8、マジック・ランプのゆくえ
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その日から、ラティーファは部屋の外にも出ることなく日々を過ごすようになった。奥方の変貌に対して時折アシームは批判的な眼差しを向けたが、シャバーンはどこ吹く風だ。
「わしは何も悪くないぞ!だいたい、わしはそのへんの男よりはラティーファの自由をある程度尊重し…………」
「はいはい。そうですね、シャバーン様は間違えていないってことでしたね」
「アシーム!誰が拾い上げて今まで面倒を見てきてやったと思って――――」
「僕からジーニーを奪って、身の丈に合わない願いを叶えてこの結果ですか。シャバーン様、本当にあなた……」
「アシーム!」
部屋を揺らすほどに強い怒号だった。主人の憤激におののいたアシームは、震えながら後ろに退こうとした。だが、彼は逆にシャバーンに引き留められてしまった。
「……何でしょうか」
「明日の公演だが、ワンマンショーにする予定だ。そのように告知しておけ」
「えっ、でもジーニーはどうするんです?今のショーの殆どがジーニーを頼っているものばかりなのに……」
驚いたアシームの反論に、シャバーンが耳を貸すはずがない。彼はまたしても怒りで声を震わせた。
「つべこべ言わず、さっさと従う!全く、ラティーファに続いてお前まで文句を言い始めたか……」
ぶつぶつ言うシャバーンを置いて、アシームは元気のない声で返事をした。そしてラティーファに食事を持っていくためにトレーを持ち上げるのだった。
アシームが部屋に入ると、まず最初にその暗さに愕然とした。雰囲気という意味での暗さもあるが、部屋自体にカーテンが引かれている。アシームは苦笑いを浮かべながら、精一杯の明るさでラティーファに話しかけた。
「かっ、カーテン開けますね!わーっ、今日も良い陽射しですよ!」
「……そうね」
ラティーファは膝を抱えたまま、少しだけ眩しそうに目を細めた。だが、反応らしい反応はたったそれだけだった。アシームは食事を机の上に置くと、ラティーファの傍に歩み寄った。誰が見ても心身ともに衰弱しているのは一目瞭然の状態である。
「……ラティーファ様。シャバーン様がワンマンショーを開くそうです。きっとご自分で頑張ってみようと思ったんですよ」
「……本当に、そう思う?」
「ええ、そう思います。それに、僕聞いたんです。シャバーン様がラティーファ様のことを――――」
アシームの言葉を待つことなく、彼女は疲れ切った表情で首を横に振った。
「ラティーファ様……」
「ごめんなさい、アシーム。でももう、私はあの人のことを考えることに疲れてしまったの」
「……そうですよね、ごめんなさい」
「いいの。泣かないで、アシーム」
俯くアシームに、ラティーファがハンカチを差し出す。少年の心のなかに、こんなに優しい人を苦しめる主人に対する困惑が広がる。そんな気持ちに気づいたのか、ラティーファは優しく微笑んでみせた。
「ええ、わかってる。あの人は本当は優しいのよ。ちょっと今は、夢を追うあまり周りが見えなくなっているだけなの」
「ラティーファ様……」
その言葉を聞いて、アシームはとうとう大粒の涙を流してしまった。そして彼女の言葉を聞いて旨を締め付けられた人物がもう一人居た。
そう、シャバーンだった。彼は苦々しい面持ちを浮かべながら、声を上げて泣いているアシームとそれをなだめるラティーファの声を聞いている。そしてあの日同様、自分のしてしまったことに対する罪の意識がむせ返るのを感じていた。
あの日、ラティーファに対して怒りに任せた非常な要求を突きつけてしまったあと、シャバーンはアシームと口論していた。それから暫く経った後、ようやく彼は自分が如何にひどいことを言ってしまったのかを悟った。
罪悪感に押しつぶされそうな気持ちに導かれて、彼は廊下を駆け出した。しかしいざ扉の前に立ってみると、シャバーンは自分が謝る勇気を持ち合わせていないことに気づいた。しばらくその場を動けずにいると、彼は扉の向こうにいるラティーファとナーサーヤの会話を偶然聞いてしまった。
「――――ラティーファ様。旦那様も本気で言ったわけじゃありません。ですから……」
「わかってるわ、そんなこと。でも……でも……だからこそ私は今、すごく憎いの」
ドキリとするシャバーンの耳に、ラティーファのすすり泣く声が聞こえてきた。彼女は嗚咽を漏らすようにこう言った。
「――――あの人のためなら、踊ることを捨ててしまえるかもしれない自分が居ることが、とても憎いの。あの人は自分の夢で私を傷つけたのに、私は……」
「ラティーファ様……」
「私は踊れなくなったことよりも、今はただあの人が心配な気持ちで一杯なの。誰の言葉にも耳を貸さず、本当の魅力をどんどん失っていく姿を見るのが、踊れなくなることより辛いの」
