3、夢の共演
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珍しく穏やかな日差しの午後、ラティーファは王宮の一室で親友とティータイムを楽しんでいた。目の前に座って共に談笑しているのは、サルタン王の長女ナルジス姫だ。彼女はテラスから一望できる中庭に目をやると、そこでペットの虎とじゃれ合っているジャスミンを眺めて微笑みを浮かべた。だが、その眼差しはすぐに曇りを帯びる。
「私も、あの子みたいに走り回れたら良いのに…………」
「ナルジィ…………」
ラティーファはナルジス姫の憂いを感じ取ると、心配そうに顔を覗き込んだ。その心遣いに、姫は苦笑いを浮かべて応えた。
「ごめんなさい、ラティーファ。ダメね。どうしても、私は自分に無いものを妹に見いだしてしまう」
「大丈夫ですよ、ナルジィ。どうか私には、気負ったりしないで」
「ありがとう、ラティーファ。あなたは本当に、私のかけがえのない親友ね」
光栄です、と微笑みながらラティーファは茶菓子を口に運んだ。ナルジィ――――ナルジス姫は幼い頃から、妹のジャスミン姫の母親代わりとして頑張り続けていた。そんな気丈夫なところは姉妹そっくりなのだが、ナルジスの方は母親に似て病弱だった。大人になるにつれてその違いは顕著となり、今では彼女はすっかり妹の気遣いを受ける側となっている。その事実がますますナルジスの自信を傷つけているのだが、この秘めたる気持ちはラティーファとだけの秘密だった。もちろん彼女もダンスの話など、ナルジスにたくさんの秘密を打ち明けている。
ただ一つ、父がジャファー派と激しく対立していることを除いて。
「ラティーファ、どうしたの?」
「えっ、あぁ…………大丈夫です」
ラティーファはナルジスが、ジャファー左大臣のことを思い慕っていることを知っていた。そして、そのジャファーが父ハイサムを強く敵視し、常に失脚を狙っていることも。
そんなことを考えていると、不意にラティーファは視線を感じて顔を上げた。そこにはにこやかなナルジス姫がいる。
「ねぇ。ラティーファには気になる人いないの?」
えっ、という短い驚きのあとでラティーファは沈黙した。ナルジス姫は、その反応がいつもの彼女とは違うことに気づいてにっこり笑っている。
「あらぁ、ラティーファ。ひょっとして、いるの?」
「えっ……そっ……そんなことは別に……思ってない……けれど……」
「あらあら。貴方の心にするりと入り込んだ殿方のこと、とっても興味深いわ」
違う、と否定しようとしたラティーファは失礼な考えに慌てて口をつぐんだ。いや、正確には否定したくないと感じていた。彼女は窓辺に飾られている白百合を眺めながら、静かに微笑んだ。
「……そういうお方ではないのです。何しろ、私に夢を諦めない強い決意をくれた人ですから」
暖かな風が部屋に吹き込み、ラティーファの黒髪を揺らす。ナルジス姫がその横顔に、恋の息吹を感じていたが胸に留め置いたということは言うまでもない。
ティータイムを終えて踊り子の衣装に着替えたラティーファは、今日も城下へとお忍びに繰り出した。だが、今日は珍しく自身の公演のためではない。
薄布で出来たマスクをつけてやってきた先は、シャバーンのショーだった。相変わらず段取りも芸も滅茶苦茶だが、少しずつマジックと言うより彼のトークを目当てにして観に来る客が増えているようだ。ラティーファは邪魔をしないように気をつけながら、思わず吹き出してしまうようなトークに耳を傾けた。
「えー、失礼しました。このマジシャンですが。皆様のお力が必要です!……なんですが、皆さん誰もカウントされないのはどういうことですかねぇ」
そう言って、シャバーンは立ち上がると周囲の人をゆっくりと見渡した。そして10人前後の人集りの中に、ラティーファの姿を見つけた。
彼女の姿を見つけるやいなや、シャバーンの胸は途端に苦しくなった。不整脈かな、と思いながらも彼は刹那考えた。
このマジックを面白くするには、どうすれば良いものか。まだまだ掛け声なんて出るレベルの人集りじゃない。だとすると……
考えるより先に、シャバーンの指先が後列左端付近を指した。
「はいっ!もーこの私、皆さまが掛け声ちゃんとしてくれないので罰ゲームをしてもらうことにしましたっ!それでは後列左端の、えーと、赤い服着た美しいお嬢さん。ハイ、前に出てダンスしてください!」
