5、ままならぬ望み
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シャバーンは目を覚まし、雨漏りのしない天井を見て悲鳴を上げた。
「だっ、大丈夫ですか!?」
「おーい、シャバちゃんびっくりしすぎだってぇ」
慌てて駆け寄ってきたアシームの姿とその隣に居る蒼い魔神を見て、彼はようやく昨日の出来事をすべて思い出した。
失意の中帰宅したシャバーンは、偶然骨董品のランプを磨いているアシームに出くわした。ランプを慌てて隠す召使いを不審に思った彼は、ランプを取り上げてよく観察した。
そこからはよくある話だ。ランプを擦ると中から魔神が出てきて、彼は3つの願いを要求された。1つ目の願いは、すぐに出てきた。
「私をラティーファという、アグラバー王国国務大臣の娘と結婚させてくれ」
だが、その願いに魔神――――ジーニーはやれやれと言いたげに首を横に振った。
「残念ですが、シャバーンさん。人の気持ちを変えるような願いは叶えられないんだ。だから、その子……なんて言ったっけ?ラティーファちゃんだっけ?と両思いにしてほしいっていうのもナシね」
それを聞いたシャバーンの両手から、ランプが擦り抜けるように落ちる。床に接触する手前でアシームがキャッチしたが、シャバーンの脱力は止まらなかった。
絶望の眼差しを浮かべたまま、彼は次の願いを口にしようとした。いまやそれが第2希望の願いになっていることに驚きながら。
「わしを世界一ビッグなマジ――――」
言い終わる前に、シャバーンは何か大切なことを忘れているような気分に襲われた。以前に同じ願い事をしたような、まるでそんな気分だった。
――――わしはなぜ、この願いが思い通りの結果にならないと知っているんだ?
しかし、絶望の淵に立っているシャバーンにとっては、それ以上思考を巡らせる余力もなかった。彼は涙を堪えながら肩を震わせた。
何を願えば、彼女の隣に立っても良いのだろうか。
何を願えば、彼女と残りの人生を過ごせるのだろうか。
何を願えば、彼女が気後れせず想いを伝えてくれるのだろうか。
何を願えば、彼女を夫として幸せにできるのだろうか。
シャバーンの心のなかには、分かりきった唯一の答えが浮かんでいた。だが、無いはずの記憶が無意識にその言葉を抑え込もうとする。
それでも、彼は顔を上げて明朗な声で言った。
「――――わしを、世界一のマジシャンにしてくれ!」
「かしこまりました、ご主人様」
ジーニーがそう言うと、シャバーンとアシームの身体が光に包まれた。光が消え失せる頃には、さながら二人は大マジシャンとその召使いの格好になっていた。瞳を輝かせるシャバーンをよそに、ジーニーが真面目な声で警告した。
「私の魔法は、見た目を変えることが出来ます。ですが中身までは変えられませんので、そこんとこご了承を。偉大ってのは何なのかをよーく考えてくださいね」
もちろんシャバーンの耳にはそんな警告は届いていない。ジーニーはちらりと、隣で無邪気な笑顔を浮かべているアシーム少年を見た。
まあ、あの子のためにも少しだけ協力してやろうか……
「お二人共、世界一になるためにもう一つ提案を呑んじゃあくれませんか?」
その日、ラティーファは宮殿に招待されていた。アグラバーで最も偉大なマジシャンのショーを観るためだ。しかし、彼女の視線ははるか遠くを眺めている。それを見たジャスミンが、ラティーファに肩を寄せて尋ねる。
「……大丈夫?」
「ええ、大丈夫です。でも……」
一番は、あのお方だけなのに。
そんなことを考えていると、突然ファンファーレが鳴り響いた。ラティーファはため息をつきながら頬杖をついている。
だが、突然彼女の耳に聞き馴染みのある声が飛び込んできた。
「国王陛下!プリンセス、そして家臣ご一同。身に余る光栄でございます」
ラティーファの表情が固まる。顔を上げて声の主を一目見ようとしたが、動悸が収まらず何も出来ない。彼女が震えている間に、声の主が顔を上げて名乗る。
「私は偉大なるマジシャン、シャバーンでございます!」
ラティーファの顔が勢いよく上がる。視線の先に居る男は、間違いなくシャバーン本人だった。だが、服装は今までに見たことがないほど華美であり、始まったパフォーマンスは彼らしくない程に完璧だった。
愛する人が夢を叶えたことに喜びを感じる反面、ラティーファは得体のしれない恐怖に襲われた。
一体、彼に何が起きたというの……?
