2、もう一人のあなた
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暗殺当日の朝に戻ったシャバーンは、まずハイサム邸の近くでマジックショーを開催した。この場所であれば、中の様子は少しくらい窺い知ることが出来るかもしれないという狙いだ。更に運が良ければ、ラティーファが現れてくれるかもしれない。
だが、予想に反して彼女は結局最後まで現れなかった。この世界のラティーファが、一体どれほどの孤独と寂しさの中で生きているのだろうか。そんなことを思いながら、シャバーンの胸が締め付けられる。
結局夕方になっても進展は得られず、シャバーンは渋々次の手段に出ることにした。
「ジーニー、不法侵入の魔法は出来そうか?」
「ざっくりしてますねぇ。具体的には?」
「ラティーファの前まで連れて行く、とか」
「…………それ、大丈夫ですか?」
ジーニーは苦笑いしながら、風呂で身体を洗い流すような動作をした。
「ほら、お風呂中かも…………」
「アホか。そんなもん気にせんわ!あいつの命がかかってるんだぞ!」
「えーっ、でもその場でこっちが手討ちにされたら二度と元の世界に戻れないかも…………しれませんよ?」
シャバーンはギクリとした。そうか、この世界で起きることがどれくらいのレベルで元の世界に影響するのかは、測り知ることができないのだ。彼は頭を抱えた。とはいえ、もう時間がない。
「…………宮殿の次にデカい邸宅なんだ。わし一人増えても問題ないだろう。ジーニー、わしをハイサム邸の使用人に変身させてくれ」
「承知しました、シャバーンさん」
ジーニーが腕を一振すると、シャバーンの見た目が使用人に変わった。彼は自身の全身に満足すると、荷物の運搬に紛れて裏口からサッと進入した。
「…………とりあえず、侵入はできたようだ。しかし、ラティーファの部屋が分からん」
「それにアグラバーの淑女のお部屋は、たぶん変なおっさんは入れないように警戒されていると思いますしねぇ」
ジーニーの言葉にシャバーンの鋭い視線が飛ぶ。しかしジーニーの言う通りだ。女装でもしない限りは部屋には入れない。ふと、彼はジーニーを見た。
「…………お前、不審者役をしてくれないか?」
魔神はしばらく目を瞬いた。そして頼みごとの意味をようやく理解して飛び上がった。
「えっ?俺が!?なーんで!あんたのほうが人相悪いし――――」
「いざとなったらお前は不死身だし、それに簡単に逃げられるだろう!わしが捕まったら手討ちになるじゃないか!」
シャバーンのアイデアは、筋は通っている。こうして哀れな魔神は不審者役としてラティーファの部屋にダイブする羽目になった。
部屋の近くには幸いにも、私兵や護衛は配置されていないようだ。
「よし、行け。不審者ジーニー」
「はいはい、行きますよ。行けば良いんでしょ」
ジーニーは鬱陶しそうにそう言うと、物陰から飛び出した。しかしその素振りはどう見てもノリノリに見える。
「はーい!皆様ご機嫌麗しゅうございますか?俺様もすっげー元気ぃ!」
「くっ、曲者!!誰かーっ!お嬢様をお守りして!」
その声を待っていましたと言わんばかりに、シャバーンが躍り出てジーニーを殴りつける。些かこれは私怨の混じったパンチのようだが。
「いってぇっ!ちょっと本気で殴らないでよね!」
「何をふざけたことを!何度でも殴ってやるわい!」
ジーニーを一通り伸したところで、シャバーンは立ち上がった。目の前には乳母のナーサーヤが立っている。そしてその背後には…………
「ラティーファ……」
反射的に名前を呟いてしまった彼は、慌ててこう付け加えた。
「様っ!お怪我は有りませんか?」
シャバーンはさり気なくラティーファに近づこうとした。しかしナーサーヤに阻まれる。
「…………見ない顔ですね。どこの担当の者ですか?」
シャバーンは溜飲しながら、ジーニーを見た。残念ながら、彼は今気絶しているようだ。仕方がなく、彼は即席でウソを付くことにした。
シャバーンは一歩後退りすると、右手の人差し指を立てながらにっこり微笑んだ。
「…………説明不足!失礼しました。私、今日からあなたの護衛に任命されました。シャバーンと申します!」
絶妙な空気が流れる。それもそうだ。明らかに強くなさそうな五十路の男が、唐突に『護衛です!』と言っているのだから信じるはずもない。祈るような思いで、シャバーンはラティーファを見た。
