3、今こそ抗うとき
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目が覚めると、そこはまたアグラバーの市場だった。シャバーンはまず先に背中を確認した。しかし、不思議なことに怪我はしていない。隣には疲れ切っている様子のジーニーがいる。
「…………また戻ってきたのか」
「ええ、これでもう両手の指じゃ数えられなくなりました」
ジーニーの言葉にシャバーンは驚きを隠すことができなかった。続いて彼は突然割れるように痛みだした頭を抱え、その場に崩れ落ちた。
全ての記憶が走馬灯のように流れていく。そう、あれから彼は何度も何度もラティーファを救うために戻り続けていた。ジーニーの魔法は結局最後まで、使うことはできなかった。代わりに何故か超常的な現象が発生し、元の世界には戻ることができない代わりに同じ日が繰り返され始めたのだ。シャバーンはその度に様々な方法でラティーファを助けようとし、その度に最悪の結末を迎えていた。そして時間が巻き戻るきっかけは、どうやらラティーファの死らしい。
シャバーンは絶望的な状況と、頭の中から離れてくれない彼女の死の間際の様子に、叫びそうになっていた。ジーニーも血なまぐさい結末を何度も見せられた結果、最初の頃の元気をなくしている。
ふと、ジーニーは何かを閃いた。
「…………ねぇ、これって本当に現実?」
「何言ってるんだ。あの血の香りと生暖かさ、どう見ても現実だろうが!あぁ、気が狂いそうだ…………」
「それだよ、それだよ!!これがジャファーの復讐なら、そういうことなんじゃない?って」
シャバーンは目を丸くしてジーニーを見た。確かに、ジーニーの魔力を制御したり時間を巻き戻したり…………この世界はおかしな事が起きすぎている。だとすると、二人が向かうべき場所はハイサム邸ではない。
考えるより先に、シャバーンとジーニーは王宮へ駆け出していた。
「このっ、ポンコツ魔神!なーんでもっと早くに気づかなかったんだ!」
「しょーがないでしょ!俺だって人生初のトラブル事例なんだからぁ」
「もういい!とにかく急ぐぞ。ジーニー、ジャファーがいる場所はどこだ」
ジーニーはやれやれと肩を竦めた。それから市場のカーペットを適当にくすねると、何度か魔力を送りつけてやっとのことで空飛ぶ絨毯に変えた。シャバーンは最初、こんなに魔力が不安定な状況で絨毯に乗ることを躊躇していた。だが、ラティーファのため……そして元の世界に戻ることを考えると、背に腹は代えられない。
シャバーンは息を呑みながら、恐る恐る絨毯に足を乗せた。すると絨毯は彼らの意図を理解したかのように、全速力で宮殿へと飛び出していった。時折不安定な動きをしているが、なんとか宮殿の国務大臣執務室までは飛んでいけそうだ。とはいえ、ここまで思いつきでやって来ていることもあり、ジーニーは心配そうにシャバーンを見た。しかし、思ったより隣に座っているマジシャンは頼り甲斐のある面持ちをしている。そんなかつての主人を見て、ジーニーはふわりと笑った。
「…………あんた、やっぱり変わったね」
「わしが変わったんじゃない、あの子のおかげだ。だからこそ、わしはこの世界のラティーファも助けて、元の世界に戻る。たったそれだけのことだ」
「なるほどね」
昔からは考えられないほどに謙虚な答えに、ジーニーは少しだけ残念そうな顔をした。
今のこいつになら、ちょっとだけ仕えても良いかもなぁ〜って、思っちゃうじゃん。
そんなことを隣で思われているとも知らず、シャバーンは真剣な眼差しで宮殿を見据えている。そしてついに、国務大臣執務室へと2人は辿り着いた。
予想通り、待っていましたとばかりに余裕綽々なジャファーが2人の方へと振り返った。
「あぁ…………やっと来てくれた。遅かったではないか、老いぼれマジシャン」
シャバーンはとりあえず拳を握りしめると、ジャファーに向かって駆け出した。
「ジャファーっ!!今度こそ、もう許さんぞ!」
「おっと、最強の魔神のわしを侮るなよ?」
ジャファーの一振りで、シャバーンが吹き飛ばされる。バルコニーに身体が投げ出される直前に、ジーニーが彼を片手で受け止めた。
「ああ、助かった…………」
「魔神と一緒に閉じ込めたのは失敗だったか。まぁいい、素敵な悪夢を見られただろう?貴様らは、未来永劫この悪夢から逃れることはできん!」
シャバーンは立ち上がると、ジャファーの机の上に置いてある水晶玉を見た。ジーニーも頷いている。どうやらあれがこの世界を支配するための源のようだ。彼はジャファーの注意を逸らすために、暫し情報を集めるための雑談を試みることにした。
「まぁ趣味の良い悪夢だった、お前にしてはな。しかし、ここはどうせ妄想の世界だろう?お前が国務大臣に返り咲き、邪魔な小僧もおらず、好き勝手できる夢の世界」
シャバーンの冗舌に載せられたジャファーは、心地よさそうに笑った。そして、陰惨な笑みを浮かべながらこう言った。
「あぁ…………そうか。お前はそう思っているわけか。確かに、半分は正解だ。三流マジシャンの割には良く頑張った。褒美をくれてやろう、この悪夢を完成させるためのな」
シャバーンは息を呑んだ。まだ何かあるというのか。ジャファーは水晶玉を手に取ると、曰く三流マジシャンの目の前に右手を突き出して高笑いした。
