【ヘラクレスクロスオーバー短編】メガラの友達
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ギリシャの都は今日も華やかで明るい。そんな街の雰囲気とは正反対のメガラことメグは、ため息をつきながら大理石に輝く広場を見下ろしていた。
「…………ホント、呑気で楽しそうねぇ」
所謂ダウナー系美女のメグは、ボリューム満点の美しい髪を撫でながらハデスからの指令書を流し見た。そこには、ヘラクレスという青年の抹殺計画が書かれている。うまく行きそうにない計画を鼻で笑いながら、メグは独り言を吐いた。
「あんな怪力ボーイに、凡庸な作戦で勝てるとでも思ってんのかしら。ホント、男って――――」
「バカみたい、って言いたいの?」
「そうそう、ホント馬鹿みたいだし無責任だし――――」
なんだ、ギリシャにも頭お花畑じゃない女の子が居たんだ。
そんなことを思いながら、メグは大真面目に頷いた。暫し、彼女は沈黙した。そして慌てて振り返った。
そこには褐色の健康的な肌をした、黒髪の娘が立っていた。身長はかなり高く、スタイルのいいメグでも思わず息を呑むほどに脚が長い。唖然とする彼女を置いて、娘は透明感のある朗々とした声でこう言った。
「あなたの意見に同意するわ。私もやってらんない」
ため息をつきながら隣に腰掛ける娘を見て、メグは少しだけ同情した。それに友達の居ないメグにとって、同性の話し相手がいることはほんの少しだけ新鮮に思えた。
「……あんた、訳アリ?」
「ええ、まあそんなとこ」
娘は苦笑いを浮かべると、此処数日で起きたことを反芻しながら話し始めた。
「私の夫がギリシャでマジックの巡業をするのはいいんだけど、すっかり調子に乗っちゃって……使いもしないおっきなマジック道具を買いたいって、朝からずっと駄々こねるのよ」
「大きな赤ちゃんね」
若干皮肉が混じっているコメントに、娘が一瞬困惑した眼差しを向ける。その反応を見て、メグは慌てて訂正した。
「あー、えーっと、つまりアレよね。面倒くさいやつよねってこと」
「そうそう、ホント何考えてるのかしら」
娘は頬杖をつくと、遠い目をした。だが、その眼差しに恋心がしっかり宿っていることに気づいたメグは、自虐的な笑いをこぼした。
「……でも、好きなんだ」
「えっ?」
「顔に好きって書いてる。その人のこと」
相手の指摘に、娘は少しだけ驚いてから微笑みを零した。気品溢れる笑い方に、メグは思わずドキリとした。
やだ、この子の隣ってちょっと苦手かも。
まるで自分の立ち居振る舞いを庶民っぽいとけなされているような気がして、メグは少しだけ気が引けた。だがそれ以上に、娘の優しさとなんとも言えない暖かさに惹かれているのも事実だった。気まぐれに、彼女はこんなことを尋ねた。
「名前は?」
その質問が嬉しかったのか、娘はふわりと微笑んで答えた。
「ラティーファ。アラビアにあるアグラバーって国から来たの。アグラバーの言葉で、『優しさ』って意味の名前よ」
「ラティーファ……」
異国情緒溢れる不思議な語感に、メグは少しだけ興味関心を抱いた。彼女はラティーファに手を差し出すと、目を細めて小首を傾げた。
「あたし、メガラ。友達はみんなメグって呼んでる。いたら、だけど」
ラティーファは躊躇なくその手に自分の手を重ねると、満面の笑みを返した。
「よろしくね、メグ」
友達の居ないメグにとって、他人――――しかも女の子から発せられる自身のあだ名は、非常に新鮮なものだった。そして嬉しさのあまり、彼女はついこんな提案をしてしまった。
「ねえ、ラティーファ。あたしが街を案内してあげる」
友達がいないとはいえ、独りの時間を潰す方法は一通り試したことのあるメグにとって、街の案内は朝飯前だった。所謂ギリシャ美人のメグと、異国情緒溢れるラティーファの取り合わせは、瞬時に人々の視線を惹きつけた。もちろんそんなことを気にする素振りの無いラティーファは、目に映る全てのものに瞳を輝かせている。
「わあ……ギリシャってすごいわね。アグラバーには、壺とかオリーブの油漬けとか、あとは絹くらいしか届かないから」
「ふーん。ラティーファ、あんたってお金持ちなのね」
メグの素直な感想に、ラティーファは特に何も考えず答えた。視線の先には精巧な大理石の工芸品がある。
「まあ、父が国務大臣だから」
「ふーん、ナンバーワンの大臣様のお嬢さんね。そりゃ絹も壺も――――って、大臣様!?」
メグは10年に一度見せる驚き様で、隣に居る娘を見た。
この子が、国務大臣のお嬢様ですって!?
