6、夢が叶うとき
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シャバーン宅に逃げ込んできたラティーファは、結局一睡もせずに地面を見つめたまま朝を迎えた。ショックという一言では表しきれないであろう心中を察し、シャバーンは何も言わずに食事を差し出した。だが、そんな沈黙を破ったのは意外にもラティーファのほうだった。彼女は枯れた声でこう言った。
「……市場の人混みに紛れて、ここを出ていきます。ご迷惑をおかけしました」
「なっ、なーにを言ってるんだ!めっ、迷惑だなんてとんでもない!」
必死に明るく振る舞うシャバーンだったが、返ってきたのは哀しげな笑顔だった。ラティーファの顔を見れば、それが本気であることは痛いほどに伝わる。
もちろん、国務大臣亡き今はアグラバーがジャファーの天下となるのも時間の問題だろう。そんな中でラティーファを傍に置くのは、シャバーンにとって決してノーリスクの話ではない。しかし彼には珍しく、そこにリスク以上の何かもっと大切なものがある気がしてならなかった。
シャバーンは勇気を振り絞って、ラティーファを諭した。その声はいつもとは違ってとても穏やかで優しい。
「せめて、心が落ち着くまであと数日ここに居なさい」
「シャバーン様、でも……」
「わしはその間、離れの部屋を使うから。万が一でも、変な噂が立たないようには気を遣うつもりだ」
そう言うと、彼は踵を返して客間から出ていった。残されたラティーファは、膝を抱えて出された料理を無言で見つめるのだった。
それから数日が経っても、ラティーファは悪夢のせいで熟睡できない日々が続いていた。そんな重苦しいある日の夜、再びシャバーンとアシームの耳に戸を叩く音が聞こえてきた。彼らは息を呑むと、互いに見合わせて留飲した。なぜなら、それがラティーファを狙うジャファーの手下の可能性もあるからだ。
しかし、事態はそこまで彼らを追い詰めることはしなかった。玄関を開けると、そこには見覚えのある顔の女性が立っている。隣には侍女らしき人物が立っており、しきりに外を警戒している。彼女は屋敷に入ると、顔を覆っている布を外して告げた。
「――――サルタン王の第二王女、ジャスミンです。ラティーファに話があり、忍んで来ました」
とんでもない人物の訪問に、シャバーンもアシームもその場にひっくり返る。そこに偶然悪夢で目が冴えていたラティーファが現れた。彼女はジャスミンの姿を見るやいなや、駆け寄って手を握った。
「ジャス!どうしてここがわかったの?まさか、ジャファーの手下が既に……」
「安心して、ラティーファ。なんとなく、あの人のところに隠れたのかな……と思っただけ。それより、あなたに一刻も早く伝えなきゃいけないことがあるの」
ジャスミンは一呼吸置くと、震えるラティーファの手に自分の手を重ねた。
「ハイサム殿――――あなたのお父様は生きておられるわ」
「えっ……?」
耳を疑うニュースに、ラティーファは口をぽかんと開けている。ジャスミンは懐から一通の手紙を取り出し、彼女の手に握らせた。
「奇跡的に一命をとりとめ、今は反ジャファー派に匿われているの。ただ、私も場所までは知らないの……だけど、手紙は預かってきたわ」
「ご無事だったのね……ああ、ナーサーヤ!」
「お嬢様、本当に喜ばしいことですわ」
手を取り合って喜ぶ二人だったが、その知らせが明確な訃報も含んでいる可能性に気づいて固まった。ラティーファは覚悟を決めると、ジャスミンに向き直って尋ねた。
「……お母様は、助からなかったのね」
「……ええ、葬儀すら無かった。まるで何かを隠すように、早急に執り行われて……」
ラティーファは黙って俯いた。喜びと悲しみの双方が、彼女の頭を重く締め付ける。いつも元気に満ち溢れているラティーファの悲痛な表情を見て、ジャスミンはこのままもう少し傍に居てやりたい気分に苛まれた。だが、宮殿を抜け出していることが発覚することだけはなんとしてでも避けなければならなかった。
苦渋の思いで、ジャスミンはラティーファから離れた。
「ラティーファ、ごめんなさい。もう私は戻らねばならないの」
「そんなこと、いいのよ。気を付けて。本当にありがとう、ジャスミン」
「ラティーファ、生きていれば必ずきっとまたお父様に会えるわ。だから、決して諦めないで」
「ええ、ありがとう……」
彼女らしい励ましの言葉を置いて、プリンセスは戸口に向かった。だがもう一つだけ言うべきことを思い出し、彼女は振り向いた。
「最後にもう一つだけ。……あなたと姉が親友同士だからこそ、言っておかないといけないことがあるの。あの方はジャファーを盲信しているから、決して真実を話してはいけないわ。真犯人のことも、ハイサム殿が生きておられることもね」
ラティーファがショックを受けるだろうと思い、ジャスミンは息を呑んだ。だが、意外にも返ってきたのは哀しげな笑顔だった。
「ありがとう。ナルジィは、ジャファー様を強く慕っているもの。悲しんだり苦悩させてしまうようなお話は聞かせないつもりよ」
その言葉を聞いてジャスミンはハッとさせられた。
まさか、ラティーファはお姉様の想いを今までもずっと気遣って、ハイサム殿とジャファーの対立を隠していたの……?