水晶玉に映っているのは、この世界のラティーファだった。
「まさか…………」
「これは、お前の愛する妻だ。私がこの世界に連れてきてやった。夫婦は一緒にしてやらんと、可哀想だからな」
シャバーンは驚愕のあまり、声も出ない有り様だ。ジーニーも最悪の結末に、頭を抱えている。シャバーンは真っ白になりそうな頭を必死に回転させながら、この世界で起きたことを反芻した。
では、あのとき何度も繰り返し…………繰り返し失ってきたあの子は…………
「わしの愛するラティーファ自身だったと言うのか……?」
「そうだ。あぁ、哀れなシャバーン。貴様の無力さ故に何度も目の前で失ってきたあの娘は、他でもない妻自身なのだよ。もっとも、記憶は封印させてもらったがね」
シャバーンはジャファーの言葉に、力なく膝をついた。ジーニーも、心配そうにその肩をそっと抱きしめてくれている。絶望に打ちひしがれる二人を見て、ジャファーは勝利の高笑いを上げた。
「あーっはっはっはっはっ!哀れな奴らめ。真実の愛なんぞ、我が魔術の前では全てが無力なのだ!」
しかし、ジャファーは次の瞬間、自分の右手が軽くなったことに気づいた。ハッとした彼が右側を向くと、そこには水晶玉を全力で床に叩きつけるシャバーンがいた。ジャファーが叫ぶより前に、音を立てて水晶玉が砕け散る。
「よしっ!これで元の世界に――――」
だが、何も起こらない。対して、ジャファーは苛立ちさえしているものの、相変わらず余裕そうだ。
「馬鹿な奴らだ。この水晶玉を壊して元に戻るのは嫁の記憶だけだ。元の世界に戻るには、元の世界に置いた対になる水晶玉を壊すしかない!」
ジャファーはそう言って笑いながら、シャバーンたちを見下ろした。ぞっとするような、惨忍な笑顔を向けたまま、彼はこう言い放った。
「ああ、そうだ。すっかり言うのを忘れていたが…………この水晶玉を壊したということは、ラティーファの記憶は継承されたままになるぞ」
「…………何が言いたい」
「つまり、ここからは死の痛みを永遠に記憶し続けることになるだろうな。永遠に繰り返される絶望の淵を、あのようなひ弱な小娘が耐え抜けるだろうか?」
シャバーンはジャファーを殴りつけたい気持ちを抑えて、絨毯に飛び乗って宮殿を飛び出した。背中には、勝ち誇ったようなジャファーの醜悪な笑い声が爪痕のように刺さっている。しかし、この世界のラティーファが自分の愛した彼女なのであれば、たとえ勝ち目がなくともシャバーンのすべきことは決まっていた。
「この世界が繰り返し続けるなら、ラティーファが死んでもわしが死んでも、そう仕組みは変わらんだろう」
「シャバーン、あんたまさか…………」
「ジャファーはああ言っているが、誰かが何とかしてくれるさ。わしの知り合いは皆頼もしいからな」
ジーニーは、いつになく頼もしいシャバーンを見て驚いた。だが、その手が恐怖でわずかに震えているのに気づき、彼はそれ以上何も言えなかった。
二人が国務大臣邸宅にやってくると、記憶に戻ったラティーファが両親を必死に説得している声が飛び込んできた。なんとも頑固なハイサムの説得はやはり難しそうだ。それより、父が例えジャファーの作り出した幻覚であったと知っても助けようと試みるラティーファの姿は、シャバーンにとって胸打たれるものがあった。彼は絨毯に乗ったまま廊下に飛び込むと、ラティーファを抱き上げた。
「いやっ!何するのこの無礼者――――」
バチンと、鋭い平手打ちの音が炸裂する。しかも一回ではなく、往復ビンタだ。
「いたたたたたっ!止めなさい!こらっ!」
懐かしい声に、ようやくラティーファが反応する。すっかり真っ赤に腫らしてしまったシャバーンの両頬を包むと、彼女は愛しい声でこう言った。
「シャバーン様!会いたかった、助けに来てくれたのね」
「そうそう。って、助けに来たのに殴られたんだが!?」
「ごめんなさい、ついうっかり…………」
心配そうに顔を覗き込むラティーファを置いて、ジーニーが悲鳴を上げる。振り向くと、そこにはジャファーの追手がいる。
「あいつら、意地でも俺たちを仕留める気だ!」
シャバーンは覚悟を決めると、ラティーファの目を見てこう言い聞かせた。
「いいか、ラティーファ。何があっても、お前はわしが守る。お前にもう、あんな思いはさせやしない」
「シャバーン様……?」
絨毯が速度を落とし始める。シャバーンはラティーファの手を握りしめ、唇に優しくキスをした。
「――――ラティーファ、愛してる」
「シャバーン様、一体何を――――」
次の瞬間、彼は絨毯から飛び降りた。ラティーファが伸ばした手は虚しく空を切る。
「シャバーン様ぁぁっ!」
ラティーファが後を追おうとするのを、ジーニーが寸でのところで止める。彼はいつもとは違った真剣な眼差しでラティーファを見ている。
「ラティーファちゃん、シャバーンの決意を無駄にするんじゃあない!それより、外の世界の水晶玉を壊さないと、俺たちは一生この世界でジャファーになぶり殺され続けるんだ!」
ラティーファはそれを聞いて、ハッとした。彼女は絨毯に何か命じると、アグラバーの王宮へと向かった。
「ラティーファちゃん、何をする気なんだ!」
「こっちの世界を、向こうから見るための何かがあるはず。それを見つけることができれば、アシームと連絡が取れる!」