シャバーンが言い終わると同時に、ラティーファへ一斉に視線が注がれる。突然のことに、彼女も面食らって固まっている。やがて自分が無茶ぶりに指名されたことに気づくと、ラティーファは半分自棄で前へと飛び出た。
気がつけば、身体は近くで奏でられていた全く別のパフォーマンスの音楽に合わせて踊り始めていた。肝心の無茶振りを始めた元凶は、間近で見るラティーファのダンスのエネルギーに暫し圧倒されている。だがすぐさま我に返ると、両手を高く上げて叫んだ。
「はい、手拍子!ハイッ!ハイッ!」
何事かと思い、徐々に人集りが増えていく。シャバーンは狙い通りと言いたげな表情を浮かべながら、マジックの準備を始めた。
そして、音楽が終わった。ラティーファがどうしていいかわからずたじろいでいると、不意にアシスタントのアシームがその肩を叩いて隣を見るようにジェスチャーした。彼女が振り向くと、そこには金色のハンカチを持って微笑むシャバーンがいた。そしてそこからは――――
「はい、よく出来ました!素敵なダンスを披露してくれた貴女には、お礼にこれを差し上げます!」
勢いよく、あの日とよく似た白百合の花が飛び出てきた。ラティーファは目を丸くしてシャバーンを見つめた。いつの間にか出来上がった小さな人集りから、拍手が巻き起こる。同時に彼は、小声で踊り子に耳打ちした。
「マスク取って」
「えっ?」
「マスク取って。世界一になりたいんでしょ」
冷静に聞くと全く意味を成さない説得だったが、今のラティーファは恩人のショーを成功させたい一心だった。彼女はマスクを取り去ると、恭しくお辞儀をした。
「皆様!スペシャルゲストの、踊り子ラティーファに盛大な拍手を!あと、顔の広い私にも拍手を!」
万雷とまではいかないが、シャバーンの耳には今までで一番心地よい拍手と歓声が届いている。彼はうっすら涙を浮かべながら、ラティーファに花を差し出した。珍しく花は萎れていない。彼女ははにかんだ笑みを浮かべながら花を受け取ると、マジシャンに耳打ちした。
「ありがとう、シャバーン様」
「どういたしまして……って、近いな」
嬉しさを隠そうとするシャバーンは、わざとらしくしかめっ面をした。もちろんラティーファには、照れ隠しであることなどお見通しである。
なかなか鳴り止まない拍手の中、二人はいつまでも手を振り続けた。記念すべき二人の初共演に、心の底から幸せを感じながら。
ショーが終わったあと、シャバーンはご満悦と言わんばかりにご機嫌な声を上げた。手には観客から投げ込まれたチップが握られている。明らかに売上を独り占めしようとしている主人を諌めるように、アシームが思わず苦言を呈す。
「シャバーン様。流石にラティーファさんと売上は分けてくださいよ」
「細かい奴だなぁ……わかってるよそんなこと。私だって一応常識人だ」
そう言いながら渋々金を数えているシャバーンを見て、ラティーファは静かに首を横に振ってこう言った。
「全部、取っておいてください」
「……へっ?でっ、でも、流石に……」
いつもなら二つ返事でポケットに仕舞うシャバーンだったが、流石に今回ばかりは気まずさを覚えてたじろいだ。するとそんな様子を見たラティーファは、少し何かを考えてから笑った。
「では、お礼と言うなら……」
「わぁ……どれもきれい!」
30分後。ラティーファの希望で、シャバーンとアシームは市場の装飾店を訪れていた。瞳を輝かせるラティーファをよそに、シャバーンは首をかしげている。
「こんな安物で満足するんなら、別に良いけどね……でもさ、もっとなんかあるでしょ。……意外におねだり下手なのかな?」
「値段以外の価値だって、この世にはあるからね!」
そう言いながらラティーファが手に取ったのは、赤い月を象ったシンプルなイヤリングだった。シャバーンはお手頃すぎる価格に複雑な気持ちになりながらも、渋々会計を済ませた。
さっそくプレゼントされたイヤリングを付けると、ラティーファは無邪気にその場で一回転してみせた。イヤリングと黒い髪束が華麗に揺れ動く。
「安物も、お前にかかればラグジュアリーですこと」
「ありがとう、シャバーン様!」
あまりに嬉しそうにするラティーファを見て、シャバーンは最初の方こそ不可解さを覚えていた。だが、少しずつ自分のプレゼントを喜んでもらえているような気がして、彼は胸の中が暖かくなるのを感じた。