暖かで、そしてあまりに苦しかったであろう気遣いに、ジャスミンは掛ける言葉すら見当たらなかった。彼女は一言別れの挨拶を漏らすと、夜のアグラバーの街へと消えていった。
残されたラティーファは暫く呆然と立ち尽くしていたが、やがて自分の手に手紙が握られたままであることを思い出した。震える手で、彼女は手紙を開けた。隣りにいたシャバーンは、内容を見てしまわないようにそっぽを向いている。
手紙は紛うことなきハイサム氏の直筆だった。怪我を圧して書いているのか、ところどころ震える字筆を感じる。手紙に目を通し始めたラティーファは、目で追う度に目頭が熱くなるのを感じた。
『愛しい娘よ
正しきことを成し遂げるために、私はどうしてもお前に会いに行くことが出来ない。今はまだその時ではないからだ。
母の死を嘆くでない。母はそなたがあの場におらずかすり傷一つしなかったことを、最期まで喜んでいた。故にお前は、悲しむことはない。
体力があれば、もっと伝えたいことがあった。だが、敢えて2つだけにしようと思う。
一つ、お前は踊りを続けなさい。
もはやお前は国務大臣の娘ではない。ただの勝ち気で聡明な小娘だ。これからそんなお前がこの国で生き抜くことは、大層困難を極めるだろう。だが、どうせ苦しいなら好きなことをして苦しみなさい。同時に、広く知られれば命は狙われ辛くなる。これが1つ目だ。
そしてもう一つ。お前が望むなら、例のシャバーンという男と一緒になりなさい。
何も持たないお前が生き抜くには、おそらくジャファーの治世は厳しすぎる。お前には後見人が必要だ。
そして何より、あの男は胡散臭いが存外正直そうだ。頼りがいの無い男だが、お前なら支えてやれるはず。最も、お前には切れ者の策士は似合わんと思っていたからな。
私のことは案ずるな。お互い運が良ければ、またいつか会えるだろう。
いつでも、私はお前のことを思っている。故に別れの言葉は書かない。
愛している、我が娘よ。いつか直接伝えたい。
ハイサム』
読み終わったラティーファは、あの凄惨な出来事以来初めて涙を流した。ふと、彼女は封筒の中にまだなにか入っている事に気づいた。そこに入っていたのは、ハイサム直筆かつ過去の日付となっている縁談状だった。彼女はシャバーンの肩を叩いた。
「これを見て」
振り返ったシャバーンが、ラティーファの差し出した書状に目を落とす。あまりの衝撃に、彼は口をパクパクしている。書いている内容が信じられず、彼はアシームを呼びつけて書状――――縁談状を読ませた。一通り読み終えたアシームも同様に動転してしまい、書面と主人を交互に見ている。
「シャバーン様、これって……」
シャバーンがアシームを見て何度も頷く。あまりの騒々しさに、ベキートまで現れた。
一同の反応を見届けたラティーファは膝をついた。それから、深々と頭を下げて呼びかけた。
「偉大なるシャバーン、突然の一方的な書状をお許しください。そちらは我が父が書いた縁談状でございます。不服あれば、どうか白紙に――――」
儀礼的な言葉の終わりを待たずして、シャバーンはラティーファを抱きしめた。
「不服なもんか!だれが文句言うんだ!そんなヤツがいたら見てみたいくらいだっ!」
「では……」
「言っただろう。わしは諦めんと。だったら答えは一つ!」
既にインク付きのペンを持って待機しているアシームを見て、シャバーンは笑顔を浮かべている。
「珍しく準備が良いな」
そう言って彼はペンを手に取ると、縁談状にサインした。サインにはこう記された。
『偉大なるシャバーンはラティーファを妻に迎える』と。
母親の喪が明けて暫しの後、アグラバーの街で二人は式を挙げた。式を見守るのはアシーム、ベキート、ナーサーヤ、そしてジーニーくらいのものだったが、二人はそれでも幸せだった。
ラティーファたちが中庭で待っていると、鐘の音とともに新郎――――珍しく真っ白のシャバーンが現れた。ただその直後、厳かな雰囲気だった中庭が一気に笑いに変わる。
「シャバーン様!登場するところ間違えてます!」
「えっ!?」
相変わらずの様子に、ラティーファが吹き出す。緊張するよりは良いのかもしれない、と言いたげな笑い方だ。シャバーンは親しい参列者しか居ないのを良いことに、しれっとラティーファの隣に立った。彼は恥ずかしさと緊張で真っ赤になりながら、ゆっくり横を向いた。
