7、その手に掴んだもの
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アグラバーの朝は早い。ラティーファは鳥のさえずり声で目を覚ますと、顔を洗って髪をハーフアップに整えた。台所に向かうと、一足先に起床しているナーサーヤとアシームが朝食の準備をしているところだった。
「おはようございます、ラティーファ奥様!」
「おはよう、アシーム」
元気の良いアシームの挨拶に、ラティーファが微笑む。指にはめた妻の証を愛しそうに見つめながら、彼女はナーサーヤに尋ねた。
「何か手伝うことはない?」
「いいえ、お気遣いなく。それに奥様がお怪我をされでもしたら、私達は旦那様に叱られますので」
旦那様――――愛夫シャバーンのことを思い浮かべ、ラティーファは苦笑いしている。
「あの人、ちょっと過保護なのよね。でもまあ……」
「愛情表現にしては、ちょっと行き過ぎてると僕は思いますけどねぇ」
アシームの言葉にラティーファがため息をつく。確かに結婚する前と後では、自由に外出する機会も減っただけでなく、ショーの前座以外でダンスをする機会も無くなった。代わりに衣装の繕いや小道具の作成、修繕をすることや、婦人たちのティータイムに参加することが増えたような気がする。
シャバーンいわく、どうしても綺麗な妻を持つと心配事が増えるらしい。実際に、彼女がダンスをすれば毎回楽屋は花束と熱烈なファンレター(男女問わず)が届く。もちろん最初は自分ごとのように喜んでくれていたシャバーンだったが、最近は贈り物が届く度に少々不機嫌そうなことも気がかりだった。
「……一度はすべて失った私にとって、大切な方のお傍に居られることは幸せなのよ」
ラティーファはそう言うと、サッと立ち上がっいぇ廊下に出た。庶民にしては豪邸と言える造りに感心しながら、彼女は再び寝室へ向かった。
寝室には、一足先に妻が起きていることも知らないシャバーンがだらしない格好で眠っている。普段はターバンで隠れている黒髪を優しく撫で付けながら、ラティーファはふわりと微笑みを零した。
「んー……ラティーファ……」
居るはずのない妻を寝ぼけて探すシャバーンの手を、ラティーファはそっと握った。手が触れた途端、シャバーンは満足げな面持ちを浮かべた。だが次の瞬間、何かがおかしいと気づいて彼は目を開けた。
「わっ!!」
「おはようございます、シャバーン様」
「ラティーファ!その起こし方はびっくりするから勘弁してくれ……」
「シャバーン様が、私より早く起きれば済む話じゃないですか」
「……朝は弱いんだ」
ラティーファは彼のために洗面器と手ぬぐいを持ってくると、隣に腰掛けて顔を覗き込んだ。所々に寝癖の残る髪の毛が愛らしくて、彼女は幸せで心が満たされていくのを感じていた。
「……なんか、顔に付いてるのか?」
「それを取るために顔を洗うの」
肯定否定いずれとも取れる妻の言葉にドキリとしながら、シャバーンは洗顔を済ませた。その間ラティーファは、夫の一挙一動も見逃さないように笑顔で観察し続けている。食い入るような視線に困惑と恥ずかしさを覚えたシャバーンは、手ぬぐいで自分の顔を隠してみせた。
「それもマジック?」
「そうだな、マジックだ」
二人は顔を見合わせて笑った。ラティーファにとって、彼の笑顔を隣で支えられることは何よりの喜びだった。同時に”踊る”ということを続ける機会を作ってくれたことに感謝すらしていた。
この幸せが永遠に続けば良いのに。
心の底からラティーファはそう思うのだった。
その日の夜は、アグラバーで最も大きな劇場での公演だった。観客動員数は過去最高であり、シャバーンも心做しか緊張している様子だ。ラティーファは彼の衣装を整えながら、開演前の最終確認をしている。
「いい?登場は貴方から見て左の入口よ。右じゃないからね」
「間違えるわけ無いだろ!だっ、だいじょ……だいじょ……大丈夫だ!」