この気持ちの意味が分からないほど、シャバーンも若くはなかった。彼は天真爛漫なラティーファを見つめながら、顎髭を撫でつけてふわりと微笑んだ。
気の毒なのはアシームだ。生まれて初めて目にする主人の表情に彼はすっかり震え上がると、暑すぎるはずの市場で寒気を覚えた。
「なっ、なんだか嬉しそうですね……」
「ん?ああ……まあ……な」
いっそ、いつものように罵倒してほしい。アシームは青ざめた顔で、妙な主人を凝視しながらそう思うのだった。
市場から帰ってきたラティーファは、刺繍をしながら鏡を見た。鏡の中では、今日の出来事が夢でないと証明するように赤い月のイヤリングが揺れていた。
「シャバーン様……」
熱心なファンや両親からプレゼントをもらうことは多々あった。だからこそ今回のプレゼントが自身の中で特別な意味を持っていることに気づくのは、彼女にとっては容易いことだった。
もしかして、ナルジスの言うように……
「私は……あの人のことを……?」
その問いに答えを返す者は、誰も居ない。ラティーファは刺繍の手を止めて、いつまでも物思いに耽るのだった。
二人の共演から数日後。シャバーンはいつものように市場での場所取りに向かっていた。だが、この日はいつもと違って一際群衆が増えているような気がした。何より周囲の警備兵の人数が異常な数だった。
注意深く辺りを見回していると、唐突にファンファーレが響く。振り返ると、そこにはアグラバー王国の国務大臣と家族が視察に訪れているのが見えた。
そしてそこに、彼は有りえない人物を見つけてしまった。
「あれっ!?シャバーン様、あれって……」
「ラティーファ……?」
呆気に取られるアシームとシャバーンの目の前を、赤い三日月のイヤリングをした令嬢が通り過ぎていく。刹那、二人の目が合う。
ハイサム大臣が他のことに気を取られていることを確認したラティーファは、無言で立ち止まると横目でシャバーンを見てこう言った。
「……約束通り、あの場所はあなたに譲るわ」
そのたった一言だけを残すと、ラティーファは父の後ろをついていってしまった。残されたシャバーンは、辛うじて耳が拾った『ラティーファお嬢様』という言葉を聞きながら唖然とすることしか出来なかった。
それがラティーファからの『さようなら』の挨拶代わりであることを、痛いほど胸の奥底で感じながら。
「私も、あの子みたいに走り回れたら良いのに…………」
「ナルジィ…………」
ラティーファはナルジス姫の憂いを感じ取ると、心配そうに顔を覗き込んだ。その心遣いに、姫は苦笑いを浮かべて応えた。
「ごめんなさい、ラティーファ。ダメね。どうしても、私は自分に無いものを妹に見いだしてしまう」
「大丈夫ですよ、ナルジィ。どうか私には、気負ったりしないで」
「ありがとう、ラティーファ。あなたは本当に、私のかけがえのない親友ね」
光栄です、と微笑みながらラティーファは茶菓子を口に運んだ。ナルジィ――――ナルジス姫は幼い頃から、妹のジャスミン姫の母親代わりとして頑張り続けていた。そんな気丈夫なところは姉妹そっくりなのだが、ナルジスの方は母親に似て病弱だった。大人になるにつれてその違いは顕著となり、今では彼女はすっかり妹の気遣いを受ける側となっている。その事実がますますナルジスの自信を傷つけているのだが、この秘めたる気持ちはラティーファとだけの秘密だった。もちろん彼女もダンスの話など、ナルジスにたくさんの秘密を打ち明けている。
ただ一つ、父がジャファー派と激しく対立していることを除いて。
「ラティーファ、どうしたの?」
「えっ、あぁ…………大丈夫です」
ラティーファはナルジスが、ジャファー左大臣のことを思い慕っていることを知っていた。そして、そのジャファーが父ハイサムを強く敵視し、常に失脚を狙っていることも。
そんなことを考えていると、不意にラティーファは視線を感じて顔を上げた。そこにはにこやかなナルジス姫がいる。
「ねぇ。ラティーファには気になる人いないの?」
えっ、という短い驚きのあとでラティーファは沈黙した。ナルジス姫は、その反応がいつもの彼女とは違うことに気づいてにっこり笑っている。
「あらぁ、ラティーファ。ひょっとして、いるの?」
「えっ……そっ……そんなことは別に……思ってない……けれど……」