シャバーンはその言葉を聞いて、その場に崩れ落ちた。そして、ラティーファの愛の深さに気付かされると同時に自分の心の狭さを痛感した。
そして現在。シャバーンは扉の向こうで決意した。
「よし。明日のワンマンショーを成功させて、ジーニー無しでもできることを証明しよう。それから、彼女にきちんと謝りに行こう」
彼は立ち上がると、懐から金色の鍵を取り出して深呼吸した。
その決断が、彼の未来を決定づけるということも知らず。
翌日の午前、アシームが昼からの公演に備えて準備を整えていたときのことだった。彼は何気なく、友人のジーニーを探した。だが、珍しく返事がない。辺りを見回していると、ベキートがため息混じりに答えた。
「ジーニーなら、シャバーンのやつが夜の間に箱に入れて鍵かけてたぜ」
「えっ!?」
「なんでも、本気でワンマンショーを成功させるらしいぜ。ったく、あいつはなーにやってんだか……」
悪態をつくベキートを置いて、アシームは顔面蒼白になった。彼はベキートを掴むとその首を左右に振った。
「それ、本当なの!?僕の友達が、閉じ込められたっていうの!?」
「ああ、だろうな。もうランプは使わないとかって言ってたから、ひょっとしたら未来永劫あのまんまかもな」
アシームが床に座り込む。彼は唯一の友達に二度と会えないかもしれないという悲しみに打ちひしがれた。そして脳裏に、唯一頼れる人物が過った。
開演時間はもうすぐそこまで迫っていた。
ワンマンショーの幕が開けると、客席はいつもと違うショーの内容に困惑し始めた。入退場はもちろんのこと、繰り出されるマジックはどれも失敗ばかり。
そんな中、アシームは小道具をわざと隠してシャバーンを一時的に退場させることに成功した。その隙にジーニーの箱が入った鍵を使うと、心優しいアシーム少年はランプの中から魔神を開放した。勢いよく出てきたジーニーは、アシームの手を握って感激している。
「アシーム!ああ、もう本当にひどい目にあった。おかげでもうちょいで、アラビアの千夜一夜漬けになるところだった。シャバーンのやつ……一回懲らしめてやらないといけないな」
「そのことなんだけど、僕に考えがあるんだ。ただ、うまくいくかどうか……」
アシームがジーニーに耳打ちする。みるみるうちに、魔神の表情が輝いていく。
「いいねぇ!でもそれって、嘘つくことにならない?」
「……あの人に目を覚まさせてもらうには、それしか無いと思ってます」
「……わかったよ。やろうじゃないか、アシーム」
二人が握手を交わす。作戦開始の合図だった。
シャバーンが戻ると、客席は恐ろしいほどに静まり返っていた。彼は気まずさのあまり苦笑いすると、アシームを呼びつけた。
「カゴ持っていくのはお前の役目だ。早くしなさい」
アシームは主人の指示にいつも通り素直に従った。だがそれは既に作戦の一つにしか過ぎない。彼の後ろをツボがゆっくり移動し、ウサギに化けたジーニーがカゴの中に入る。
「えーでは、つづいてのマジックですが……」
もちろんそんなことにも気づいていないシャバーンは、ショーを続行しようとしている。しかし、突然どこからともなく声が降ってきた。
「私が消えてみせましょう!」
「そうそう、私が消える……って、そんなマジックをした覚えは――――」
彼がそう言った瞬間、突然世界が暗転した。何が起きたのか理解していない彼の目の前に、ジーニーが姿を現した。どうやらここは裏方のようだ。驚く観客を暫しベキートに相手させると、アシームはジーニーの隣に戻ってきた。もちろん、肝心のショーを台無しにされたシャバーンは大激怒している。
「おまえたち……こんなことをしてただで済むと思うなよ!」
しかし、その場に現れたのはこの2人だけではなかった。
「――――代償を払うのは、あなたの方よ。シャバーン様」
耳を疑う声を聞いたシャバーンは慌てて振り返った。そこにはたしかにラティーファが立っている。彼女は決意を込めた眼差しで、夫をしっかりと見据えている。狼狽することしかできないシャバーンを置いて、ラティーファは告げた。
「先ほど、私がランプを擦ったの。だから今の主人はこの私。つまり、あなたはもうジーニーの主人じゃない」
「なっ、なんだと……!?」
動揺するシャバーンを置いて、ラティーファは続けた。
「今から、私の最初の願い事を言うわ」
「ま、待て!」
「シャバーン様、愛しています。これだけは嘘じゃない。だから、今から言う願い事をどうか恨まないでください。愛ゆえに、この選択でしか貴方に何もしてあげられない私を許して」
「ラティーファ――――!!」
ラティーファの瞳が閉じられる。そしてランプに震える手を当てて表面を撫でた。