本番前のシャバーンが短気になりやすいのはラティーファも慣れたものだが、自分ひとりで入退場の把握も出来ない様子には毎度不安を覚える。次に彼女は綺麗で萎れない花がセットされているかどうか、そしてマジックに使う小道具が曲がったりしていないか、裏方が整頓されているかどうかをくまなく点検した。途中でジーニーとシャバーンが何か言い合っているのを小耳に挟んだが、ラティーファは意識を逸らすことなく完璧に最終確認を済ませていった。一通り自身の役目を終えた彼女は、アシームに声をかけた。
「アシーム、準備は問題ない?」
「はい、奥様。今はベキートが観客に説明をしています。ですから、あと数分で開演です」
「大道具の方は問題ない?箱に入る演者とはタイミングを確認した?」
「はい、バッチリです」
ラティーファは満足げに頷くと、魔法の絨毯のホコリを取りながら夫の方を見た。肝心の彼は準備を手伝うわけでも確認するわけでもなく、悠長に鏡と向き合っている。僅かにラティーファの表情が曇ったのを、ジーニーは見逃さなかった。彼はため息を付くと、こっそりマジシャンの若奥様に耳打ちした。
「すみませんが、この公演が終わったらちょっと、アシームたちと奥様で話せませんかね。……シャバーンさんは抜きで」
ラティーファが目を丸くしているうちに、開場を知らせるコールが響く。説明を終えたベキートはいつの間にか戻ってきており、彼女に出番を知らせるジェスチャーをしている。
ラティーファは一瞬でダンサーの表情に変わると、夫の肩を叩いた。
「行ってきます、シャバーン様」
しかし、彼はラティーファを一瞥すらせず、はいはいと言いながら引き続き鏡を見ている。
……今は本番に集中しないと。
ラティーファは自分にそう言い聞かせた。そしてベキートに音楽をスタートさせるように合図した。入場の位置についたラティーファを見届けた蛇は、息を大きく吸ってこう言った。
「レディース・アンド・ジェントルメン!偉大なるマジシャン・シャバーンのショーはまもなくスタートします。まずは、アグラバーで最も著名な踊り子ラティーファのエネルギッシュなダンスをお楽しみください!」
ベキートのアナウンスが終わると、ラティーファは軽快な足取りで観客の下に躍り出た。シャバーンのローブと同じ紅色の薄布が艷やかにはためいている。観客はラティーファの登場に拍手喝采を送った。最上級の来賓席には、ジャスミン姫とその姉ナルジス姫も着席しているのが見える。彼女は声援に堪えるようにエネルギッシュなダンスを続けた。
そんな様子を裏方から黙って見ている人物が居た。意外にもそれは、夫であるシャバーンだった。彼は愛する妻の踊りを見て少しだけ口許をほころばせたが、やがて苦々しい面持ちに変わった。アシームはそんな主人を心配そうに覗き込んでいる。
「どうかされましたか、シャバーン様」
「ん?あ、ああ……なんというか……そうだな……あいつの踊りが変わったなと思って」
「そりゃそうでしょうに。きっとシャバーンさんの影響ですよ。あなた、お父様のところでは許されなかったから、ラティーファさんにダンスの先生もつけて差し上げたんですって?どうりで昔よりずっと洗練されて綺麗になってるわけです」
ジーニーの言葉を無視しながら、シャバーンは腕を組んだ。その眼差しには、素直な喜びとはまた別の何かが確かに宿っている。アシームがそんなシャバーンに何か言おうと口を開いた。だがその声はマジシャン登場を知らせる音楽にかき消される。舞台から戻ってきたラティーファは、上気する声を整えながらアシスタントのアシームに声をかけた。
「アシーム、シャバーン様の出番よ。準備して」
「はっ、はい!」
返事が終わるやいなや、アシームが元気よく飛び出していく。ラティーファは息を整えながらシャバーンに微笑みかけた。そしてふと、暗がりの中で彼の手が震えていることに気づいて手を伸ばそうとした。だが、その手が触れる前にファンファーレが鳴り響く。シャバーンは入場を知らせる合図に反応すると、毅然とした面持ちで入口――――自分から見て右側の入口へ歩いていこうとした。慌てて袖を引っ張ったラティーファは、夫に入口が逆であることを伝えた。
「シャバーン様、逆よ!」
「え、あ、ああ……わっ、わかってる!」
そこは、ありがとうじゃないの……?