「あらあら。貴方の心にするりと入り込んだ殿方のこと、とっても興味深いわ」
違う、と否定しようとしたラティーファは失礼な考えに慌てて口をつぐんだ。いや、正確には否定したくないと感じていた。彼女は窓辺に飾られている白百合を眺めながら、静かに微笑んだ。
「……そういうお方ではないのです。何しろ、私に夢を諦めない強い決意をくれた人ですから」
暖かな風が部屋に吹き込み、ラティーファの黒髪を揺らす。ナルジス姫がその横顔に、恋の息吹を感じていたが胸に留め置いたということは言うまでもない。
ティータイムを終えて踊り子の衣装に着替えたラティーファは、今日も城下へとお忍びに繰り出した。だが、今日は珍しく自身の公演のためではない。
薄布で出来たマスクをつけてやってきた先は、シャバーンのショーだった。相変わらず段取りも芸も滅茶苦茶だが、少しずつマジックと言うより彼のトークを目当てにして観に来る客が増えているようだ。ラティーファは邪魔をしないように気をつけながら、思わず吹き出してしまうようなトークに耳を傾けた。
「えー、失礼しました。このマジシャンですが。皆様のお力が必要です!……なんですが、皆さん誰もカウントされないのはどういうことですかねぇ」
そう言って、シャバーンは立ち上がると周囲の人をゆっくりと見渡した。そして10人前後の人集りの中に、ラティーファの姿を見つけた。
彼女の姿を見つけるやいなや、シャバーンの胸は途端に苦しくなった。不整脈かな、と思いながらも彼は刹那考えた。
このマジックを面白くするには、どうすれば良いものか。まだまだ掛け声なんて出るレベルの人集りじゃない。だとすると……
考えるより先に、シャバーンの指先が後列左端付近を指した。
「はいっ!もーこの私、皆さまが掛け声ちゃんとしてくれないので罰ゲームをしてもらうことにしましたっ!それでは後列左端の、えーと、赤い服着た美しいお嬢さん。ハイ、前に出てダンスしてください!」
シャバーンが言い終わると同時に、ラティーファへ一斉に視線が注がれる。突然のことに、彼女も面食らって固まっている。やがて自分が無茶ぶりに指名されたことに気づくと、ラティーファは半分自棄で前へと飛び出た。
気がつけば、身体は近くで奏でられていた全く別のパフォーマンスの音楽に合わせて踊り始めていた。肝心の無茶振りを始めた元凶は、間近で見るラティーファのダンスのエネルギーに暫し圧倒されている。だがすぐさま我に返ると、両手を高く上げて叫んだ。
「はい、手拍子!ハイッ!ハイッ!」
何事かと思い、徐々に人集りが増えていく。シャバーンは狙い通りと言いたげな表情を浮かべながら、マジックの準備を始めた。
そして、音楽が終わった。ラティーファがどうしていいかわからずたじろいでいると、不意にアシスタントのアシームがその肩を叩いて隣を見るようにジェスチャーした。彼女が振り向くと、そこには金色のハンカチを持って微笑むシャバーンがいた。そしてそこからは――――
「はい、よく出来ました!素敵なダンスを披露してくれた貴女には、お礼にこれを差し上げます!」
勢いよく、あの日とよく似た白百合の花が飛び出てきた。ラティーファは目を丸くしてシャバーンを見つめた。いつの間にか出来上がった小さな人集りから、拍手が巻き起こる。同時に彼は、小声で踊り子に耳打ちした。
「マスク取って」
「えっ?」
「マスク取って。世界一になりたいんでしょ」
冷静に聞くと全く意味を成さない説得だったが、今のラティーファは恩人のショーを成功させたい一心だった。彼女はマスクを取り去ると、恭しくお辞儀をした。
「皆様!スペシャルゲストの、踊り子ラティーファに盛大な拍手を!あと、顔の広い私にも拍手を!」
万雷とまではいかないが、シャバーンの耳には今までで一番心地よい拍手と歓声が届いている。彼はうっすら涙を浮かべながら、ラティーファに花を差し出した。珍しく花は萎れていない。彼女ははにかんだ笑みを浮かべながら花を受け取ると、マジシャンに耳打ちした。
「ありがとう、シャバーン様」
「どういたしまして……って、近いな」
嬉しさを隠そうとするシャバーンは、わざとらしくしかめっ面をした。もちろんラティーファには、照れ隠しであることなどお見通しである。
なかなか鳴り止まない拍手の中、二人はいつまでも手を振り続けた。記念すべき二人の初共演に、心の底から幸せを感じながら。
