4、世界一を目指す理由
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夕方。アシームは道具を磨きながら、ちらりと主人の様子を窺っていた。シャバーンは案の定衝撃のあまり放心状態となっており、何も手につかない有り様だった。
「シャバーン様、大丈夫ですか?」
「大丈夫なもんか…………わしは無礼なことをいっぱいしてしまったんだぞ!?処刑されたらどうしよう…………ひぃ…………」
そんな風に頭を抱えるシャバーンを置いて、ベキートはあくびをしながら笑っている。
「考え方を変えたほうが良いんじゃあないですか?」
「…………どういうことだ、ベキート」
「ほらぁ。高官とコネクションが出来た、とか」
その言葉に、シャバーンの瞳が少しだけ輝く。相変わらずセコい主人の考え方に、アシームは溜め息をついた。だが直後、再びシャバーンは頭を抱えた。
「ああああっ!でもどうやって会いに行けばいいんだ」
アシームはそんな主人の言葉に、つい本音を零した。
「…………気になるのは、そっちなんですね」
「何だ、アシーム。何が言いたいんだ」
苛立ちながら顔を上げたシャバーンは、息を呑んで狼狽した。アシームは涙を浮かべながら、苦しげな声でこう続けた。
「せっかく、シャバーン様が少しだけ優しい人になったと思ったのに…………」
それを聞いたシャバーンが鼻で笑う。
「わしが優しくなった?そんなわけがあるか。いいか。世界一になるためなら、わしはなんだってするぞ!」
彼はそう言って伸びをすると、さっさと寝室の方へ歩き出してしまった。
「さぁ、あの場所は譲ってもらえるわけだし!何も困ることはない。明日のショーが楽しみだ!」
あまりに呆気らかんとしているシャバーンの姿に、流石のベキートも引き気味だ。
「…………あいつ、ラティーファってやつが好きだったんじゃないのか?」
「…………ううっ……ベキートぉ…………僕はもう、シャバーン様のことがよくわからないよ」
日頃からひどい扱いを受けることもあるにもかかわらず、主人のことを思ってアシームは涙を流している。素直に可哀想だと感じたベキートは、尻尾で少年の頭を優しく撫でた。不意に、コブラは召使いの手の中にビラが握られていることに気がついた。彼は恐る恐る、アシームにそのビラを開くように促した。
そこに書かれていたのは、なんと右大臣宅で行われるマジックの催しに関するお触れだった。ベキートはアシームを見て、間髪入れずこう言った。
「俺に考えがある」
ときを同じくして、もう一人泣いている人物がいた。ラティーファだった。彼女は人目を避けるために、自室ではなく庭の東屋で静かに涙を流していた。
「もうきっと…………会えない。きっとあの人の態度は変わってしまう。私は…………」
私は、何を望んでいたのか。
痛む胸が、彼女の本当の気持ちを教えていた。
「世界一のダンサーにもなれず、世界一大好きな人の隣にも居られないなんて…………」
やっぱり、夢なんて見るんじゃなかった。
彼女は涙をぎゅっと拭うと、立ち上がって部屋へ戻った。そして迷わず、ダンスの衣装や小道具を一式箱に詰めた。不意に、まだ耳に赤い三日月のイヤリングが掛かっていることに気づいた。暫しの躊躇いのあと、彼女はそれすらも耳から取り去ってしまい箱に入れた。蓋を閉める音と鍵をかける音が重く響く。
それはまるで、自分の気持ちに鍵を掛けてしまったように無機質な音だった。
さて、ラティーファがアグラバーの街に現れなくなってから数日。シャバーンはいつもどおりの元気な様子のままだ。アシームもベキートも、もはやこの男の図太い神経に感心している。
だが人知れず、そんな彼もラティーファが居なくなってしまったことに密かなショックを受けていた。初めのうちは本当に大丈夫だろうと軽い気持ちでいた。しかしラティーファと同じ場所で何度も公演を重ねるうちに、色々なことが彼の脳裏に過るようになってしまった。
初めて彼女の公演を観た日。あまりのエネルギーと美しさに圧倒されて、文句を言うのも忘れてしまったこと。
『あら、誰かと思えば。マジシャンのシャバーン様ではないですか!』
公演が終わったあと、自分を見つけて声をかけてくれたこと。
