2、夢の始まり
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
その日もアグラバーの王都は限りなく晴天だった。照りつける日差しをものともせず、ラティーファはいつものように踊り子の衣装に身を包み、裏口から逃げるように飛び出した。目指すのはもちろん、いつもの広場だ。何人もの観客がラティーファの踊りを持っているというだけで、心は天高く舞い上がるほど幸せだった。
あーっ、私やっぱり踊るのが大好き!
そんなことを思いながら、ラティーファは足取り軽やかに広場へ辿り着いた。そこにはすでに彼女のパフォーマンスを待つ何十人もの人だかりができていた。
「あっ、ラティーファだ!」
「ラティーファ!!ラティーファ!!」
踊り子は恭しくお辞儀をすると、いつもの楽団員に指示を出した。そして始めのポーズを構えると、音に合わせて優雅でいて力強いダンスを踊り始めた。
そんなラティーファの周りにできた人集りを、一際気怠そうに眺める男がいた。右手にはしおれた百合の花を持ち、もう片方の手は頬杖をついている。もちろん、三流マジシャンのシャバーンだ。彼はラティーファの人気を横目で見流しつつ、改めて自分の周囲を見渡した。残念ながら、観客は一人もいない。小道具を丁寧に磨きながら、アシームは苦笑いを浮かべている。
「ま、まぁ…………こういう日もありますって」
気を遣って主人をなだめようとするアシームとは対照的に、コブラのベキートは違った。彼は暇そうに自分の尻尾を見つめながら、ため息混じりにうなずいてこう言った。
「そうそう。まっ、あーれだけやらかしたんだから、ショーが無いね。…………ショーだけに!!ギャハハハ!」
爽快な笑いをあげるベキートだったが、突然尻尾に激痛を覚えて飛び上がった。お察しの通り、尻尾にはシャバーンの足が乗っている。
「いでぇっ!!なっ、なぁにしやがるんだ!」
いつもなら、ここから売り言葉に買い言葉の大喧嘩が始まる。そしてショーのときより人だかりができてしまい、ますますシャバーンが怒鳴り散らすのが定石だった。怖がりなアシームは、またかと思いながら震える手で耳を防ごうとした。だが、今日はどこか違った。
あのシャバーンが何も言い返すことなく、無言で立ち上がるとそのままどこかへふらりと立ち去ってしまったのだ。これには流石の二人も驚いた。明らかに普段と違う様子の主人に唖然とする召使いたちを置いて、シャバーンは独りアグラバーの市場を歩いていた。
「酒でも飲みたいが、その金すらない。あぁ、なんという貧乏…………」
シャバーンは明らかに軽い財布を揺すりながら、深い溜め息をついた。成果を上げなくとも貧しいが、公演を打たないともっと貧しくなる。不意に、彼は市場に置いてある鏡を見た。そこにはツギハギだらけのみすぼらしい自分がはっきりと映っている。あまりにも貧相な有り様を直視できず、彼は思わず目を逸らそうとした。
だが、またしても不思議なことが起きた。鏡に、映るはずのない人が映り込んだのだ。驚きのあまり、シャバーンは思わず後ずさった。直後、強い衝撃が身体に走る。
「きゃっ!」
「わっ!!」
振り返ったシャバーンは、自分が見たものは幻ではないことを悟った。そう、目の前には盛大にこけているラティーファが居たのだ。普通は怪我の心配をするところだが、シャバーンは踊り子の登場に驚きをぶつけた。実に自己中心的な彼らしい言動である。
「なっ、何してるんだこんなところで!!」
「今日のショーはおしまいよ。そっちこそ、市場で何してるの?お供のメガネ少年は?」