ショーが終わったあと、シャバーンはご満悦と言わんばかりにご機嫌な声を上げた。手には観客から投げ込まれたチップが握られている。明らかに売上を独り占めしようとしている主人を諌めるように、アシームが思わず苦言を呈す。
「シャバーン様。流石にラティーファさんと売上は分けてくださいよ」
「細かい奴だなぁ……わかってるよそんなこと。私だって一応常識人だ」
そう言いながら渋々金を数えているシャバーンを見て、ラティーファは静かに首を横に振ってこう言った。
「全部、取っておいてください」
「……へっ?でっ、でも、流石に……」
いつもなら二つ返事でポケットに仕舞うシャバーンだったが、流石に今回ばかりは気まずさを覚えてたじろいだ。するとそんな様子を見たラティーファは、少し何かを考えてから笑った。
「では、お礼と言うなら……」
「わぁ……どれもきれい!」
30分後。ラティーファの希望で、シャバーンとアシームは市場の装飾店を訪れていた。瞳を輝かせるラティーファをよそに、シャバーンは首をかしげている。
「こんな安物で満足するんなら、別に良いけどね……でもさ、もっとなんかあるでしょ。……意外におねだり下手なのかな?」
「値段以外の価値だって、この世にはあるからね!」
そう言いながらラティーファが手に取ったのは、赤い月を象ったシンプルなイヤリングだった。シャバーンはお手頃すぎる価格に複雑な気持ちになりながらも、渋々会計を済ませた。
さっそくプレゼントされたイヤリングを付けると、ラティーファは無邪気にその場で一回転してみせた。イヤリングと黒い髪束が華麗に揺れ動く。
「安物も、お前にかかればラグジュアリーですこと」
「ありがとう、シャバーン様!」
あまりに嬉しそうにするラティーファを見て、シャバーンは最初の方こそ不可解さを覚えていた。だが、少しずつ自分のプレゼントを喜んでもらえているような気がして、彼は胸の中が暖かくなるのを感じた。
この気持ちの意味が分からないほど、シャバーンも若くはなかった。彼は天真爛漫なラティーファを見つめながら、顎髭を撫でつけてふわりと微笑んだ。
気の毒なのはアシームだ。生まれて初めて目にする主人の表情に彼はすっかり震え上がると、暑すぎるはずの市場で寒気を覚えた。
「なっ、なんだか嬉しそうですね……」
「ん?ああ……まあ……な」
いっそ、いつものように罵倒してほしい。アシームは青ざめた顔で、妙な主人を凝視しながらそう思うのだった。
市場から帰ってきたラティーファは、刺繍をしながら鏡を見た。鏡の中では、今日の出来事が夢でないと証明するように赤い月のイヤリングが揺れていた。
「シャバーン様……」
熱心なファンや両親からプレゼントをもらうことは多々あった。だからこそ今回のプレゼントが自身の中で特別な意味を持っていることに気づくのは、彼女にとっては容易いことだった。
もしかして、ナルジスの言うように……
「私は……あの人のことを……?」
その問いに答えを返す者は、誰も居ない。ラティーファは刺繍の手を止めて、いつまでも物思いに耽るのだった。
二人の共演から数日後。シャバーンはいつものように市場での場所取りに向かっていた。だが、この日はいつもと違って一際群衆が増えているような気がした。何より周囲の警備兵の人数が異常な数だった。
注意深く辺りを見回していると、唐突にファンファーレが響く。振り返ると、そこにはアグラバー王国の国務大臣と家族が視察に訪れているのが見えた。
そしてそこに、彼は有りえない人物を見つけてしまった。
「あれっ!?シャバーン様、あれって……」
「ラティーファ……?」
呆気に取られるアシームとシャバーンの目の前を、赤い三日月のイヤリングをした令嬢が通り過ぎていく。刹那、二人の目が合う。
ハイサム大臣が他のことに気を取られていることを確認したラティーファは、無言で立ち止まると横目でシャバーンを見てこう言った。
「……約束通り、あの場所はあなたに譲るわ」
そのたった一言だけを残すと、ラティーファは父の後ろをついていってしまった。残されたシャバーンは、辛うじて耳が拾った『ラティーファお嬢様』という言葉を聞きながら唖然とすることしか出来なかった。
それがラティーファからの『さようなら』の挨拶代わりであることを、痛いほど胸の奥底で感じながら。