相手の反応に気づくと、ラティーファは苦笑いを浮かべながら訂正した。
「今はマジシャンの妻よ。令嬢じゃなくて、普通の女なの」
「それでも十分だと思うけど……」
苦笑いを浮かべながら、ふとメグはこんなことを考えた。
「あれ?なんで貴族の超お嬢が、マジシャンなんかと結婚したわけ?」
あっ、『なんか』は余計だったかも。
メグのような質問は多いのか、幸いにもラティーファは嫌な顔一つせず答えてくれた。
「うーん、まあ……お父様の決めた縁談だったから」
その返答は、ますますメグを混乱させた。彼女は眉間にシワを作ると、頭を抱えて後退りした。
「待って、ちょっと整理させて。ええと、アグラバーって国では自由恋愛出来ないわけ?」
数日の滞在でもギリシャの自由な気風を感じていたラティーファは、最もな質問に苦笑を漏らした。そして旅先で出来た友人に誤解されないように、彼女は丁寧に話し始めた。
「そうね、アグラバーはちょっぴり親の決めたことが強いのかも。だけど、私は元からその方のことを知っていたし、子供の頃から好きだったの。だから、事実上恋愛結婚なんだと思う」
「へぇ……それは安心したわ」
メグは他人事にも関わらず胸を撫で下ろすと、安堵のため息を漏らした。そんな彼女を置いて、ラティーファはとある商品に目を留めた。
「ねえ、この人って人気なの?ほら、あの……ヘラクレイトスとか言う人」
「ヘラクレイトス?何そのもっさい名前」
メグは顔をしかめながらラティーファの示す方を見た。そこには、眩しい笑顔のヘラクレス――――メグのワンダーボーイのグッズが陳列されている。彼女は苦笑いすると、フィギュアを一つ手にとってこう言った。
「違う違う、ヘラクレス。ハークって呼ばれてるの」
「ふぅん、ヘラクレスって読むのね。……どんな人なの?マジシャン?それとも大道芸人?」
ラティーファの問いに失笑を漏らしながら、メグはヘラクレスのポスターを指先で撫でた。そして若干の偏見と美化フィルターを織り交ぜながら説明を始めた。
「ヘラクレス――――ワンダーボーイはねぇ、ヒーローなの。すっごく怪力で、欠点がないの。笑顔はチャーミングで、スーパースター。それに、すっごくモテるの」
一通り話し終えて、メグはハッとした。これは人物紹介ではない。ただの萌え語りだ。頭を抱えるメグを置いて、察しのいいラティーファはニコニコと笑っている。彼女はポスターのヘラクレスを観察しながら、メグとヘラクレスを交互に見て微笑んだ。
「へぇー」
「なっ、何よ」
なるほど、この子天邪鬼なのね。
存外鋭い相手に危機感を覚えたメグは、慌てて話を逸らそうと試みた。今度はラティーファが困る番だ。
「そっ、それよりアンタの旦那様は?アラビアの若くて逞しいイケメンとか?」
「あー…………」
ラティーファは一瞬考えた。彼女の夫、偉大なマジシャンのシャバーンはイケメンではあるが、残念ながら逞しくも若くもない。
一から説明するの、大変…………
年の差婚が多いアグラバーでも、ラティーファとシャバーンのことについては説明するのが少々難しいときがある。それを別の国の、しかも初対面の人に話すのはなかなか勇気がいることだ。
さて、ラティーファがどうしたものかと考えあぐねているうちに、メグの隣に誰かがやって来た。壁のポスターとその人を見比べ、彼女は悲鳴を上げた。
「えっ!?ヘラクレス殿!?」
その人――――ヘラクレスはラティーファの反応に、はにかんだ笑みを浮かべた。それからすぐ、メグの隣に誰かがいることが大変珍しいと気づいた。
「わお、メグの友達?」
友達、と尋ねられてメグは少しだけ嬉しそうな顔をした。だがすぐに、出会って数時間しか経っていない人を友達と呼ぶのはあまりにも軽率だと思い直し、普段のクールな素振りに戻った。
「あー、えーと…………多分だけど、私はそう思い始めてるけど、相手はそう思ってないってヤツかな」
意外にもその言葉に、ラティーファは笑ってくれた。彼女はメグの手を取ると、満面の笑みでこう言った。
「あらま。私もそう思ってたの!じゃあ、お互いもう友達ね」
「友……達……」
驚きで目を見開きながらも、メグは口元を綻ばせている。そんな二人に、ヘラクレスはこんな提案をした。
「そうだ!今からちょうどフィルと2人で、演劇か何か見に行こうと思ってたんだ。メグと……えーと…………」
失礼、お名前は?と聞くより先にメグが答える。
「ラティーファ。アグラバー王国国務大臣の娘さん」
「えっ?こっ、国務大臣の!?」
端的、というより簡素で雑然とした説明でも、やはり国務大臣の娘というのはインパクトが強いらしい。ヘラクレスが素っ頓狂な声を上げていると、向こうから半人半ヤギの男――――ピロクテテスことフィルが現れた。彼はメグを見て少しだけ嫌そうな顔をしたが、隣に立っているラティーファが好みらしくすかさずアタックを始めた。
「お嬢さん、初めまして!とっても可憐で愛らしい人だ……」
「あらま。そんなに褒めてくれるなんて、ありがとう」
「いやはや、良かったらご一緒に観劇など…………」
フィルの意図を理解していないラティーファを見て、メグはため息をついた。そして二人の間に割って入ると、厳しい口調で告げた。
「ヤギオヤジ、既婚者にアタックするのは止めなさい」