全てを見透かすようなラティーファの視線は、今日のシャバーンにとってはあまりに痛かった。彼はため息混じりに質問をはぐらかすと、無言で髭を撫でつけた。暫しの沈黙の後、彼はようやくラティーファが尻もちをついたままであることに気づいた。しかし、慌てて手を差し伸べた手は虚しく宙を切った。ポカンとするシャバーンは、一瞬何が起きたのか理解できずに激しく瞬きを繰り返した。目の前には、自分で土埃を払って立ち上がるラティーファがいる。
「あ…………」
「別に良いのよ。私はか弱い乙女じゃないし、支えられなくても一人で立ち上がれるから」
そう言いながら強気に笑ってみせるラティーファに、またしてもシャバーンはげんなりした眼差しを向けた。何より、仮にも女性を転倒させて放ったらかしなどというのは非常に気まずい。
やっぱり、ぜーんぜん可愛くない。
そんな気まずさを不快という一言で片付けようとして、シャバーンは立ち去ろうとした。だが、ラティーファの真横に立った瞬間、彼はハッとした。
褐色のほっそりした美しい腕と手が、見るも無残に擦りむけているのだ。この状況で、どう考えても犯人は一人しかいない。
シャバーンのぎこちない視線を感じ取ったラティーファは自分の右腕を見た。そして盛大に怪我をしていることをようやく理解すると同時に、彼女は慌てて腕を後ろに隠して笑った。
「あははっ、これでしばらく休めるわ…………こっ、これくらい、どうってことも無いから安心して!トラに噛まれたわけじゃないんだし!」
そんなふうに呆気らかんと言われるほどに、シャバーンは一周回ってなんとも言えない居心地の悪さに苛まれた。いわゆる、一抹の罪悪感というやつだ。
シャバーンはラティーファの右手を引っ張ると、無言で酒屋へと向かった。それからなけなしの金で酒を買うと、路地裏へとラティーファを連れて行った。
「あの…………シャバーン様」
何か言いたげなラティーファを遮るように、或いは良心が心変わりしないように、シャバーンは酒の蓋を開けた。そして躊躇も前置きもなく、ラティーファの患部に酒を注いだ。流石の気丈夫な彼女も、思わず痛みに飛び上がった。
「いっ、痛ったぁい!!」
「あーすまんすまん、言い忘れてた。染みるぞ」
「先に言って欲しいんだけど…………」
ラティーファの文句も聞かず、次にシャバーンは自分のハンカチを取り出して傷口に巻き始めた。気のせいと思いたいが、心做しか巻き方に不器用さが滲み出ている。だが、シャバーンの横顔は真剣そのものだった。ラティーファはそんな彼に春の木漏れ日のような眼差しを向けると、花が綻ぶような笑顔を浮かべた。
「さっ、これで良いだろう。後でいちゃもん付けるんじゃあないぞ――――っ!!?」
顔を上げたシャバーンと、微笑みを向けるラティーファの目が合う。同時にマジシャンの心臓が、ショー本番で失敗したときよりも大きくドクリと跳ねた。彼は思わず目を逸らしたくなった。だが身体と頭が言うことを聞いてくれない。やっと絞り出した震える声で、シャバーンは踊り子に告げた。
「わ、私の顔に何か付いてるのかな?」
「いいえ、違います」
良かった、と胸を撫で下ろすのもつかの間。次の瞬間、ラティーファはシャバーンに衝撃の言葉を投げた。
「――――昔と一つも変わっていなくて、安心したんです」
「へっ…………?むっ、昔?」
呑気に頭を掻いて考えるシャバーンを見て、ラティーファが少しだけ哀しそうな表情に変わる。
「……やっぱり、覚えていないわよね。10年前にアグラバーで公演していたとき、私は観ていたのよ」
10年前、か。
シャバーンは脳裏で、遠い昔のように思える15年前を振り返った。あの頃の彼はまだ、世界一のマジシャンになる夢が叶うことを一途に信じていた。当時はアシームもベキートもおらず、本当に1人で奔走していた。もちろんあの二人にもシャバーンなりに色々思うところはある。だが最後にはいつも、居ないよりずっとマシだと考えるのだ。それほどに10年前の彼のマジックショーは惨憺たるものだった。