「――――叶えたものを、すべて無かったことにしてください」
「ラティーファっ!!!」
「承りました、奥様。それではこの男から全部取っちゃいますね」
「待て!ジーニー、聞け!わしは――――まだあと2つ残っていたはずだ!」
シャバーンの静止も虚しく、ジーニーは魔法の準備を整えた。彼は最後に、とっておきの一言を添えながら人差し指を元主人に向けた。
「ああ、そうだ。言い忘れてたけど、あんた願い事は2つ叶えてるからね」
「な……何を言って……」
「一番、大事な願いだったのにね。無くなっちゃうかもね」
シャバーンはうろたえながら、上手く働かない頭を必死に動かして考えた。彼はそして恐ろしい仮説に辿り着いた。いや、まさかそんなはずはない。あの願いは叶えられないと言われたはずで――――
ジーニーの魔法が放たれる直前、最後に彼が見たのは最愛の人の姿だった。まるで最期の別れのような表情を浮かべるその人に、彼は手を伸ばした。
待ってくれ、まだわしは謝れていないんだ!
そして刹那、煙幕が彼の全身を包んだ。
目を開けると、シャバーンは自分が以前と同じボロボロの格好に戻っていることに気づいた。そこには舞台もきらびやかな衣装も邸宅も無く、ただがらんどうで雑多な部屋があるだけだった。
「そんな……」
しばらく愕然としていた彼だったが、やがて恐ろしい予感が胸を一筋過った。居ても立ってもいられず、彼は立ち上がって駆け出した。
「アシーム!!ラティーファ!!」
しかし、返事をするものは誰も居ない。シャバーンは絶望的な状況に涙を流した。
「そんな……二人が居なかったら、わしは……」
独りぼっちじゃあないか。
シャバーンは笑いながら泣いた。夢が潰えたことよりも、二人が自分の前から姿を消してしまったことのほうが辛かったからだ。
「あんなに執着してきた夢より……自分勝手に叶えた夢より……わしはあの二人と二度と会えないほうが悲しいのか……」
嘆いても、もう二人は戻ってこない。シャバーンはそんな気がしていた。彼は慟哭を漏らし、その場に座り込んだ。
どれくらい時間が経っただろうか。泣きつかれてしまったシャバーンは、その場に倒れ込んで天井を仰ぎ見た。涙でぼやけた視界が、これからの人生を示唆するかのようだった。
不意に、不明瞭な視界に誰かの赤い帽子と眼鏡が映り込む。シャバーンは自分の目を疑いながら、一縷の望みをかけて目を擦った。
「なーにやってるんですか、シャバーン様」
今の自分とは対称的なくらいに明るい声で、その人は笑っている。そう、その声の主はアシームだった。シャバーンは飛び起きると、アシームの足元にしがみついてわんわん泣き出した。
「アシームぅぅ!!もう戻ってこんと思ったぁ!!うわあああん」
「泣かないでくださいよ。僕は別に願い事に含まれていなかったでしょ?」
「そりゃそうだが、わしに愛想つかしてどっかへ行ってしまったとばかり……ラティーファにも、もう二度と会えんし……」
ラティーファの名前を聞いたアシームが表情を曇らせる。シャバーンは俯きながら、声を震わせて続けた。その声にははっきりと後悔と懺悔の思いが込められている。
「酷いことを言ったと、謝りたかった。許してほしいとは言わんが、どうしても謝りたかった。指摘されたことへの怒りに、パフォーマーとしてだけでなく男としての嫉妬心も混ぜて当たってしまったことを。安易に夢を叶え、その後精進しなかったことを。そして何より、周りを大切にしなかったことを」
すべてを聞き終えたアシームは、子どものように泣いている主人を見下ろした。それから大きなため息を付くと、カーテンの向こうに声をかけた。
「ですって。これからどうします?」
カーテンが揺れる。そして――――
「どうするって言われても。そんなのこの人が決めることよ」
シャバーンの瞳に光が宿った。顔を上げると、そこには出会った頃のように活き活きとしているラティーファが立っていた。
「ラティーファ……!?どうしてここに!?」
「どうしてって言われても……」
「だって、お前も私の願い事のひとつなんじゃないのか?ジーニーが親切心でお膳立てを……」
それを聞いたラティーファは、しゃがみこんで彼の頭を撫でた。そしてぽかんとするシャバーンに、ラティーファはあの日の知られざる経緯について語り始めた。
ショーが始まる1時間前、アシームはラティーファの部屋に飛び込んでいた。いつもと明らかに様子が違うアシームの姿に、彼女は胸騒ぎを覚えた
「何かあったの?」
「大変なんです!僕の友達を助けてあげてください……!」
アシームは事の次第を洗いざらいラティーファに説明した。聞き終えた彼女は、呆れて絶句している。
「……まさか、そこまでする人だとは思わなかったわ」
「僕もびっくりなんです。ラティーファ様、力を貸していただけませんか?」