万雷の拍手の中で、ただ1人ラティーファだけが最後まで拍手をすることはなかった。もちろんその事実をシャバーンが気づく由などなかった。
マジックショーが終わった後、ラティーファはジャスミンとナルジス姫が所有する宮殿の庭園に佇んでいた。月光が彼女の憂いを帯びた横顔を照らし出している。
やがてしばらく待っていると、豪奢なマントをはためかせるシャバーンが現れた。彼はラティーファの近くに控えると、無言で膝をついた。
「お呼びでしょうか、ラティーファ嬢」
彼女は何があったのか、本当は問いただすつもりだった。そして身分を超えた危険な告白をした彼を諌め、二度と会わないように強く突き放すつもりだった。
だが、どれだけ決心しても愛する人の華麗な姿の前では、口からはため息しか出なかった。ラティーファは溢れ出す想いを抑えきれず、シャバーンに抱きついた。
「無礼者!と言われても仕方がないのですよ。手討ちにされてもおかしくはないのですよ!どうして、どうして私に想いなど伝えようと思ったのですか」
シャバーンは突然の嬉しいシチュエーションに心臓が止まりそうになった。なんとか息を整え、彼はラティーファの髪を掬って微笑んだ。
「……好きだから、は理由にならんか?」
ラティーファの両目から大粒の涙が溢れる。私も、と言うべき言葉が喜びのあまり詰まってしまう。
「私も……貴方のことを……お慕いして……います」
ラティーファの言葉を聞くやいなや、シャバーンは華奢な身体を抱き寄せた。ボロボロと涙をこぼす愛しい人を見て、彼は優しい笑顔を浮かべている。
お互いに、もっと伝えたいことがたくさんあった。だが二人に許された時間はあまりに短かった。
「ラティーファ!ラティーファ!どこにいるんだ?」
庭園に、父ハイサムの声がこだまする。ラティーファは慌ててシャバーンから離れると、彼に後から帰るように言い残して去ろうとした。しかし去り際、シャバーンは反射的に彼女の手を掴んだ。
「――――私は、諦めないぞ」
「シャバーン様……」
「だからラティーファ、お前も諦めないでくれ」
ラティーファが小さく頷く。それを見届けたシャバーンは、物陰に隠れた。夜の庭園は肌寒かったが、彼は大切な人の姿が見えなくなるまでいつまでも見送るのだった。
ハイサムは、娘の嬉しそうな横顔に違和感を感じながら歩いていた。ラティーファの方は、さとられないように必死でポーカーフェイスを貫いていたのだが、とても父には敵わなかった。いてもたってもいられず、ハイサムは毅然とした態度で単刀直入に尋ねた。
「――――お前、なにか隠していないか?」
「えっ……?」
隠し事が多すぎるラティーファにとって、その質問はあまりにも強烈だった。彼女は苦笑いしながら、父親の表情を伺った。
「……まさかとは思うが、あのマジシャンと親密な関係なんじゃないだろうな」
踊りの話ではなかったのね。
ラティーファは腹をくくると、父親同様に堂々とした態度で答えた。
「ええ、そうです。お互いに想い合っています」
「何だと?あんな胡散臭そうな男とか?お前の立場を利用して近づこうとしているだけだ」
娘のことを知ろうともせず嘲笑う父に、ラティーファは強い怒りを覚えた。そして初めて、彼に反抗した。
「この国で法律によって婚姻を制限されているのは、姫だけです。ならば私は誰と結婚しようとも自由じゃない!」