遡ること10年、アグラバー王都。シャバーンは助手もつけず1人でショーを切り盛りしていた。……いや、正確には独りでマジックに振り回されていた。
「さて!このマジックですが、タネも仕掛けも無いこのカゴを使い……あれ、カゴも有りませんね」
当然ながら、王都の大道芸人たちで目が肥えた民は口々に野次を飛ばした。その度にシャバーンは酷く傷ついたが、これも世界一になるための苦労だと思って耐え忍んでいた。だが1週間そんな【やらかし】を繰り返し上演しているうちに、とうとう人はだれも寄り付かなくなってしまった。
そうこうしているうちに、流石にやる気を失ったシャバーンは、丁度10年後の今日のように頬杖をついて道に座り込んでいた。その時、突然目の前から子どもの泣き声が聞こえてきた。普段なら耳に飛び込んできた耳障りな声に、シャバーンは間髪入れず怒鳴り散らしただろう。だがその日は偶然にもそんな気力すら湧いてこないくらいに疲弊していた。
彼は恐る恐る顔を上げた。目の前には迷子と思しき5歳くらいの少女が立ちすくんでいる。涙で表情は歪んでいるが、その顔立ちは崩れていても所謂美少女であると一目でわかるほどだった。シャバーンは半分早く追い払いたいという気持ちと、もう半分は本気で心配する気持ちで少女に声をかけた。
「……こんなところで大泣きして、どうしたんだ?」
少女は顔を上げると、声をかけられたことに驚いて目を丸くした。それから、雑踏に掻き消されそうなくらいにか細い声で答えた。
「……お父様に酷いことを言われて、家を出てきたの」
「へぇ、そりゃ可哀想に。なんて言われたんだ?」
ほんの少しだけ、誰かの不幸話を聞いて自分が救われたいという意地悪心がシャバーンを揺さぶる。だが、このとき少女はマジシャンが自分を気遣ってくれたのだと勘違いしていた。彼女は涙に震える声でこう言った。
「お父様が……踊るのはダメだって言うの。そんな夢は捨てなさいって言うの」
その言葉を聞いて、シャバーンの目が僅かに見開かれる。実は、彼も両親から強い反対を受けながらも、半ば家出するようにマジシャンの道を志した過去を持っていたのだ。
シャバーンの家は比較的裕福な商人の家だった。長男かつ弁の立つ彼は、やがては父親の家業を継ぐと期待されていた。だが、ある日偶然見たマジックのショーに、若かりし頃の心は一瞬にして奪われてしまった。そこから人生の岐路に立ち、世界一のマジシャンになる夢を志すのはそう遅くはなかった。今でも折れそうな心を奮い立たせて頑張るのは、あのとき自分の夢を蔑んで非難した両親への当てつけでもあるのだろう。
気がつけば、シャバーンは花を出すマジックの準備を始めていた。すっかり泣き止んだ少女は、好奇心に満ち溢れた瞳で準備を眺めている。
そうだ、私はこの顔が見たかったんだ。
「さぁて!只今より始まりますのは、世界一のマジシャンになる――――ええと、予定の……大マジシャン・シャバーンのワンマンショーでございます!」
シャバーンはすっかり元気を取り戻すと(正確には空元気の類なのだろうが)、たった1人の少女を観客に迎えてワンマンショーを始めた。とはいえ、もとから出演者は1人しか居ない。だが、今の彼はそんなことはどうでも良いと思えるくらいに、若い頃の自分を慰めるような気持ちに駆られていた。少女に精一杯のパフォーマンスを見せることで、手折られそうな夢に一雫の希望を与えたいと本気で感じていたのだ。
彼は黄色いハンカチを取り出すと、少女の前にヒラリと見せた。いつの間にか、少女は可愛らしい笑顔に変わっている。
「さて、そんなラッキーな可愛いお嬢さんに、私からささやかな贈り物をいたしましょう」
そう言って、シャバーンが突然ハンカチをひっくり返す。その刹那、ハンカチは美しい百合の花に変わった。少女は驚きで目を丸くして瞳を輝かせている。