ラティーファはまたしても表情を曇らせながら、シャバーンの背中を見つめた。もちろん、そんな彼女の憂いが彼に届くことはなかった。
公演が終わったラティーファは、最期の観客が帰るまで手を振っていた。ふと、彼女は誰かの気配を感じて後ろを振り返った。そこにはなんと、ナルジス姫とジャスミン姫の姿があった。
「ナルジィ!ジャス!ありがとう」
「もちろん。ラティーファの素敵な旦那様のショーなんだから、観に行くわ」
「ラティーファ、ダンスすごかったわ!」
「ありがとう、二人とも……」
あの事件があってから、そして結婚してからというもの、ラティーファは二人になかなか会うことは出来ず恋しい日々を過ごしていた。ようやく再会できた喜びを分かち合うように、ラティーファは二人を抱きしめた。
「本当に、ありがとう……」
ナルジスは親友の手を取って、心の底から嬉しそうに微笑んでいる。そんななか、ジャスミンが質問した。
「ねえ、ラティーファ。結婚ってどんな感じなの?愛する人と毎日一緒って、どんな気分?」
ラティーファは一瞬驚いたが、やがてジャスミンが見合いを始めたという噂を思い出した。すかさずナルジスが瞳を輝かせてこう言った。
「羨ましいわ。私も愛する人と毎日一緒に居られたら良いのに……」
「お姉様は毎日ジャファー様とご一緒でしょう?」
「距離が遠すぎるわ!お父様の書斎を覗き込んだり、遠くから眺めてため息をつくなんて……一緒とは言えない」
ラティーファは二人の会話を聞きながら、シャバーンとの生活を思い返していた。
彼はラティーファが、家名に縛られているせいで習うことが出来なかったダンスを習わせてくれた。楽器も買い与えてくれただけでなく、彼とお揃いの衣装も新調してくれた。何より毎日愛を囁いてくれただけでなく、彼女が寂しい思いをしないようにできる限り傍に居てくれた。日常生活の会話も笑いが絶えることがなく、ラティーファはその度にシャバーンの妻になることが出来た自分を幸福だと思った。
だが、その気持がいつもショーの前後で揺らいでしまうのも事実だった。彼は理由も教えることなくラティーファが舞台で注目を集めることを嫌った。時折ショーに出ないように、という意図で説得されているような気分になることもあった。そういう時は、なんとなくだが自身がダンスをすることによって、シャバーンとの関係性が悪くなっているような気がしてならなかった。
「――――ラティーファ?」
顔を上げると、二人の友人が心配そうにラティーファの顔を覗き込んでいた。彼女は綺麗すぎる微笑みを向けると、一言だけ「なんでもない」と返すのだった。
ラティーファが楽屋に戻ると、そこにはシャバーン以外の全員が揃っていた。アシームに尋ねると、彼は次の公演に備えてパーティーに出掛けていったとのことだった。
改めて全員の顔を見回してみると、ラティーファは誰一人として明るい表情を浮かべていないことに気づいた。彼女は腰掛けることはせず、礼儀正しく一礼してスタッフたちに尋ねた。
「……夫抜きで、ということは皆さんあの方に何かお思いなのですね」
「……奥様とシャバーン様は、アグラバーで一番のおしどり夫婦だと、僕は思っています。だからこそこんなこと相談するのは気が引けるんですが……」
アシームがたどたどしく話し始め、気まずそうに下を向いた。そんな友人の気持ちを汲み取ったジーニーは、ラティーファに続きを話した。
「最近のシャバーンさんのこと、あなたどう思われます?恋に落ちた頃と変わっちゃあいませんか?」
ラティーファは息を呑んだ。そして沈んだ声で「ええ」と返答した。ジーニーはできる限り彼女を傷つけないように、言葉を選びながら続けた。
「俺も悪かったんです。俺の魔法は基本的に、物を与えるか見た目を変えるくらいのことしか出来ない。……なんですが、このアシスタントのアシームの健気さと、あんたの旦那の気持ちの強さに心動かされてサービスしてしまったんです。本当は、俺がアシスタントなんてする必要は無いんです。だってこれは、願われていないことですので」
ラティーファはジーニーの言葉に耳を疑い、目を丸くした。刹那、アシームが顔を真っ青にしてジーニーを見た。魔神は口を抑えて動揺している。