ジーニーは、相変わらず聡明なラティーファに舌を巻いた。彼女は恐れる素振りもなくジャファーの執務室に飛び込むと、外の世界とつながっている魔法具を探し始めた。幸いにも、ジャファーは今向こう側の世界にいるらしい。
「ジーニー、それらしいものってない?」
「それらしいもんねぇ…………水晶玉はさっきぶっ壊したし…………」
「鏡とか、そういうのは?」
ラティーファがそう言いながら扉を開けると、そこには水鏡のようなものがあった。覗き込むと、水面には元の世界のアグラバーの街が映っている。彼女は水面に触れると、アシームを映してほしいと念じた。すると水鏡は徐々に景色を変えて、恐怖に震えるアシームとベキートを映した。ラティーファは喜びのあまり2人に叫んだ。
「アシーム!ベキート!私の声が聞こえる?」
向こうの世界の二人は、寝耳に水の事態に飛び上がった。だがすぐにラティーファの声だと気づき、歓声を上げた。
『えっ!?ラティーファ様!?生きてたんですね!良かったです!今、ジャファーのせいでアグラバーが大嵐で大変なことになってるんです。ジーニーが戻ってきてくれないと…………』
「聞いて、アシーム。ジーニーと私、そしてシャバーン様は別の世界の…………ジャファーが作った幻の世界に囚われてるの。ここから戻るためには、そっちの世界にあるジャファーの水晶玉を壊さないといけない」
アシームはその言葉に、慌てて首を横に振った。
『えっ、そっ、それは…………僕にそんな事できるわけないじゃないですか…………』
「大丈夫。あなたを支えてくれる誰かがいるはず。思い当たる人はいる?」
『思い当たる人…………それなら何とかできそう!僕、頑張ってみます。それまで二人はそちらで頑張って!』
アシームの頼もしい返事に、ラティーファは胸をなでおろした。だが、直後部屋にジャファーの私兵たちが入ってくる。彼女は絨毯を呼び寄せると、去り際に苦笑いしながらこう言った。
「うん。でも、ちょっと急いでほしいかな…………」
兵士の弓矢が飛んでくる。その瞬間、ラティーファは間一髪のところで絨毯に飛び乗って宮殿を後にした。隣で頭に刺さった矢を抜いているジーニーに、彼女は尋ねた。
「シャバーン様の居場所はわかる?彼を探さなきゃ」
「シャバーンさんなら、たぶん市場にいるかと…………」
「急いで探さなきゃ。彼、運動は得意じゃないの」
「年なだけだと思いますけど…………」
ラティーファは絨毯を旋回させると、アグラバーの街を滑空した。そして、聞き慣れた大仰な声が彼女の耳に飛び込んだ。シャバーンだ。
「痛い痛い!止めて止めて、ちょっ、ちょっと、止めて痛いから!」
「ラティーファはどこだ!さっさと出せ」
「誰が出すか。殺すならわしにしとけ!」
シャバーンはターバンも脱げ落ち、既にボロボロだ。それでも、彼は毅然とした態度を貫いている。業を煮やした暗殺者たちが、シャバーンに向かって剣を引き抜いた。
同時に、目の前にラティーファが割って入った。彼女はシャバーンの目の前に立ちはだかると、刺客たちを見据えた。
「幻影のお前たちに、私が傷つけられると思っているの?」
「幻影?何を言っているんだ、お前は。構わん、殺れ!」
ラティーファの頭上に剣が振り下ろされる。その瞬間、突然世界が煙に掻き消された。そして彼女の手を引いてシャバーンが駆け出した。
「偉大なマジックには、サプライズがつきものだ」
「瞬間移動のマジック、練習してたのね」
「わしが走って逃げるだけのやつだけどな」
ラティーファが思わず吹き出す。二人は徒労もすべて忘れてアグラバーの街を駆け抜けた。もしもこの苦痛が永遠に続くのなら、せめて二人で背負い続けよう。それが二人の心の中の誓いだった。
そしてついに、二人は路地の端に追い詰められた。ジーニーも魔力を使うことができず、二人の窮地を黙ってみることしかできない。シャバーンは、ラティーファを抱きしめながら優しい声でささやいた。
「――――ラティーファ、愛してる。絶対に諦めるんじゃないぞ」
「ええ、シャバーン様。二人なら、私何度でも耐えられるわ」
「いや、わしはできればあと二、三回くらいでお願いしたいんだが…………」
ラティーファはこんなときでも軽口を叩けるシャバーンのユーモアに失笑した。同時に、彼を愛した理由を思い出して微笑んだ。
何本もの剣が振り上げられる。切っ先は、灼熱のアラビアの夕日を反射して鈍く輝いていた。二人は運命に逆らうように、優しく熱い口づけを交わした。そして覚悟を決めた――――
だが、何も起きない。鋭い痛みも鮮血も二人を切り裂くことはなかった。代わりに二人、そしてジーニーを鮮やかな七色の光が包み込む。
「これは…………?」
「ひょっとして…………」
「アシームがやったんだ!やったぁ!元の世界に戻れる!見て見てっ!俺の魔力も戻ってるぅぅ!!」
ジーニーが魔法を連発する。ラティーファとシャバーンは互いを抱きしめあったまま、信じられないと言わんばかりに顔を見合わせている。
そして次に二人が目を覚ましたのは、宮殿の一室だった。目の前には、心配そうに二人を覗き込むアシーム、ベキート、ハイサム、アラジン、そしてジャスミン姫がいた。シャバーンは全身の疲労感を押しのけて起き上がると、辺りを見回した。そしていの一番に尋ねた。
「ここは、今何年だ」
