前編
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初夏の足音が近づくアグラバーの4月。世界一のマジシャン・シャバーンは、今日もマジックショーの合間に惰眠を貪っていた。けれども、うたた寝する場所は快眠が望めるような寝室ではない。彼は寝心地の悪い場所と心得ながらも、中庭のカウチに寝そべっている。とろんとした視線の先には、アラビアの快晴を受けて煌めくシャバーンの天使――――ラティーファ嬢が洗濯物を干している。家事はまだ慣れないのか、彼女はたどたどしい手つきで赤いローブを干している。その所作は不慣れとはいえ、誰が見てもエレガントなものだ。さすがは元国務大臣の令嬢だ、と思いながらシャバーンは物思いのため息を漏らした。時折ラティーファの肩に、ハーフアップしただけで後ろには結わえていない髪が嫋やかに落ちてくる。やや鬱陶しそうに髪をかきあげる姿は、あどけなくもあり悩ましくもあった。
そんなシャバーンの隣に、気まずそうな表情を浮かべるジーニーがやって来た。次回の公演についての話があるようだ。
「あの…………シャバーン様」
「なんだ、わしの邪魔をするな」
人の姿を取っているジーニーは、やれやれと肩を竦めたがそのまま主人の隣に腰掛けた。シャバーンの方も、ラティーファの耳に入ってはいけないと思ったのか、態度を改めて微笑みを作っている。
「で、何の用かな?わしのアシスタント、ジーニー君」
全く。調子っつーか、要領のいいやつだ。
魔人はため息を飲み込むと、次回公演の話を始めた。その間も、シャバーンはラティーファの一挙一動のほうが気になるらしく、生返事しか返さない。そしてついに、ジーニーの方が我慢の限界を迎えた。
「…………シャバーン様!」
「あぁ??……何だ」
「こっちの話も聞いてもらえません?こちとらあんたの願いを叶えるために、契約外労働してやってんだからさぁ」
丁寧な苦情を受けて、シャバーンは顔をしかめた。そして誰にも聞き取れないような小さな声で、こう呟いた。
「…………お前が自由に目立ちたいだけだろ」
「え?」
「いや、なんでもない」
シャバーンはジーニーの肩を掴むと、ラティーファの方を指差して微笑んだ。その表情には、他の人に向けるような意地の悪さは微塵も感じられない。蕩けそうな目尻と満面の笑みを浮かべながら、彼は恋慕のため息を漏らした。
「ジーニー、見てみろ。あの子は…………本当に天使だ。しかも、わしのものなんだ」
「はいはい、そうですね」
鬱陶しそうな返答を投げてくるジーニーに、シャバーンは不満げな顔を向けた。
「なんだその言い方は。あ、分かった。お前、わしに嫉妬してるな?」
呆れを通り越して哀れになってきたのか、ジーニーは憐憫の混じった声で否定した。
「違いますよ。アナタのものって言われても、お二人はただの婚約関係じゃないですか」
そう言われると、途端にシャバーンは借りてきた猫のように小さくなってしまった。どうやら自覚はあったらしい。彼は懐から小さな箱を取り出すと、震える手でジーニーに渡した。魔人が蓋を開けると案の定、そこにはダイヤの婚約指輪が並んでいた。ほんの少しだけ感心したジーニーだったが、その気持ちは直ぐに裏切られることになる。シャバーンはもじもじしながら、小声でアシスタントにこう言った。
「…………これ、あの子に渡してきてくれないか」
「それって願い事?2つ目にカウントしていい?」
「ちっ、違う!そもそも、渡すくらいは出来るだろ」
これには流石のジーニーも呆れて言葉が出てこない。彼は暫し口をパクパクさせると、慌ててリングケースを突き返した。
「ダメです、止めてくださいこんなこと」
「何でだよ!あいつだってわしの気持ちくらいは分かってるだろうし、婚約してるならそのうち結婚することくらいは――――」
言い終わるより前に、ジーニーの人差し指がシャバーンの口に充てがわれる。不満げな主人を置いて、魔人は険しい面持ちで首を横に振った。
「いいですか、シャバーン様。これはアシスタントとしてではなく、歴代ご主人を見てきた魔人からのアドバイスです。絶対に、気持ちは自分で伝えるべきだ。でなきゃ上手くいくものも失敗に終わっちまう」