「ジーニー!」
「おっと、こりゃまずいぞ……」
ラティーファはジーニーに詰め寄ると、今までに見せたことのない厳しい眼差しを全員に向けた。
「ジーニー、アシーム、そしてベキート。あなたたち、私に何か隠し事をしているなら教えて頂戴。私は……」
ラティーファの表情が、苦しげなものに変わったのを全員が見ていた。アシームは今にも泣きそうな顔をしている。
「私は、妻としてあの人に向き合う責任があるから」
そう言い切ったラティーファの表情にはもう、あの日市場で見た少女の面影は無かった。もちろん父親譲りの厳格たる意思の前で、ジーニーは降参するより他無い。彼は気まずそうに言葉を濁しながら、ため息をついた。
「それじゃあ、話しましょうか……どうやってあの人と私が出会ったのか。そしてどんなことを願ったのかを……」
邸宅の一室で、ラティーファは憔悴しきった表情を浮かべていた。手にはあの日プレゼントされたイヤリングが握られている。
やがて、疲れ切ったシャバーンが部屋に入ってきた。ラティーファは振り返ることもせず、暗い部屋で一言「お帰りなさい」と言った。
「ああ、ただいま。……なんか、暗くないか?」
ラティーファはあまりに脳天気な声を上げるシャバーンの方を振りむいた。目には大粒の涙が浮かんでいる。彼はようやく何かがあったと悟ると、妻の隣に駆け寄って手を差し伸べた。だが、その手は乾いた音ではたき落とされる。はじめ、シャバーンは何が起きたのか把握できず、たちつくしていた。やがて妻の反抗的な態度に苛立つと、彼は必死に声を抑えて尋ねた。
「な……何をするんだ。なにか不満なことでもあるのか。踊りも学ばせてやって、舞台も提供している。衣食住も、庶民よりは充実しているだろう。それとも、わしの年が不満か」
ラティーファはその言葉に、頭の中の何かがぷつりと切れるのを感じた。彼女は反射的に立ち上がると、シャバーンを突き放して睨みつけた。
「与えてやった?そう言いたいの?あなた、いつからそんな人になってしまったの!?」
「なっ……」
「自分の力で夢を叶えたんじゃないからこんなことになったのよ!私は……私は本当に嬉しかったのよ!あなたがようやく夢を叶えることが出来たって。素敵なアシスタントたちに巡り会えて、本当に良かったって。なのに、魔神の力に頼ったどころかその契約までアシームから奪ったなんて」
シャバーンはようやく、ラティーファが誰かから隠していた事の顛末を聞いたことに気づいた。言い逃れの言葉を考えているうちにも、彼女は冷静でありつつも烈火のごとく燃え盛る怒りを湛えている。
「ご、誤解だ。それは……」
「それなのに、今はどうなの。こんなの間違ってる。今のあなたのマジックで笑顔になるのは外面しか見ていない人たちだけ。いえ、シャバーン様――――あなた自身だけよ」
「――――勝手なことを言うな!お前に何がわかるっていうんだ!」
自身のパフォーマンスに言及されたシャバーンは、怒りのあまり肩を震わせて机を叩いた。それでもラティーファは怯まない。
「あなたに救われて、私は心から感謝しています。そして何より、その恩に報いるためだけでなく……私は心の底からあなたを愛しています。だからこそ、私は言わなければならない。今のまま行けば、あなたはすべてを失う。お願い、私の話を――――」
そう言って見上げた場所に、ラティーファの愛したシャバーンはいなかった。今や実力以上の名声を手に入れてしまった彼が耳を傾ける相手は、誰ひとり居ないということなのか。彼女は絶望のあまりその場に座り込んだ。そしてシャバーンの言葉がさらなる追い打ちをかける。彼はラティーファの衣装タンスから衣装をすべて引っ張り出すと、無造作に彼女の目の前に投げてこう告げた。
「これ以上わしのやり方に逆らうのなら、踊ることは許さん」
「そんな……い、一体何を言い出すの……?」
「あれはわしのショーだ。そのわしに対して意見を言うのだから、当然のことだ。それから!他の男の目に付くところで踊るのも禁止する。お前はあまりに美しく成長しすぎた」
そう言って、シャバーンは部屋の扉に向かってあるき出した。その背にラティーファは嘆きながら慟哭を投げつけた。