「大丈夫ですよ、戻ってきたんです。ジャファーは二度と悪さができないように、フリードさんの手でどっかの井戸に捨ててきてもらいました」
フリード、と聞いたシャバーンの表情が険しくなる。彼とは因縁深い、国王専属マジシャンのハディ・フリードのことだからだ。(フリードの話はまた別の機会に……)
「全く……それじゃあ詰めが甘くないか?いっそ二度と出てこれんように箱に閉じ込めてカギをかけるとか…………」
其れを聞いたジーニーが大笑いする。笑い話になったならまぁ良しとしよう、とアシームも失笑している。ラティーファは慌てて起き上がると、アシームに尋ねた。
「みんな、本当に心配かけてしまったわ。ごめんなさい。そして、ありがとう。結局、何が起きたの?アシームが助けてくれたの?」
すると、彼は首を横に振った。そして柱の陰を指さした。
「いいえ、あの人が助けてくれたんですよ」
「ぎくっ」
拍子抜けた声が、柱から聞こえてくる。よく見ると、少しだけ緑のヘビがこちらを伺っているではないか。シャバーンは飛び起きると、柱へ一直線に駆け出した。
「クロちゃんっ!」
「クロイツです!あーもう、あんた死にかけたのに良くそんな元気に走り回れるねぇ」
「クロちゃんが、ジャファーの水晶玉を脅威の身体能力で奪って壊してくれたんです!」
解説されなくとも、なんとなくその様子は頭に思い浮かぶ。シャバーンとラティーファはクロちゃん改め、クリストフ・ゴールデン・クロイツ――――元ジャファーの弟子である黒魔術師に頭を下げた。当のクロちゃんは照れながらはにかんだ笑みを浮かべている。
「えへへ…………それほどでも」
「やはり、持つべきものは良き友だな!」
シャバーンがクロちゃんの肩に手を回す。もちろんクロちゃんは全力で否定している。そんな二人に、ジャスミンとアラジンが近づいて深々と頭を下げた。思わず二人も畏まった。
「クロイツさん、あなたはアグラバーと私の友を二度も救ってくれました。本当にありがとう。良ければあなたを宮廷魔術師として――――」
ジャスミンの言葉を最後まで聞かずに、クロちゃんは慌てて首を横に振った。
「やっ、やめてください!遠慮します!だって俺、黒魔術師じゃないんで…………」
「えっ?そうなの?」
ラティーファとシャバーンは、やれやれと言いたげに肩を竦めた。話すにはあまりに長い話だからだ。ラティーファはジャスミンの手を取って微笑んだ。
「まぁ、せっかくだから色々話すのも良いかもね。クロちゃんとフリード殿の話は、1日あっても足りないくらいながーい話よ」
「あら、楽しみ。だけど…………」
ジャスミンは含みのある笑いを浮かべて、シャバーンの方を見た。そしてラティーファに耳打ちした。
「まずは、夫婦水入らずでゆっくり休んで」
ラティーファの頬が赤く染まる。それからほんの一瞬シャバーンと目が合い、二人は微笑みを交わした。
再び平和に戻ったアグラバーの夜空を眺めながら、シャバーンはバルコニーで頬杖をついていた。隣ではラティーファが楽器を演奏している。
ふと、彼女は演奏の手を止めて夫の方を見た。
「ねえ、シャバーン様」
「ん?何だ」
ぶっきらぼうな返事をする様子にため息を付くと、ラティーファは楽器を置いて自分から夫の隣に座った。少しだけ、シャバーンが機嫌の良さそうな笑みをこぼす。彼女は肩を寄せながら、夫の胸に頬を寄せた。
「――――私ね、嬉しかったの」
「…………何がだ?」
「シャバーン様が、何度も私を助けに来てくれたこと」
あの記憶も一緒に思い出してしまったのか。シャバーンは、ラティーファの苦痛を慮ってその肩に思わず手を乗せた。だが、予想に反して彼女は幸せそうな笑みを浮かべている。
「ええ、もちろん辛かったわ。だけど、どんな世界の私でも、あなたは愛してくれた。それが嬉しかったの。私とあなたって、やっぱりそういう運命なのよね」
シャバーンは最初、照れ隠しの言葉を述べようとした。だが思いとどまって少し考えてからこう言った。
「…………ああ、わしとお前は運命かもしれんな。そうであれば、どんなに嬉しいか」
ラティーファはシャバーンの答えに、目を丸くした。そしてふわりと微笑むと、はっきりと返した。
「運命よ。なんでこういうときに気弱になるの?ほら、普段は『わしは世界一偉大なマジシャン・シャバーン様だ!』って言ってるくせに」
シャバーンの真似をしながら、ラティーファが両手をヒラヒラさせる。彼は妻の身振りに思わず吹き出すと、威勢よく訂正した。
「あーっ、真似したな!似てないぞ!正しくは、わしこそが世界で最も偉大なるマジシャン・シャッバーン様だ!」
「何それ、シャッ・バーンなの?ベキートのが写ってるわよ」
「うわホントだ、最悪」
「似た者同士で仲がよろしいこと」
ベキートと似ていると言われたシャバーンは、思わず椅子から飛び上がった。
「なんだと?あのヘビとわしが?わしのほうが男前だ!」
「ヘビと競い合って楽しいの?」
「あーもう、ラティーファ!お前ってやつは…………」
「あははははっ!」
ラティーファが声を上げて笑う。その姿は、シャバーンが愛する彼女そのものだ。彼は優しい微笑みを湛えながら、ラティーファの頬に触れた。
「…………ラティーファ」
「…………なぁに?」
「愛してるよ、いつまでも」
「私もよ、シャバーン様。世界で一番愛してる」
月明かりの下、二人の影が重なる。