自分のショーを観に来てくれていたこと。あの様子なら、屋敷をこっそり抜け出して限られた時間の中で観に来てくれたのだろう。
そして何より、どんなときも自分の成功を信じて一途に応援してくれていた。
気がつけば、シャバーンの両目からは涙が溢れていた。もっと素直になっておけば。今までに感じたことのないほど強い後悔の感情が、彼の心を締め付けた。
だがもう、ラティーファにもう一度会う手段はない。もう二度と、叶わないのだ。
帰宅したシャバーンは、一言も発さずカーペットのうえで膝を抱えて座っていた。まるで世界の終わりのような顔を浮かべる彼の隣に、そっとアシームが座る。
「……シャバーン様、泣いているんですか?」
「はぁ?わしが泣くだと?そんな馬鹿な――――」
そう言って頬を拭ってみると、そこには確かに大粒の涙が伝っている。狼狽しながら、彼は心の声に耳をそむけた。
「なっ、なんでわしは泣いてるんだ。なんで……」
「シャバーン、いい加減認めなって。失恋が、悲しくて辛くて堪えてるんだってことをさ」
ベキートの辛辣な指摘に、シャバーンは息を呑んだ。否定したくとも、口が思うように動かない。一方でアシームとベキートは黙って主人を観察していた。そう、二人はシャバーンの反応次第でとあるものを渡そうとしていたのだ。
そして悪運の強いシャバーンは、今まで見せたことがないくらいに取り乱し大泣きを始めた。アグラバーが洪水に見舞われるのではと思うほどに、その涙は大粒で大量だった。
「ううっ……なんで……世界一なんて、もう要らない。お前が隣に居てさえくれれば……なんで……なんでわしはいつもこうなんだ……」
ベキートとアシームが顔を見合わせる。答えはもう二人の間で決まっていた。
「あの……シャバーン様」
最初に切り出したのはアシームだった。彼は震える手で、チラシをシャバーンに渡した。
「……これは、なんだ」
「右大臣ハイサム様の邸宅で、マジックの選考があるらしいです。だから……」
「だから、なんだ」
「だから……」
アシームは一呼吸置くと、主人をしっかり見据えてこう言った。
「だから、シャバーン様。どうか行ってきてください。そして、ラティーファ様に会いに行ってください。この国には、姫は王子としか結婚できないという法律があります。でも令嬢がマジシャンと結婚しちゃダメなんていう法律はないですから!」
唖然とするシャバーンを置いて、アシームはいつになく自信満々だ。やがて主人は召使いの熱情に感動したのか、静かに頷いた。
「アシーム、お前……」
「礼は良いですよ。それより、当日のために練習してください」
「ああ……」
シャバーンは瞳を輝かせて立ち上がった。そしてアシームとベキートに向き直りこう言った。
「――――最高のマジックを、見せようじゃないか」
さて、シャバーンが珍しく男気を見せてから数週間。あっという間に本番はやってきた。右大臣宅には、プリンセス・ナルジスだけでなく妹のジャスミンも出席している。二人はラティーファにあれやこれやと、件のマジシャンの話を聞き出そうと必死だ。
「で、私が一肌脱いだこの選考だけど……ラティーファの気になる人は来るのかしら」
「ジャス、勘弁して」
「大丈夫よ、ジャスミン。ラティーファは照れ屋なの」
「ああ、なるほど」
椅子に腰掛けながら気怠そうに返事するラティーファすら、ジャスミンは面白いようでしきりにからかってくる。お察しのとおり、この選考の場は二人の姫の親切心から生み出されたものだ。ナルジスは微笑みを浮かべながら名簿を見た。そしてわざとらしい声を上げた。
「あら。次はシャバーンという方らしいわよ」
「あら大変。それじゃあ、私達はお暇しないとね」
「えっ?ちょっとナルジィにジャス。どうして席を立つのですか?」
二人のプリンセスは、衛兵も侍女すらも連れ出してしまうと、楽しそうに扉の先で手を振った。そしてついに扉が閉められる。あとに残ったのは、ラティーファただ一人だ。
当惑する彼女を置いて、素っ頓狂だが安心する声が響く。
「にっ、23番目のマジシャン、シャバーンでございます。入室してよろしいでしょうか!」
「……どうぞ」