「私の言葉が届かないなら、これだけは覚えておいて!あなたの夢と愛は、もはや呪いと同じよ」
そんなラティーファの最後の警告に、シャバーンは振り向くこともせず一言だけ零した。
「……そんなものずっと前から、わしにとっては呪いだ」
そして、扉が閉められる。ラティーファはこれ以上夫に何を言えば良いのか分からず泣き崩れた。遠く扉の向こうから、珍しくアシームとシャバーンの言い争う声が聞こえてくる。だが、もはや彼女にとってはすべてが雑踏のようなものだった。なぜならその手の中には、もはや信じていたものは何も残されていないことがわかったのだから。
「おはようございます、ラティーファ奥様!」
「おはよう、アシーム」
元気の良いアシームの挨拶に、ラティーファが微笑む。指にはめた妻の証を愛しそうに見つめながら、彼女はナーサーヤに尋ねた。
「何か手伝うことはない?」
「いいえ、お気遣いなく。それに奥様がお怪我をされでもしたら、私達は旦那様に叱られますので」
旦那様――――愛夫シャバーンのことを思い浮かべ、ラティーファは苦笑いしている。
「あの人、ちょっと過保護なのよね。でもまあ……」
「愛情表現にしては、ちょっと行き過ぎてると僕は思いますけどねぇ」
アシームの言葉にラティーファがため息をつく。確かに結婚する前と後では、自由に外出する機会も減っただけでなく、ショーの前座以外でダンスをする機会も無くなった。代わりに衣装の繕いや小道具の作成、修繕をすることや、婦人たちのティータイムに参加することが増えたような気がする。
シャバーンいわく、どうしても綺麗な妻を持つと心配事が増えるらしい。実際に、彼女がダンスをすれば毎回楽屋は花束と熱烈なファンレター(男女問わず)が届く。もちろん最初は自分ごとのように喜んでくれていたシャバーンだったが、最近は贈り物が届く度に少々不機嫌そうなことも気がかりだった。
「……一度はすべて失った私にとって、大切な方のお傍に居られることは幸せなのよ」
ラティーファはそう言うと、サッと立ち上がっいぇ廊下に出た。庶民にしては豪邸と言える造りに感心しながら、彼女は再び寝室へ向かった。
寝室には、一足先に妻が起きていることも知らないシャバーンがだらしない格好で眠っている。普段はターバンで隠れている黒髪を優しく撫で付けながら、ラティーファはふわりと微笑みを零した。
「んー……ラティーファ……」
居るはずのない妻を寝ぼけて探すシャバーンの手を、ラティーファはそっと握った。手が触れた途端、シャバーンは満足げな面持ちを浮かべた。だが次の瞬間、何かがおかしいと気づいて彼は目を開けた。
「わっ!!」
「おはようございます、シャバーン様」
「ラティーファ!その起こし方はびっくりするから勘弁してくれ……」
「シャバーン様が、私より早く起きれば済む話じゃないですか」
「……朝は弱いんだ」
ラティーファは彼のために洗面器と手ぬぐいを持ってくると、隣に腰掛けて顔を覗き込んだ。所々に寝癖の残る髪の毛が愛らしくて、彼女は幸せで心が満たされていくのを感じていた。
「……なんか、顔に付いてるのか?」
「それを取るために顔を洗うの」
肯定否定いずれとも取れる妻の言葉にドキリとしながら、シャバーンは洗顔を済ませた。その間ラティーファは、夫の一挙一動も見逃さないように笑顔で観察し続けている。食い入るような視線に困惑と恥ずかしさを覚えたシャバーンは、手ぬぐいで自分の顔を隠してみせた。
「それもマジック?」
「そうだな、マジックだ」
二人は顔を見合わせて笑った。ラティーファにとって、彼の笑顔を隣で支えられることは何よりの喜びだった。同時に”踊る”ということを続ける機会を作ってくれたことに感謝すらしていた。
この幸せが永遠に続けば良いのに。
心の底からラティーファはそう思うのだった。
その日の夜は、アグラバーで最も大きな劇場での公演だった。観客動員数は過去最高であり、シャバーンも心做しか緊張している様子だ。ラティーファは彼の衣装を整えながら、開演前の最終確認をしている。
「いい?登場は貴方から見て左の入口よ。右じゃないからね」
「間違えるわけ無いだろ!だっ、だいじょ……だいじょ……大丈夫だ!」