どんなことも二人ならば乗り越えていける。そんな絆と自信を胸に、彼らは改めて永遠の愛を誓うのだった。
END
「…………また戻ってきたのか」
「ええ、これでもう両手の指じゃ数えられなくなりました」
ジーニーの言葉にシャバーンは驚きを隠すことができなかった。続いて彼は突然割れるように痛みだした頭を抱え、その場に崩れ落ちた。
全ての記憶が走馬灯のように流れていく。そう、あれから彼は何度も何度もラティーファを救うために戻り続けていた。ジーニーの魔法は結局最後まで、使うことはできなかった。代わりに何故か超常的な現象が発生し、元の世界には戻ることができない代わりに同じ日が繰り返され始めたのだ。シャバーンはその度に様々な方法でラティーファを助けようとし、その度に最悪の結末を迎えていた。そして時間が巻き戻るきっかけは、どうやらラティーファの死らしい。
シャバーンは絶望的な状況と、頭の中から離れてくれない彼女の死の間際の様子に、叫びそうになっていた。ジーニーも血なまぐさい結末を何度も見せられた結果、最初の頃の元気をなくしている。
ふと、ジーニーは何かを閃いた。
「…………ねぇ、これって本当に現実?」
「何言ってるんだ。あの血の香りと生暖かさ、どう見ても現実だろうが!あぁ、気が狂いそうだ…………」
「それだよ、それだよ!!これがジャファーの復讐なら、そういうことなんじゃない?って」
シャバーンは目を丸くしてジーニーを見た。確かに、ジーニーの魔力を制御したり時間を巻き戻したり…………この世界はおかしな事が起きすぎている。だとすると、二人が向かうべき場所はハイサム邸ではない。
考えるより先に、シャバーンとジーニーは王宮へ駆け出していた。
「このっ、ポンコツ魔神!なーんでもっと早くに気づかなかったんだ!」
「しょーがないでしょ!俺だって人生初のトラブル事例なんだからぁ」
「もういい!とにかく急ぐぞ。ジーニー、ジャファーがいる場所はどこだ」
ジーニーはやれやれと肩を竦めた。それから市場のカーペットを適当にくすねると、何度か魔力を送りつけてやっとのことで空飛ぶ絨毯に変えた。シャバーンは最初、こんなに魔力が不安定な状況で絨毯に乗ることを躊躇していた。だが、ラティーファのため……そして元の世界に戻ることを考えると、背に腹は代えられない。
シャバーンは息を呑みながら、恐る恐る絨毯に足を乗せた。すると絨毯は彼らの意図を理解したかのように、全速力で宮殿へと飛び出していった。時折不安定な動きをしているが、なんとか宮殿の国務大臣執務室までは飛んでいけそうだ。とはいえ、ここまで思いつきでやって来ていることもあり、ジーニーは心配そうにシャバーンを見た。しかし、思ったより隣に座っているマジシャンは頼り甲斐のある面持ちをしている。そんなかつての主人を見て、ジーニーはふわりと笑った。
「…………あんた、やっぱり変わったね」
「わしが変わったんじゃない、あの子のおかげだ。だからこそ、わしはこの世界のラティーファも助けて、元の世界に戻る。たったそれだけのことだ」
「なるほどね」
昔からは考えられないほどに謙虚な答えに、ジーニーは少しだけ残念そうな顔をした。
今のこいつになら、ちょっとだけ仕えても良いかもなぁ〜って、思っちゃうじゃん。
そんなことを隣で思われているとも知らず、シャバーンは真剣な眼差しで宮殿を見据えている。そしてついに、国務大臣執務室へと2人は辿り着いた。
予想通り、待っていましたとばかりに余裕綽々なジャファーが2人の方へと振り返った。
「あぁ…………やっと来てくれた。遅かったではないか、老いぼれマジシャン」
シャバーンはとりあえず拳を握りしめると、ジャファーに向かって駆け出した。
「ジャファーっ!!今度こそ、もう許さんぞ!」
「おっと、最強の魔神のわしを侮るなよ?」
ジャファーの一振りで、シャバーンが吹き飛ばされる。バルコニーに身体が投げ出される直前に、ジーニーが彼を片手で受け止めた。
「ああ、助かった…………」
「魔神と一緒に閉じ込めたのは失敗だったか。まぁいい、素敵な悪夢を見られただろう?貴様らは、未来永劫この悪夢から逃れることはできん!」
シャバーンは立ち上がると、ジャファーの机の上に置いてある水晶玉を見た。ジーニーも頷いている。どうやらあれがこの世界を支配するための源のようだ。彼はジャファーの注意を逸らすために、暫し情報を集めるための雑談を試みることにした。
「まぁ趣味の良い悪夢だった、お前にしてはな。しかし、ここはどうせ妄想の世界だろう?お前が国務大臣に返り咲き、邪魔な小僧もおらず、好き勝手できる夢の世界」
シャバーンの冗舌に載せられたジャファーは、心地よさそうに笑った。そして、陰惨な笑みを浮かべながらこう言った。
「あぁ…………そうか。お前はそう思っているわけか。確かに、半分は正解だ。三流マジシャンの割には良く頑張った。褒美をくれてやろう、この悪夢を完成させるためのな」
シャバーンは息を呑んだ。まだ何かあるというのか。ジャファーは水晶玉を手に取ると、曰く三流マジシャンの目の前に右手を突き出して高笑いした。
水晶玉に映っているのは、この世界のラティーファだった。
「まさか…………」
「これは、お前の愛する妻だ。私がこの世界に連れてきてやった。夫婦は一緒にしてやらんと、可哀想だからな」