その言葉を聞いたシャバーンは、何かを言い返そうとして口を開いた。だが、言うべき言葉が何も出てこない。やがて彼は自信なさげに肩を落とすと、小さな箱を抱えたままその場を離れてしまった。あまりに寂しそうなその背中を見て、ジーニーはやれやれと首を横に振ることしか出来なかった。
ジーニーの言葉が頭から離れないシャバーンは、陽が落ちても物思いに耽っていた。途中何度かラティーファが心配そうな顔をして茶菓子を持ってきてくれたが、自分の情けなさを責められているような気がした彼は、ついぶっきらぼうな返事をしてしまった。やがて、月が姿を現し、肌寒いアラビアの夜がやって来た。暫く虚ろな顔をしてつきを見ていると、突然背後から物音が聞こえてきた。振り向くと、そこには気怠そうな表情を浮かべているベキートが這っていた。2人は互いにげんなりした表情を向けると、無言で1つのカウチを分け合って腰掛けた。
「…………なんでお前、まだ起きてんだよ」
「考え事だ。お前と違って、わしはマジックショーの支配人だから忙しいんだ」
毒舌には毒舌を。2人の会話はいつも不毛であり、刺々しいものだ。シャバーンの嘘甚だしい発言に対して、ベキートも負けずと言い返す。
「へぇ、支配人ねぇ。ビジネスパートナーにして副支配人の俺様とアシスタントのジーニーにぜーんぶ任せっきりで、どこが忙しいんだか」
そう言われるとぐうの音も出ないらしく、シャバーンはすっかり不貞腐れて頬杖をついてしまった。もちろんここで終わるベキートではない。彼は皮肉たっぷりの口調で、シャバーンにとどめを刺した。
「あー。そ、う、い、え、ば。プロポーズも、ジーニーに頼んだんだって?それも忙しいからかぁ?」
「なっ、なっ、なんでそれをお前が知ってるんだ!!?」
「昼間に聞いちゃったもんでな。悪く思うなよ、お前の声がデケェのが悪いんだぜ」
シャバーンは唇を震わせながら、憎ったらしいコブラを睨みつけることしかできない。もちろんベキートにとって、そんなことは何一つ問題ではない。
ベキートは、ラティーファを除いて唯一この家でシャバーンと対等に話せる存在である。そもそもベキートは、五十年以上生きる珍しい蛇だった。
何故か生まれつき言葉を操る才を持っていても毒
を持たなかった彼は、同族たちとは馴染むことが
出来なかった。そんなベキートが独りでアグラバ
ーを彷徨っているところを、拾い上げてくれたの
が貧乏マジシャン時代のシャバーンだった。そのときは特段困っているわけでもなかったが、内心でベキートは自分の持つ個性を活かす場所を密かに探していた。お陰様で弁の立つという才能は死なずに済んだわけだが、今の問題は別のところにあった。成功しても、シャバーンは所詮シャバーン。会計管理も滅茶苦茶だが、計画性もゼロ。このままでは行き当たりばったりな経営の末破産してしまう。そう考えたベキートは、自らマジックショーの副支配人を勝って出たのだ。その結果、面倒な仕事はすべてベキートがこなしてくれるようになったので、シャバーンはついに何も言い返せなくなってしまったのだ。
そんなふうに、2人は決して友人関係ではないのだが対等な関係に変わっていった。いわば、ビジネスパートナーという言葉がぴったりな関係に成り果ててしまったのだ。それでも時折文句を言ってくるため、ベキートとしてはショーの運営を円滑に進めるためにも次のプランを考えざるを得なかった。
それは、シャバーンとラティーファの結婚だ。ベキートの算段は、言いづらいことやシャバーンが文句を言いそうなことはすべて、ラティーファに言わせてしまおうというものである。事実、シャバーンはラティーファの言葉となると、どんなことでも右へ倣えで二つ返事の有様だ。
これを利用しない手は無ぇだろう。
そんなことを考えているとは露知らず、シャバーンは大きなため息を漏らして懐からリングケースを取り出した。小さな箱を落ち着き無く両手で弄びながら、彼は小声で零した。
「…………わしはな、怖いんだ」
「何が怖いんだよ。今じゃあお前は、世界一のマジシャンだ。たとえそれがどんな手段の結果だとしてもな。身分だってもう問題じゃあない」
何か文句が跳ね返ってくると思ったベキートは、咄嗟に構えた。だが、返ってきたのは意外にも哀しげな笑顔だった。
「…………ああ、わしは今や世界一偉大なマジシャンだ。それにラティーファの父親――――ハイサム様の婚約申入状も持っている。だが…………」