既婚者、と聞いてフィルの思考が止まる。ラティーファはようやく何が起きたのか理解すると、苦笑いしながら補足した。
「私、結婚してるの」
その言葉に、フィルはいつかの時に出会ったアラビアのお姫様のことを思い出した。彼はげんなりした顔で肩を落としながら呟いた。
「またコレか…………」
「え、またってどういうこと?」
不思議そうに首をかしげるラティーファを置いて、フィルは絶叫した。
「アラビアの美女は、みんな結婚してるのか……?あーっ、羨ましい!旦那の顔が見てみたいわ」
そんなフィルの言葉に、メグは何かを思いついたようか顔をした。そしていつもより少しだけ明るい声でこう言った。
「ねえ。観劇じゃなくて、マジックショーにしない?」
ラティーファは複雑な気分でマジックショーの受付に並んでいた。ヘラクレスが全員分のチケットを買おうとして身を乗り出すと、中からターバンを巻いたコブラが現れた。反射的に悲鳴を上げて殴り倒そうとするヘラクレスを慌てて止めると、ラティーファはヘビ――――ベキートに手を振った。
「ベキート、大人4人でお願い。ヘラクレスさん、今日は私からチケットをプレゼントさせて」
「なんだ、ラティーファか。営業ご苦労さん」
マジックショーの呼び込み営業だと思い込んでいるベキートに、彼女は慌てて首を横に振った。
「違う違う、友達よ」
「友達ぃ!?良くも悪くも、アンタの社交性は親父さん譲りだな」
ベキートが感心する一方、ヘラクレスたちは当惑していた。何しろ、喋るヘビを目の前で見ているわけだ。驚くなと言う方が難しいだろう。
「メッ、メグ。僕、なんか見間違えた?」
「ううん、たしかにヘビが喋ってる。……ちょっと喋り方が知人に似て、複雑な気分かも」
「喋るヘビだと!!?あれも怪物か!?」
好き勝手に色々言われているベキートは、ついに牙を剥き出しにして怒鳴った。その傍らで、ラティーファは粛々とチケット発行を自身で行っている。
「おーい、ぜんぶ聞こえてるぞぉ。少なくとも、下半身ヤギのおっさんにはとやかく言われたかぁねぇよ!」
よく考えると、ベキートの意見も一理ある。ヘラクレスは自身の師と喋るヘビを見比べて納得したように頷いた。
「たしかに。フィルもヤギだ」
「おい、ハーク。そりゃどういう意味だ」
さて、そんな風に外で騒いでいるところに、休憩のために散歩していたクリストフ・ゴールデン・クロイツが通りかかった。シャバーンという騒がしい男と一緒に居るせいで耐性がついたのか、彼は何事もなかったかのように挨拶をした。
「どうも、クリストフです。夕方の回のお客さんかな?」
「そうよ」
ラティーファの淡泊な返事に振り返ったクロイツは、形相を変えて肩を揺さぶった。どうやら彼女のことをずっと探していたらしい。
「どっ、どこ行ってたのラティーファちゃん!」
「え、何。どうしたの?」
当惑しているラティーファを置いて、クロイツは今にも泣きそうな声で続けた。メグたちは最早一言も発せず唖然としている。
「君の旦那がずーっと探してたよ!もー、あいつの機嫌治すの大変だったんだから!」
「……私のせいじゃないし、あの人も大人になってほしいものね」
クロイツを冷たくあしらうと、ラティーファは肩を竦めた。それから元の笑顔に戻ると、チケットをメグたちに渡した。
「はい、チケット。まだ前の方残ってたから取っといたわ」
「あー……ありがとう」
良く言えば表情豊か、悪く言うと表情の使い分けが見え隠れするラティーファに、メグは少し当惑した。新しい友達の不安に気づいたラティーファは、そっとその肩に触れて微笑んだ。
「ごめんなさい、不安にさせちゃったわね」
「ううん、大丈夫。なんか、大変そうね」
「そうね、でも気にしないで。いつものことだから」
ラティーファはにこりと笑うと、テントの入り口に手をかけた。
「さ、どうぞ。素敵な時間になりますように」
促されるまま、メグたちはテントの中に足を踏み入れた。ラティーファは3人にチャイとラッシーどれが飲みたいか確認してから、それぞれにドリンクを手渡した。メグはチャイの味がすっかり気に入ったらしく、上機嫌に自席へ着いた。ヘラクレスとフィルはラッシーとナンサンドを齧りながら、豪奢なテントを見回してため息をついている。
やがて席は徐々に満席となり、いよいよショーの時間がやってきた。ラティーファはメグの隣に座ると、久々に観客席に座る気分を味わった。一方、メグはどれがラティーファの夫なのかと、いろいろな人を見つけては尋ねる動作を繰り返している。
「ねぇ、あのメガネの子は?ちょっと若すぎ?」
「アシームかしら?夫のアシスタントよ」
「惜しい……!ねぇ、旦那さんが出てきたら私に教えてよね。約束よ」
ラティーファはジャスミンティーを一口飲んでから、無言で頷いた。結局一度も説明するチャンスが無かったことは一抹の不安だが、メグなら分かってくれる。何となくそんな気がしていた。
その時、ちょうどベキートのアナウンスが響いた。いよいよショーが開始するのだ。
「レディース・アンド・ジェントルマン!いよいよ、アラビアのマジシャンたちの登場です!」
そう言われて最初に出てきたのは、クロイツとレイハーネだった。彼は相変わらず大道芸をしているが、そのレベルの高さはギリシャでも通用するらしい。
続いて現れたのは、フリードとナウラだ。ここでメグがラティーファに耳打ちした。