ラティーファは暫く考え込んでいたが、やがてため息混じりにこう言った。
「……ジーニーと協力して、上手く3つ目のお願い事を使ってもらうとかかしらね。例えば、ジーニーと出会う前に戻してもらうとか――――」
「そんなの駄目です!」
アシームは大きく首を横に振った。もちろん、それが最善策であることは誰よりも彼自身がわかっていた。しかし、その願いを叶えてしまってはあまりに大きすぎる代償を支払うことになってしまうと、彼は知っていた。それでもラティーファは頑なに譲ろうとしない。
「仕方ないわ。あの人はランプの所有者にふさわしくない。それに……シャバーン様がもし、私に恋という気持ちを教えてくれた頃のままでいてくれるなら、私は結ばれなくても構わない」
「ラティーファ様……」
その言葉が半分本気で、半分嘘であることはアシームにもわかっていた。そして同時に、彼は何かが頭の中で引っかかっていた。とても言葉にするのは難しい疑問だったが、アシームは心のままに尋ねることにした。
「……あの、ラティーファ様」
「なぁに」
「シャバーン様が叶えた願い事って、まだ1つだけですよ」
「えっ……?」
短い驚嘆の声を上げ、ラティーファの目が見開かれる。アシームはまさかと思い、間髪入れず質問した。
「ラティーファ様、あなたまさか……シャバーン様と恋に落ちたのもジーニーの魔法のせいだと思っていませんか?」
「まさか……違うの?」
大きな誤解があったことにアシームは頭を抱えた。とはいえ、ジーニーの魔法に関する規約を知らないラティーファが誤解するのも無理はない。アシームは深呼吸すると、しっかりと彼女の目を見て言い切った。
「大丈夫です。あなたのシャバーン様を思う気持ちは本物ですし、結婚したのは魔法の力なんかじゃないです。あなたたちは、運命の力で結ばれたんです」
「その話を聞いて、私は決めたの」
ラティーファはシャバーンの頬にそっと手を添えて微笑んだ。二人の目には涙が浮かんでいる。
「もし、次は自分の力であなたが夢を追いかけるのなら、お傍でもう一度お支えしたいって」
「ラティーファ……」
彼女がシャバーンの手を取る。その手は、絶望と懺悔に打ちひしがれていた彼にとって、とても暖かかった。
「だって私とあなたは魔法よりも強い、運命というもので結ばれたんだから。どんなことでも、お互いを思い合って支え合えばきっとできるはず」
「ラティーファ……」
シャバーンは愛する人の胸に飛び込むと、子どものように泣きじゃくった。そんな彼に、アシームは構わず尋ねた。
「さて、偉大なるマジシャンを目指すんですから!そんなところでいつまでも泣いてちゃいけませんよ」
「まだ目指すとは言ってない……けど目指します……許してくれ……」
「本当、困った人ですね。僕は結局友達をもと居た場所に返して、独りぼっちになっちゃったんですから」
そう言いながら、アシームが両手を差し伸べる。
「ですから、これからはもうちょっと優しくしてくださいよ。僕にとっての居場所はあなた達なんですから。あっ、ラティーファ様は今まで通りでいいですよ」
その言葉を聞いたシャバーンは、ますます泣き出した。二人は困ったマジシャンの背中をさすっている。終いにはいつの間にか壺から這い出してきたベキートも、慰めに加担する羽目となってしまった。
「あーもう、うるさいぞシャバーン!」
「ヘビに呼び捨てされたぁ〜!!うわーん」
「俺様もちょっとは手伝ったんだぞ。これから全員、俺のことはベキート様って呼べ!」
シャバーンが駄々をこね、ラティーファとアシームが笑う。その場に居た誰もが、今までのどんなショーの幕引きよりも清々しい気分を感じていた。ラティーファとアシームは目を合わせて、失笑を浮かべた。
「これからですよ、ラティーファ様!」
「ええ、この人を世界で一番偉大なマジシャンにしないとね」
そう言いながら、二人は確信していた。
きっと、大切なものに気づくことが出来た今のシャバーンなら、誰よりも素晴らしいマジシャンになると。
再出発を誓う彼らを、アグラバーの朝日がいつまでも照らすのだった。
「わしは何も悪くないぞ!だいたい、わしはそのへんの男よりはラティーファの自由をある程度尊重し…………」
「はいはい。そうですね、シャバーン様は間違えていないってことでしたね」
「アシーム!誰が拾い上げて今まで面倒を見てきてやったと思って――――」
「僕からジーニーを奪って、身の丈に合わない願いを叶えてこの結果ですか。シャバーン様、本当にあなた……」
「アシーム!」
部屋を揺らすほどに強い怒号だった。主人の憤激におののいたアシームは、震えながら後ろに退こうとした。だが、彼は逆にシャバーンに引き留められてしまった。
「……何でしょうか」