だが、肝心のラティーファは微動だにせず、更にはシャバーンには目もくれず一言だけ零した。
「……そう。よろしく」
ラティーファはそう言うと、部屋へあっさり戻ってしまった。彼は戸惑いながらも、一先ず何とかなったと思いながら胸をなでおろした。しかし、直後にラティーファとは思えないくらいに冷徹で無機質な声が、シャバーンの耳に投げかけられた。
「――――何をしているの。護衛なら早く部屋に入り仕事をしなさい」
シャバーンは、思わずため息を漏らした。自分に出会わなかった世界のラティーファは、これほどに別人なのか。まるで見た目だけが同じの陶器人形のようだ。
「はっ、はいただいま。失礼しまーす」
落胆しながら入室したシャバーンだったが、部屋のバルコニーに佇むラティーファの後ろ姿を見るとやはり心がざわつくのを抑えることはできなかった。愛する人の顔を見ようと試みたシャバーンは、ゆっくりと彼女の隣りににじり寄った。その姿は完全に、ジーニー以上の不審者だ。
横顔をようやく拝むことができたシャバーンは、息を呑んだ。外を眺める彼女の表情が、悲痛という一言で表すにはあまりに苦しげだったからだ。思わず、彼はラティーファに声をかけてしまった。
「どうかいたしましたか?悲しそうな顔を……」
叱られると思った彼だったが、意外にもラティーファは答えてくれた。
「悲しい?…………いえ、虚しいだけです。私は籠の中の鳥。外の世界はこんなにも活気に溢れているのに、私はここに独りだけ」
ラティーファは部屋の奥に置いてある箱を見つめながら、ため息をついた。おそらくダンスの思い出や、諦めた夢と憧れが詰まっている箱なのだろう。
「…………ここには、夢も希望も自由も無い。唯一有り難いのは、飢え死にすることも虐げられることも決して無いことね」
ラティーファはそう言いながら、初めてシャバーンの方を見た。その瞳の奥には、僅かに彼が愛した女性の面影が残っている。
「…………分かってる。それが、このアグラバーでどれだけ幸福であるかを。けれども……」
「けれども?」
「けれども、未だに時々夢に見るの。もし、あの日ベッドで泣き寝入りするんじゃなくて、街に飛び出していたなら、ってね。別の出会いがあって、ひょっとしたらロマンスもあったかも」
シャバーンは目頭が熱くなるのを必死に堪えた。出来ることなら、目の前に居る孤独なラティーファを抱きしめてやりたかった。
だが、それは出来ない。決して許されないのだ。代わりに彼ができることは、たった一つだけ。運命を変え、彼女を救うことだ。
「…………ラティーファ様、一つだけお伝えしたいことが――――」
しかし、彼の声を遮るように誰かがやってきた。どうやら身分を偽っていたことが悟られたようだ。シャバーンは必死に頭を回転させたが、思うように言葉が出てこない。そもそもどうやって伝え、信じてもらうのか。いや、そもそも彼女を助けたところで絶望的な日々がまた続くだけなのではないのか。
色々な思いがシャバーンの中で渦巻いた。だが、ラティーファはそんな彼にこう言った。
「シャバーン、と言ったわね」
シャバーンが驚きで目を丸くする。この声で呼び捨てにされたことが無かった彼にとっては衝撃だったが、考えてみれば当然の扱いだ。ラティーファはそんな彼の気持ちも知らず話し続けた。
「…………あなた、護衛ではないわね」
バレてしまったか。シャバーンは頭を抱えた。だが、次に発せられた言葉は意外なものだった。
「でも、悪人にも見えない」
ラティーファはシャバーンに近づくと、その手を取って少しだけ微笑んだ。それはあの日、市場でシャバーンが恋に落ちたあの笑顔だった。
「私の胸の内を聞いてくれたことに免じて、あなたを逃がします」
「ラティーファ様……私は…………」
「出来ればもっと早くに、あなたに出会いたかった。そうしたら…………」
ラティーファは少しだけ発言を躊躇した。だが、すぐに続きの言葉を発した。二度と会うことのない男になら、素直に話せるような気がしたのだ。
「そうしたら……きっと私、あなたを好きになっていたと思う」
シャバーンは、ラティーファを真っ直ぐ見つめた。いや、見つめることしかできなかった。
「ラティーファ様、私は…………私は…………!」