ラティーファの許可を得た後、シャバーンがいそいそと入室する。顔を上げた彼は、部屋に二人以外誰も居ないことに驚きの声を上げた。
「えっ……と……他の方は?」
「居たほうが良いですか?」
嫌味たっぷりのラティーファに対して、シャバーンは大きく首を横に振った。彼は震える手で、金色のハンカチを準備した。
「それは……」
ラティーファの言葉を遮るように、シャバーンが距離を詰める。今や二人は、手を少し伸ばせば容易に届く距離にいる。
「今宵貴女は何たる幸せな方。今日は偉大なるシャバーンの、ワンマンショーなのですから!誰にも邪魔されない、貴方に捧ぐマジックをお見せしましょう」
そう言いながら、シャバーンは金色の布から白百合を出してみせた。初めてこの芸を見た日よりずっと洗練されている動きに、ラティーファは思わず感嘆の声を漏らした。
シャバーンは白百合を差し出しながら、真剣な眼差しで令嬢を見つめた。実のところ、数週間でまともな成果ができたのはこの手品一つだけだった。ベキートの提案により、いっそ思い出深いこの演目だけに賭けるのが良いだろうという結論に至ったのだ。
一分一秒が永遠に感じられる沈黙が流れた。そして居てもたっても居られず、ついにシャバーンのほうが動いた。彼は無礼を承知で、小道具をかなぐり捨ててラティーファを抱きしめた。刹那、手討ちになっても悔いはないほどに暖かな感触が彼の両手に伝わる。
「――――シャバーン様!?」
「今日はわし……じゃなくて、俺の気持ちを伝えたくて馳せ参じました」
ラティーファの華奢な両手を自分の手で包み込みながら、シャバーンは続けた。
「身分違いも無礼も承知で言う。俺は、貴女――――ラティーファが好きだ」
突然の告白に、ラティーファは大いに戸惑った。だが、シャバーンの真剣な眼差しに、彼女もいつの間にか素直な言葉を口にしようとしていた。
「シャバーン様……私も貴方のことがずっと――――」
「ラティーファ殿、次のものが控えております」
だが、その言葉は次の候補者を知らせる声で掻き消される。ラティーファはなにか答えなければ、と必死に口を動かした。だが、すべて――――身分という壁を悟ったようなシャバーンの絶望的な表情を前にすると、たった一言を絞り出すのが精一杯だった。
「――――ごめんなさい」
「ラティーファ……」
「さあ、次の者を通すぞ。外へ出ろ」
弁明の余地も無いまま、シャバーンが外へ連れ出されていく。ラティーファはその悲痛な眼差しを、黙って見送ることしか出来なかった。
愛しているが故の、すべてを諦めさせなければならないという彼女の想いは勿論シャバーンには伝わっていなかった。そしてその後の候補者の選考がラティーファ抜きで行われたことと、その理由が深い嘆きで立ち直ることが出来なかったからだと彼が知るのはもう少し先のことだ。
外へつまみ出されたシャバーンは、唖然としながら自身の恋の終わりを感じていた。同時に、自身に対する大きな怒りを感じていた。
「マジシャンなんて……目指さず豪商の息子のままだったら……!」
ラティーファの瞳には、確かに自分への思慕の念を感じた。もし身分という障壁がなければ、きっと成就していたに違いない。やり場のない怒りを覚えながら、シャバーンは帰宅した。
すると、珍しくアシームがガラクタをこっそり甲斐甲斐しく磨いているのを見つけた。シャバーンはほんの意地悪な気持ちで、アシームの背中に声をかけた。
「アシーム、なーにをしているんだ?」
「わっ……!!」
驚きのあまり、アシームがランプを取り落とす。シャバーンは骨董品をひったくると、注意深くその造形を眺めた。不意に、彼はランプの周囲に掘られている文字に興味を覚えた。なぜなら、そこには確かに『偉大な魔神、ジーニー宿る』と書かれていたからだ。
その瞬間、シャバーンの瞳が怪しく輝く。その先の展開は、皆様御存知のとおりだ。
こうしてシャバーンは、結局再び魔神ジーニーと契約を交わしてしまう。1度目と同じく、その望みは『世界一のマジシャンになる』ことだったという。
ただ、最初に叶えようとした内容は過去のものとは違った。彼が最初に叶えようとしたのは、『ラティーファに愛されたい』という内容だった。もちろん、ジーニーの守備範囲外だったため、この望みは叶えられることは無かった。