「ねぇ、あの人でしょ。絶対そうでしょ」
「あ、フリードね。彼は夫の友達よ」
「あの人も違うの?えー、じゃあもう分かんないわ」
メグがため息をついたその時だった。良い声なのに間の抜けた喋りがその場に響き渡る。
「はいはいどうも、サラーム!とうとうこのシャバーン、ギリシャまで来ちゃったよ」
…………あら、可愛らしいおじさんじゃない。
まさか、と思いながらメグはため息混じりに尋ねた。ありえない、と思いつつも念の為聞いておいたほうがいいだろうと考えたのだ。
「なんか、すごく…………可愛いおじさんね。まさか、あの人が――――」
横を向いたメグは、目を丸くした。ラティーファがその可愛いおじさんを、心の底から愛しそうに見つめているからだ。
大好きなのね、その人のこと。
一途に相手を思うラティーファの姿を、少しだけメグは遠く感じた。同時に彼女のように素直になれたらと思いながら、メグはチラリと隣に座っているヘラクレスを見た。
「…………もう恋なんて、したくないのに」
その呟きは万雷の拍手にかき消され、届くことは無かった。
マジックショーが終わると、ラティーファは片付けに勤しむアシームたちを手伝っていた。メグたちもタダで招待してくれたお礼にと、チケットの集計を手伝ってくれている。だが、突然その場にやってきたシャバーンが、ラティーファの手を掴んで怒り始めた。
「この大馬鹿!どこ行ってたんだ!知らない土地で勝手に出歩くなんて、危なすぎるだろ」
自分の不安を顕にしてぶつける、シャバーンの悪い癖だ。ラティーファは丁寧に手を振り払うと、腕を組んで小首を傾げた。
「心配してくれてありがとう。だけど、その前に謝ったらどう?」
射られるような眼差しに負けたシャバーンは、我に返ると狼狽した。まるで子猫のようだ、とメグは思った。
「今朝のことはわしも言い過ぎたけど……けど、わしを置いてどっか行くなんて思わんじゃん!」
そう言うと、シャバーンは人目も憚らずラティーファを抱き締めた。どうやら単に寂しかっただけらしい。
「うえーん、ラティーファ…………お前は可愛いし綺麗だし目立つから、変なやつに絡まれたらと思うと心配だったんだ…………」
「ちょっ、ちょっと。人が見てるから止めなさい、ほら離れて…………!」
ラティーファはシャバーンを引き剥がすと、肩で息をしながら苦笑いを浮かべた。周囲は安堵のため息を漏らしている。どうやら、この二人の仲直りはいつもこんな感じらしい。シャバーンはようやく落ち着いたのか、ヘラクレスたちに向き直って礼を述べた。
「わざわざ手伝ってくれるなんて、ありがとね」
ヘラクレスは大きなマジック道具をやすやすと持ち上げながら、はにかんだ笑みを零した。彼は片手を空けると、握手をするためにシャバーンに手を差し出した。何も知らないマジシャンは、躊躇せずその手を握っている。
「ラティーファさんに招待してもらえたんですから、これくらい当然ですよ!それより、怪物とか倒す仕事は無いですか?僕、職業がヒーローなので」
「ひ、ヒーロー?」
素っ頓狂な声を上げるシャバーンに、メグが説明を加えた。
「この子、ヒーローなの。ゼウスの息子で、怪力なのよ」
「怪力……」
シャバーンはハッとして、ヘラクレスから手を離した。すかさずラティーファがその手を叩く。
「シャバーン様、失礼よ」
「だっ、だってわし非力だもん」
…………ハークと真反対な人ね。
メグはすっかり萎縮しているシャバーンを見て、何となくそんな事を考えていた。ラティーファはシャバーンを叩き起こすと、改めて自分の友達を紹介し始めた。
「改めまして、こちらメガラ。今日は都をたくさん案内してくれたの。私の友達!」
シャバーンはメグの方を見ると、非常に薄いリアクションで返答した。どうやらラティーファ以外の女性に頓と興味がないらしい。
「初めまして、シャバーンです」
「どうも、メグって呼んでください」
刹那、2人の目が合う。握手を交わしながら、シャバーンは小声でつぶやいた。
「…………君、嘘は止めといたほうが良いよ」
「えっ――――」
手を離すと、シャバーンはいつもの明るい表情に戻っていた。彼は何事も無かったようにこう言った。
「じゃ、せっかくなんでカレーでも食べていってよ。香辛料とか大丈夫なタイプ?」
「カレー?」
初めて聞く名前の食べ物に、ヘラクレスが首を傾げる。シャバーンは彼の肩に手を回すと、嬉しそうに説明を始めた。
「そうそう。アグラバーの伝統料理!わしの大好きな食べ物です」
「もー!別に良いけど、作るのはアシームと私なんだから。勝手に決めないでよね」
ラティーファがため息をつく。けれども心の底から怒ってはいなさそうだ。
さてそんな中、一人大層落ち込んでいる人物がいた。フィルである。ヘラクレスは師匠の近くに寄ると、そっと背中を擦りながら尋ねた。
「フィル、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもあるかっ!あんな可愛い娘の旦那が、なんでアレなんだ!?どうなったらそんな話になるんだよぉ……」
シャバーンはフィルのぼやきを拾うと、ラティーファをチラリと見た。それから心のなかでこう思った。
ほらやっぱり。変なのに絡まれてたじゃないか。