「…………どうしたの?さっきから何か、私に伝えたいことがあるの?」
言わなければ。シャバーンは咄嗟にラティーファの手を取り、目をしっかり見てこう言った。
「ラティーファ様、聞いて下さい。私はランプの魔神のせいで、別の世界の未来から飛ばされてきた男です。もうすぐ……というか、この後すぐあなたのご両親は、ジャファーに殺されてしまいます。…………そして、あなたも同じように」
ラティーファは呆気にとられている。さすがに不審者だと思われたか、とシャバーンは焦った。何か、彼女に証明出来るものを見せなければならない。彼は懐を探って何かないかと探した。そして、偶然にも内ポケットに入れっぱなしにしてあった公演のチラシと、いつも持ち歩いている小さな絵――――ラティーファとシャバーンの結婚式の肖像画が手に触れた。
シャバーンは藁にも縋る思いで、ラティーファに二つの証拠を見せた。彼女は、未来の日付が書かれているチラシ――――しかも自分と目の前にいる男がショーをしている絵を見て驚いている。さらに、二人が夫婦だと言うのだ。ラティーファは狼狽した。
「えっ…………と…………別の世界では私が踊り子で、あなたが夫だと言いたいの?」
「ええと、ああ…………その。いや、正しくは…………あなたはこっそり踊りを続けていて、私に出会って結婚するんです。つまり、別の世界であなたは私にもっと早く出会っていて、しかもちゃんと恋に落ちてる」
ラティーファは信じられないと言いたげに息を呑んでいる。だが不幸にも、外からその事実を裏付ける音が響いた。
「キャーッ!誰か助けて!人が殺されて――――」
「ぎゃーっ!」
「嫌、助けて!私はただの使用人――――」
突如屋敷に響き始めた阿鼻叫喚の声は、シャバーンの話を事実だと物語には十二分だった。シャバーンとラティーファは顔を見合わせた。そして、彼女は見知らぬ男の手を握り返しこう言った。
「…………あなたを信じるわ。お父様とお母様を助けに行かなきゃ!」
「はい、そうしましょう。ジーニー!手伝ってくれ」
「はいはい!わかりましたよ!って、あれ?あれれ…………?魔法が使えないぞ」
魔神が出てきたことにより驚いているラティーファを置いて、シャバーンはジーニーを揺さぶった。
「おい、まさかまた不調だなんて言うんじゃないだろうな」
「頑張ってるんだけど……無理だ!シャバーンさん、三人だけでも逃がしてあげてください!」
「ええい、ままよ!なんとかする!とりあえずお前はこっちへ来い!」
もはや敬意表現をする余裕もない。シャバーンはラティーファとジーニーの手を引き、廊下へ飛び出した。外にはハイサムとその妻の姿が見える。護衛はすでにほとんどが死体に変わっており、シャバーンは凄惨な現場に絶句した。そんな中でも、ハイサムは家族を守るために剣を取って戦っている。
「ラティーファ!無事か」
「お父様!逃げてください」
「逃げるだと!?馬鹿な。主人が使用人より先に逃げてどうする」
シャバーンはため息をついた。ハイサム――――義父はたしかにそういう人だ。ラティーファは母だけでもと思い、その手を掴もうとした。しかし、彼女はそれを拒絶した。
「ラティーファ、私はお父様の妻。逃げるわけにはいかないわ。お前だけでも逃げなさい」
「そんな…………そんな…………嫌よ!私は――――」
「娘さんはこのシャバーンが責任を持ってお守りします。ラティーファ、時間がない。こっちへ!」
両親の説得は不可能と悟ったシャバーンは、ラティーファの手を引いて走り出した。だが、既に一歩遅かった。彼は背中に鋭い痛みを感じ、地面に伏した。どうやら背中を斬りつけられたようだ。人間の姿をしたジーニーも、同様に引きずり倒されている。
薄れゆく意識の中、彼が最初に見たものは恐怖と絶望に打ちひしがれるラティーファの瞳と、鋭く光る剣の切っ先だった。そして最後に見たものは、痛みと怯えの色を宿した愛する人の顔だった。その瞳には、もう光は宿っていない。やがて、ラティーファの鮮血が大理石の床を円心状に伝い、シャバーンの頬を生暖かく濡らした。彼は必死に手を伸ばし、ラティーファに触れた。もう息をしていないと言うのに、まだ指先は温かい。
声にならない声で、シャバーンは叫んだ。