「うふふ、じゃあこれを君に……って、あらら……」
もちろん、ここで終わってはシャバーンクオリティーのマジックではない。花はみるみる萎れていき、終いには礼儀正しくお辞儀をしているような状態になってしまった。
しまった、これはガッカリされるぞ……
そう思いながら、シャバーンは頭を抱えた。やはり、自分には人を惹きつけるショーなんて出来ないんだ。もういっそ実家に帰ってやり直そうか。
そんなことを反芻していた彼の耳に、突然大きな拍手の音が飛び込んできた。その音は、たしかに目の前の少女の小さな手から溢れるものだった。
「すごーい!ありがとう、シャバーン様!」
「えっ……?失敗したのに……?なんで……?」
「そんなことないよ!だって私、元気になったもの。マジックは誰かをワクワクさせて、笑顔にするものなんだから。大成功だよ」
シャバーンは少女の顔をまじまじと見た。それから不意に、世界が歪んでいくのを感じた。
彼は目に砂が入った、などと言いながら少女に小指を差し出した。それから、若い頃の自分に言ってやりたかった言葉を告げた。
「――――いいかい、お嬢さん。夢を諦めるかどうかは、周りが決めることじゃない。だから、もし君が本気で踊りたいとそう願うなら……両親が認めざるを得ないくらいに立派なダンサーを目指すんだ」
少女が、シャバーンの言葉に頷いて自分の小指を絡める。彼はそれを見届けると、不器用に小さなダンサーの頭を撫でた。
「大きくなって、ビッグなダンサーになったら会いにおいで。その頃には私もきっと……いや、必ず世界一のマジシャンになっているはずだから、簡単に探し出せるさ!」
少女はその約束を笑い飛ばすことなく、真剣な眼差しで頷いて受け入れた。
そして、10年後のアグラバー王都の路地裏。シャバーンは我に返って目の前の踊り子をまじまじと見た。彼女はあの日の少女と同じ笑顔で、こう尋ねた。
「――――どうかな、シャバーン様。ちょっとは私もビッグになったかな?」
信じられないと言いたげに、彼の瞳が見開かれる。もちろん答えは一つしか無い。
「ああ……もちろん。小さなダンサーちゃん」
それから二人は、あれからの出来事をたくさん語り合った。シャバーンは召使い兼アシスタントを得たこと、ラティーファは賢く両親の目を欺いて踊りを続けていたこと。いつの間にか、シャバーンの中に芽生えていた最悪の第一印象は消え去っていた。
「最初は本当に嫌味な奴で、わざと様付けをしていると思っていたんだが……」
「確かに、そう見えても仕方がないですね。でも、本当に心の底から敬っていたのに……」
膨れっ面のラティーファを見て、シャバーンが慌てて両手を振る。
「わわわっ、そんな顔をしないでくれよ!勘弁してくれ」
「どうして?別に気にしてないよ。どうせ覚えていないと思っていたから」
「それはそれで、傷つくなぁ……」
シャバーンは苦笑いを浮かべながらも、チラリと隣を歩くラティーファを見た。改めて見ると、少女のときよりずっと健やかに、そして何より美しく成長している。そんなことを無意識に考えているうちに、彼の口はあらぬことを呟いた。
「お前……じゃなくて、ラティーファ。またこうして話をしてくれるか?」
ラティーファの瞳が驚きの色に染まる。もちろんシャバーンの顔も驚きの色に染まる。だが次の瞬間、彼女の頬が僅かに紅く染まった。続いて小さく恥じらいを秘めながら頷いた。
「ええ、もちろんです。シャバーン様」
その大人びた表情が、シャバーンの心を強く揺さぶる。そこには、かつての少女の面影は一握りしか残っていない。
そんな二人の背中に夕日が落ちていく。
まるで恋に落ちる予感を表すかのように。
あーっ、私やっぱり踊るのが大好き!