「お前はいつもそうだ。踊りのことも、何から何まで……どれほど自分が恵まれていると思っているんだ!」
「私は……私は、ただ誰かに理解してほしかったの!自分の気持を、夢を、願いを。でも、家族の誰も理解してはくれなかった。だから、私は自分の気持ごと受け入れて愛してくれるあの人に惹かれた」
刹那、ハイサムの平手が飛ぶ。それでもラティーファは啖呵を止めない。
「お父様が納得するまで、私は戦い続ける。私だって夢を諦めるわけにはいかないから」
それを聞いたハイサムは、娘を鼻で笑ってこう言った。
「そうか。なら、踊りの道かあの男と結婚するかは選べるのか?」
「何を――――」
「私は知っているぞ。お前が時折抜け出して街で踊っているのを。お前がどちらかを選ぶというなら、それなりの覚悟を持とうじゃないか。ただし、選ばなかった方は永遠に諦めるんだな」
呆然と立ち尽くすラティーファを置いて、ハイサムは歩き出す。
「そんな……全部知っていたの……?」
踊りか、愛する人か。どちらも彼女が生涯をかけて愛してきたものだ。それを選べと言われただけでも、彼女の心は引き裂かれんばかりの苦しみに襲われた。
「私は……」
震えながら座り込むラティーファを慰める人は誰も居ない。帰路につかねばと思いながら、彼女は暫しの間手の届かない遥か遠くの場所に浮かぶ月を見つめるのだった。
ラティーファが帰宅したのは、父の帰宅より少し遅れた時間だった。遅くなってしまったので、きっと締め出されてしまうだろうと彼女は思って身構えた。
だが、予想に反して門は開いたままだ。彼女は何かがおかしいと察知し、恐る恐る歩みを進めた。
そこには、なんと彼女の父と母が倒れていた。
「お父様!お母様!」
駆け寄ったラティーファは、ぬめりのある何かに足を取られて倒れた。咄嗟に着いた両手を見ると、そこには鮮血がはっきりとついていた。声にならない悲鳴を上げるラティーファの脚を、突然父が掴んだ。
「お、お父様……?」
「ラティーファ……今すぐ……逃げるんだ」
「どういうこと?一体ここで何が……?」
「ジャ……ファー……め。あやつの……暗殺に……遭ったのだ」
驚きのあまり声を失っているラティーファを、ハイサムは最後の力を振り絞って見上げた。そして、もっと早くに言うべきだった言葉を漏らした。
「すまない……ラティーファ。私は……お前が苦労するのを……見たくなかった。ただ、それだけ……」
「お父様、喋らないで。きっと助かるから――――」
徐々にハイサムの焦点が合わなくなっていく。ラティーファは力が抜けていく父の手を握りながら、声にならない声で叫んだ。
「嫌よ!お父様……私、いい娘じゃなかった。一杯困らせて、欺いてしまった」
「そんな……こと……愚か……な」
「嫌……」
「ラティーファ、幸せに……私はお前を……何よりも……愛して……」
「嘘、嘘、嘘……嘘……」
ラティーファの手から、父の大きな手がするりと落ちる。あまりの衝撃に、嘆き悲しむことも出来ず両親の亡骸を前に呆然とするしか出来ない。そんな彼女の肩を叩いたのは、乳母のナーサーヤだった。
「ラティーファ様!ご無事で……」
「ばあや……」
「ばあやはお嬢様のお部屋を掃除するために離れに居たので、助かったのです。他の者は……」
俯く乳母の表情が、すべてを物語っている。ラティーファがねぎらいの言葉をかけようとしたその時だった。外から物音が聞こえてきた。
「探せ。館にいるものは全員始末しろ」