シャバーンは驚愕のあまり、声も出ない有り様だ。ジーニーも最悪の結末に、頭を抱えている。シャバーンは真っ白になりそうな頭を必死に回転させながら、この世界で起きたことを反芻した。
では、あのとき何度も繰り返し…………繰り返し失ってきたあの子は…………
「わしの愛するラティーファ自身だったと言うのか……?」
「そうだ。あぁ、哀れなシャバーン。貴様の無力さ故に何度も目の前で失ってきたあの娘は、他でもない妻自身なのだよ。もっとも、記憶は封印させてもらったがね」
シャバーンはジャファーの言葉に、力なく膝をついた。ジーニーも、心配そうにその肩をそっと抱きしめてくれている。絶望に打ちひしがれる二人を見て、ジャファーは勝利の高笑いを上げた。
「あーっはっはっはっはっ!哀れな奴らめ。真実の愛なんぞ、我が魔術の前では全てが無力なのだ!」
しかし、ジャファーは次の瞬間、自分の右手が軽くなったことに気づいた。ハッとした彼が右側を向くと、そこには水晶玉を全力で床に叩きつけるシャバーンがいた。ジャファーが叫ぶより前に、音を立てて水晶玉が砕け散る。
「よしっ!これで元の世界に――――」
だが、何も起こらない。対して、ジャファーは苛立ちさえしているものの、相変わらず余裕そうだ。
「馬鹿な奴らだ。この水晶玉を壊して元に戻るのは嫁の記憶だけだ。元の世界に戻るには、元の世界に置いた対になる水晶玉を壊すしかない!」
ジャファーはそう言って笑いながら、シャバーンたちを見下ろした。ぞっとするような、惨忍な笑顔を向けたまま、彼はこう言い放った。
「ああ、そうだ。すっかり言うのを忘れていたが…………この水晶玉を壊したということは、ラティーファの記憶は継承されたままになるぞ」
「…………何が言いたい」
「つまり、ここからは死の痛みを永遠に記憶し続けることになるだろうな。永遠に繰り返される絶望の淵を、あのようなひ弱な小娘が耐え抜けるだろうか?」
シャバーンはジャファーを殴りつけたい気持ちを抑えて、絨毯に飛び乗って宮殿を飛び出した。背中には、勝ち誇ったようなジャファーの醜悪な笑い声が爪痕のように刺さっている。しかし、この世界のラティーファが自分の愛した彼女なのであれば、たとえ勝ち目がなくともシャバーンのすべきことは決まっていた。
「この世界が繰り返し続けるなら、ラティーファが死んでもわしが死んでも、そう仕組みは変わらんだろう」
「シャバーン、あんたまさか…………」
「ジャファーはああ言っているが、誰かが何とかしてくれるさ。わしの知り合いは皆頼もしいからな」
ジーニーは、いつになく頼もしいシャバーンを見て驚いた。だが、その手が恐怖でわずかに震えているのに気づき、彼はそれ以上何も言えなかった。
二人が国務大臣邸宅にやってくると、記憶に戻ったラティーファが両親を必死に説得している声が飛び込んできた。なんとも頑固なハイサムの説得はやはり難しそうだ。それより、父が例えジャファーの作り出した幻覚であったと知っても助けようと試みるラティーファの姿は、シャバーンにとって胸打たれるものがあった。彼は絨毯に乗ったまま廊下に飛び込むと、ラティーファを抱き上げた。
「いやっ!何するのこの無礼者――――」
バチンと、鋭い平手打ちの音が炸裂する。しかも一回ではなく、往復ビンタだ。
「いたたたたたっ!止めなさい!こらっ!」
懐かしい声に、ようやくラティーファが反応する。すっかり真っ赤に腫らしてしまったシャバーンの両頬を包むと、彼女は愛しい声でこう言った。
「シャバーン様!会いたかった、助けに来てくれたのね」
「そうそう。って、助けに来たのに殴られたんだが!?」
「ごめんなさい、ついうっかり…………」
心配そうに顔を覗き込むラティーファを置いて、ジーニーが悲鳴を上げる。振り向くと、そこにはジャファーの追手がいる。
「あいつら、意地でも俺たちを仕留める気だ!」
シャバーンは覚悟を決めると、ラティーファの目を見てこう言い聞かせた。
「いいか、ラティーファ。何があっても、お前はわしが守る。お前にもう、あんな思いはさせやしない」
「シャバーン様……?」
絨毯が速度を落とし始める。シャバーンはラティーファの手を握りしめ、唇に優しくキスをした。
「――――ラティーファ、愛してる」
「シャバーン様、一体何を――――」
次の瞬間、彼は絨毯から飛び降りた。ラティーファが伸ばした手は虚しく空を切る。
「シャバーン様ぁぁっ!」
ラティーファが後を追おうとするのを、ジーニーが寸でのところで止める。彼はいつもとは違った真剣な眼差しでラティーファを見ている。
「ラティーファちゃん、シャバーンの決意を無駄にするんじゃあない!それより、外の世界の水晶玉を壊さないと、俺たちは一生この世界でジャファーになぶり殺され続けるんだ!」
ラティーファはそれを聞いて、ハッとした。彼女は絨毯に何か命じると、アグラバーの王宮へと向かった。
「ラティーファちゃん、何をする気なんだ!」
「こっちの世界を、向こうから見るための何かがあるはず。それを見つけることができれば、アシームと連絡が取れる!」
ジーニーは、相変わらず聡明なラティーファに舌を巻いた。彼女は恐れる素振りもなくジャファーの執務室に飛び込むと、外の世界とつながっている魔法具を探し始めた。幸いにも、ジャファーは今向こう側の世界にいるらしい。
「ジーニー、それらしいものってない?」