そんなことを思いながら、ラティーファは足取り軽やかに広場へ辿り着いた。そこにはすでに彼女のパフォーマンスを待つ何十人もの人だかりができていた。
「あっ、ラティーファだ!」
「ラティーファ!!ラティーファ!!」
踊り子は恭しくお辞儀をすると、いつもの楽団員に指示を出した。そして始めのポーズを構えると、音に合わせて優雅でいて力強いダンスを踊り始めた。
そんなラティーファの周りにできた人集りを、一際気怠そうに眺める男がいた。右手にはしおれた百合の花を持ち、もう片方の手は頬杖をついている。もちろん、三流マジシャンのシャバーンだ。彼はラティーファの人気を横目で見流しつつ、改めて自分の周囲を見渡した。残念ながら、観客は一人もいない。小道具を丁寧に磨きながら、アシームは苦笑いを浮かべている。
「ま、まぁ…………こういう日もありますって」
気を遣って主人をなだめようとするアシームとは対照的に、コブラのベキートは違った。彼は暇そうに自分の尻尾を見つめながら、ため息混じりにうなずいてこう言った。
「そうそう。まっ、あーれだけやらかしたんだから、ショーが無いね。…………ショーだけに!!ギャハハハ!」
爽快な笑いをあげるベキートだったが、突然尻尾に激痛を覚えて飛び上がった。お察しの通り、尻尾にはシャバーンの足が乗っている。
「いでぇっ!!なっ、なぁにしやがるんだ!」
いつもなら、ここから売り言葉に買い言葉の大喧嘩が始まる。そしてショーのときより人だかりができてしまい、ますますシャバーンが怒鳴り散らすのが定石だった。怖がりなアシームは、またかと思いながら震える手で耳を防ごうとした。だが、今日はどこか違った。
あのシャバーンが何も言い返すことなく、無言で立ち上がるとそのままどこかへふらりと立ち去ってしまったのだ。これには流石の二人も驚いた。明らかに普段と違う様子の主人に唖然とする召使いたちを置いて、シャバーンは独りアグラバーの市場を歩いていた。
「酒でも飲みたいが、その金すらない。あぁ、なんという貧乏…………」
シャバーンは明らかに軽い財布を揺すりながら、深い溜め息をついた。成果を上げなくとも貧しいが、公演を打たないともっと貧しくなる。不意に、彼は市場に置いてある鏡を見た。そこにはツギハギだらけのみすぼらしい自分がはっきりと映っている。あまりにも貧相な有り様を直視できず、彼は思わず目を逸らそうとした。
だが、またしても不思議なことが起きた。鏡に、映るはずのない人が映り込んだのだ。驚きのあまり、シャバーンは思わず後ずさった。直後、強い衝撃が身体に走る。
「きゃっ!」
「わっ!!」
振り返ったシャバーンは、自分が見たものは幻ではないことを悟った。そう、目の前には盛大にこけているラティーファが居たのだ。普通は怪我の心配をするところだが、シャバーンは踊り子の登場に驚きをぶつけた。実に自己中心的な彼らしい言動である。
「なっ、何してるんだこんなところで!!」
「今日のショーはおしまいよ。そっちこそ、市場で何してるの?お供のメガネ少年は?」
全てを見透かすようなラティーファの視線は、今日のシャバーンにとってはあまりに痛かった。彼はため息混じりに質問をはぐらかすと、無言で髭を撫でつけた。暫しの沈黙の後、彼はようやくラティーファが尻もちをついたままであることに気づいた。しかし、慌てて手を差し伸べた手は虚しく宙を切った。ポカンとするシャバーンは、一瞬何が起きたのか理解できずに激しく瞬きを繰り返した。目の前には、自分で土埃を払って立ち上がるラティーファがいる。
「あ…………」
「別に良いのよ。私はか弱い乙女じゃないし、支えられなくても一人で立ち上がれるから」