「…………だが?」
そこまで言うと、シャバーンは息を吸った。そしてこう告げた。
「――――だが、結局一度も…………わしは自分から結婚してほしいとは言い出せなかった」
んなことどうでも良いだろ。
ベキートはカウチからずり落ちそうになりながらも、必死に声を作ってフォローした。
「おいおい、婚約してるんだから大丈夫だろ。親の決めた結婚は絶対。それが良くも悪くもアグラバーの慣習だろ?」
「いや、そうだが…………」
そう言いながら、シャバーンは肩を落とした。どうやら他にも悩みはあるらしい。
「あの娘が…………ラティーファが、わしを本当に男として好きなのかどうかが、時々分からなくなるんだ」
あー、そういうことね。
頭を尻尾で掻きながら、ベキートは苦笑いを浮かべた。確かに、ラティーファの『好き』は今ひとつ落としどころに欠ける節がある。何より2人はあまりにも身体的接触が少ない。もちろんシャバーンの方は常に、ラティーファと手を繋いだりあわよくばキスをしたりするチャンスを伺っている。だが、肝心のラティーファの方が全く無関心なのだ。事実、手を繋いだのも今年の春祭りが初めてだったわけである。とはいえ、彼女が全くシャバーンを男として意識していないわけではないことを、ベキートはきちんと見抜いていた。単に、彼女が《幼すぎる》だけなのだ。
「仕方ないだろ、あの子は深窓の令嬢だったんだから。逆にそんだけ手練れてる娘なんて、お前は好きじゃないだろ?なんてったって、情けない自分でも常に優位に立ってリードできる。そんな娘をずっと探していたわけだからな。…………違うか?」
ベキートの言い分に、シャバーンはぐうの音も出ない。彼は珍しく消え入りそうな笑みを浮かべると、小箱を握りしめた。
「…………ああ、そうだな。わしは本当に、欲深い男だよ」
「いや、情けない男なだけだ」
「どっちでもいいさ」
そう言うと、シャバーンは立ち上がってベキートに満面の笑みを向けた。その笑顔はいつものシャバーンそのものの、自信に満ちあふれたものだった。
「さ、ショーの準備をしないとな」
「…………明日のか?」
「いや、違う」
首を横に振りながら、彼は親指と人差指でリングケースを摘んで見せた。それから偉大なマジシャンらしくこう告げた。
「――――愛しのラティーファのために、最初で最後のワンマンショーをするのさ」
その1週間後、ラティーファはいつものように洗濯を終えて、洗濯籠を抱えて右往左往していた。けれども今日の彼女は、突然飛び出してきた赤い影に悲鳴をあげた。
「きゃっ!!」
「ラティーファ!びっくりした?」
「もう、びっくりどころじゃないわよ…………」
しかし、取り落としそうになった洗濯籠は、珍しくシャバーンの手で支えられている。いつもと違うキレの良い動きにただならぬ雰囲気を感じ取ったラティーファは、居住まいを正して尋ねた。
「…………どうしたの?」
「ラティーファ。今日の夜はわしに時間をくれないか」
「え…………」
戸惑うラティーファをよそに、シャバーンは有無を言わせない圧で再度尋ねた。
「くれるよな、時間」
「え、ええ。もちろん」
選択肢の決まり切った質問に違和感を覚えながらも、ラティーファは素直に頷いてみせた。YESの返事を取り付けたシャバーンは、その場でスキップしたい気持ちを抑えてわざとかっこつけてみせた。
「…………ありがとう。じゃあ、今日は早めの夕食にしよう。食事が終わったら離れの部屋に迎えに行くから、ベランダで待っていなさい」
明らかにいつもと違う様子に当惑しっぱなしのラティーファは、狼狽えながら尋ねた。とはいえ決して嫌ではなさそうだ。
「ええと、シャバーン様。あの、どこに行くの…………?」
「迎えに行ってからのお楽しみだよ」
「えっと…………」
頑なに秘密を隠し通す様子に、不安を覚えたラティーファの表情が陰る。それを見たシャバーンは、サッと華奢な手を取って彼女の身体を抱き寄せた。ふわりとその場に、サンダルウッドのエキゾチックな香りが舞う。
「――――もう知りたいのか?」
目と鼻の先にシャバーンの顔が近づく。ラティーファは頭が真っ白になったと思うと、頬を一気に紅潮させて息を呑んだ。耳まで真っ赤になった顔を見て、シャバーンは少しだけ目を丸くした。それから小さな声で呟いた。
「…………悩んで損した」
「え…………?」