ラティーファ、出来ればこの世界のお前にも同じように希望を与えたかった。自由に生きて欲しかった。お前を笑顔に…………
そんな後悔の想いを胸に、シャバーンの視界は暗転した。ラティーファにその思いは、もう届かないという絶望を感じながら。
だが、予想に反して彼女は結局最後まで現れなかった。この世界のラティーファが、一体どれほどの孤独と寂しさの中で生きているのだろうか。そんなことを思いながら、シャバーンの胸が締め付けられる。
結局夕方になっても進展は得られず、シャバーンは渋々次の手段に出ることにした。
「ジーニー、不法侵入の魔法は出来そうか?」
「ざっくりしてますねぇ。具体的には?」
「ラティーファの前まで連れて行く、とか」
「…………それ、大丈夫ですか?」
ジーニーは苦笑いしながら、風呂で身体を洗い流すような動作をした。
「ほら、お風呂中かも…………」
「アホか。そんなもん気にせんわ!あいつの命がかかってるんだぞ!」
「えーっ、でもその場でこっちが手討ちにされたら二度と元の世界に戻れないかも…………しれませんよ?」
シャバーンはギクリとした。そうか、この世界で起きることがどれくらいのレベルで元の世界に影響するのかは、測り知ることができないのだ。彼は頭を抱えた。とはいえ、もう時間がない。
「…………宮殿の次にデカい邸宅なんだ。わし一人増えても問題ないだろう。ジーニー、わしをハイサム邸の使用人に変身させてくれ」
「承知しました、シャバーンさん」
ジーニーが腕を一振すると、シャバーンの見た目が使用人に変わった。彼は自身の全身に満足すると、荷物の運搬に紛れて裏口からサッと進入した。
「…………とりあえず、侵入はできたようだ。しかし、ラティーファの部屋が分からん」
「それにアグラバーの淑女のお部屋は、たぶん変なおっさんは入れないように警戒されていると思いますしねぇ」
ジーニーの言葉にシャバーンの鋭い視線が飛ぶ。しかしジーニーの言う通りだ。女装でもしない限りは部屋には入れない。ふと、彼はジーニーを見た。
「…………お前、不審者役をしてくれないか?」
魔神はしばらく目を瞬いた。そして頼みごとの意味をようやく理解して飛び上がった。
「えっ?俺が!?なーんで!あんたのほうが人相悪いし――――」
「いざとなったらお前は不死身だし、それに簡単に逃げられるだろう!わしが捕まったら手討ちになるじゃないか!」
シャバーンのアイデアは、筋は通っている。こうして哀れな魔神は不審者役としてラティーファの部屋にダイブする羽目になった。
部屋の近くには幸いにも、私兵や護衛は配置されていないようだ。
「よし、行け。不審者ジーニー」
「はいはい、行きますよ。行けば良いんでしょ」
ジーニーは鬱陶しそうにそう言うと、物陰から飛び出した。しかしその素振りはどう見てもノリノリに見える。
「はーい!皆様ご機嫌麗しゅうございますか?俺様もすっげー元気ぃ!」
「くっ、曲者!!誰かーっ!お嬢様をお守りして!」
その声を待っていましたと言わんばかりに、シャバーンが躍り出てジーニーを殴りつける。些かこれは私怨の混じったパンチのようだが。
「いってぇっ!ちょっと本気で殴らないでよね!」
「何をふざけたことを!何度でも殴ってやるわい!」
ジーニーを一通り伸したところで、シャバーンは立ち上がった。目の前には乳母のナーサーヤが立っている。そしてその背後には…………
「ラティーファ……」
反射的に名前を呟いてしまった彼は、慌ててこう付け加えた。
「様っ!お怪我は有りませんか?」
シャバーンはさり気なくラティーファに近づこうとした。しかしナーサーヤに阻まれる。
「…………見ない顔ですね。どこの担当の者ですか?」
シャバーンは溜飲しながら、ジーニーを見た。残念ながら、彼は今気絶しているようだ。仕方がなく、彼は即席でウソを付くことにした。
シャバーンは一歩後退りすると、右手の人差し指を立てながらにっこり微笑んだ。
「…………説明不足!失礼しました。私、今日からあなたの護衛に任命されました。シャバーンと申します!」
絶妙な空気が流れる。それもそうだ。明らかに強くなさそうな五十路の男が、唐突に『護衛です!』と言っているのだから信じるはずもない。祈るような思いで、シャバーンはラティーファを見た。
だが、肝心のラティーファは微動だにせず、更にはシャバーンには目もくれず一言だけ零した。