シャバーンはヘラクレスがメグのもとに戻ったことを確認した。それから笑顔を作りながらフィルに近づくと、あっけらかんとした声でこう言った。
「わしの女にちょっかい掛けるな、このヤギ男」
シャバーンの言葉に明確な殺意を感じたフィルは、一瞬身震いした。ローストゴートになる覚悟は出来ていないフィルは、苦笑いを浮かべながら手を擦った。
「既婚者だなんて知らなかったんだよ!別にもう、なんとも思ってないから安心してくれ」
「そりゃどうも。まぁそもそも……わしとラティーファは相思相愛だから、隙もないけどね」
「こいつ…………!!」
シャバーンはとびきり意地悪な笑顔を向けた。あからさまに煽られたフィルは、眉をつり上げながら睨みつけた。二人の間には、何故か熾烈な火花が散っている。そして、ラティーファがそんな二人を置いて、カレーの準備を始めようとしたその時だった。
「きゃーっ!」
突然外から悲鳴が聞こえてきた。ラティーファたちが駆けつけると、そこには大きなヘビの怪物がいるではないか。もちろん闘えないシャバーンは、震えながらラティーファの後ろに下がった。流石に情けないと思ったのか、メグがシャバーンを叱責する。
「ちょっと何やってんのよ」
「だっ、だってわし非力だもん…………」
「だとしても、奥さんの後ろに隠れるなんて滅茶苦茶よ!」
2人が言い争いをしているうちに、ヘラクレスが颯爽と怪物に立ち向かっていく。噂通りの怪力で、彼はヘビの怪物を倒してしまった。しかし、それは囮であることに、その場にいる誰もが気づいていない。
そう、ただ一人メグだけを除いて。彼女は実は訳あってハデスと契約しており、その手下として働いているのだ。
そうこうしているうちに騒ぎは収まったが、フリード、クロイツ、そしてアシームたちまで外にやって来た。彼らは大きな怪物を軽々持ち上げているヘラクレスを見て、唖然とした。もちろんアシームは悲鳴を上げながらも、妻の後ろに隠れている主人を怒鳴りつけた。
「シャバーン様!何やってるんですか!!」
「だって怖いんだもん」
まだ震えているシャバーンに、フリードがため息をつく。
「怖いからって奥さんを盾にするのは違うだろ」
「シャバーン様ひどーい」
「よくないよそういうの」
ナウラとレイハーネも、眉をひそめながら小言を口にしている。その間、メグはハデスに言われたとおりに準備を始めていた。だが、どうも乗り気がしない。
そんなふうにもたついていると、とうとう痺れを切らしたボス――――冥界の王ハデスが現れた。彼は一頻り深い溜息を吐くと、変身が解けてヘラクレスに捻られている部下のペインとパニックを睨みつけた。どうやら先ほどの怪物は、この二人が変身していたようだ。
「おい、お前たち…………またこのザマか。もう良い、下がれ」
ハデスは顔を上げると、視線の先に立っているラティーファと目が合った。頭から爪先までじっくりと観察しながら、彼は肩を竦めた。
あー、可愛いけど幼気な子だね。あれに手ぇ出す男っていんのかな。たぶん良心が無いんだろうね。
そんなことを考えながら、彼は静かに首を横に振った。それから大人の女性と言うには少々無邪気すぎるラティーファを一瞥し、ハデスは宿敵ヘラクレスを睨みつけた。
「さーて、ヘラクレスくん。悪いんだけど、ちょっと眠ってもらおうかな」
――――――ダメ!!
プランBの開始に気づいたメグは、ハデスが人差し指をヘラクレスに向ける様子を見てその場に飛び込んだ。彼女がハデスに体当りすると同時に、指先から出た光線は明後日の方向に飛んでいく。
そう、ラティーファの方だ。立ち竦む彼女は、刹那の間に身を捩ることも出来ず光線を凝視することしか出来ない。
「ダメ、ラティーファ逃げて!」
メグの叫びも虚しく、ハデスの死の光線はラティーファめがけて近づいていく。
その時だった。目の前に赤い布が飛び出してきて、彼女の盾となった。その人は光線を正面から受けると、短いうめき声を上げてその場に崩れ落ちた。
ラティーファは呆然と立ち尽くしていたが、やがて何が起きたのかを悟った。我に返った彼女は、服が汚れるのも気にせず、地面に膝をついてその人――――シャバーンを揺すった。
「シャバーン様!?シャバーン様!!起きて、嫌よ。死なないで、なんで……なんで…………嫌よ、目を覚ましてよ!ねぇ!!」
潤む瞳を充血させながら、彼女は必死に愛する人の名を呼んだ。だが、返事はない。眠るように目を閉じて動かないシャバーンを見て、フリードは咄嗟に脈へ手を当てた。
「……止まってる。これは…………」
「そんな…………シャバーン様、嫌よ。お願い、目を覚まして。私のこと一人にしないって約束したじゃない…………」
すすり泣くラティーファを見て、一同は居た堪れない思いに駆られた。そして次の瞬間、全員がハデスを睨みつける。勿論誤射に気まずさを隠しきれない彼は、必死に言い訳を並べ立て始めた。
「いやちょいまち、違うんだよホント。狙いが逸れたっていうかさぁ…………」
「冥界の王かなんだか知らんが、よくもシャバーンを…………!」
そう言いながら、クロイツは武器を手に取っている。いよいよ立場が悪くなったハデスは、助けを求めるようにメグを見た。だが、彼女は全く違うことを考えていた。
私のせいよ、私が…………私が、ヘラクレスを助けるために突き飛ばしたせいで…………!