さて、夢と手段を混同してしまった彼がどうなるのか。そしてラティーファとの運命がどうなるのかは、もう少し先の話で語られる。
「シャバーン様、大丈夫ですか?」
「大丈夫なもんか…………わしは無礼なことをいっぱいしてしまったんだぞ!?処刑されたらどうしよう…………ひぃ…………」
そんな風に頭を抱えるシャバーンを置いて、ベキートはあくびをしながら笑っている。
「考え方を変えたほうが良いんじゃあないですか?」
「…………どういうことだ、ベキート」
「ほらぁ。高官とコネクションが出来た、とか」
その言葉に、シャバーンの瞳が少しだけ輝く。相変わらずセコい主人の考え方に、アシームは溜め息をついた。だが直後、再びシャバーンは頭を抱えた。
「ああああっ!でもどうやって会いに行けばいいんだ」
アシームはそんな主人の言葉に、つい本音を零した。
「…………気になるのは、そっちなんですね」
「何だ、アシーム。何が言いたいんだ」
苛立ちながら顔を上げたシャバーンは、息を呑んで狼狽した。アシームは涙を浮かべながら、苦しげな声でこう続けた。
「せっかく、シャバーン様が少しだけ優しい人になったと思ったのに…………」
それを聞いたシャバーンが鼻で笑う。
「わしが優しくなった?そんなわけがあるか。いいか。世界一になるためなら、わしはなんだってするぞ!」
彼はそう言って伸びをすると、さっさと寝室の方へ歩き出してしまった。
「さぁ、あの場所は譲ってもらえるわけだし!何も困ることはない。明日のショーが楽しみだ!」
あまりに呆気らかんとしているシャバーンの姿に、流石のベキートも引き気味だ。
「…………あいつ、ラティーファってやつが好きだったんじゃないのか?」
「…………ううっ……ベキートぉ…………僕はもう、シャバーン様のことがよくわからないよ」
日頃からひどい扱いを受けることもあるにもかかわらず、主人のことを思ってアシームは涙を流している。素直に可哀想だと感じたベキートは、尻尾で少年の頭を優しく撫でた。不意に、コブラは召使いの手の中にビラが握られていることに気がついた。彼は恐る恐る、アシームにそのビラを開くように促した。
そこに書かれていたのは、なんと右大臣宅で行われるマジックの催しに関するお触れだった。ベキートはアシームを見て、間髪入れずこう言った。
「俺に考えがある」
ときを同じくして、もう一人泣いている人物がいた。ラティーファだった。彼女は人目を避けるために、自室ではなく庭の東屋で静かに涙を流していた。
「もうきっと…………会えない。きっとあの人の態度は変わってしまう。私は…………」
私は、何を望んでいたのか。
痛む胸が、彼女の本当の気持ちを教えていた。
「世界一のダンサーにもなれず、世界一大好きな人の隣にも居られないなんて…………」
やっぱり、夢なんて見るんじゃなかった。
彼女は涙をぎゅっと拭うと、立ち上がって部屋へ戻った。そして迷わず、ダンスの衣装や小道具を一式箱に詰めた。不意に、まだ耳に赤い三日月のイヤリングが掛かっていることに気づいた。暫しの躊躇いのあと、彼女はそれすらも耳から取り去ってしまい箱に入れた。蓋を閉める音と鍵をかける音が重く響く。
それはまるで、自分の気持ちに鍵を掛けてしまったように無機質な音だった。
さて、ラティーファがアグラバーの街に現れなくなってから数日。シャバーンはいつもどおりの元気な様子のままだ。アシームもベキートも、もはやこの男の図太い神経に感心している。
だが人知れず、そんな彼もラティーファが居なくなってしまったことに密かなショックを受けていた。初めのうちは本当に大丈夫だろうと軽い気持ちでいた。しかしラティーファと同じ場所で何度も公演を重ねるうちに、色々なことが彼の脳裏に過るようになってしまった。
初めて彼女の公演を観た日。あまりのエネルギーと美しさに圧倒されて、文句を言うのも忘れてしまったこと。
『あら、誰かと思えば。マジシャンのシャバーン様ではないですか!』
公演が終わったあと、自分を見つけて声をかけてくれたこと。
自分のショーを観に来てくれていたこと。あの様子なら、屋敷をこっそり抜け出して限られた時間の中で観に来てくれたのだろう。