「明日の公演だが、ワンマンショーにする予定だ。そのように告知しておけ」
「えっ、でもジーニーはどうするんです?今のショーの殆どがジーニーを頼っているものばかりなのに……」
驚いたアシームの反論に、シャバーンが耳を貸すはずがない。彼はまたしても怒りで声を震わせた。
「つべこべ言わず、さっさと従う!全く、ラティーファに続いてお前まで文句を言い始めたか……」
ぶつぶつ言うシャバーンを置いて、アシームは元気のない声で返事をした。そしてラティーファに食事を持っていくためにトレーを持ち上げるのだった。
アシームが部屋に入ると、まず最初にその暗さに愕然とした。雰囲気という意味での暗さもあるが、部屋自体にカーテンが引かれている。アシームは苦笑いを浮かべながら、精一杯の明るさでラティーファに話しかけた。
「かっ、カーテン開けますね!わーっ、今日も良い陽射しですよ!」
「……そうね」
ラティーファは膝を抱えたまま、少しだけ眩しそうに目を細めた。だが、反応らしい反応はたったそれだけだった。アシームは食事を机の上に置くと、ラティーファの傍に歩み寄った。誰が見ても心身ともに衰弱しているのは一目瞭然の状態である。
「……ラティーファ様。シャバーン様がワンマンショーを開くそうです。きっとご自分で頑張ってみようと思ったんですよ」
「……本当に、そう思う?」
「ええ、そう思います。それに、僕聞いたんです。シャバーン様がラティーファ様のことを――――」
アシームの言葉を待つことなく、彼女は疲れ切った表情で首を横に振った。
「ラティーファ様……」
「ごめんなさい、アシーム。でももう、私はあの人のことを考えることに疲れてしまったの」
「……そうですよね、ごめんなさい」
「いいの。泣かないで、アシーム」
俯くアシームに、ラティーファがハンカチを差し出す。少年の心のなかに、こんなに優しい人を苦しめる主人に対する困惑が広がる。そんな気持ちに気づいたのか、ラティーファは優しく微笑んでみせた。
「ええ、わかってる。あの人は本当は優しいのよ。ちょっと今は、夢を追うあまり周りが見えなくなっているだけなの」
「ラティーファ様……」
その言葉を聞いて、アシームはとうとう大粒の涙を流してしまった。そして彼女の言葉を聞いて旨を締め付けられた人物がもう一人居た。
そう、シャバーンだった。彼は苦々しい面持ちを浮かべながら、声を上げて泣いているアシームとそれをなだめるラティーファの声を聞いている。そしてあの日同様、自分のしてしまったことに対する罪の意識がむせ返るのを感じていた。
あの日、ラティーファに対して怒りに任せた非常な要求を突きつけてしまったあと、シャバーンはアシームと口論していた。それから暫く経った後、ようやく彼は自分が如何にひどいことを言ってしまったのかを悟った。
罪悪感に押しつぶされそうな気持ちに導かれて、彼は廊下を駆け出した。しかしいざ扉の前に立ってみると、シャバーンは自分が謝る勇気を持ち合わせていないことに気づいた。しばらくその場を動けずにいると、彼は扉の向こうにいるラティーファとナーサーヤの会話を偶然聞いてしまった。
「――――ラティーファ様。旦那様も本気で言ったわけじゃありません。ですから……」
「わかってるわ、そんなこと。でも……でも……だからこそ私は今、すごく憎いの」
ドキリとするシャバーンの耳に、ラティーファのすすり泣く声が聞こえてきた。彼女は嗚咽を漏らすようにこう言った。
「――――あの人のためなら、踊ることを捨ててしまえるかもしれない自分が居ることが、とても憎いの。あの人は自分の夢で私を傷つけたのに、私は……」
「ラティーファ様……」
「私は踊れなくなったことよりも、今はただあの人が心配な気持ちで一杯なの。誰の言葉にも耳を貸さず、本当の魅力をどんどん失っていく姿を見るのが、踊れなくなることより辛いの」
シャバーンはその言葉を聞いて、その場に崩れ落ちた。そして、ラティーファの愛の深さに気付かされると同時に自分の心の狭さを痛感した。
そして現在。シャバーンは扉の向こうで決意した。
「よし。明日のワンマンショーを成功させて、ジーニー無しでもできることを証明しよう。それから、彼女にきちんと謝りに行こう」
彼は立ち上がると、懐から金色の鍵を取り出して深呼吸した。
その決断が、彼の未来を決定づけるということも知らず。
翌日の午前、アシームが昼からの公演に備えて準備を整えていたときのことだった。彼は何気なく、友人のジーニーを探した。だが、珍しく返事がない。辺りを見回していると、ベキートがため息混じりに答えた。
「ジーニーなら、シャバーンのやつが夜の間に箱に入れて鍵かけてたぜ」
「えっ!?」
「なんでも、本気でワンマンショーを成功させるらしいぜ。ったく、あいつはなーにやってんだか……」
