1、いけ好かない踊り子
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処はアグラバー王国、時はサルタン王の統治の頃。そこに国の各所を旅しながらマジックショーを開いている男がいた。その名をシャバーンと言った。この男、見た目の怪しさも相まって盛大なマジックを繰り広げそうに見えるのだが、その実腕前は素人以下だった。そんな彼の何年たっても上達の気配がないショーを支えるのは、内気なアシームという少年と喋るコブラのベキートだ。アシスタントとは名ばかりのアシームは日々シャバーンに召使い同然にこき使われながらも、アグラバーでの生活を楽しんでいた。
しかし、他方のシャバーンはそうでも無かった。彼は世界一のマジシャンになるという夢を抱いているのだが、未だにショーは鳴かず飛ばずの始末だった。そして最後の望みをかけてやってきた王都でも、場所取りで毎回負けてしまう始末だ。
そんなひときわ暑いある日、シャバーンの怒りがついに最高潮に達した。彼は綺麗に整えられた髭を震わせながら、太い眉を吊り上げてこう言った。
「…………アシーム、今日もまた場所取りで負けたのか?」
「は…………はい…………すみませ――――」
「アシーム君。すみませんで済めば、私もこんなに怒らんよ。君さぁ、本気でアシスタントする気あるわけ?無いよね?」
いつも以上に凄みのあるシャバーンに対し、気弱なアシームはすっかり萎縮してしまった。俯く哀れな召使いを横目に、喋るコブラのベキートはソロソロとその場を離れようとした。だが、妙に勘だけは良いシャバーンは逃げ出そうとする巧妙な蛇の尻尾を踏みつけた。
「いっ、いでぇっ!!なぁにしやがるんだぁ!俺が何したって言うんだよぉ!場所取りはメガネ小僧の仕事でしょうに!」
「お前はコブラだろう!だったらその毒でも使って何とかしてこい!」
藪蛇とはまさにこのことだ。とばっちりを受けているベキートに、慌ててアシームがフォローを入れる。
「シャバーン様、それはぁ…………ちょっとあまりにもぉ…………」
「そうだそうだ!そういうのをなぁ、殺人教唆って言うんだぜ!」
途端に勢いづいたベキートと、半泣きのアシームに囲まれてしまい、シャバーンは狼狽した。だが、もちろん彼はここで悔い改める男ではない。
「あーもうっ!俺…………じゃなかった。私が成功しないのはお前らの責任だぞ!」
そう言うやいなや、シャバーンは小道具のハンカチを叩きつけて大股で歩き出した。どこへ向かう気なのか皆目検討もつかない二人は、慌ててその後ろをついていく。
「シャっ、シャバーン様!?どちられ行かれるのですか?」
「見てやるんだ。私のショーを毎回毎回邪魔してくるヤツが、どんなツラをしているのかをな!ついでに、もしもショボいショーだったら、私との格の差を教えてやる!」
シャバーンの顔からは湯気が出ている、と表現したくなるほどに怒り心頭の表情だ。心なしか怒りのあまり声が裏返っている。こうなるともう手がつけられないのは、長年共に興行を営んできたアシームとベキートにとって周知の事実だった。二人は一瞬顔を見合わせると、ドカドカと音を立てながら先へ進んでいく主人を慌てて追いかけていくのだった。
広場に辿り着いたシャバーンは、群衆を掻き分けて進んだ。近づくほどに、軽快でエキゾチックなリズムが彼の耳を撫でる。
それにしても、これは一体なんの集まりなのか。心なしか男性の数が多いように感じるが、もはやそんなことはどうでもいい。何よりシャバーンが驚いたのは、その集客数だ。自分の公演など三分の一にも及んでいない圧倒的な観客の数に、まず打ちひしがれた。ますます不機嫌な顔になりながらも、彼は青筋の浮いた手で群集を押しのけていく。そして現れたのは――――
なんと、細身で華奢な踊り子だった。年はアシームより少し上の、だいたい20代前半だろうか。傷一つ無い身体は靭やか且つパワフルで、素人目であっても見るもの全てを魅了する才を感じた。
