーファの方が先にシャバーンの存在に気づいてくれて、隣に座るよう声をかけてくれるはずだった。しかし、今日はどこか違った様子だ。彼はそこまで怒らせてしまったのかと焦ると、ラティーファの隣に腰掛けた。それでも彼女は気づく様子もなく、無言で外を眺めている。視線の先には、アグラバーの王宮が見えた。外には無数の灯籠が打ち上げられており、きらびやかな街の様子はアグラバーに住む者なら誰でも心奪われる光景だった。
だがそんな中、ラティーファは一人涙を流していた。シャバーンは自分のせいで泣いていると思い込み、彼女を抱きしめて謝った。
「ラティーファ!?どうしたんだ、わしのせいなのか?あぁ…………すまない、本当に」
しかし、当の本人はいつの間にか現れた夫に抱きしめられたことに対し、驚きの眼差しを向けている。彼女は目を丸くしながら、慌てて涙を拭いて笑顔を作った。
「あぁ、なんだ。シャバーン様、来てたのね。大丈夫よ、あなたのせいじゃないから」
ラティーファはそう言うと、再び空に漂う灯籠に視線を戻した。
「…………幼い頃、両親と豊饒前夜祭の灯籠流しを一緒にしたことがあったの。もちろん、目的は国務だったけどね。それでも、私にとっては家族の思い出だった」
両親、と聞いてシャバーンの表情が憂いの色に変わる。ラティーファも俯きながら、呟くように続けた。
「あのね、私…………時々自分が嫌になるの。幸せな毎日を送るたびに、私の幸せは…………」
言葉に詰まる妻の肩を、シャバーンは無言で抱き寄せた。
「…………私の両親の不幸の上に成り立っているんだ、って思うのよね」
かける言葉が見当たらず、シャバーンは無言で俯いた。どんな言葉も、薄っぺらく聞こえてしまうような気がして、彼は唇を噛み締めた。
不自然な沈黙に気づいたラティーファは、慌てて立ち上がって両手を横に振った。ぎこちない笑みを浮かべながら、彼女は夫に頭を下げた。
「あっ、ごめんなさい。思うことがあるってだけだから。さて!明日は何カレーかな。アシームの当番だから、きっと美味しいご飯だと思うわ」
空元気を察したシャバーンは、その腕を掴んで真っ直ぐに妻の目を見た。いつになく真面目な表情に、ラティーファは驚いている。
「えっ……と…………棒のことなら、ごめんなさい。私も言い過ぎたし、気にしな――――――」
「そういう話じゃない」
シャバーンは普段からは想像もつかないくらいに強い力で彼女を引き寄せると、震える両手で力強く抱きしめた。
「もっと、わしのことを頼ってくれ。そりゃ、頼りないのは分かってる。だけど、だけどな。わしだってお前の夫なんだ。お前の幸せも、喜びも、そして痛みも、全部分け合って背負うくらいはしてやりたい」
「シャバーン様…………」
ラティーファは顔を上げると、皺の滲む端正な夫の顔にそっと右手を添えた。その健気な微笑みに、シャバーンの胸が痛む。
「ありがとう、シャバーン様」
素直に礼を言われて、シャバーンが頬を赤く染める。それからそっぽを向いて、歯切れの悪い返事をした。
「…………別に。夫として当然のことをしたまでだ」
「あーっ、また天邪鬼してる」
「べっ、別に!天邪鬼じゃないぞ!!」
そう言ってけらけらと笑っているラティーファは、いつもの彼女そのものだった。シャバーンは安堵のため息をつくと、愛する妻の頭を不器用に撫でた。
「良かった、元気になって」
「私はいつも元気よ!安心して!!」
ラティーファは不格好なファイティングポーズを取っている。シャバーンはふわりと微笑むと、妻の手を取った。
「さ、もう夜も遅い。寝ようか」
「そうね。明日は王宮で収穫祭の演目の打ち合わせだから、早起きしなきゃ」
「ジャスミン姫と思う存分話してきなさい。わしはクロちゃんとフリードたちとで仕事をするよ」
言い終わるや否や、シャバーンはハッとした。それから慌ててこう付け加えた。
「…………あと、ナルジス姫とも」
「そうね…………」