メグはラティーファのもとに駆け寄ると、その肩を抱いた。
「ラティーファ、ごめんなさい。私のせいよ、全部私が悪いの」
神様同士の諍いに巻き込んでしまって、ごめんなさい。
私と出会ってしまって、ごめんなさい。
私なんかと友達にさせてしまって、ごめんなさい。
あらゆる罪悪感がメグを支配していた。だが、ラティーファはそれでも首を横に振っている。
ああ、この子はそういう子。だから、私も気を許せた。
ますます大きくなる罪悪感を抱えながら、メグはシャバーンを見た。本当に眠っているように思えるが、彼女は友人の夫が既に永遠の眠りについていることを確信していた。
そんな中、ついにラティーファが立ち上がった。彼女は震える足取りでハデスの前まで向かうと、毅然とした態度でこう言った。
「――――お願いします。夫を、返してください」
夫?あれ、親父さんじゃないのか
基本的に言動に反省はしない主義のハデスだが、今回ばかりはやりすぎたと思っているらしく大人しい。ラティーファは悲痛な表情を湛えながら、当惑する死の神に尋ねた。
「夫を生き返らせる方法、知らないの?」
「知らないことはないけど…………えーと…………」
まずい。ここでネタバラシしちまうと、今後の作戦に使えなくなっちまう。
そんなことを逡巡していると、ラティーファがついに折れた。彼女はハデスの胸ぐらから手を離すと、地面にひれ伏して額を付けながら懇願し始めた。
「お願いします、夫を助けてください。お願いですから、あの人を生き返らせる方法を教えてください」
「あー…………」
幼気な子を土下座させちまったよ、俺。
ハデスはやれやれと首を横に振ると、渋々答えた。
「わかったよ。あいつが1番愛している人のキスがあれば生き返る」
ラティーファは顔を上げると、ハデスを見上げた。無垢な眼差しが痛かったのか、彼は目を背けた。
「本当ですか?あの人、それで助かるんですか?」
「ああ、そうだよ。…………あいつにとっての一番が、本当にあんたならな」
ラティーファはもつれる脚で駆け出すと、シャバーンの隣に戻った。彼女は震える手で夫の頬を包むと、躊躇することなく優しく口づけをした。
お願い、戻ってきて…………!
メグも心の中でそう願った。すると、みるみるうちにシャバーンの顔色が戻っていく。そして直ぐに老人のような咳をすると、彼は気怠そうに身体を起こした。目の前には泣き腫らした妻が居る。
「え、わし何してたの?寝てた?」
他人事な反応に、ラティーファは安堵のため息を漏らした。そして人目を憚らず、彼女はシャバーンに抱きついた。
「シャバーン様…………!良かった…………」
ぽかんとするシャバーンと嬉しそうなラティーファを見届けると、ハデスは怒りの矛先がぶり返す前にその場から静かに消えていった。フリードとクロイツ、そしてアシームもシャバーンが生き返ったことに喜んでいる。
「シャバーン様!良かった…………僕、シャバーン様が居なくなったら…………うわあああん…………」
「分かったから泣くな、アシーム。あと、わしのローブに鼻水を付けるな」
号泣するアシームを撫でながら、フリードも安堵の笑顔を浮かべている。少しだけ、目尻に涙が光っているような気がする。
「お前は騒がしいやつだが、居ないと……その……案外、寂しいな」
「フリード、お前…………」
シャバーンの口元が綻ぶ。続いてクロちゃんがダイナミックに抱きついてきた。心優しい彼は、アシームと同じくらいに号泣している。
「シャバーン!良かったー!お前が居ないと張り合う相手が居ないからなぁ!」
「クロちゃん…………」
ラティーファは、自分の夫がたくさんの人に愛されている事実に微笑みを零した。そして、罪悪感に沈んでいるメグの元へ駆け寄った。相手が謝罪の言葉を述べるより先に、ラティーファは力いっぱい抱き締めてこう言った。
「メグ…………!私と友達になってくれて、本当にありがとう。大好き!」
「ラティーファ…………」
その言葉にホッとしたのか、メグも今にも泣き出しそうな顔でラティーファに抱きついた。しかし、彼女はあと一人謝らなければいけない人がいることを思い出した。メグは立ち上がると、シャバーンの傍に行って頭を下げた。クロイツたちは何かを察したようにその場を離れ、ヘラクレスと共に壊れた街の掃除や怪我人の手当てへと向かった。
「あ…………あの…………ごめんなさい、本当に」
何を言えばいいかわからなかったメグは、素直な謝罪の言葉を述べた。シャバーンはふわりと笑みを零すと、華麗に立ち上がってその場で一回転してみせた。
「良いさ、別に。わしだったら、何度でもラティーファの愛のキスで目覚めるから、気にするな」
あっけらかんと答える姿に、メグはシャバーンの気遣いとほんの少しの良心を感じた。続いて、彼はチラリとヘラクレスの方を見ると、メグにこう言った。
「……素直になるっていうのは、難しいけど案外心地良いだろ」
「え…………」
「わしもラティーファに素直になれなくて、可哀想なことをしてしまったことがあってな。…………今でも、もしあのまま永遠に別れていたらと思うと、本当に自分が情けない」
そう零しながら、シャバーンは今まで見せたことない表情を浮かべた。メグはその眼差しに、彼の隠された一面を感じた。心の底からの懺悔を感じ取ったのだ。それは決して他人事ではなく、メグにとって最もあり得る未来を映し出していた。