シャバーンは怒鳴り込むのもすっかり忘れて、呆然とその場に立ち尽くした。続いて、それだけの観客を惹きつけているのが年端もいかない小娘であることが、売れないマジシャンのプライドをずたずたに引き裂いた。絶望の表情を浮かべるシャバーンに反して、踊る娘の表情は活き活きしている。彼女は心の底から、踊ることを楽しんでいるようだ。ようやく追いついアシームたちも、技量だけでなく心地よい喜びを分かち合う娘のパワーに惹きつけられている。
シャバーンは惨めな自分をまざまざと実感したような気がして、肩を落としてその場を離れようとした。だが、彼が視線を外そうとした刹那、不思議なことが起きた。
「なっ…………」
なんと踊っている最中の娘とはっきり目があったのだ。気の所為でも間違いでもなく、その人は確かにシャバーンを見ていた。そして目があった瞬間から、彼は娘から目が離せなくなってしまった。魔性の魅力とはまた違う、純真であどけない綿毛のような美しさに見惚れてしまい、結局彼は最後まで踊りを眺め続けることしか出来なかった。
公演が終わり、娘は一頻り挨拶を終えるとシャバーンに目を向けた。間違いなく厄介事であると気づいているのか、彼女はやや表情を硬くしながらも気さくに微笑みを作っている。
そんな顔で見られたら、何を言わなきゃならんか忘れてしまうだろうに。
シャバーンはそう思いながらも慌てて気を引き締め直し、踊り子に対して眉を吊り上げた。だが、声は誰が聞いても面白いほどに裏返っている。
「おっ、お前!」
「あら、誰かと思えば。マジシャンのシャバーン様ではないですか!今日はありがとうございました」
文句を言おうとした相手が、突然自分の名前を口にしたことは何よりの驚きだ。一瞬、シャバーンは自分が有名になったのだと思って口元をほころばせた。だが娘の次の言葉で、その淡い期待は砕け散った。
「いえ、一度だけショーを見たことがあるの。私、人の顔と名前を覚えるのは得意なのよ」
「一度……………ねぇ」
あからさまにがっくりと肩を落とすシャバーンを見て、娘は困り果てた面持ちに変わった。どうやら決して発言に悪意は無いようだ。彼女は装飾具をシャラリと鳴らしながら、三流マジシャンの顔を覗き込んでこう言った。
「元気出してよ、シャバーン様。ねっ!あなたのトークスキルは、嫌いじゃないわよ」
一周回って嫌味に聞こえかねない発言に、シャバーンがますます項垂れる。
「あのねぁ。もちろん分かってますよ。名前を覚えていただけていたことも、敬意を持って接されることも、普通は喜ぶことなんだろうけどねぇ」
「まぁ、嬉しい!」
「でも、あんたみたいな年下の小娘に様付けされると、なんだかすーーっごく馬鹿にされてる気分になるんだが!」
思いがけない怒号に、娘が一瞬たじろぐ。それは踊っているときの堂々とした姿とは打って変わって、小鳥のような反応だった。同業者には頓に意地悪なシャバーンは、それを見て更に畳み掛けた。
「それより、私は文句を言いに来たんだ!」
「…………私の踊りを観に来たのではなくて?」
が、またしても娘のペースに取り込まれた。シャバーンはその場で転けそうになるのを堪えながら、大きく深呼吸した。
「いいかっ!私はシャバーン!世界一のマジシャンになる男だ。後悔するのはお前の方だぞ、小娘」
その言葉を聞いた踊り子は、暫し目を丸くしていた。やがて少々長い沈黙のあと、彼女は肩を竦めて答えた。
「なるほど、ね。でも御生憎様、私も世界一のダンサーになる女なの。だから場所は譲れない」
「なっ…………」
なんて図々しい女だ。
少しでも見惚れたことを後悔しながら、シャバーンは青筋を立てた。だが、彼女の話はそれで終わりではなかった。娘は当惑するマジシャンを観察しながら微笑んでいる。そして小道具の入った箱を拾い上げて歩きだすと、振り向きざまにこう言った。
「あぁ、でも…………もし、ここ以外の場所で私を見つけられたら、その時は貴方に場所を譲ってあげる」
「はぁ!?なんじゃそりゃ」
素っ頓狂な声を上げるシャバーンを見てケラケラ笑いながら、娘は満面の笑みを投げた。
「私は、ラティーファ。また今度会いましょうね、マジシャン・シャバーン」
そう言い残して、踊り子――――ラティーファは雑踏の中へと姿を消していった。残されたシャバーンは、唖然と口を開けながら立ち尽くすことしか出来なかった。