「それらしいもんねぇ…………水晶玉はさっきぶっ壊したし…………」
「鏡とか、そういうのは?」
ラティーファがそう言いながら扉を開けると、そこには水鏡のようなものがあった。覗き込むと、水面には元の世界のアグラバーの街が映っている。彼女は水面に触れると、アシームを映してほしいと念じた。すると水鏡は徐々に景色を変えて、恐怖に震えるアシームとベキートを映した。ラティーファは喜びのあまり2人に叫んだ。
「アシーム!ベキート!私の声が聞こえる?」
向こうの世界の二人は、寝耳に水の事態に飛び上がった。だがすぐにラティーファの声だと気づき、歓声を上げた。
『えっ!?ラティーファ様!?生きてたんですね!良かったです!今、ジャファーのせいでアグラバーが大嵐で大変なことになってるんです。ジーニーが戻ってきてくれないと…………』
「聞いて、アシーム。ジーニーと私、そしてシャバーン様は別の世界の…………ジャファーが作った幻の世界に囚われてるの。ここから戻るためには、そっちの世界にあるジャファーの水晶玉を壊さないといけない」
アシームはその言葉に、慌てて首を横に振った。
『えっ、そっ、それは…………僕にそんな事できるわけないじゃないですか…………』
「大丈夫。あなたを支えてくれる誰かがいるはず。思い当たる人はいる?」
『思い当たる人…………それなら何とかできそう!僕、頑張ってみます。それまで二人はそちらで頑張って!』
アシームの頼もしい返事に、ラティーファは胸をなでおろした。だが、直後部屋にジャファーの私兵たちが入ってくる。彼女は絨毯を呼び寄せると、去り際に苦笑いしながらこう言った。
「うん。でも、ちょっと急いでほしいかな…………」
兵士の弓矢が飛んでくる。その瞬間、ラティーファは間一髪のところで絨毯に飛び乗って宮殿を後にした。隣で頭に刺さった矢を抜いているジーニーに、彼女は尋ねた。
「シャバーン様の居場所はわかる?彼を探さなきゃ」
「シャバーンさんなら、たぶん市場にいるかと…………」
「急いで探さなきゃ。彼、運動は得意じゃないの」
「年なだけだと思いますけど…………」
ラティーファは絨毯を旋回させると、アグラバーの街を滑空した。そして、聞き慣れた大仰な声が彼女の耳に飛び込んだ。シャバーンだ。
「痛い痛い!止めて止めて、ちょっ、ちょっと、止めて痛いから!」
「ラティーファはどこだ!さっさと出せ」
「誰が出すか。殺すならわしにしとけ!」
シャバーンはターバンも脱げ落ち、既にボロボロだ。それでも、彼は毅然とした態度を貫いている。業を煮やした暗殺者たちが、シャバーンに向かって剣を引き抜いた。
同時に、目の前にラティーファが割って入った。彼女はシャバーンの目の前に立ちはだかると、刺客たちを見据えた。
「幻影のお前たちに、私が傷つけられると思っているの?」
「幻影?何を言っているんだ、お前は。構わん、殺れ!」
ラティーファの頭上に剣が振り下ろされる。その瞬間、突然世界が煙に掻き消された。そして彼女の手を引いてシャバーンが駆け出した。
「偉大なマジックには、サプライズがつきものだ」
「瞬間移動のマジック、練習してたのね」
「わしが走って逃げるだけのやつだけどな」
ラティーファが思わず吹き出す。二人は徒労もすべて忘れてアグラバーの街を駆け抜けた。もしもこの苦痛が永遠に続くのなら、せめて二人で背負い続けよう。それが二人の心の中の誓いだった。
そしてついに、二人は路地の端に追い詰められた。ジーニーも魔力を使うことができず、二人の窮地を黙ってみることしかできない。シャバーンは、ラティーファを抱きしめながら優しい声でささやいた。
「――――ラティーファ、愛してる。絶対に諦めるんじゃないぞ」
「ええ、シャバーン様。二人なら、私何度でも耐えられるわ」
「いや、わしはできればあと二、三回くらいでお願いしたいんだが…………」
ラティーファはこんなときでも軽口を叩けるシャバーンのユーモアに失笑した。同時に、彼を愛した理由を思い出して微笑んだ。
何本もの剣が振り上げられる。切っ先は、灼熱のアラビアの夕日を反射して鈍く輝いていた。二人は運命に逆らうように、優しく熱い口づけを交わした。そして覚悟を決めた――――
だが、何も起きない。鋭い痛みも鮮血も二人を切り裂くことはなかった。代わりに二人、そしてジーニーを鮮やかな七色の光が包み込む。
「これは…………?」
「ひょっとして…………」
「アシームがやったんだ!やったぁ!元の世界に戻れる!見て見てっ!俺の魔力も戻ってるぅぅ!!」
ジーニーが魔法を連発する。ラティーファとシャバーンは互いを抱きしめあったまま、信じられないと言わんばかりに顔を見合わせている。
そして次に二人が目を覚ましたのは、宮殿の一室だった。目の前には、心配そうに二人を覗き込むアシーム、ベキート、ハイサム、アラジン、そしてジャスミン姫がいた。シャバーンは全身の疲労感を押しのけて起き上がると、辺りを見回した。そしていの一番に尋ねた。
「ここは、今何年だ」
「大丈夫ですよ、戻ってきたんです。ジャファーは二度と悪さができないように、フリードさんの手でどっかの井戸に捨ててきてもらいました」
フリード、と聞いたシャバーンの表情が険しくなる。彼とは因縁深い、国王専属マジシャンのハディ・フリードのことだからだ。(フリードの話はまた別の機会に……)