二人は顔を見合わせると、部屋から必要なものだけ急いで取り出しにいった。それからすぐ、血と死体で足の踏み場がない屋敷から間一髪で逃げ出した。
「これから、どうされるのですか。私の実家はもうとっくの昔に無くなっていますし……」
深刻な面持ちをするナーサーヤの肩に、ラティーファはそっと手を置いた。そして父の最期の願いを反芻した。
私、生き抜いて見せる。こんなところでは死ねない。絶対に幸せになって、生きてここに戻るんだから。
ラティーファは覚悟を決めて、乳母の手を引いてこう言った。
「1人だけ、頼れる人がいるの。私がなんとかする」
夜分遅くに戸口を叩く音で起きたアシームは、大あくびをしながら玄関を開けた。寝ぼけ眼で前を見た彼だったが、次の瞬間眠気はどこかへ飛んでいってしまった。
「えっ…………」
彼の目の前には、所々血で汚れているラティーファと乳母らしき人が立っていた。アシームの悲鳴で、シャバーンも戸口へとやって来る。もちろん彼もまた、睡魔が消し飛ぶほどの衝撃を覚えた。
「なっ……一体何が遭ったんだ!?」
「私が怪我をしたわけじゃないから安心して。お願い、匿ってほしいの」
「そ、それは構わんが……」
シャバーンの手をすり抜けて、ラティーファは家へと潜り込んだ。理由を聞こうと口を開けたその瞬間、外から騒がしい物音が聞こえてきた。シャバーンはアシームを遣って、事の次第を聞いてくるように命じた。そして、二つ返事で外へ出たアシームはものの数分で戻ってきた。その顔は明らかに青白い。彼は震える声で、主人にありのままを伝えた。
「国務大臣夫妻が、暗殺されたようです」
シャバーンは暫し衝撃で身動きが取れなかった。だが我に返って、部屋の奥で震えているラティーファを見た。
こうして運命は、残酷な方法で二人を引き合わせてしまった。決して望んでいない、最悪の状況で。
「だっ、大丈夫ですか!?」
「おーい、シャバちゃんびっくりしすぎだってぇ」
慌てて駆け寄ってきたアシームの姿とその隣に居る蒼い魔神を見て、彼はようやく昨日の出来事をすべて思い出した。
失意の中帰宅したシャバーンは、偶然骨董品のランプを磨いているアシームに出くわした。ランプを慌てて隠す召使いを不審に思った彼は、ランプを取り上げてよく観察した。
そこからはよくある話だ。ランプを擦ると中から魔神が出てきて、彼は3つの願いを要求された。1つ目の願いは、すぐに出てきた。
「私をラティーファという、アグラバー王国国務大臣の娘と結婚させてくれ」
だが、その願いに魔神――――ジーニーはやれやれと言いたげに首を横に振った。
「残念ですが、シャバーンさん。人の気持ちを変えるような願いは叶えられないんだ。だから、その子……なんて言ったっけ?ラティーファちゃんだっけ?と両思いにしてほしいっていうのもナシね」
それを聞いたシャバーンの両手から、ランプが擦り抜けるように落ちる。床に接触する手前でアシームがキャッチしたが、シャバーンの脱力は止まらなかった。
絶望の眼差しを浮かべたまま、彼は次の願いを口にしようとした。いまやそれが第2希望の願いになっていることに驚きながら。
「わしを世界一ビッグなマジ――――」
言い終わる前に、シャバーンは何か大切なことを忘れているような気分に襲われた。以前に同じ願い事をしたような、まるでそんな気分だった。
――――わしはなぜ、この願いが思い通りの結果にならないと知っているんだ?