彼女はようやく、優しく思慮深いラティーファがなぜこの男を愛したのかを理解した。そしていつかは自分も、彼のように運命を決めなければならない日が来るのだろうと思いながらため息を漏らすのだった。
ラティーファとシャバーンたちの旅立ちの日、メグはどうしても見送りに行くことが出来なかった。何故なら、例の行動をみっちりハデスに叱られるという罰が待っていたからだ。彼女はため息をつきながら、冥界の王の叱責を右から左に聞き流していた。その間考えていたのは、大切な友達の未来についてだった。
ラティーファ、幸せにね。
明らかに話を聞いていなさそうなメグに、ハデスは激怒した。青い髪は真っ赤に燃え盛っている。
「おい、聞いてんのかお前!!」
「あー、聞いてるわよ。今回はヘラクレス坊っちゃんを信じさせるための方便だったんだから、あんまり怒らないでよね」
そんな言い訳を零しながら、メグはふと夜空を見上げた。満天の星空には、逆三日月が浮かんでいる。そして、彼女は口元を綻ばせながら呟いた。
「――――ありがとう、アラビアの大親友」
例え二度と会えなくても、あなたは私の数少ない大親友だからね。
いつか本人に面と向かって伝えられる日が来ることを望みながら、メグは頬杖をついた。そして自分に来る未来の分岐点の日、何を選ぶのかを考えながら。
「…………ホント、呑気で楽しそうねぇ」
所謂ダウナー系美女のメグは、ボリューム満点の美しい髪を撫でながらハデスからの指令書を流し見た。そこには、ヘラクレスという青年の抹殺計画が書かれている。うまく行きそうにない計画を鼻で笑いながら、メグは独り言を吐いた。
「あんな怪力ボーイに、凡庸な作戦で勝てるとでも思ってんのかしら。ホント、男って――――」
「バカみたい、って言いたいの?」
「そうそう、ホント馬鹿みたいだし無責任だし――――」
なんだ、ギリシャにも頭お花畑じゃない女の子が居たんだ。
そんなことを思いながら、メグは大真面目に頷いた。暫し、彼女は沈黙した。そして慌てて振り返った。
そこには褐色の健康的な肌をした、黒髪の娘が立っていた。身長はかなり高く、スタイルのいいメグでも思わず息を呑むほどに脚が長い。唖然とする彼女を置いて、娘は透明感のある朗々とした声でこう言った。
「あなたの意見に同意するわ。私もやってらんない」
ため息をつきながら隣に腰掛ける娘を見て、メグは少しだけ同情した。それに友達の居ないメグにとって、同性の話し相手がいることはほんの少しだけ新鮮に思えた。
「……あんた、訳アリ?」
「ええ、まあそんなとこ」
娘は苦笑いを浮かべると、此処数日で起きたことを反芻しながら話し始めた。
「私の夫がギリシャでマジックの巡業をするのはいいんだけど、すっかり調子に乗っちゃって……使いもしないおっきなマジック道具を買いたいって、朝からずっと駄々こねるのよ」
「大きな赤ちゃんね」
若干皮肉が混じっているコメントに、娘が一瞬困惑した眼差しを向ける。その反応を見て、メグは慌てて訂正した。
「あー、えーっと、つまりアレよね。面倒くさいやつよねってこと」
「そうそう、ホント何考えてるのかしら」
娘は頬杖をつくと、遠い目をした。だが、その眼差しに恋心がしっかり宿っていることに気づいたメグは、自虐的な笑いをこぼした。
「……でも、好きなんだ」
「えっ?」
「顔に好きって書いてる。その人のこと」
相手の指摘に、娘は少しだけ驚いてから微笑みを零した。気品溢れる笑い方に、メグは思わずドキリとした。
やだ、この子の隣ってちょっと苦手かも。
まるで自分の立ち居振る舞いを庶民っぽいとけなされているような気がして、メグは少しだけ気が引けた。だがそれ以上に、娘の優しさとなんとも言えない暖かさに惹かれているのも事実だった。気まぐれに、彼女はこんなことを尋ねた。
「名前は?」
その質問が嬉しかったのか、娘はふわりと微笑んで答えた。
「ラティーファ。アラビアにあるアグラバーって国から来たの。アグラバーの言葉で、『優しさ』って意味の名前よ」
「ラティーファ……」
異国情緒溢れる不思議な語感に、メグは少しだけ興味関心を抱いた。彼女はラティーファに手を差し出すと、目を細めて小首を傾げた。
「あたし、メガラ。友達はみんなメグって呼んでる。いたら、だけど」
ラティーファは躊躇なくその手に自分の手を重ねると、満面の笑みを返した。
「よろしくね、メグ」
友達の居ないメグにとって、他人――――しかも女の子から発せられる自身のあだ名は、非常に新鮮なものだった。そして嬉しさのあまり、彼女はついこんな提案をしてしまった。
「ねえ、ラティーファ。あたしが街を案内してあげる」
友達がいないとはいえ、独りの時間を潰す方法は一通り試したことのあるメグにとって、街の案内は朝飯前だった。所謂ギリシャ美人のメグと、異国情緒溢れるラティーファの取り合わせは、瞬時に人々の視線を惹きつけた。もちろんそんなことを気にする素振りの無いラティーファは、目に映る全てのものに瞳を輝かせている。
「わあ……ギリシャってすごいわね。アグラバーには、壺とかオリーブの油漬けとか、あとは絹くらいしか届かないから」
「ふーん。ラティーファ、あんたってお金持ちなのね」
メグの素直な感想に、ラティーファは特に何も考えず答えた。視線の先には精巧な大理石の工芸品がある。
「まあ、父が国務大臣だから」
「ふーん、ナンバーワンの大臣様のお嬢さんね。そりゃ絹も壺も――――って、大臣様!?」
メグは10年に一度見せる驚き様で、隣に居る娘を見た。
この子が、国務大臣のお嬢様ですって!?