本番前のシャバーンが短気になりやすいのはラティーファも慣れたものだが、自分ひとりで入退場の把握も出来ない様子には毎度不安を覚える。次に彼女は綺麗で萎れない花がセットされているかどうか、そしてマジックに使う小道具が曲がったりしていないか、裏方が整頓されているかどうかをくまなく点検した。途中でジーニーとシャバーンが何か言い合っているのを小耳に挟んだが、ラティーファは意識を逸らすことなく完璧に最終確認を済ませていった。一通り自身の役目を終えた彼女は、アシームに声をかけた。
「アシーム、準備は問題ない?」
「はい、奥様。今はベキートが観客に説明をしています。ですから、あと数分で開演です」
「大道具の方は問題ない?箱に入る演者とはタイミングを確認した?」
「はい、バッチリです」
ラティーファは満足げに頷くと、魔法の絨毯のホコリを取りながら夫の方を見た。肝心の彼は準備を手伝うわけでも確認するわけでもなく、悠長に鏡と向き合っている。僅かにラティーファの表情が曇ったのを、ジーニーは見逃さなかった。彼はため息を付くと、こっそりマジシャンの若奥様に耳打ちした。
「すみませんが、この公演が終わったらちょっと、アシームたちと奥様で話せませんかね。……シャバーンさんは抜きで」
ラティーファが目を丸くしているうちに、開場を知らせるコールが響く。説明を終えたベキートはいつの間にか戻ってきており、彼女に出番を知らせるジェスチャーをしている。
ラティーファは一瞬でダンサーの表情に変わると、夫の肩を叩いた。
「行ってきます、シャバーン様」
しかし、彼はラティーファを一瞥すらせず、はいはいと言いながら引き続き鏡を見ている。
……今は本番に集中しないと。
ラティーファは自分にそう言い聞かせた。そしてベキートに音楽をスタートさせるように合図した。入場の位置についたラティーファを見届けた蛇は、息を大きく吸ってこう言った。
「レディース・アンド・ジェントルメン!偉大なるマジシャン・シャバーンのショーはまもなくスタートします。まずは、アグラバーで最も著名な踊り子ラティーファのエネルギッシュなダンスをお楽しみください!」
ベキートのアナウンスが終わると、ラティーファは軽快な足取りで観客の下に躍り出た。シャバーンのローブと同じ紅色の薄布が艷やかにはためいている。観客はラティーファの登場に拍手喝采を送った。最上級の来賓席には、ジャスミン姫とその姉ナルジス姫も着席しているのが見える。彼女は声援に堪えるようにエネルギッシュなダンスを続けた。
そんな様子を裏方から黙って見ている人物が居た。意外にもそれは、夫であるシャバーンだった。彼は愛する妻の踊りを見て少しだけ口許をほころばせたが、やがて苦々しい面持ちに変わった。アシームはそんな主人を心配そうに覗き込んでいる。
「どうかされましたか、シャバーン様」
「ん?あ、ああ……なんというか……そうだな……あいつの踊りが変わったなと思って」
「そりゃそうでしょうに。きっとシャバーンさんの影響ですよ。あなた、お父様のところでは許されなかったから、ラティーファさんにダンスの先生もつけて差し上げたんですって?どうりで昔よりずっと洗練されて綺麗になってるわけです」
ジーニーの言葉を無視しながら、シャバーンは腕を組んだ。その眼差しには、素直な喜びとはまた別の何かが確かに宿っている。アシームがそんなシャバーンに何か言おうと口を開いた。だがその声はマジシャン登場を知らせる音楽にかき消される。舞台から戻ってきたラティーファは、上気する声を整えながらアシスタントのアシームに声をかけた。
「アシーム、シャバーン様の出番よ。準備して」
「はっ、はい!」
返事が終わるやいなや、アシームが元気よく飛び出していく。ラティーファは息を整えながらシャバーンに微笑みかけた。そしてふと、暗がりの中で彼の手が震えていることに気づいて手を伸ばそうとした。だが、その手が触れる前にファンファーレが鳴り響く。シャバーンは入場を知らせる合図に反応すると、毅然とした面持ちで入口――――自分から見て右側の入口へ歩いていこうとした。慌てて袖を引っ張ったラティーファは、夫に入口が逆であることを伝えた。
「シャバーン様、逆よ!」
「え、あ、ああ……わっ、わかってる!」
そこは、ありがとうじゃないの……?