しかし、絶望の淵に立っているシャバーンにとっては、それ以上思考を巡らせる余力もなかった。彼は涙を堪えながら肩を震わせた。
何を願えば、彼女の隣に立っても良いのだろうか。
何を願えば、彼女と残りの人生を過ごせるのだろうか。
何を願えば、彼女が気後れせず想いを伝えてくれるのだろうか。
何を願えば、彼女を夫として幸せにできるのだろうか。
シャバーンの心のなかには、分かりきった唯一の答えが浮かんでいた。だが、無いはずの記憶が無意識にその言葉を抑え込もうとする。
それでも、彼は顔を上げて明朗な声で言った。
「――――わしを、世界一のマジシャンにしてくれ!」
「かしこまりました、ご主人様」
ジーニーがそう言うと、シャバーンとアシームの身体が光に包まれた。光が消え失せる頃には、さながら二人は大マジシャンとその召使いの格好になっていた。瞳を輝かせるシャバーンをよそに、ジーニーが真面目な声で警告した。
「私の魔法は、見た目を変えることが出来ます。ですが中身までは変えられませんので、そこんとこご了承を。偉大ってのは何なのかをよーく考えてくださいね」
もちろんシャバーンの耳にはそんな警告は届いていない。ジーニーはちらりと、隣で無邪気な笑顔を浮かべているアシーム少年を見た。
まあ、あの子のためにも少しだけ協力してやろうか……
「お二人共、世界一になるためにもう一つ提案を呑んじゃあくれませんか?」
その日、ラティーファは宮殿に招待されていた。アグラバーで最も偉大なマジシャンのショーを観るためだ。しかし、彼女の視線ははるか遠くを眺めている。それを見たジャスミンが、ラティーファに肩を寄せて尋ねる。
「……大丈夫?」
「ええ、大丈夫です。でも……」
一番は、あのお方だけなのに。
そんなことを考えていると、突然ファンファーレが鳴り響いた。ラティーファはため息をつきながら頬杖をついている。
だが、突然彼女の耳に聞き馴染みのある声が飛び込んできた。
「国王陛下!プリンセス、そして家臣ご一同。身に余る光栄でございます」
ラティーファの表情が固まる。顔を上げて声の主を一目見ようとしたが、動悸が収まらず何も出来ない。彼女が震えている間に、声の主が顔を上げて名乗る。
「私は偉大なるマジシャン、シャバーンでございます!」
ラティーファの顔が勢いよく上がる。視線の先に居る男は、間違いなくシャバーン本人だった。だが、服装は今までに見たことがないほど華美であり、始まったパフォーマンスは彼らしくない程に完璧だった。
愛する人が夢を叶えたことに喜びを感じる反面、ラティーファは得体のしれない恐怖に襲われた。
一体、彼に何が起きたというの……?
万雷の拍手の中で、ただ1人ラティーファだけが最後まで拍手をすることはなかった。もちろんその事実をシャバーンが気づく由などなかった。
マジックショーが終わった後、ラティーファはジャスミンとナルジス姫が所有する宮殿の庭園に佇んでいた。月光が彼女の憂いを帯びた横顔を照らし出している。
やがてしばらく待っていると、豪奢なマントをはためかせるシャバーンが現れた。彼はラティーファの近くに控えると、無言で膝をついた。
「お呼びでしょうか、ラティーファ嬢」
彼女は何があったのか、本当は問いただすつもりだった。そして身分を超えた危険な告白をした彼を諌め、二度と会わないように強く突き放すつもりだった。
だが、どれだけ決心しても愛する人の華麗な姿の前では、口からはため息しか出なかった。ラティーファは溢れ出す想いを抑えきれず、シャバーンに抱きついた。
「無礼者!と言われても仕方がないのですよ。手討ちにされてもおかしくはないのですよ!どうして、どうして私に想いなど伝えようと思ったのですか」