「なんでもないよ、ラティーファ」
華麗に手を離してやると、シャバーンはニコリと笑った。チャーミングで眩しすぎる笑顔を前に、またしてもラティーファの心臓が跳ねる。
「じゃ、また後でね」
「え、ええ…………」
そう言い残すと、彼は颯爽とローブを翻して去っていってしまった。残されたラティーファはジーニーとベキートの方を振り返ったが、彼らはただ気まずそうに目を逸らすだけだった。
そんなシャバーンの隣に、気まずそうな表情を浮かべるジーニーがやって来た。次回の公演についての話があるようだ。
「あの…………シャバーン様」
「なんだ、わしの邪魔をするな」
人の姿を取っているジーニーは、やれやれと肩を竦めたがそのまま主人の隣に腰掛けた。シャバーンの方も、ラティーファの耳に入ってはいけないと思ったのか、態度を改めて微笑みを作っている。
「で、何の用かな?わしのアシスタント、ジーニー君」
全く。調子っつーか、要領のいいやつだ。
魔人はため息を飲み込むと、次回公演の話を始めた。その間も、シャバーンはラティーファの一挙一動のほうが気になるらしく、生返事しか返さない。そしてついに、ジーニーの方が我慢の限界を迎えた。
「…………シャバーン様!」
「あぁ??……何だ」
「こっちの話も聞いてもらえません?こちとらあんたの願いを叶えるために、契約外労働してやってんだからさぁ」
丁寧な苦情を受けて、シャバーンは顔をしかめた。そして誰にも聞き取れないような小さな声で、こう呟いた。
「…………お前が自由に目立ちたいだけだろ」
「え?」
「いや、なんでもない」
シャバーンはジーニーの肩を掴むと、ラティーファの方を指差して微笑んだ。その表情には、他の人に向けるような意地の悪さは微塵も感じられない。蕩けそうな目尻と満面の笑みを浮かべながら、彼は恋慕のため息を漏らした。
「ジーニー、見てみろ。あの子は…………本当に天使だ。しかも、わしのものなんだ」
「はいはい、そうですね」
鬱陶しそうな返答を投げてくるジーニーに、シャバーンは不満げな顔を向けた。
「なんだその言い方は。あ、分かった。お前、わしに嫉妬してるな?」
呆れを通り越して哀れになってきたのか、ジーニーは憐憫の混じった声で否定した。
「違いますよ。アナタのものって言われても、お二人はただの婚約関係じゃないですか」
そう言われると、途端にシャバーンは借りてきた猫のように小さくなってしまった。どうやら自覚はあったらしい。彼は懐から小さな箱を取り出すと、震える手でジーニーに渡した。魔人が蓋を開けると案の定、そこにはダイヤの婚約指輪が並んでいた。ほんの少しだけ感心したジーニーだったが、その気持ちは直ぐに裏切られることになる。シャバーンはもじもじしながら、小声でアシスタントにこう言った。
「…………これ、あの子に渡してきてくれないか」
「それって願い事?2つ目にカウントしていい?」
「ちっ、違う!そもそも、渡すくらいは出来るだろ」
これには流石のジーニーも呆れて言葉が出てこない。彼は暫し口をパクパクさせると、慌ててリングケースを突き返した。
「ダメです、止めてくださいこんなこと」
「何でだよ!あいつだってわしの気持ちくらいは分かってるだろうし、婚約してるならそのうち結婚することくらいは――――」
言い終わるより前に、ジーニーの人差し指がシャバーンの口に充てがわれる。不満げな主人を置いて、魔人は険しい面持ちで首を横に振った。
「いいですか、シャバーン様。これはアシスタントとしてではなく、歴代ご主人を見てきた魔人からのアドバイスです。絶対に、気持ちは自分で伝えるべきだ。でなきゃ上手くいくものも失敗に終わっちまう」
その言葉を聞いたシャバーンは、何かを言い返そうとして口を開いた。だが、言うべき言葉が何も出てこない。やがて彼は自信なさげに肩を落とすと、小さな箱を抱えたままその場を離れてしまった。あまりに寂しそうなその背中を見て、ジーニーはやれやれと首を横に振ることしか出来なかった。
ジーニーの言葉が頭から離れないシャバーンは、陽が落ちても物思いに耽っていた。途中何度かラティーファが心配そうな顔をして茶菓子を持ってきてくれたが、自分の情けなさを責められているような気がした彼は、ついぶっきらぼうな返事をしてしまった。やがて、月が姿を現し、肌寒いアラビアの夜がやって来た。暫く虚ろな顔をしてつきを見ていると、突然背後から物音が聞こえてきた。振り向くと、そこには気怠そうな表情を浮かべているベキートが這っていた。2人は互いにげんなりした表情を向けると、無言で1つのカウチを分け合って腰掛けた。