そう言いながら強気に笑ってみせるラティーファに、またしてもシャバーンはげんなりした眼差しを向けた。何より、仮にも女性を転倒させて放ったらかしなどというのは非常に気まずい。
やっぱり、ぜーんぜん可愛くない。
そんな気まずさを不快という一言で片付けようとして、シャバーンは立ち去ろうとした。だが、ラティーファの真横に立った瞬間、彼はハッとした。
褐色のほっそりした美しい腕と手が、見るも無残に擦りむけているのだ。この状況で、どう考えても犯人は一人しかいない。
シャバーンのぎこちない視線を感じ取ったラティーファは自分の右腕を見た。そして盛大に怪我をしていることをようやく理解すると同時に、彼女は慌てて腕を後ろに隠して笑った。
「あははっ、これでしばらく休めるわ…………こっ、これくらい、どうってことも無いから安心して!トラに噛まれたわけじゃないんだし!」
そんなふうに呆気らかんと言われるほどに、シャバーンは一周回ってなんとも言えない居心地の悪さに苛まれた。いわゆる、一抹の罪悪感というやつだ。
シャバーンはラティーファの右手を引っ張ると、無言で酒屋へと向かった。それからなけなしの金で酒を買うと、路地裏へとラティーファを連れて行った。
「あの…………シャバーン様」
何か言いたげなラティーファを遮るように、或いは良心が心変わりしないように、シャバーンは酒の蓋を開けた。そして躊躇も前置きもなく、ラティーファの患部に酒を注いだ。流石の気丈夫な彼女も、思わず痛みに飛び上がった。
「いっ、痛ったぁい!!」
「あーすまんすまん、言い忘れてた。染みるぞ」
「先に言って欲しいんだけど…………」
ラティーファの文句も聞かず、次にシャバーンは自分のハンカチを取り出して傷口に巻き始めた。気のせいと思いたいが、心做しか巻き方に不器用さが滲み出ている。だが、シャバーンの横顔は真剣そのものだった。ラティーファはそんな彼に春の木漏れ日のような眼差しを向けると、花が綻ぶような笑顔を浮かべた。
「さっ、これで良いだろう。後でいちゃもん付けるんじゃあないぞ――――っ!!?」
顔を上げたシャバーンと、微笑みを向けるラティーファの目が合う。同時にマジシャンの心臓が、ショー本番で失敗したときよりも大きくドクリと跳ねた。彼は思わず目を逸らしたくなった。だが身体と頭が言うことを聞いてくれない。やっと絞り出した震える声で、シャバーンは踊り子に告げた。
「わ、私の顔に何か付いてるのかな?」
「いいえ、違います」
良かった、と胸を撫で下ろすのもつかの間。次の瞬間、ラティーファはシャバーンに衝撃の言葉を投げた。
「――――昔と一つも変わっていなくて、安心したんです」
「へっ…………?むっ、昔?」
呑気に頭を掻いて考えるシャバーンを見て、ラティーファが少しだけ哀しそうな表情に変わる。
「……やっぱり、覚えていないわよね。10年前にアグラバーで公演していたとき、私は観ていたのよ」
10年前、か。
シャバーンは脳裏で、遠い昔のように思える15年前を振り返った。あの頃の彼はまだ、世界一のマジシャンになる夢が叶うことを一途に信じていた。当時はアシームもベキートもおらず、本当に1人で奔走していた。もちろんあの二人にもシャバーンなりに色々思うところはある。だが最後にはいつも、居ないよりずっとマシだと考えるのだ。それほどに10年前の彼のマジックショーは惨憺たるものだった。
遡ること10年、アグラバー王都。シャバーンは助手もつけず1人でショーを切り盛りしていた。……いや、正確には独りでマジックに振り回されていた。