「……そう。よろしく」
ラティーファはそう言うと、部屋へあっさり戻ってしまった。彼は戸惑いながらも、一先ず何とかなったと思いながら胸をなでおろした。しかし、直後にラティーファとは思えないくらいに冷徹で無機質な声が、シャバーンの耳に投げかけられた。
「――――何をしているの。護衛なら早く部屋に入り仕事をしなさい」
シャバーンは、思わずため息を漏らした。自分に出会わなかった世界のラティーファは、これほどに別人なのか。まるで見た目だけが同じの陶器人形のようだ。
「はっ、はいただいま。失礼しまーす」
落胆しながら入室したシャバーンだったが、部屋のバルコニーに佇むラティーファの後ろ姿を見るとやはり心がざわつくのを抑えることはできなかった。愛する人の顔を見ようと試みたシャバーンは、ゆっくりと彼女の隣りににじり寄った。その姿は完全に、ジーニー以上の不審者だ。
横顔をようやく拝むことができたシャバーンは、息を呑んだ。外を眺める彼女の表情が、悲痛という一言で表すにはあまりに苦しげだったからだ。思わず、彼はラティーファに声をかけてしまった。
「どうかいたしましたか?悲しそうな顔を……」
叱られると思った彼だったが、意外にもラティーファは答えてくれた。
「悲しい?…………いえ、虚しいだけです。私は籠の中の鳥。外の世界はこんなにも活気に溢れているのに、私はここに独りだけ」
ラティーファは部屋の奥に置いてある箱を見つめながら、ため息をついた。おそらくダンスの思い出や、諦めた夢と憧れが詰まっている箱なのだろう。
「…………ここには、夢も希望も自由も無い。唯一有り難いのは、飢え死にすることも虐げられることも決して無いことね」
ラティーファはそう言いながら、初めてシャバーンの方を見た。その瞳の奥には、僅かに彼が愛した女性の面影が残っている。
「…………分かってる。それが、このアグラバーでどれだけ幸福であるかを。けれども……」
「けれども?」
「けれども、未だに時々夢に見るの。もし、あの日ベッドで泣き寝入りするんじゃなくて、街に飛び出していたなら、ってね。別の出会いがあって、ひょっとしたらロマンスもあったかも」
シャバーンは目頭が熱くなるのを必死に堪えた。出来ることなら、目の前に居る孤独なラティーファを抱きしめてやりたかった。
だが、それは出来ない。決して許されないのだ。代わりに彼ができることは、たった一つだけ。運命を変え、彼女を救うことだ。
「…………ラティーファ様、一つだけお伝えしたいことが――――」
しかし、彼の声を遮るように誰かがやってきた。どうやら身分を偽っていたことが悟られたようだ。シャバーンは必死に頭を回転させたが、思うように言葉が出てこない。そもそもどうやって伝え、信じてもらうのか。いや、そもそも彼女を助けたところで絶望的な日々がまた続くだけなのではないのか。
色々な思いがシャバーンの中で渦巻いた。だが、ラティーファはそんな彼にこう言った。
「シャバーン、と言ったわね」
シャバーンが驚きで目を丸くする。この声で呼び捨てにされたことが無かった彼にとっては衝撃だったが、考えてみれば当然の扱いだ。ラティーファはそんな彼の気持ちも知らず話し続けた。
「…………あなた、護衛ではないわね」
バレてしまったか。シャバーンは頭を抱えた。だが、次に発せられた言葉は意外なものだった。
「でも、悪人にも見えない」
ラティーファはシャバーンに近づくと、その手を取って少しだけ微笑んだ。それはあの日、市場でシャバーンが恋に落ちたあの笑顔だった。
「私の胸の内を聞いてくれたことに免じて、あなたを逃がします」
「ラティーファ様……私は…………」
「出来ればもっと早くに、あなたに出会いたかった。そうしたら…………」
ラティーファは少しだけ発言を躊躇した。だが、すぐに続きの言葉を発した。二度と会うことのない男になら、素直に話せるような気がしたのだ。
「そうしたら……きっと私、あなたを好きになっていたと思う」
シャバーンは、ラティーファを真っ直ぐ見つめた。いや、見つめることしかできなかった。
「ラティーファ様、私は…………私は…………!」
「…………どうしたの?さっきから何か、私に伝えたいことがあるの?」
言わなければ。シャバーンは咄嗟にラティーファの手を取り、目をしっかり見てこう言った。