ナルジィ、と呟きながらラティーファは俯いた。二人の友情は、誰もが知るほどアグラバーの美談だった。だが、そんな美しい友愛は、ナルジスがジャファー国務大臣をひたむきに想い慕い続けるあまり、いつの間にか二つに引き裂かれてしまった。ジャファーが前国務大臣夫妻を暗殺したという噂と、その真実を知るラティーファ。彼女はいつしかナルジスを避けるようになっていた。そしてナルジスもまた、心の何処かで真実を知りたくないと思っているのか、自然と距離を置くようになってしまった。それでも二人は、会えば昔のように楽しい話に花を咲かせているらしい。それが返ってラティーファを苦しめていることも知らず。
シャバーンは余計なことを言ってしまったと気づき、妻を気遣い顔を覗き込んだ。しかし、それでもラティーファは笑顔を崩すことなく返事をした。
「ナルジス、最近はあまり調子が良くないみたい。私が元気づけてあげないとね!あと、ジャスミンに新しい本をプレゼントしないと。為政学の本は買ってくれないんだって嘆いてたわ」
シャバーンは空元気の返答に、悲しげに微笑んだ。
「そうか。夕刻には迎えに行くから、それまで楽しんでいなさい」
「ありがとう、シャバーン様!」
ラティーファはそう言うと、ベッドに腰掛けながら夫に抱きついた。シャバーンの心臓にはあまりに悪すぎるサプライズだ。彼は頬を赤く染めながら、新郎のように声を震わせた。
「おっと……こらこら、明日は早いんだから…………」
「でも、言わせて。ありがとう」
ラティーファが感謝するのも無理はない。アグラバーはまだまだ保守的な文化が根強く残っている国であった。何より、男女の別は薄れることなく残っており、本来結婚した妻は家か夫の傍に常にいなければならないという慣習があった。しかし、シャバーンはラティーファを信じて愛する故に、敢えてその風習に彼女を当てはめたがらなかった。そしてラティーファは、シャバーンの年代でアグラバーの慣習を破る人が少ないことを知っていた。何より、昔の気に入らないことがあればすぐに閉じ込めたり独善的に振る舞う夫が、ここまで変わったことが嬉しかった。
「……どういたしまして」
ラティーファは夫の返事を聞き終えると、満足げな笑みを浮かべてベッドに倒れ込んだ。そして行儀よく姿勢を正すと、長いまつ毛を揺らして目を閉じた。
「じゃ、おやすみなさい」
「はーい、おやすみなさ…………って、えっ!?えっ!?」
一体何をする気だったのかは明記しないが、出鼻をくじかれたシャバーンは驚愕の声を上げた。もちろんそんな夫の大声も気にせず、ラティーファはすやすやと寝息を立てている。
「ラティーファ…………これはあんまりだぞぉ…………」
と、嘆きながらもシャバーンは渋々隣に横たわった。彼は音を立てないようにそっと妻の方に姿勢を変えると、愛らしい寝顔を眺めながら微笑んだ。
「ま、いっか。おやすみ、ラティーファ。良い夢を見るんだぞ」
シャバーンの言葉に、心做しかラティーファの口許が綻んだ気がした。そして彼も、最愛の妻を抱きしめながら、心地良い体温を感じながら眠りにつくのだった。
夜中、シャバーンはラティーファの声で目覚めた。
「嫌…………お母様…………お父様…………」
「ラティーファ……?」
またか。シャバーンはため息をつきながら、魘されているラティーファを覗き込んだ。悪夢――――あの日の夢を見ているようだ。毎月、命日が近づくと彼女はこうして毎晩魘されていた。それはアシームも、そして本人すらも知らないことだった。シャバーンも本当は誰かに打ち明けて相談したかったのだが、目覚めた現実の日々でも苦悩するラティーファを見ていると何も言えなかった。口に出してしまえば、彼女が壊れてしまう。そんな気がしたのだ。
「ラティーファ…………」
いっそ、過去に戻ることができたなら。
「お前と、お前の家族を救えるのに」
例えそれが、二人が結ばれる結末を邪魔したとしても。シャバーンは毎回、苛烈な夢に囚われるラティーファを優しく抱きしめることしかできない。それでも、ほんの少しだけでもそれが彼女の救いになることを願って、彼は再び目を閉じた。