ラティーファはまたしても表情を曇らせながら、シャバーンの背中を見つめた。もちろん、そんな彼女の憂いが彼に届くことはなかった。
公演が終わったラティーファは、最期の観客が帰るまで手を振っていた。ふと、彼女は誰かの気配を感じて後ろを振り返った。そこにはなんと、ナルジス姫とジャスミン姫の姿があった。
「ナルジィ!ジャス!ありがとう」
「もちろん。ラティーファの素敵な旦那様のショーなんだから、観に行くわ」
「ラティーファ、ダンスすごかったわ!」
「ありがとう、二人とも……」
あの事件があってから、そして結婚してからというもの、ラティーファは二人になかなか会うことは出来ず恋しい日々を過ごしていた。ようやく再会できた喜びを分かち合うように、ラティーファは二人を抱きしめた。
「本当に、ありがとう……」
ナルジスは親友の手を取って、心の底から嬉しそうに微笑んでいる。そんななか、ジャスミンが質問した。
「ねえ、ラティーファ。結婚ってどんな感じなの?愛する人と毎日一緒って、どんな気分?」
ラティーファは一瞬驚いたが、やがてジャスミンが見合いを始めたという噂を思い出した。すかさずナルジスが瞳を輝かせてこう言った。
「羨ましいわ。私も愛する人と毎日一緒に居られたら良いのに……」
「お姉様は毎日ジャファー様とご一緒でしょう?」
「距離が遠すぎるわ!お父様の書斎を覗き込んだり、遠くから眺めてため息をつくなんて……一緒とは言えない」
ラティーファは二人の会話を聞きながら、シャバーンとの生活を思い返していた。
彼はラティーファが、家名に縛られているせいで習うことが出来なかったダンスを習わせてくれた。楽器も買い与えてくれただけでなく、彼とお揃いの衣装も新調してくれた。何より毎日愛を囁いてくれただけでなく、彼女が寂しい思いをしないようにできる限り傍に居てくれた。日常生活の会話も笑いが絶えることがなく、ラティーファはその度にシャバーンの妻になることが出来た自分を幸福だと思った。
だが、その気持がいつもショーの前後で揺らいでしまうのも事実だった。彼は理由も教えることなくラティーファが舞台で注目を集めることを嫌った。時折ショーに出ないように、という意図で説得されているような気分になることもあった。そういう時は、なんとなくだが自身がダンスをすることによって、シャバーンとの関係性が悪くなっているような気がしてならなかった。
「――――ラティーファ?」
顔を上げると、二人の友人が心配そうにラティーファの顔を覗き込んでいた。彼女は綺麗すぎる微笑みを向けると、一言だけ「なんでもない」と返すのだった。
ラティーファが楽屋に戻ると、そこにはシャバーン以外の全員が揃っていた。アシームに尋ねると、彼は次の公演に備えてパーティーに出掛けていったとのことだった。
改めて全員の顔を見回してみると、ラティーファは誰一人として明るい表情を浮かべていないことに気づいた。彼女は腰掛けることはせず、礼儀正しく一礼してスタッフたちに尋ねた。
「……夫抜きで、ということは皆さんあの方に何かお思いなのですね」
「……奥様とシャバーン様は、アグラバーで一番のおしどり夫婦だと、僕は思っています。だからこそこんなこと相談するのは気が引けるんですが……」
アシームがたどたどしく話し始め、気まずそうに下を向いた。そんな友人の気持ちを汲み取ったジーニーは、ラティーファに続きを話した。
「最近のシャバーンさんのこと、あなたどう思われます?恋に落ちた頃と変わっちゃあいませんか?」
ラティーファは息を呑んだ。そして沈んだ声で「ええ」と返答した。ジーニーはできる限り彼女を傷つけないように、言葉を選びながら続けた。
「俺も悪かったんです。俺の魔法は基本的に、物を与えるか見た目を変えるくらいのことしか出来ない。……なんですが、このアシスタントのアシームの健気さと、あんたの旦那の気持ちの強さに心動かされてサービスしてしまったんです。本当は、俺がアシスタントなんてする必要は無いんです。だってこれは、願われていないことですので」
ラティーファはジーニーの言葉に耳を疑い、目を丸くした。刹那、アシームが顔を真っ青にしてジーニーを見た。魔神は口を抑えて動揺している。
「ジーニー!」
「おっと、こりゃまずいぞ……」
ラティーファはジーニーに詰め寄ると、今までに見せたことのない厳しい眼差しを全員に向けた。
「ジーニー、アシーム、そしてベキート。あなたたち、私に何か隠し事をしているなら教えて頂戴。私は……」