そんな主人の怒りが収まった頃合いを見計らい、アシームは恐る恐る声をかけた。召使いの肩に乗っているベキートも、思わず生唾を呑んでいる。
「あのぅ…………シャバーン様…………」
だが、残念ながら主人の怒りは収まっていなかったらしい。怒りのあまり真っ青な顔をしているシャバーンは、アシームを怒鳴りつけてこう命じた。
「…………いいかアシーム。絶対にあの女を見つけろ!分かったな!!」
「はっ、はいぃっ!」
反射的に返事をするアシームを見て、ベキートがため息をつく。同時に自分でなくて良かったと内心胸を撫で下ろしている。だが、災難は高みの見物を決め込んだコブラにも降り掛かってきた。シャバーンはベキートの首根っこを掴みながら、見たこともないくらいに恐ろしい顔でこう言った。
「ベキート、お前もやるんだ」
「はっ…………はい…………」
こうして可哀想な二人のアシスタントは、主人の場所取りと沽券のために奔走する羽目になったのだった。
さて、その頃ラティーファは市場を抜けて帰路へと着いていた。彼女がやって来たのは、アグラバーの街で宮殿の次に大きな屋敷の裏口だった。抜き足差し足で軽やかに使用人部屋を通り抜けると、ラティーファは倉庫に入り込んだ。続いて、そこに隠しておいた服へと着替え、髪型を整え直した彼女は代わりにそこへ小道具と衣装を戻した。
それから、何事も無かったかのように廊下へと出た。廊下に立っていた数十人もの使用人たちは、ラティーファの姿を見るやいなや恭しく頭を下げた。
「ご機嫌麗しゅう、ラティーファお嬢様」
「手を止めず構いません、お仕事を続けてください」
ラティーファは穏やかな笑みで、使用人たちに仕事を続けるように促した。すると丁度そのとき、彼女の名を呼ぶ声がした。
「ラティーファ」
振り返ると、そこには簡素だが気品漂う礼装に身を包んでいる男の姿があった。ラティーファはその人に頭を下げ、挨拶をした。
「お父様、おかえりなさいませ」
父と呼ばれたその人は、自分で肩を撫でながら苦笑いを浮かべている。
「ああ、全く疲れた。国務大臣というのも、気苦労が絶えない仕事だ」
「お疲れ様でした。ですがお父様は、私の誇りですよ」
改めてこの踊り子のことを紹介しよう。
彼女は、ラティーファ。アグラバー王国国務大臣の一人娘にして、王国の姫の話し相手である。
その事実をシャバーンが知るのは、もう少しさきの話である。
しかし、他方のシャバーンはそうでも無かった。彼は世界一のマジシャンになるという夢を抱いているのだが、未だにショーは鳴かず飛ばずの始末だった。そして最後の望みをかけてやってきた王都でも、場所取りで毎回負けてしまう始末だ。
そんなひときわ暑いある日、シャバーンの怒りがついに最高潮に達した。彼は綺麗に整えられた髭を震わせながら、太い眉を吊り上げてこう言った。
「…………アシーム、今日もまた場所取りで負けたのか?」
「は…………はい…………すみませ――――」
「アシーム君。すみませんで済めば、私もこんなに怒らんよ。君さぁ、本気でアシスタントする気あるわけ?無いよね?」
いつも以上に凄みのあるシャバーンに対し、気弱なアシームはすっかり萎縮してしまった。俯く哀れな召使いを横目に、喋るコブラのベキートはソロソロとその場を離れようとした。だが、妙に勘だけは良いシャバーンは逃げ出そうとする巧妙な蛇の尻尾を踏みつけた。
「いっ、いでぇっ!!なぁにしやがるんだぁ!俺が何したって言うんだよぉ!場所取りはメガネ小僧の仕事でしょうに!」
「お前はコブラだろう!だったらその毒でも使って何とかしてこい!」
藪蛇とはまさにこのことだ。とばっちりを受けているベキートに、慌ててアシームがフォローを入れる。
「シャバーン様、それはぁ…………ちょっとあまりにもぉ…………」
「そうだそうだ!そういうのをなぁ、殺人教唆って言うんだぜ!」
途端に勢いづいたベキートと、半泣きのアシームに囲まれてしまい、シャバーンは狼狽した。だが、もちろん彼はここで悔い改める男ではない。
「あーもうっ!俺…………じゃなかった。私が成功しないのはお前らの責任だぞ!」