シャバーンは突然の嬉しいシチュエーションに心臓が止まりそうになった。なんとか息を整え、彼はラティーファの髪を掬って微笑んだ。
「……好きだから、は理由にならんか?」
ラティーファの両目から大粒の涙が溢れる。私も、と言うべき言葉が喜びのあまり詰まってしまう。
「私も……貴方のことを……お慕いして……います」
ラティーファの言葉を聞くやいなや、シャバーンは華奢な身体を抱き寄せた。ボロボロと涙をこぼす愛しい人を見て、彼は優しい笑顔を浮かべている。
お互いに、もっと伝えたいことがたくさんあった。だが二人に許された時間はあまりに短かった。
「ラティーファ!ラティーファ!どこにいるんだ?」
庭園に、父ハイサムの声がこだまする。ラティーファは慌ててシャバーンから離れると、彼に後から帰るように言い残して去ろうとした。しかし去り際、シャバーンは反射的に彼女の手を掴んだ。
「――――私は、諦めないぞ」
「シャバーン様……」
「だからラティーファ、お前も諦めないでくれ」
ラティーファが小さく頷く。それを見届けたシャバーンは、物陰に隠れた。夜の庭園は肌寒かったが、彼は大切な人の姿が見えなくなるまでいつまでも見送るのだった。
ハイサムは、娘の嬉しそうな横顔に違和感を感じながら歩いていた。ラティーファの方は、さとられないように必死でポーカーフェイスを貫いていたのだが、とても父には敵わなかった。いてもたってもいられず、ハイサムは毅然とした態度で単刀直入に尋ねた。
「――――お前、なにか隠していないか?」
「えっ……?」
隠し事が多すぎるラティーファにとって、その質問はあまりにも強烈だった。彼女は苦笑いしながら、父親の表情を伺った。
「……まさかとは思うが、あのマジシャンと親密な関係なんじゃないだろうな」
踊りの話ではなかったのね。
ラティーファは腹をくくると、父親同様に堂々とした態度で答えた。
「ええ、そうです。お互いに想い合っています」
「何だと?あんな胡散臭そうな男とか?お前の立場を利用して近づこうとしているだけだ」
娘のことを知ろうともせず嘲笑う父に、ラティーファは強い怒りを覚えた。そして初めて、彼に反抗した。
「この国で法律によって婚姻を制限されているのは、姫だけです。ならば私は誰と結婚しようとも自由じゃない!」
「お前はいつもそうだ。踊りのことも、何から何まで……どれほど自分が恵まれていると思っているんだ!」
「私は……私は、ただ誰かに理解してほしかったの!自分の気持を、夢を、願いを。でも、家族の誰も理解してはくれなかった。だから、私は自分の気持ごと受け入れて愛してくれるあの人に惹かれた」
刹那、ハイサムの平手が飛ぶ。それでもラティーファは啖呵を止めない。
「お父様が納得するまで、私は戦い続ける。私だって夢を諦めるわけにはいかないから」
それを聞いたハイサムは、娘を鼻で笑ってこう言った。
「そうか。なら、踊りの道かあの男と結婚するかは選べるのか?」
「何を――――」
「私は知っているぞ。お前が時折抜け出して街で踊っているのを。お前がどちらかを選ぶというなら、それなりの覚悟を持とうじゃないか。ただし、選ばなかった方は永遠に諦めるんだな」
呆然と立ち尽くすラティーファを置いて、ハイサムは歩き出す。
「そんな……全部知っていたの……?」
踊りか、愛する人か。どちらも彼女が生涯をかけて愛してきたものだ。それを選べと言われただけでも、彼女の心は引き裂かれんばかりの苦しみに襲われた。
「私は……」
震えながら座り込むラティーファを慰める人は誰も居ない。帰路につかねばと思いながら、彼女は暫しの間手の届かない遥か遠くの場所に浮かぶ月を見つめるのだった。
ラティーファが帰宅したのは、父の帰宅より少し遅れた時間だった。遅くなってしまったので、きっと締め出されてしまうだろうと彼女は思って身構えた。