悪態をつくベキートを置いて、アシームは顔面蒼白になった。彼はベキートを掴むとその首を左右に振った。
「それ、本当なの!?僕の友達が、閉じ込められたっていうの!?」
「ああ、だろうな。もうランプは使わないとかって言ってたから、ひょっとしたら未来永劫あのまんまかもな」
アシームが床に座り込む。彼は唯一の友達に二度と会えないかもしれないという悲しみに打ちひしがれた。そして脳裏に、唯一頼れる人物が過った。
開演時間はもうすぐそこまで迫っていた。
ワンマンショーの幕が開けると、客席はいつもと違うショーの内容に困惑し始めた。入退場はもちろんのこと、繰り出されるマジックはどれも失敗ばかり。
そんな中、アシームは小道具をわざと隠してシャバーンを一時的に退場させることに成功した。その隙にジーニーの箱が入った鍵を使うと、心優しいアシーム少年はランプの中から魔神を開放した。勢いよく出てきたジーニーは、アシームの手を握って感激している。
「アシーム!ああ、もう本当にひどい目にあった。おかげでもうちょいで、アラビアの千夜一夜漬けになるところだった。シャバーンのやつ……一回懲らしめてやらないといけないな」
「そのことなんだけど、僕に考えがあるんだ。ただ、うまくいくかどうか……」
アシームがジーニーに耳打ちする。みるみるうちに、魔神の表情が輝いていく。
「いいねぇ!でもそれって、嘘つくことにならない?」
「……あの人に目を覚まさせてもらうには、それしか無いと思ってます」
「……わかったよ。やろうじゃないか、アシーム」
二人が握手を交わす。作戦開始の合図だった。
シャバーンが戻ると、客席は恐ろしいほどに静まり返っていた。彼は気まずさのあまり苦笑いすると、アシームを呼びつけた。
「カゴ持っていくのはお前の役目だ。早くしなさい」
アシームは主人の指示にいつも通り素直に従った。だがそれは既に作戦の一つにしか過ぎない。彼の後ろをツボがゆっくり移動し、ウサギに化けたジーニーがカゴの中に入る。
「えーでは、つづいてのマジックですが……」
もちろんそんなことにも気づいていないシャバーンは、ショーを続行しようとしている。しかし、突然どこからともなく声が降ってきた。
「私が消えてみせましょう!」
「そうそう、私が消える……って、そんなマジックをした覚えは――――」
彼がそう言った瞬間、突然世界が暗転した。何が起きたのか理解していない彼の目の前に、ジーニーが姿を現した。どうやらここは裏方のようだ。驚く観客を暫しベキートに相手させると、アシームはジーニーの隣に戻ってきた。もちろん、肝心のショーを台無しにされたシャバーンは大激怒している。
「おまえたち……こんなことをしてただで済むと思うなよ!」
しかし、その場に現れたのはこの2人だけではなかった。
「――――代償を払うのは、あなたの方よ。シャバーン様」
耳を疑う声を聞いたシャバーンは慌てて振り返った。そこにはたしかにラティーファが立っている。彼女は決意を込めた眼差しで、夫をしっかりと見据えている。狼狽することしかできないシャバーンを置いて、ラティーファは告げた。
「先ほど、私がランプを擦ったの。だから今の主人はこの私。つまり、あなたはもうジーニーの主人じゃない」
「なっ、なんだと……!?」
動揺するシャバーンを置いて、ラティーファは続けた。
「今から、私の最初の願い事を言うわ」
「ま、待て!」
「シャバーン様、愛しています。これだけは嘘じゃない。だから、今から言う願い事をどうか恨まないでください。愛ゆえに、この選択でしか貴方に何もしてあげられない私を許して」
「ラティーファ――――!!」
ラティーファの瞳が閉じられる。そしてランプに震える手を当てて表面を撫でた。
「――――叶えたものを、すべて無かったことにしてください」
「ラティーファっ!!!」
「承りました、奥様。それではこの男から全部取っちゃいますね」
「待て!ジーニー、聞け!わしは――――まだあと2つ残っていたはずだ!」
シャバーンの静止も虚しく、ジーニーは魔法の準備を整えた。彼は最後に、とっておきの一言を添えながら人差し指を元主人に向けた。
「ああ、そうだ。言い忘れてたけど、あんた願い事は2つ叶えてるからね」
「な……何を言って……」
「一番、大事な願いだったのにね。無くなっちゃうかもね」
シャバーンはうろたえながら、上手く働かない頭を必死に動かして考えた。彼はそして恐ろしい仮説に辿り着いた。いや、まさかそんなはずはない。あの願いは叶えられないと言われたはずで――――
ジーニーの魔法が放たれる直前、最後に彼が見たのは最愛の人の姿だった。まるで最期の別れのような表情を浮かべるその人に、彼は手を伸ばした。
待ってくれ、まだわしは謝れていないんだ!