「さて!このマジックですが、タネも仕掛けも無いこのカゴを使い……あれ、カゴも有りませんね」
当然ながら、王都の大道芸人たちで目が肥えた民は口々に野次を飛ばした。その度にシャバーンは酷く傷ついたが、これも世界一になるための苦労だと思って耐え忍んでいた。だが1週間そんな【やらかし】を繰り返し上演しているうちに、とうとう人はだれも寄り付かなくなってしまった。
そうこうしているうちに、流石にやる気を失ったシャバーンは、丁度10年後の今日のように頬杖をついて道に座り込んでいた。その時、突然目の前から子どもの泣き声が聞こえてきた。普段なら耳に飛び込んできた耳障りな声に、シャバーンは間髪入れず怒鳴り散らしただろう。だがその日は偶然にもそんな気力すら湧いてこないくらいに疲弊していた。
彼は恐る恐る顔を上げた。目の前には迷子と思しき5歳くらいの少女が立ちすくんでいる。涙で表情は歪んでいるが、その顔立ちは崩れていても所謂美少女であると一目でわかるほどだった。シャバーンは半分早く追い払いたいという気持ちと、もう半分は本気で心配する気持ちで少女に声をかけた。
「……こんなところで大泣きして、どうしたんだ?」
少女は顔を上げると、声をかけられたことに驚いて目を丸くした。それから、雑踏に掻き消されそうなくらいにか細い声で答えた。
「……お父様に酷いことを言われて、家を出てきたの」
「へぇ、そりゃ可哀想に。なんて言われたんだ?」
ほんの少しだけ、誰かの不幸話を聞いて自分が救われたいという意地悪心がシャバーンを揺さぶる。だが、このとき少女はマジシャンが自分を気遣ってくれたのだと勘違いしていた。彼女は涙に震える声でこう言った。
「お父様が……踊るのはダメだって言うの。そんな夢は捨てなさいって言うの」
その言葉を聞いて、シャバーンの目が僅かに見開かれる。実は、彼も両親から強い反対を受けながらも、半ば家出するようにマジシャンの道を志した過去を持っていたのだ。
シャバーンの家は比較的裕福な商人の家だった。長男かつ弁の立つ彼は、やがては父親の家業を継ぐと期待されていた。だが、ある日偶然見たマジックのショーに、若かりし頃の心は一瞬にして奪われてしまった。そこから人生の岐路に立ち、世界一のマジシャンになる夢を志すのはそう遅くはなかった。今でも折れそうな心を奮い立たせて頑張るのは、あのとき自分の夢を蔑んで非難した両親への当てつけでもあるのだろう。
気がつけば、シャバーンは花を出すマジックの準備を始めていた。すっかり泣き止んだ少女は、好奇心に満ち溢れた瞳で準備を眺めている。
そうだ、私はこの顔が見たかったんだ。
「さぁて!只今より始まりますのは、世界一のマジシャンになる――――ええと、予定の……大マジシャン・シャバーンのワンマンショーでございます!」
シャバーンはすっかり元気を取り戻すと(正確には空元気の類なのだろうが)、たった1人の少女を観客に迎えてワンマンショーを始めた。とはいえ、もとから出演者は1人しか居ない。だが、今の彼はそんなことはどうでも良いと思えるくらいに、若い頃の自分を慰めるような気持ちに駆られていた。少女に精一杯のパフォーマンスを見せることで、手折られそうな夢に一雫の希望を与えたいと本気で感じていたのだ。
彼は黄色いハンカチを取り出すと、少女の前にヒラリと見せた。いつの間にか、少女は可愛らしい笑顔に変わっている。
「さて、そんなラッキーな可愛いお嬢さんに、私からささやかな贈り物をいたしましょう」
そう言って、シャバーンが突然ハンカチをひっくり返す。その刹那、ハンカチは美しい百合の花に変わった。少女は驚きで目を丸くして瞳を輝かせている。