そう言うやいなや、シャバーンは小道具のハンカチを叩きつけて大股で歩き出した。どこへ向かう気なのか皆目検討もつかない二人は、慌ててその後ろをついていく。
「シャっ、シャバーン様!?どちられ行かれるのですか?」
「見てやるんだ。私のショーを毎回毎回邪魔してくるヤツが、どんなツラをしているのかをな!ついでに、もしもショボいショーだったら、私との格の差を教えてやる!」
シャバーンの顔からは湯気が出ている、と表現したくなるほどに怒り心頭の表情だ。心なしか怒りのあまり声が裏返っている。こうなるともう手がつけられないのは、長年共に興行を営んできたアシームとベキートにとって周知の事実だった。二人は一瞬顔を見合わせると、ドカドカと音を立てながら先へ進んでいく主人を慌てて追いかけていくのだった。
広場に辿り着いたシャバーンは、群衆を掻き分けて進んだ。近づくほどに、軽快でエキゾチックなリズムが彼の耳を撫でる。
それにしても、これは一体なんの集まりなのか。心なしか男性の数が多いように感じるが、もはやそんなことはどうでもいい。何よりシャバーンが驚いたのは、その集客数だ。自分の公演など三分の一にも及んでいない圧倒的な観客の数に、まず打ちひしがれた。ますます不機嫌な顔になりながらも、彼は青筋の浮いた手で群集を押しのけていく。そして現れたのは――――
なんと、細身で華奢な踊り子だった。年はアシームより少し上の、だいたい20代前半だろうか。傷一つ無い身体は靭やか且つパワフルで、素人目であっても見るもの全てを魅了する才を感じた。
シャバーンは怒鳴り込むのもすっかり忘れて、呆然とその場に立ち尽くした。続いて、それだけの観客を惹きつけているのが年端もいかない小娘であることが、売れないマジシャンのプライドをずたずたに引き裂いた。絶望の表情を浮かべるシャバーンに反して、踊る娘の表情は活き活きしている。彼女は心の底から、踊ることを楽しんでいるようだ。ようやく追いついアシームたちも、技量だけでなく心地よい喜びを分かち合う娘のパワーに惹きつけられている。
シャバーンは惨めな自分をまざまざと実感したような気がして、肩を落としてその場を離れようとした。だが、彼が視線を外そうとした刹那、不思議なことが起きた。
「なっ…………」
なんと踊っている最中の娘とはっきり目があったのだ。気の所為でも間違いでもなく、その人は確かにシャバーンを見ていた。そして目があった瞬間から、彼は娘から目が離せなくなってしまった。魔性の魅力とはまた違う、純真であどけない綿毛のような美しさに見惚れてしまい、結局彼は最後まで踊りを眺め続けることしか出来なかった。
公演が終わり、娘は一頻り挨拶を終えるとシャバーンに目を向けた。間違いなく厄介事であると気づいているのか、彼女はやや表情を硬くしながらも気さくに微笑みを作っている。
そんな顔で見られたら、何を言わなきゃならんか忘れてしまうだろうに。
シャバーンはそう思いながらも慌てて気を引き締め直し、踊り子に対して眉を吊り上げた。だが、声は誰が聞いても面白いほどに裏返っている。
「おっ、お前!」
「あら、誰かと思えば。マジシャンのシャバーン様ではないですか!今日はありがとうございました」
文句を言おうとした相手が、突然自分の名前を口にしたことは何よりの驚きだ。一瞬、シャバーンは自分が有名になったのだと思って口元をほころばせた。だが娘の次の言葉で、その淡い期待は砕け散った。
「いえ、一度だけショーを見たことがあるの。私、人の顔と名前を覚えるのは得意なのよ」
「一度……………ねぇ」
あからさまにがっくりと肩を落とすシャバーンを見て、娘は困り果てた面持ちに変わった。どうやら決して発言に悪意は無いようだ。彼女は装飾具をシャラリと鳴らしながら、三流マジシャンの顔を覗き込んでこう言った。
「元気出してよ、シャバーン様。ねっ!あなたのトークスキルは、嫌いじゃないわよ」
一周回って嫌味に聞こえかねない発言に、シャバーンがますます項垂れる。
「あのねぁ。もちろん分かってますよ。名前を覚えていただけていたことも、敬意を持って接されることも、普通は喜ぶことなんだろうけどねぇ」
「まぁ、嬉しい!」