だが、予想に反して門は開いたままだ。彼女は何かがおかしいと察知し、恐る恐る歩みを進めた。
そこには、なんと彼女の父と母が倒れていた。
「お父様!お母様!」
駆け寄ったラティーファは、ぬめりのある何かに足を取られて倒れた。咄嗟に着いた両手を見ると、そこには鮮血がはっきりとついていた。声にならない悲鳴を上げるラティーファの脚を、突然父が掴んだ。
「お、お父様……?」
「ラティーファ……今すぐ……逃げるんだ」
「どういうこと?一体ここで何が……?」
「ジャ……ファー……め。あやつの……暗殺に……遭ったのだ」
驚きのあまり声を失っているラティーファを、ハイサムは最後の力を振り絞って見上げた。そして、もっと早くに言うべきだった言葉を漏らした。
「すまない……ラティーファ。私は……お前が苦労するのを……見たくなかった。ただ、それだけ……」
「お父様、喋らないで。きっと助かるから――――」
徐々にハイサムの焦点が合わなくなっていく。ラティーファは力が抜けていく父の手を握りながら、声にならない声で叫んだ。
「嫌よ!お父様……私、いい娘じゃなかった。一杯困らせて、欺いてしまった」
「そんな……こと……愚か……な」
「嫌……」
「ラティーファ、幸せに……私はお前を……何よりも……愛して……」
「嘘、嘘、嘘……嘘……」
ラティーファの手から、父の大きな手がするりと落ちる。あまりの衝撃に、嘆き悲しむことも出来ず両親の亡骸を前に呆然とするしか出来ない。そんな彼女の肩を叩いたのは、乳母のナーサーヤだった。
「ラティーファ様!ご無事で……」
「ばあや……」
「ばあやはお嬢様のお部屋を掃除するために離れに居たので、助かったのです。他の者は……」
俯く乳母の表情が、すべてを物語っている。ラティーファがねぎらいの言葉をかけようとしたその時だった。外から物音が聞こえてきた。
「探せ。館にいるものは全員始末しろ」
二人は顔を見合わせると、部屋から必要なものだけ急いで取り出しにいった。それからすぐ、血と死体で足の踏み場がない屋敷から間一髪で逃げ出した。
「これから、どうされるのですか。私の実家はもうとっくの昔に無くなっていますし……」
深刻な面持ちをするナーサーヤの肩に、ラティーファはそっと手を置いた。そして父の最期の願いを反芻した。
私、生き抜いて見せる。こんなところでは死ねない。絶対に幸せになって、生きてここに戻るんだから。
ラティーファは覚悟を決めて、乳母の手を引いてこう言った。
「1人だけ、頼れる人がいるの。私がなんとかする」
夜分遅くに戸口を叩く音で起きたアシームは、大あくびをしながら玄関を開けた。寝ぼけ眼で前を見た彼だったが、次の瞬間眠気はどこかへ飛んでいってしまった。
「えっ…………」
彼の目の前には、所々血で汚れているラティーファと乳母らしき人が立っていた。アシームの悲鳴で、シャバーンも戸口へとやって来る。もちろん彼もまた、睡魔が消し飛ぶほどの衝撃を覚えた。
「なっ……一体何が遭ったんだ!?」
「私が怪我をしたわけじゃないから安心して。お願い、匿ってほしいの」
「そ、それは構わんが……」
シャバーンの手をすり抜けて、ラティーファは家へと潜り込んだ。理由を聞こうと口を開けたその瞬間、外から騒がしい物音が聞こえてきた。シャバーンはアシームを遣って、事の次第を聞いてくるように命じた。そして、二つ返事で外へ出たアシームはものの数分で戻ってきた。その顔は明らかに青白い。彼は震える声で、主人にありのままを伝えた。
「国務大臣夫妻が、暗殺されたようです」
シャバーンは暫し衝撃で身動きが取れなかった。だが我に返って、部屋の奥で震えているラティーファを見た。
こうして運命は、残酷な方法で二人を引き合わせてしまった。決して望んでいない、最悪の状況で。