「…………なんでお前、まだ起きてんだよ」
「考え事だ。お前と違って、わしはマジックショーの支配人だから忙しいんだ」
毒舌には毒舌を。2人の会話はいつも不毛であり、刺々しいものだ。シャバーンの嘘甚だしい発言に対して、ベキートも負けずと言い返す。
「へぇ、支配人ねぇ。ビジネスパートナーにして副支配人の俺様とアシスタントのジーニーにぜーんぶ任せっきりで、どこが忙しいんだか」
そう言われるとぐうの音も出ないらしく、シャバーンはすっかり不貞腐れて頬杖をついてしまった。もちろんここで終わるベキートではない。彼は皮肉たっぷりの口調で、シャバーンにとどめを刺した。
「あー。そ、う、い、え、ば。プロポーズも、ジーニーに頼んだんだって?それも忙しいからかぁ?」
「なっ、なっ、なんでそれをお前が知ってるんだ!!?」
「昼間に聞いちゃったもんでな。悪く思うなよ、お前の声がデケェのが悪いんだぜ」
シャバーンは唇を震わせながら、憎ったらしいコブラを睨みつけることしかできない。もちろんベキートにとって、そんなことは何一つ問題ではない。
ベキートは、ラティーファを除いて唯一この家でシャバーンと対等に話せる存在である。そもそもベキートは、五十年以上生きる珍しい蛇だった。
何故か生まれつき言葉を操る才を持っていても毒
を持たなかった彼は、同族たちとは馴染むことが
出来なかった。そんなベキートが独りでアグラバ
ーを彷徨っているところを、拾い上げてくれたの
が貧乏マジシャン時代のシャバーンだった。そのときは特段困っているわけでもなかったが、内心でベキートは自分の持つ個性を活かす場所を密かに探していた。お陰様で弁の立つという才能は死なずに済んだわけだが、今の問題は別のところにあった。成功しても、シャバーンは所詮シャバーン。会計管理も滅茶苦茶だが、計画性もゼロ。このままでは行き当たりばったりな経営の末破産してしまう。そう考えたベキートは、自らマジックショーの副支配人を勝って出たのだ。その結果、面倒な仕事はすべてベキートがこなしてくれるようになったので、シャバーンはついに何も言い返せなくなってしまったのだ。
そんなふうに、2人は決して友人関係ではないのだが対等な関係に変わっていった。いわば、ビジネスパートナーという言葉がぴったりな関係に成り果ててしまったのだ。それでも時折文句を言ってくるため、ベキートとしてはショーの運営を円滑に進めるためにも次のプランを考えざるを得なかった。
それは、シャバーンとラティーファの結婚だ。ベキートの算段は、言いづらいことやシャバーンが文句を言いそうなことはすべて、ラティーファに言わせてしまおうというものである。事実、シャバーンはラティーファの言葉となると、どんなことでも右へ倣えで二つ返事の有様だ。
これを利用しない手は無ぇだろう。
そんなことを考えているとは露知らず、シャバーンは大きなため息を漏らして懐からリングケースを取り出した。小さな箱を落ち着き無く両手で弄びながら、彼は小声で零した。
「…………わしはな、怖いんだ」
「何が怖いんだよ。今じゃあお前は、世界一のマジシャンだ。たとえそれがどんな手段の結果だとしてもな。身分だってもう問題じゃあない」
何か文句が跳ね返ってくると思ったベキートは、咄嗟に構えた。だが、返ってきたのは意外にも哀しげな笑顔だった。
「…………ああ、わしは今や世界一偉大なマジシャンだ。それにラティーファの父親――――ハイサム様の婚約申入状も持っている。だが…………」
「…………だが?」
そこまで言うと、シャバーンは息を吸った。そしてこう告げた。
「――――だが、結局一度も…………わしは自分から結婚してほしいとは言い出せなかった」
んなことどうでも良いだろ。
ベキートはカウチからずり落ちそうになりながらも、必死に声を作ってフォローした。
「おいおい、婚約してるんだから大丈夫だろ。親の決めた結婚は絶対。それが良くも悪くもアグラバーの慣習だろ?」
「いや、そうだが…………」
そう言いながら、シャバーンは肩を落とした。どうやら他にも悩みはあるらしい。