そして刹那、煙幕が彼の全身を包んだ。
目を開けると、シャバーンは自分が以前と同じボロボロの格好に戻っていることに気づいた。そこには舞台もきらびやかな衣装も邸宅も無く、ただがらんどうで雑多な部屋があるだけだった。
「そんな……」
しばらく愕然としていた彼だったが、やがて恐ろしい予感が胸を一筋過った。居ても立ってもいられず、彼は立ち上がって駆け出した。
「アシーム!!ラティーファ!!」
しかし、返事をするものは誰も居ない。シャバーンは絶望的な状況に涙を流した。
「そんな……二人が居なかったら、わしは……」
独りぼっちじゃあないか。
シャバーンは笑いながら泣いた。夢が潰えたことよりも、二人が自分の前から姿を消してしまったことのほうが辛かったからだ。
「あんなに執着してきた夢より……自分勝手に叶えた夢より……わしはあの二人と二度と会えないほうが悲しいのか……」
嘆いても、もう二人は戻ってこない。シャバーンはそんな気がしていた。彼は慟哭を漏らし、その場に座り込んだ。
どれくらい時間が経っただろうか。泣きつかれてしまったシャバーンは、その場に倒れ込んで天井を仰ぎ見た。涙でぼやけた視界が、これからの人生を示唆するかのようだった。
不意に、不明瞭な視界に誰かの赤い帽子と眼鏡が映り込む。シャバーンは自分の目を疑いながら、一縷の望みをかけて目を擦った。
「なーにやってるんですか、シャバーン様」
今の自分とは対称的なくらいに明るい声で、その人は笑っている。そう、その声の主はアシームだった。シャバーンは飛び起きると、アシームの足元にしがみついてわんわん泣き出した。
「アシームぅぅ!!もう戻ってこんと思ったぁ!!うわあああん」
「泣かないでくださいよ。僕は別に願い事に含まれていなかったでしょ?」
「そりゃそうだが、わしに愛想つかしてどっかへ行ってしまったとばかり……ラティーファにも、もう二度と会えんし……」
ラティーファの名前を聞いたアシームが表情を曇らせる。シャバーンは俯きながら、声を震わせて続けた。その声にははっきりと後悔と懺悔の思いが込められている。
「酷いことを言ったと、謝りたかった。許してほしいとは言わんが、どうしても謝りたかった。指摘されたことへの怒りに、パフォーマーとしてだけでなく男としての嫉妬心も混ぜて当たってしまったことを。安易に夢を叶え、その後精進しなかったことを。そして何より、周りを大切にしなかったことを」
すべてを聞き終えたアシームは、子どものように泣いている主人を見下ろした。それから大きなため息を付くと、カーテンの向こうに声をかけた。
「ですって。これからどうします?」
カーテンが揺れる。そして――――
「どうするって言われても。そんなのこの人が決めることよ」
シャバーンの瞳に光が宿った。顔を上げると、そこには出会った頃のように活き活きとしているラティーファが立っていた。
「ラティーファ……!?どうしてここに!?」
「どうしてって言われても……」
「だって、お前も私の願い事のひとつなんじゃないのか?ジーニーが親切心でお膳立てを……」
それを聞いたラティーファは、しゃがみこんで彼の頭を撫でた。そしてぽかんとするシャバーンに、ラティーファはあの日の知られざる経緯について語り始めた。
ショーが始まる1時間前、アシームはラティーファの部屋に飛び込んでいた。いつもと明らかに様子が違うアシームの姿に、彼女は胸騒ぎを覚えた
「何かあったの?」
「大変なんです!僕の友達を助けてあげてください……!」
アシームは事の次第を洗いざらいラティーファに説明した。聞き終えた彼女は、呆れて絶句している。
「……まさか、そこまでする人だとは思わなかったわ」
「僕もびっくりなんです。ラティーファ様、力を貸していただけませんか?」
ラティーファは暫く考え込んでいたが、やがてため息混じりにこう言った。