ラティーファの表情が、苦しげなものに変わったのを全員が見ていた。アシームは今にも泣きそうな顔をしている。
「私は、妻としてあの人に向き合う責任があるから」
そう言い切ったラティーファの表情にはもう、あの日市場で見た少女の面影は無かった。もちろん父親譲りの厳格たる意思の前で、ジーニーは降参するより他無い。彼は気まずそうに言葉を濁しながら、ため息をついた。
「それじゃあ、話しましょうか……どうやってあの人と私が出会ったのか。そしてどんなことを願ったのかを……」
邸宅の一室で、ラティーファは憔悴しきった表情を浮かべていた。手にはあの日プレゼントされたイヤリングが握られている。
やがて、疲れ切ったシャバーンが部屋に入ってきた。ラティーファは振り返ることもせず、暗い部屋で一言「お帰りなさい」と言った。
「ああ、ただいま。……なんか、暗くないか?」
ラティーファはあまりに脳天気な声を上げるシャバーンの方を振りむいた。目には大粒の涙が浮かんでいる。彼はようやく何かがあったと悟ると、妻の隣に駆け寄って手を差し伸べた。だが、その手は乾いた音ではたき落とされる。はじめ、シャバーンは何が起きたのか把握できず、たちつくしていた。やがて妻の反抗的な態度に苛立つと、彼は必死に声を抑えて尋ねた。
「な……何をするんだ。なにか不満なことでもあるのか。踊りも学ばせてやって、舞台も提供している。衣食住も、庶民よりは充実しているだろう。それとも、わしの年が不満か」
ラティーファはその言葉に、頭の中の何かがぷつりと切れるのを感じた。彼女は反射的に立ち上がると、シャバーンを突き放して睨みつけた。
「与えてやった?そう言いたいの?あなた、いつからそんな人になってしまったの!?」
「なっ……」
「自分の力で夢を叶えたんじゃないからこんなことになったのよ!私は……私は本当に嬉しかったのよ!あなたがようやく夢を叶えることが出来たって。素敵なアシスタントたちに巡り会えて、本当に良かったって。なのに、魔神の力に頼ったどころかその契約までアシームから奪ったなんて」
シャバーンはようやく、ラティーファが誰かから隠していた事の顛末を聞いたことに気づいた。言い逃れの言葉を考えているうちにも、彼女は冷静でありつつも烈火のごとく燃え盛る怒りを湛えている。
「ご、誤解だ。それは……」
「それなのに、今はどうなの。こんなの間違ってる。今のあなたのマジックで笑顔になるのは外面しか見ていない人たちだけ。いえ、シャバーン様――――あなた自身だけよ」
「――――勝手なことを言うな!お前に何がわかるっていうんだ!」
自身のパフォーマンスに言及されたシャバーンは、怒りのあまり肩を震わせて机を叩いた。それでもラティーファは怯まない。
「あなたに救われて、私は心から感謝しています。そして何より、その恩に報いるためだけでなく……私は心の底からあなたを愛しています。だからこそ、私は言わなければならない。今のまま行けば、あなたはすべてを失う。お願い、私の話を――――」
そう言って見上げた場所に、ラティーファの愛したシャバーンはいなかった。今や実力以上の名声を手に入れてしまった彼が耳を傾ける相手は、誰ひとり居ないということなのか。彼女は絶望のあまりその場に座り込んだ。そしてシャバーンの言葉がさらなる追い打ちをかける。彼はラティーファの衣装タンスから衣装をすべて引っ張り出すと、無造作に彼女の目の前に投げてこう告げた。
「これ以上わしのやり方に逆らうのなら、踊ることは許さん」
「そんな……い、一体何を言い出すの……?」
「あれはわしのショーだ。そのわしに対して意見を言うのだから、当然のことだ。それから!他の男の目に付くところで踊るのも禁止する。お前はあまりに美しく成長しすぎた」
そう言って、シャバーンは部屋の扉に向かってあるき出した。その背にラティーファは嘆きながら慟哭を投げつけた。
「私の言葉が届かないなら、これだけは覚えておいて!あなたの夢と愛は、もはや呪いと同じよ」
そんなラティーファの最後の警告に、シャバーンは振り向くこともせず一言だけ零した。
「……そんなものずっと前から、わしにとっては呪いだ」
そして、扉が閉められる。ラティーファはこれ以上夫に何を言えば良いのか分からず泣き崩れた。遠く扉の向こうから、珍しくアシームとシャバーンの言い争う声が聞こえてくる。だが、もはや彼女にとってはすべてが雑踏のようなものだった。なぜならその手の中には、もはや信じていたものは何も残されていないことがわかったのだから。