そして何より、どんなときも自分の成功を信じて一途に応援してくれていた。
気がつけば、シャバーンの両目からは涙が溢れていた。もっと素直になっておけば。今までに感じたことのないほど強い後悔の感情が、彼の心を締め付けた。
だがもう、ラティーファにもう一度会う手段はない。もう二度と、叶わないのだ。
帰宅したシャバーンは、一言も発さずカーペットのうえで膝を抱えて座っていた。まるで世界の終わりのような顔を浮かべる彼の隣に、そっとアシームが座る。
「……シャバーン様、泣いているんですか?」
「はぁ?わしが泣くだと?そんな馬鹿な――――」
そう言って頬を拭ってみると、そこには確かに大粒の涙が伝っている。狼狽しながら、彼は心の声に耳をそむけた。
「なっ、なんでわしは泣いてるんだ。なんで……」
「シャバーン、いい加減認めなって。失恋が、悲しくて辛くて堪えてるんだってことをさ」
ベキートの辛辣な指摘に、シャバーンは息を呑んだ。否定したくとも、口が思うように動かない。一方でアシームとベキートは黙って主人を観察していた。そう、二人はシャバーンの反応次第でとあるものを渡そうとしていたのだ。
そして悪運の強いシャバーンは、今まで見せたことがないくらいに取り乱し大泣きを始めた。アグラバーが洪水に見舞われるのではと思うほどに、その涙は大粒で大量だった。
「ううっ……なんで……世界一なんて、もう要らない。お前が隣に居てさえくれれば……なんで……なんでわしはいつもこうなんだ……」
ベキートとアシームが顔を見合わせる。答えはもう二人の間で決まっていた。
「あの……シャバーン様」
最初に切り出したのはアシームだった。彼は震える手で、チラシをシャバーンに渡した。
「……これは、なんだ」
「右大臣ハイサム様の邸宅で、マジックの選考があるらしいです。だから……」
「だから、なんだ」
「だから……」
アシームは一呼吸置くと、主人をしっかり見据えてこう言った。
「だから、シャバーン様。どうか行ってきてください。そして、ラティーファ様に会いに行ってください。この国には、姫は王子としか結婚できないという法律があります。でも令嬢がマジシャンと結婚しちゃダメなんていう法律はないですから!」
唖然とするシャバーンを置いて、アシームはいつになく自信満々だ。やがて主人は召使いの熱情に感動したのか、静かに頷いた。
「アシーム、お前……」
「礼は良いですよ。それより、当日のために練習してください」
「ああ……」
シャバーンは瞳を輝かせて立ち上がった。そしてアシームとベキートに向き直りこう言った。
「――――最高のマジックを、見せようじゃないか」
さて、シャバーンが珍しく男気を見せてから数週間。あっという間に本番はやってきた。右大臣宅には、プリンセス・ナルジスだけでなく妹のジャスミンも出席している。二人はラティーファにあれやこれやと、件のマジシャンの話を聞き出そうと必死だ。
「で、私が一肌脱いだこの選考だけど……ラティーファの気になる人は来るのかしら」
「ジャス、勘弁して」
「大丈夫よ、ジャスミン。ラティーファは照れ屋なの」
「ああ、なるほど」
椅子に腰掛けながら気怠そうに返事するラティーファすら、ジャスミンは面白いようでしきりにからかってくる。お察しのとおり、この選考の場は二人の姫の親切心から生み出されたものだ。ナルジスは微笑みを浮かべながら名簿を見た。そしてわざとらしい声を上げた。
「あら。次はシャバーンという方らしいわよ」
「あら大変。それじゃあ、私達はお暇しないとね」
「えっ?ちょっとナルジィにジャス。どうして席を立つのですか?」
二人のプリンセスは、衛兵も侍女すらも連れ出してしまうと、楽しそうに扉の先で手を振った。そしてついに扉が閉められる。あとに残ったのは、ラティーファただ一人だ。
当惑する彼女を置いて、素っ頓狂だが安心する声が響く。
「にっ、23番目のマジシャン、シャバーンでございます。入室してよろしいでしょうか!」
「……どうぞ」
ラティーファの許可を得た後、シャバーンがいそいそと入室する。顔を上げた彼は、部屋に二人以外誰も居ないことに驚きの声を上げた。
「えっ……と……他の方は?」
「居たほうが良いですか?」