隣には、夢にまで見たラティーファの花嫁姿があった。彼は震える手で花嫁の髪に触れると、ぎこちない笑顔で笑った。
「……きれいだよ」
「あなたも、素敵よ」
真っ直ぐな言葉で言われると弱いらしい新郎は、目を見開いて固まってしまった。見かねたアシームが、二人の間に立って手を上げた。
「さ、それじゃあ始めましょうか!」
二人は向かい合うと、立会人となったアシームの前で永遠の愛を誓った。途中で何度かシャバーンが噛んだが、式は滞りなく執り行われた。
式が終わると、突然その場に花吹雪が舞い賑やかな曲が流れ始めた。ジーニーだ。ラティーファはジーニーが人間だとばかり思っていたので面食らいながら、何度も瞬きを繰り返している。隠し事をしていたような気分のシャバーンは、苦笑いしながらラティーファに耳打ちした。だが、存外彼女は気にしていないようだ。
「あとで説明しようと思ってたんだ」
「……よくわからないけど、とりあえず面白そうね」
そう言って二人は、ジーニーのサプライズに目を向けた。いつもはハイテンションな魔神のことを煙たがっているシャバーンだったが、今日は少しだけ寛容な眼差しを向けている。そんな二人に気づいたジーニーは、互いの腕を引っ張ると半ば強制的に手を繋がせた。
「はいはい!お二人さん遠いよぉ!これから人生ずーっと一緒にいるんだから、もっと楽しまなきゃ!レッツ・ダンス!」
ラティーファとシャバーンは暫し見つめ合った。そして同時に笑うと、ジーニーが創り出す花吹雪の中へ駆け出した。
辛いことがあまりに多すぎた彼女にとって、この日は生涯忘れられない思い出になった。そして文字通り、このときが幸せの絶頂であることを知るのはもう少し先のことである。
「……市場の人混みに紛れて、ここを出ていきます。ご迷惑をおかけしました」
「なっ、なーにを言ってるんだ!めっ、迷惑だなんてとんでもない!」
必死に明るく振る舞うシャバーンだったが、返ってきたのは哀しげな笑顔だった。ラティーファの顔を見れば、それが本気であることは痛いほどに伝わる。
もちろん、国務大臣亡き今はアグラバーがジャファーの天下となるのも時間の問題だろう。そんな中でラティーファを傍に置くのは、シャバーンにとって決してノーリスクの話ではない。しかし彼には珍しく、そこにリスク以上の何かもっと大切なものがある気がしてならなかった。
シャバーンは勇気を振り絞って、ラティーファを諭した。その声はいつもとは違ってとても穏やかで優しい。
「せめて、心が落ち着くまであと数日ここに居なさい」
「シャバーン様、でも……」
「わしはその間、離れの部屋を使うから。万が一でも、変な噂が立たないようには気を遣うつもりだ」
そう言うと、彼は踵を返して客間から出ていった。残されたラティーファは、膝を抱えて出された料理を無言で見つめるのだった。
それから数日が経っても、ラティーファは悪夢のせいで熟睡できない日々が続いていた。そんな重苦しいある日の夜、再びシャバーンとアシームの耳に戸を叩く音が聞こえてきた。彼らは息を呑むと、互いに見合わせて留飲した。なぜなら、それがラティーファを狙うジャファーの手下の可能性もあるからだ。
しかし、事態はそこまで彼らを追い詰めることはしなかった。玄関を開けると、そこには見覚えのある顔の女性が立っている。隣には侍女らしき人物が立っており、しきりに外を警戒している。彼女は屋敷に入ると、顔を覆っている布を外して告げた。
「――――サルタン王の第二王女、ジャスミンです。ラティーファに話があり、忍んで来ました」
とんでもない人物の訪問に、シャバーンもアシームもその場にひっくり返る。そこに偶然悪夢で目が冴えていたラティーファが現れた。彼女はジャスミンの姿を見るやいなや、駆け寄って手を握った。
「ジャス!どうしてここがわかったの?まさか、ジャファーの手下が既に……」
「安心して、ラティーファ。なんとなく、あの人のところに隠れたのかな……と思っただけ。それより、あなたに一刻も早く伝えなきゃいけないことがあるの」
ジャスミンは一呼吸置くと、震えるラティーファの手に自分の手を重ねた。