「……ジーニーと協力して、上手く3つ目のお願い事を使ってもらうとかかしらね。例えば、ジーニーと出会う前に戻してもらうとか――――」
「そんなの駄目です!」
アシームは大きく首を横に振った。もちろん、それが最善策であることは誰よりも彼自身がわかっていた。しかし、その願いを叶えてしまってはあまりに大きすぎる代償を支払うことになってしまうと、彼は知っていた。それでもラティーファは頑なに譲ろうとしない。
「仕方ないわ。あの人はランプの所有者にふさわしくない。それに……シャバーン様がもし、私に恋という気持ちを教えてくれた頃のままでいてくれるなら、私は結ばれなくても構わない」
「ラティーファ様……」
その言葉が半分本気で、半分嘘であることはアシームにもわかっていた。そして同時に、彼は何かが頭の中で引っかかっていた。とても言葉にするのは難しい疑問だったが、アシームは心のままに尋ねることにした。
「……あの、ラティーファ様」
「なぁに」
「シャバーン様が叶えた願い事って、まだ1つだけですよ」
「えっ……?」
短い驚嘆の声を上げ、ラティーファの目が見開かれる。アシームはまさかと思い、間髪入れず質問した。
「ラティーファ様、あなたまさか……シャバーン様と恋に落ちたのもジーニーの魔法のせいだと思っていませんか?」
「まさか……違うの?」
大きな誤解があったことにアシームは頭を抱えた。とはいえ、ジーニーの魔法に関する規約を知らないラティーファが誤解するのも無理はない。アシームは深呼吸すると、しっかりと彼女の目を見て言い切った。
「大丈夫です。あなたのシャバーン様を思う気持ちは本物ですし、結婚したのは魔法の力なんかじゃないです。あなたたちは、運命の力で結ばれたんです」
「その話を聞いて、私は決めたの」
ラティーファはシャバーンの頬にそっと手を添えて微笑んだ。二人の目には涙が浮かんでいる。
「もし、次は自分の力であなたが夢を追いかけるのなら、お傍でもう一度お支えしたいって」
「ラティーファ……」
彼女がシャバーンの手を取る。その手は、絶望と懺悔に打ちひしがれていた彼にとって、とても暖かかった。
「だって私とあなたは魔法よりも強い、運命というもので結ばれたんだから。どんなことでも、お互いを思い合って支え合えばきっとできるはず」
「ラティーファ……」
シャバーンは愛する人の胸に飛び込むと、子どものように泣きじゃくった。そんな彼に、アシームは構わず尋ねた。
「さて、偉大なるマジシャンを目指すんですから!そんなところでいつまでも泣いてちゃいけませんよ」
「まだ目指すとは言ってない……けど目指します……許してくれ……」
「本当、困った人ですね。僕は結局友達をもと居た場所に返して、独りぼっちになっちゃったんですから」
そう言いながら、アシームが両手を差し伸べる。
「ですから、これからはもうちょっと優しくしてくださいよ。僕にとっての居場所はあなた達なんですから。あっ、ラティーファ様は今まで通りでいいですよ」
その言葉を聞いたシャバーンは、ますます泣き出した。二人は困ったマジシャンの背中をさすっている。終いにはいつの間にか壺から這い出してきたベキートも、慰めに加担する羽目となってしまった。
「あーもう、うるさいぞシャバーン!」
「ヘビに呼び捨てされたぁ〜!!うわーん」
「俺様もちょっとは手伝ったんだぞ。これから全員、俺のことはベキート様って呼べ!」
シャバーンが駄々をこね、ラティーファとアシームが笑う。その場に居た誰もが、今までのどんなショーの幕引きよりも清々しい気分を感じていた。ラティーファとアシームは目を合わせて、失笑を浮かべた。
「これからですよ、ラティーファ様!」
「ええ、この人を世界で一番偉大なマジシャンにしないとね」
そう言いながら、二人は確信していた。
きっと、大切なものに気づくことが出来た今のシャバーンなら、誰よりも素晴らしいマジシャンになると。
再出発を誓う彼らを、アグラバーの朝日がいつまでも照らすのだった。