「でも、あんたみたいな年下の小娘に様付けされると、なんだかすーーっごく馬鹿にされてる気分になるんだが!」
思いがけない怒号に、娘が一瞬たじろぐ。それは踊っているときの堂々とした姿とは打って変わって、小鳥のような反応だった。同業者には頓に意地悪なシャバーンは、それを見て更に畳み掛けた。
「それより、私は文句を言いに来たんだ!」
「…………私の踊りを観に来たのではなくて?」
が、またしても娘のペースに取り込まれた。シャバーンはその場で転けそうになるのを堪えながら、大きく深呼吸した。
「いいかっ!私はシャバーン!世界一のマジシャンになる男だ。後悔するのはお前の方だぞ、小娘」
その言葉を聞いた踊り子は、暫し目を丸くしていた。やがて少々長い沈黙のあと、彼女は肩を竦めて答えた。
「なるほど、ね。でも御生憎様、私も世界一のダンサーになる女なの。だから場所は譲れない」
「なっ…………」
なんて図々しい女だ。
少しでも見惚れたことを後悔しながら、シャバーンは青筋を立てた。だが、彼女の話はそれで終わりではなかった。娘は当惑するマジシャンを観察しながら微笑んでいる。そして小道具の入った箱を拾い上げて歩きだすと、振り向きざまにこう言った。
「あぁ、でも…………もし、ここ以外の場所で私を見つけられたら、その時は貴方に場所を譲ってあげる」
「はぁ!?なんじゃそりゃ」
素っ頓狂な声を上げるシャバーンを見てケラケラ笑いながら、娘は満面の笑みを投げた。
「私は、ラティーファ。また今度会いましょうね、マジシャン・シャバーン」
そう言い残して、踊り子――――ラティーファは雑踏の中へと姿を消していった。残されたシャバーンは、唖然と口を開けながら立ち尽くすことしか出来なかった。
そんな主人の怒りが収まった頃合いを見計らい、アシームは恐る恐る声をかけた。召使いの肩に乗っているベキートも、思わず生唾を呑んでいる。
「あのぅ…………シャバーン様…………」
だが、残念ながら主人の怒りは収まっていなかったらしい。怒りのあまり真っ青な顔をしているシャバーンは、アシームを怒鳴りつけてこう命じた。
「…………いいかアシーム。絶対にあの女を見つけろ!分かったな!!」
「はっ、はいぃっ!」
反射的に返事をするアシームを見て、ベキートがため息をつく。同時に自分でなくて良かったと内心胸を撫で下ろしている。だが、災難は高みの見物を決め込んだコブラにも降り掛かってきた。シャバーンはベキートの首根っこを掴みながら、見たこともないくらいに恐ろしい顔でこう言った。
「ベキート、お前もやるんだ」
「はっ…………はい…………」
こうして可哀想な二人のアシスタントは、主人の場所取りと沽券のために奔走する羽目になったのだった。
さて、その頃ラティーファは市場を抜けて帰路へと着いていた。彼女がやって来たのは、アグラバーの街で宮殿の次に大きな屋敷の裏口だった。抜き足差し足で軽やかに使用人部屋を通り抜けると、ラティーファは倉庫に入り込んだ。続いて、そこに隠しておいた服へと着替え、髪型を整え直した彼女は代わりにそこへ小道具と衣装を戻した。
それから、何事も無かったかのように廊下へと出た。廊下に立っていた数十人もの使用人たちは、ラティーファの姿を見るやいなや恭しく頭を下げた。
「ご機嫌麗しゅう、ラティーファお嬢様」
「手を止めず構いません、お仕事を続けてください」
ラティーファは穏やかな笑みで、使用人たちに仕事を続けるように促した。すると丁度そのとき、彼女の名を呼ぶ声がした。
「ラティーファ」
振り返ると、そこには簡素だが気品漂う礼装に身を包んでいる男の姿があった。ラティーファはその人に頭を下げ、挨拶をした。
「お父様、おかえりなさいませ」
父と呼ばれたその人は、自分で肩を撫でながら苦笑いを浮かべている。
「ああ、全く疲れた。国務大臣というのも、気苦労が絶えない仕事だ」
「お疲れ様でした。ですがお父様は、私の誇りですよ」
改めてこの踊り子のことを紹介しよう。
彼女は、ラティーファ。アグラバー王国国務大臣の一人娘にして、王国の姫の話し相手である。
その事実をシャバーンが知るのは、もう少しさきの話である。