「うふふ、じゃあこれを君に……って、あらら……」
もちろん、ここで終わってはシャバーンクオリティーのマジックではない。花はみるみる萎れていき、終いには礼儀正しくお辞儀をしているような状態になってしまった。
しまった、これはガッカリされるぞ……
そう思いながら、シャバーンは頭を抱えた。やはり、自分には人を惹きつけるショーなんて出来ないんだ。もういっそ実家に帰ってやり直そうか。
そんなことを反芻していた彼の耳に、突然大きな拍手の音が飛び込んできた。その音は、たしかに目の前の少女の小さな手から溢れるものだった。
「すごーい!ありがとう、シャバーン様!」
「えっ……?失敗したのに……?なんで……?」
「そんなことないよ!だって私、元気になったもの。マジックは誰かをワクワクさせて、笑顔にするものなんだから。大成功だよ」
シャバーンは少女の顔をまじまじと見た。それから不意に、世界が歪んでいくのを感じた。
彼は目に砂が入った、などと言いながら少女に小指を差し出した。それから、若い頃の自分に言ってやりたかった言葉を告げた。
「――――いいかい、お嬢さん。夢を諦めるかどうかは、周りが決めることじゃない。だから、もし君が本気で踊りたいとそう願うなら……両親が認めざるを得ないくらいに立派なダンサーを目指すんだ」
少女が、シャバーンの言葉に頷いて自分の小指を絡める。彼はそれを見届けると、不器用に小さなダンサーの頭を撫でた。
「大きくなって、ビッグなダンサーになったら会いにおいで。その頃には私もきっと……いや、必ず世界一のマジシャンになっているはずだから、簡単に探し出せるさ!」
少女はその約束を笑い飛ばすことなく、真剣な眼差しで頷いて受け入れた。
そして、10年後のアグラバー王都の路地裏。シャバーンは我に返って目の前の踊り子をまじまじと見た。彼女はあの日の少女と同じ笑顔で、こう尋ねた。
「――――どうかな、シャバーン様。ちょっとは私もビッグになったかな?」
信じられないと言いたげに、彼の瞳が見開かれる。もちろん答えは一つしか無い。
「ああ……もちろん。小さなダンサーちゃん」
それから二人は、あれからの出来事をたくさん語り合った。シャバーンは召使い兼アシスタントを得たこと、ラティーファは賢く両親の目を欺いて踊りを続けていたこと。いつの間にか、シャバーンの中に芽生えていた最悪の第一印象は消え去っていた。
「最初は本当に嫌味な奴で、わざと様付けをしていると思っていたんだが……」
「確かに、そう見えても仕方がないですね。でも、本当に心の底から敬っていたのに……」
膨れっ面のラティーファを見て、シャバーンが慌てて両手を振る。
「わわわっ、そんな顔をしないでくれよ!勘弁してくれ」
「どうして?別に気にしてないよ。どうせ覚えていないと思っていたから」
「それはそれで、傷つくなぁ……」
シャバーンは苦笑いを浮かべながらも、チラリと隣を歩くラティーファを見た。改めて見ると、少女のときよりずっと健やかに、そして何より美しく成長している。そんなことを無意識に考えているうちに、彼の口はあらぬことを呟いた。
「お前……じゃなくて、ラティーファ。またこうして話をしてくれるか?」
ラティーファの瞳が驚きの色に染まる。もちろんシャバーンの顔も驚きの色に染まる。だが次の瞬間、彼女の頬が僅かに紅く染まった。続いて小さく恥じらいを秘めながら頷いた。
「ええ、もちろんです。シャバーン様」
その大人びた表情が、シャバーンの心を強く揺さぶる。そこには、かつての少女の面影は一握りしか残っていない。
そんな二人の背中に夕日が落ちていく。
まるで恋に落ちる予感を表すかのように。