「あの娘が…………ラティーファが、わしを本当に男として好きなのかどうかが、時々分からなくなるんだ」
あー、そういうことね。
頭を尻尾で掻きながら、ベキートは苦笑いを浮かべた。確かに、ラティーファの『好き』は今ひとつ落としどころに欠ける節がある。何より2人はあまりにも身体的接触が少ない。もちろんシャバーンの方は常に、ラティーファと手を繋いだりあわよくばキスをしたりするチャンスを伺っている。だが、肝心のラティーファの方が全く無関心なのだ。事実、手を繋いだのも今年の春祭りが初めてだったわけである。とはいえ、彼女が全くシャバーンを男として意識していないわけではないことを、ベキートはきちんと見抜いていた。単に、彼女が《幼すぎる》だけなのだ。
「仕方ないだろ、あの子は深窓の令嬢だったんだから。逆にそんだけ手練れてる娘なんて、お前は好きじゃないだろ?なんてったって、情けない自分でも常に優位に立ってリードできる。そんな娘をずっと探していたわけだからな。…………違うか?」
ベキートの言い分に、シャバーンはぐうの音も出ない。彼は珍しく消え入りそうな笑みを浮かべると、小箱を握りしめた。
「…………ああ、そうだな。わしは本当に、欲深い男だよ」
「いや、情けない男なだけだ」
「どっちでもいいさ」
そう言うと、シャバーンは立ち上がってベキートに満面の笑みを向けた。その笑顔はいつものシャバーンそのものの、自信に満ちあふれたものだった。
「さ、ショーの準備をしないとな」
「…………明日のか?」
「いや、違う」
首を横に振りながら、彼は親指と人差指でリングケースを摘んで見せた。それから偉大なマジシャンらしくこう告げた。
「――――愛しのラティーファのために、最初で最後のワンマンショーをするのさ」
その1週間後、ラティーファはいつものように洗濯を終えて、洗濯籠を抱えて右往左往していた。けれども今日の彼女は、突然飛び出してきた赤い影に悲鳴をあげた。
「きゃっ!!」
「ラティーファ!びっくりした?」
「もう、びっくりどころじゃないわよ…………」
しかし、取り落としそうになった洗濯籠は、珍しくシャバーンの手で支えられている。いつもと違うキレの良い動きにただならぬ雰囲気を感じ取ったラティーファは、居住まいを正して尋ねた。
「…………どうしたの?」
「ラティーファ。今日の夜はわしに時間をくれないか」
「え…………」
戸惑うラティーファをよそに、シャバーンは有無を言わせない圧で再度尋ねた。
「くれるよな、時間」
「え、ええ。もちろん」
選択肢の決まり切った質問に違和感を覚えながらも、ラティーファは素直に頷いてみせた。YESの返事を取り付けたシャバーンは、その場でスキップしたい気持ちを抑えてわざとかっこつけてみせた。
「…………ありがとう。じゃあ、今日は早めの夕食にしよう。食事が終わったら離れの部屋に迎えに行くから、ベランダで待っていなさい」
明らかにいつもと違う様子に当惑しっぱなしのラティーファは、狼狽えながら尋ねた。とはいえ決して嫌ではなさそうだ。
「ええと、シャバーン様。あの、どこに行くの…………?」
「迎えに行ってからのお楽しみだよ」
「えっと…………」
頑なに秘密を隠し通す様子に、不安を覚えたラティーファの表情が陰る。それを見たシャバーンは、サッと華奢な手を取って彼女の身体を抱き寄せた。ふわりとその場に、サンダルウッドのエキゾチックな香りが舞う。
「――――もう知りたいのか?」
目と鼻の先にシャバーンの顔が近づく。ラティーファは頭が真っ白になったと思うと、頬を一気に紅潮させて息を呑んだ。耳まで真っ赤になった顔を見て、シャバーンは少しだけ目を丸くした。それから小さな声で呟いた。
「…………悩んで損した」
「え…………?」
「なんでもないよ、ラティーファ」
華麗に手を離してやると、シャバーンはニコリと笑った。チャーミングで眩しすぎる笑顔を前に、またしてもラティーファの心臓が跳ねる。
「じゃ、また後でね」
「え、ええ…………」
そう言い残すと、彼は颯爽とローブを翻して去っていってしまった。残されたラティーファはジーニーとベキートの方を振り返ったが、彼らはただ気まずそうに目を逸らすだけだった。
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