「ラティーファ様、聞いて下さい。私はランプの魔神のせいで、別の世界の未来から飛ばされてきた男です。もうすぐ……というか、この後すぐあなたのご両親は、ジャファーに殺されてしまいます。…………そして、あなたも同じように」
ラティーファは呆気にとられている。さすがに不審者だと思われたか、とシャバーンは焦った。何か、彼女に証明出来るものを見せなければならない。彼は懐を探って何かないかと探した。そして、偶然にも内ポケットに入れっぱなしにしてあった公演のチラシと、いつも持ち歩いている小さな絵――――ラティーファとシャバーンの結婚式の肖像画が手に触れた。
シャバーンは藁にも縋る思いで、ラティーファに二つの証拠を見せた。彼女は、未来の日付が書かれているチラシ――――しかも自分と目の前にいる男がショーをしている絵を見て驚いている。さらに、二人が夫婦だと言うのだ。ラティーファは狼狽した。
「えっ…………と…………別の世界では私が踊り子で、あなたが夫だと言いたいの?」
「ええと、ああ…………その。いや、正しくは…………あなたはこっそり踊りを続けていて、私に出会って結婚するんです。つまり、別の世界であなたは私にもっと早く出会っていて、しかもちゃんと恋に落ちてる」
ラティーファは信じられないと言いたげに息を呑んでいる。だが不幸にも、外からその事実を裏付ける音が響いた。
「キャーッ!誰か助けて!人が殺されて――――」
「ぎゃーっ!」
「嫌、助けて!私はただの使用人――――」
突如屋敷に響き始めた阿鼻叫喚の声は、シャバーンの話を事実だと物語には十二分だった。シャバーンとラティーファは顔を見合わせた。そして、彼女は見知らぬ男の手を握り返しこう言った。
「…………あなたを信じるわ。お父様とお母様を助けに行かなきゃ!」
「はい、そうしましょう。ジーニー!手伝ってくれ」
「はいはい!わかりましたよ!って、あれ?あれれ…………?魔法が使えないぞ」
魔神が出てきたことにより驚いているラティーファを置いて、シャバーンはジーニーを揺さぶった。
「おい、まさかまた不調だなんて言うんじゃないだろうな」
「頑張ってるんだけど……無理だ!シャバーンさん、三人だけでも逃がしてあげてください!」
「ええい、ままよ!なんとかする!とりあえずお前はこっちへ来い!」
もはや敬意表現をする余裕もない。シャバーンはラティーファとジーニーの手を引き、廊下へ飛び出した。外にはハイサムとその妻の姿が見える。護衛はすでにほとんどが死体に変わっており、シャバーンは凄惨な現場に絶句した。そんな中でも、ハイサムは家族を守るために剣を取って戦っている。
「ラティーファ!無事か」
「お父様!逃げてください」
「逃げるだと!?馬鹿な。主人が使用人より先に逃げてどうする」
シャバーンはため息をついた。ハイサム――――義父はたしかにそういう人だ。ラティーファは母だけでもと思い、その手を掴もうとした。しかし、彼女はそれを拒絶した。
「ラティーファ、私はお父様の妻。逃げるわけにはいかないわ。お前だけでも逃げなさい」
「そんな…………そんな…………嫌よ!私は――――」
「娘さんはこのシャバーンが責任を持ってお守りします。ラティーファ、時間がない。こっちへ!」
両親の説得は不可能と悟ったシャバーンは、ラティーファの手を引いて走り出した。だが、既に一歩遅かった。彼は背中に鋭い痛みを感じ、地面に伏した。どうやら背中を斬りつけられたようだ。人間の姿をしたジーニーも、同様に引きずり倒されている。
薄れゆく意識の中、彼が最初に見たものは恐怖と絶望に打ちひしがれるラティーファの瞳と、鋭く光る剣の切っ先だった。そして最後に見たものは、痛みと怯えの色を宿した愛する人の顔だった。その瞳には、もう光は宿っていない。やがて、ラティーファの鮮血が大理石の床を円心状に伝い、シャバーンの頬を生暖かく濡らした。彼は必死に手を伸ばし、ラティーファに触れた。もう息をしていないと言うのに、まだ指先は温かい。
声にならない声で、シャバーンは叫んだ。
ラティーファ、出来ればこの世界のお前にも同じように希望を与えたかった。自由に生きて欲しかった。お前を笑顔に…………
そんな後悔の想いを胸に、シャバーンの視界は暗転した。ラティーファにその思いは、もう届かないという絶望を感じながら。