「ハイサム殿――――あなたのお父様は生きておられるわ」
「えっ……?」
耳を疑うニュースに、ラティーファは口をぽかんと開けている。ジャスミンは懐から一通の手紙を取り出し、彼女の手に握らせた。
「奇跡的に一命をとりとめ、今は反ジャファー派に匿われているの。ただ、私も場所までは知らないの……だけど、手紙は預かってきたわ」
「ご無事だったのね……ああ、ナーサーヤ!」
「お嬢様、本当に喜ばしいことですわ」
手を取り合って喜ぶ二人だったが、その知らせが明確な訃報も含んでいる可能性に気づいて固まった。ラティーファは覚悟を決めると、ジャスミンに向き直って尋ねた。
「……お母様は、助からなかったのね」
「……ええ、葬儀すら無かった。まるで何かを隠すように、早急に執り行われて……」
ラティーファは黙って俯いた。喜びと悲しみの双方が、彼女の頭を重く締め付ける。いつも元気に満ち溢れているラティーファの悲痛な表情を見て、ジャスミンはこのままもう少し傍に居てやりたい気分に苛まれた。だが、宮殿を抜け出していることが発覚することだけはなんとしてでも避けなければならなかった。
苦渋の思いで、ジャスミンはラティーファから離れた。
「ラティーファ、ごめんなさい。もう私は戻らねばならないの」
「そんなこと、いいのよ。気を付けて。本当にありがとう、ジャスミン」
「ラティーファ、生きていれば必ずきっとまたお父様に会えるわ。だから、決して諦めないで」
「ええ、ありがとう……」
彼女らしい励ましの言葉を置いて、プリンセスは戸口に向かった。だがもう一つだけ言うべきことを思い出し、彼女は振り向いた。
「最後にもう一つだけ。……あなたと姉が親友同士だからこそ、言っておかないといけないことがあるの。あの方はジャファーを盲信しているから、決して真実を話してはいけないわ。真犯人のことも、ハイサム殿が生きておられることもね」
ラティーファがショックを受けるだろうと思い、ジャスミンは息を呑んだ。だが、意外にも返ってきたのは哀しげな笑顔だった。
「ありがとう。ナルジィは、ジャファー様を強く慕っているもの。悲しんだり苦悩させてしまうようなお話は聞かせないつもりよ」
その言葉を聞いてジャスミンはハッとさせられた。
まさか、ラティーファはお姉様の想いを今までもずっと気遣って、ハイサム殿とジャファーの対立を隠していたの……?
暖かで、そしてあまりに苦しかったであろう気遣いに、ジャスミンは掛ける言葉すら見当たらなかった。彼女は一言別れの挨拶を漏らすと、夜のアグラバーの街へと消えていった。
残されたラティーファは暫く呆然と立ち尽くしていたが、やがて自分の手に手紙が握られたままであることを思い出した。震える手で、彼女は手紙を開けた。隣りにいたシャバーンは、内容を見てしまわないようにそっぽを向いている。
手紙は紛うことなきハイサム氏の直筆だった。怪我を圧して書いているのか、ところどころ震える字筆を感じる。手紙に目を通し始めたラティーファは、目で追う度に目頭が熱くなるのを感じた。
『愛しい娘よ
正しきことを成し遂げるために、私はどうしてもお前に会いに行くことが出来ない。今はまだその時ではないからだ。
母の死を嘆くでない。母はそなたがあの場におらずかすり傷一つしなかったことを、最期まで喜んでいた。故にお前は、悲しむことはない。
体力があれば、もっと伝えたいことがあった。だが、敢えて2つだけにしようと思う。
一つ、お前は踊りを続けなさい。
もはやお前は国務大臣の娘ではない。ただの勝ち気で聡明な小娘だ。これからそんなお前がこの国で生き抜くことは、大層困難を極めるだろう。だが、どうせ苦しいなら好きなことをして苦しみなさい。同時に、広く知られれば命は狙われ辛くなる。これが1つ目だ。
そしてもう一つ。お前が望むなら、例のシャバーンという男と一緒になりなさい。
何も持たないお前が生き抜くには、おそらくジャファーの治世は厳しすぎる。お前には後見人が必要だ。
そして何より、あの男は胡散臭いが存外正直そうだ。頼りがいの無い男だが、お前なら支えてやれるはず。最も、お前には切れ者の策士は似合わんと思っていたからな。
私のことは案ずるな。お互い運が良ければ、またいつか会えるだろう。