「全く……それじゃあ詰めが甘くないか?いっそ二度と出てこれんように箱に閉じ込めてカギをかけるとか…………」
其れを聞いたジーニーが大笑いする。笑い話になったならまぁ良しとしよう、とアシームも失笑している。ラティーファは慌てて起き上がると、アシームに尋ねた。
「みんな、本当に心配かけてしまったわ。ごめんなさい。そして、ありがとう。結局、何が起きたの?アシームが助けてくれたの?」
すると、彼は首を横に振った。そして柱の陰を指さした。
「いいえ、あの人が助けてくれたんですよ」
「ぎくっ」
拍子抜けた声が、柱から聞こえてくる。よく見ると、少しだけ緑のヘビがこちらを伺っているではないか。シャバーンは飛び起きると、柱へ一直線に駆け出した。
「クロちゃんっ!」
「クロイツです!あーもう、あんた死にかけたのに良くそんな元気に走り回れるねぇ」
「クロちゃんが、ジャファーの水晶玉を脅威の身体能力で奪って壊してくれたんです!」
解説されなくとも、なんとなくその様子は頭に思い浮かぶ。シャバーンとラティーファはクロちゃん改め、クリストフ・ゴールデン・クロイツ――――元ジャファーの弟子である黒魔術師に頭を下げた。当のクロちゃんは照れながらはにかんだ笑みを浮かべている。
「えへへ…………それほどでも」
「やはり、持つべきものは良き友だな!」
シャバーンがクロちゃんの肩に手を回す。もちろんクロちゃんは全力で否定している。そんな二人に、ジャスミンとアラジンが近づいて深々と頭を下げた。思わず二人も畏まった。
「クロイツさん、あなたはアグラバーと私の友を二度も救ってくれました。本当にありがとう。良ければあなたを宮廷魔術師として――――」
ジャスミンの言葉を最後まで聞かずに、クロちゃんは慌てて首を横に振った。
「やっ、やめてください!遠慮します!だって俺、黒魔術師じゃないんで…………」
「えっ?そうなの?」
ラティーファとシャバーンは、やれやれと言いたげに肩を竦めた。話すにはあまりに長い話だからだ。ラティーファはジャスミンの手を取って微笑んだ。
「まぁ、せっかくだから色々話すのも良いかもね。クロちゃんとフリード殿の話は、1日あっても足りないくらいながーい話よ」
「あら、楽しみ。だけど…………」
ジャスミンは含みのある笑いを浮かべて、シャバーンの方を見た。そしてラティーファに耳打ちした。
「まずは、夫婦水入らずでゆっくり休んで」
ラティーファの頬が赤く染まる。それからほんの一瞬シャバーンと目が合い、二人は微笑みを交わした。
再び平和に戻ったアグラバーの夜空を眺めながら、シャバーンはバルコニーで頬杖をついていた。隣ではラティーファが楽器を演奏している。
ふと、彼女は演奏の手を止めて夫の方を見た。
「ねえ、シャバーン様」
「ん?何だ」
ぶっきらぼうな返事をする様子にため息を付くと、ラティーファは楽器を置いて自分から夫の隣に座った。少しだけ、シャバーンが機嫌の良さそうな笑みをこぼす。彼女は肩を寄せながら、夫の胸に頬を寄せた。
「――――私ね、嬉しかったの」
「…………何がだ?」
「シャバーン様が、何度も私を助けに来てくれたこと」
あの記憶も一緒に思い出してしまったのか。シャバーンは、ラティーファの苦痛を慮ってその肩に思わず手を乗せた。だが、予想に反して彼女は幸せそうな笑みを浮かべている。
「ええ、もちろん辛かったわ。だけど、どんな世界の私でも、あなたは愛してくれた。それが嬉しかったの。私とあなたって、やっぱりそういう運命なのよね」
シャバーンは最初、照れ隠しの言葉を述べようとした。だが思いとどまって少し考えてからこう言った。
「…………ああ、わしとお前は運命かもしれんな。そうであれば、どんなに嬉しいか」
ラティーファはシャバーンの答えに、目を丸くした。そしてふわりと微笑むと、はっきりと返した。
「運命よ。なんでこういうときに気弱になるの?ほら、普段は『わしは世界一偉大なマジシャン・シャバーン様だ!』って言ってるくせに」
シャバーンの真似をしながら、ラティーファが両手をヒラヒラさせる。彼は妻の身振りに思わず吹き出すと、威勢よく訂正した。
「あーっ、真似したな!似てないぞ!正しくは、わしこそが世界で最も偉大なるマジシャン・シャッバーン様だ!」
「何それ、シャッ・バーンなの?ベキートのが写ってるわよ」
「うわホントだ、最悪」
「似た者同士で仲がよろしいこと」
ベキートと似ていると言われたシャバーンは、思わず椅子から飛び上がった。
「なんだと?あのヘビとわしが?わしのほうが男前だ!」
「ヘビと競い合って楽しいの?」
「あーもう、ラティーファ!お前ってやつは…………」
「あははははっ!」
ラティーファが声を上げて笑う。その姿は、シャバーンが愛する彼女そのものだ。彼は優しい微笑みを湛えながら、ラティーファの頬に触れた。
「…………ラティーファ」
「…………なぁに?」
「愛してるよ、いつまでも」
「私もよ、シャバーン様。世界で一番愛してる」
月明かりの下、二人の影が重なる。
どんなことも二人ならば乗り越えていける。そんな絆と自信を胸に、彼らは改めて永遠の愛を誓うのだった。
END
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