嫌味たっぷりのラティーファに対して、シャバーンは大きく首を横に振った。彼は震える手で、金色のハンカチを準備した。
「それは……」
ラティーファの言葉を遮るように、シャバーンが距離を詰める。今や二人は、手を少し伸ばせば容易に届く距離にいる。
「今宵貴女は何たる幸せな方。今日は偉大なるシャバーンの、ワンマンショーなのですから!誰にも邪魔されない、貴方に捧ぐマジックをお見せしましょう」
そう言いながら、シャバーンは金色の布から白百合を出してみせた。初めてこの芸を見た日よりずっと洗練されている動きに、ラティーファは思わず感嘆の声を漏らした。
シャバーンは白百合を差し出しながら、真剣な眼差しで令嬢を見つめた。実のところ、数週間でまともな成果ができたのはこの手品一つだけだった。ベキートの提案により、いっそ思い出深いこの演目だけに賭けるのが良いだろうという結論に至ったのだ。
一分一秒が永遠に感じられる沈黙が流れた。そして居てもたっても居られず、ついにシャバーンのほうが動いた。彼は無礼を承知で、小道具をかなぐり捨ててラティーファを抱きしめた。刹那、手討ちになっても悔いはないほどに暖かな感触が彼の両手に伝わる。
「――――シャバーン様!?」
「今日はわし……じゃなくて、俺の気持ちを伝えたくて馳せ参じました」
ラティーファの華奢な両手を自分の手で包み込みながら、シャバーンは続けた。
「身分違いも無礼も承知で言う。俺は、貴女――――ラティーファが好きだ」
突然の告白に、ラティーファは大いに戸惑った。だが、シャバーンの真剣な眼差しに、彼女もいつの間にか素直な言葉を口にしようとしていた。
「シャバーン様……私も貴方のことがずっと――――」
「ラティーファ殿、次のものが控えております」
だが、その言葉は次の候補者を知らせる声で掻き消される。ラティーファはなにか答えなければ、と必死に口を動かした。だが、すべて――――身分という壁を悟ったようなシャバーンの絶望的な表情を前にすると、たった一言を絞り出すのが精一杯だった。
「――――ごめんなさい」
「ラティーファ……」
「さあ、次の者を通すぞ。外へ出ろ」
弁明の余地も無いまま、シャバーンが外へ連れ出されていく。ラティーファはその悲痛な眼差しを、黙って見送ることしか出来なかった。
愛しているが故の、すべてを諦めさせなければならないという彼女の想いは勿論シャバーンには伝わっていなかった。そしてその後の候補者の選考がラティーファ抜きで行われたことと、その理由が深い嘆きで立ち直ることが出来なかったからだと彼が知るのはもう少し先のことだ。
外へつまみ出されたシャバーンは、唖然としながら自身の恋の終わりを感じていた。同時に、自身に対する大きな怒りを感じていた。
「マジシャンなんて……目指さず豪商の息子のままだったら……!」
ラティーファの瞳には、確かに自分への思慕の念を感じた。もし身分という障壁がなければ、きっと成就していたに違いない。やり場のない怒りを覚えながら、シャバーンは帰宅した。
すると、珍しくアシームがガラクタをこっそり甲斐甲斐しく磨いているのを見つけた。シャバーンはほんの意地悪な気持ちで、アシームの背中に声をかけた。
「アシーム、なーにをしているんだ?」
「わっ……!!」
驚きのあまり、アシームがランプを取り落とす。シャバーンは骨董品をひったくると、注意深くその造形を眺めた。不意に、彼はランプの周囲に掘られている文字に興味を覚えた。なぜなら、そこには確かに『偉大な魔神、ジーニー宿る』と書かれていたからだ。
その瞬間、シャバーンの瞳が怪しく輝く。その先の展開は、皆様御存知のとおりだ。
こうしてシャバーンは、結局再び魔神ジーニーと契約を交わしてしまう。1度目と同じく、その望みは『世界一のマジシャンになる』ことだったという。
ただ、最初に叶えようとした内容は過去のものとは違った。彼が最初に叶えようとしたのは、『ラティーファに愛されたい』という内容だった。もちろん、ジーニーの守備範囲外だったため、この望みは叶えられることは無かった。
さて、夢と手段を混同してしまった彼がどうなるのか。そしてラティーファとの運命がどうなるのかは、もう少し先の話で語られる。