いつでも、私はお前のことを思っている。故に別れの言葉は書かない。
愛している、我が娘よ。いつか直接伝えたい。
ハイサム』
読み終わったラティーファは、あの凄惨な出来事以来初めて涙を流した。ふと、彼女は封筒の中にまだなにか入っている事に気づいた。そこに入っていたのは、ハイサム直筆かつ過去の日付となっている縁談状だった。彼女はシャバーンの肩を叩いた。
「これを見て」
振り返ったシャバーンが、ラティーファの差し出した書状に目を落とす。あまりの衝撃に、彼は口をパクパクしている。書いている内容が信じられず、彼はアシームを呼びつけて書状――――縁談状を読ませた。一通り読み終えたアシームも同様に動転してしまい、書面と主人を交互に見ている。
「シャバーン様、これって……」
シャバーンがアシームを見て何度も頷く。あまりの騒々しさに、ベキートまで現れた。
一同の反応を見届けたラティーファは膝をついた。それから、深々と頭を下げて呼びかけた。
「偉大なるシャバーン、突然の一方的な書状をお許しください。そちらは我が父が書いた縁談状でございます。不服あれば、どうか白紙に――――」
儀礼的な言葉の終わりを待たずして、シャバーンはラティーファを抱きしめた。
「不服なもんか!だれが文句言うんだ!そんなヤツがいたら見てみたいくらいだっ!」
「では……」
「言っただろう。わしは諦めんと。だったら答えは一つ!」
既にインク付きのペンを持って待機しているアシームを見て、シャバーンは笑顔を浮かべている。
「珍しく準備が良いな」
そう言って彼はペンを手に取ると、縁談状にサインした。サインにはこう記された。
『偉大なるシャバーンはラティーファを妻に迎える』と。
母親の喪が明けて暫しの後、アグラバーの街で二人は式を挙げた。式を見守るのはアシーム、ベキート、ナーサーヤ、そしてジーニーくらいのものだったが、二人はそれでも幸せだった。
ラティーファたちが中庭で待っていると、鐘の音とともに新郎――――珍しく真っ白のシャバーンが現れた。ただその直後、厳かな雰囲気だった中庭が一気に笑いに変わる。
「シャバーン様!登場するところ間違えてます!」
「えっ!?」
相変わらずの様子に、ラティーファが吹き出す。緊張するよりは良いのかもしれない、と言いたげな笑い方だ。シャバーンは親しい参列者しか居ないのを良いことに、しれっとラティーファの隣に立った。彼は恥ずかしさと緊張で真っ赤になりながら、ゆっくり横を向いた。
隣には、夢にまで見たラティーファの花嫁姿があった。彼は震える手で花嫁の髪に触れると、ぎこちない笑顔で笑った。
「……きれいだよ」
「あなたも、素敵よ」
真っ直ぐな言葉で言われると弱いらしい新郎は、目を見開いて固まってしまった。見かねたアシームが、二人の間に立って手を上げた。
「さ、それじゃあ始めましょうか!」
二人は向かい合うと、立会人となったアシームの前で永遠の愛を誓った。途中で何度かシャバーンが噛んだが、式は滞りなく執り行われた。
式が終わると、突然その場に花吹雪が舞い賑やかな曲が流れ始めた。ジーニーだ。ラティーファはジーニーが人間だとばかり思っていたので面食らいながら、何度も瞬きを繰り返している。隠し事をしていたような気分のシャバーンは、苦笑いしながらラティーファに耳打ちした。だが、存外彼女は気にしていないようだ。
「あとで説明しようと思ってたんだ」
「……よくわからないけど、とりあえず面白そうね」
そう言って二人は、ジーニーのサプライズに目を向けた。いつもはハイテンションな魔神のことを煙たがっているシャバーンだったが、今日は少しだけ寛容な眼差しを向けている。そんな二人に気づいたジーニーは、互いの腕を引っ張ると半ば強制的に手を繋がせた。
「はいはい!お二人さん遠いよぉ!これから人生ずーっと一緒にいるんだから、もっと楽しまなきゃ!レッツ・ダンス!」
ラティーファとシャバーンは暫し見つめ合った。そして同時に笑うと、ジーニーが創り出す花吹雪の中へ駆け出した。
辛いことがあまりに多すぎた彼女にとって、この日は生涯忘れられない思い出になった。そして文字通り、このときが幸せの絶頂であることを知るのはもう少し先のことである。