相手の反応に気づくと、ラティーファは苦笑いを浮かべながら訂正した。
「今はマジシャンの妻よ。令嬢じゃなくて、普通の女なの」
「それでも十分だと思うけど……」
苦笑いを浮かべながら、ふとメグはこんなことを考えた。
「あれ?なんで貴族の超お嬢が、マジシャンなんかと結婚したわけ?」
あっ、『なんか』は余計だったかも。
メグのような質問は多いのか、幸いにもラティーファは嫌な顔一つせず答えてくれた。
「うーん、まあ……お父様の決めた縁談だったから」
その返答は、ますますメグを混乱させた。彼女は眉間にシワを作ると、頭を抱えて後退りした。
「待って、ちょっと整理させて。ええと、アグラバーって国では自由恋愛出来ないわけ?」
数日の滞在でもギリシャの自由な気風を感じていたラティーファは、最もな質問に苦笑を漏らした。そして旅先で出来た友人に誤解されないように、彼女は丁寧に話し始めた。
「そうね、アグラバーはちょっぴり親の決めたことが強いのかも。だけど、私は元からその方のことを知っていたし、子供の頃から好きだったの。だから、事実上恋愛結婚なんだと思う」
「へぇ……それは安心したわ」
メグは他人事にも関わらず胸を撫で下ろすと、安堵のため息を漏らした。そんな彼女を置いて、ラティーファはとある商品に目を留めた。
「ねえ、この人って人気なの?ほら、あの……ヘラクレイトスとか言う人」
「ヘラクレイトス?何そのもっさい名前」
メグは顔をしかめながらラティーファの示す方を見た。そこには、眩しい笑顔のヘラクレス――――メグのワンダーボーイのグッズが陳列されている。彼女は苦笑いすると、フィギュアを一つ手にとってこう言った。
「違う違う、ヘラクレス。ハークって呼ばれてるの」
「ふぅん、ヘラクレスって読むのね。……どんな人なの?マジシャン?それとも大道芸人?」
ラティーファの問いに失笑を漏らしながら、メグはヘラクレスのポスターを指先で撫でた。そして若干の偏見と美化フィルターを織り交ぜながら説明を始めた。
「ヘラクレス――――ワンダーボーイはねぇ、ヒーローなの。すっごく怪力で、欠点がないの。笑顔はチャーミングで、スーパースター。それに、すっごくモテるの」
一通り話し終えて、メグはハッとした。これは人物紹介ではない。ただの萌え語りだ。頭を抱えるメグを置いて、察しのいいラティーファはニコニコと笑っている。彼女はポスターのヘラクレスを観察しながら、メグとヘラクレスを交互に見て微笑んだ。
「へぇー」
「なっ、何よ」
なるほど、この子天邪鬼なのね。
存外鋭い相手に危機感を覚えたメグは、慌てて話を逸らそうと試みた。今度はラティーファが困る番だ。
「そっ、それよりアンタの旦那様は?アラビアの若くて逞しいイケメンとか?」
「あー…………」
ラティーファは一瞬考えた。彼女の夫、偉大なマジシャンのシャバーンはイケメンではあるが、残念ながら逞しくも若くもない。
一から説明するの、大変…………
年の差婚が多いアグラバーでも、ラティーファとシャバーンのことについては説明するのが少々難しいときがある。それを別の国の、しかも初対面の人に話すのはなかなか勇気がいることだ。
さて、ラティーファがどうしたものかと考えあぐねているうちに、メグの隣に誰かがやって来た。壁のポスターとその人を見比べ、彼女は悲鳴を上げた。
「えっ!?ヘラクレス殿!?」
その人――――ヘラクレスはラティーファの反応に、はにかんだ笑みを浮かべた。それからすぐ、メグの隣に誰かがいることが大変珍しいと気づいた。
「わお、メグの友達?」
友達、と尋ねられてメグは少しだけ嬉しそうな顔をした。だがすぐに、出会って数時間しか経っていない人を友達と呼ぶのはあまりにも軽率だと思い直し、普段のクールな素振りに戻った。
「あー、えーと…………多分だけど、私はそう思い始めてるけど、相手はそう思ってないってヤツかな」
意外にもその言葉に、ラティーファは笑ってくれた。彼女はメグの手を取ると、満面の笑みでこう言った。
「あらま。私もそう思ってたの!じゃあ、お互いもう友達ね」
「友……達……」
驚きで目を見開きながらも、メグは口元を綻ばせている。そんな二人に、ヘラクレスはこんな提案をした。
「そうだ!今からちょうどフィルと2人で、演劇か何か見に行こうと思ってたんだ。メグと……えーと…………」
失礼、お名前は?と聞くより先にメグが答える。
「ラティーファ。アグラバー王国国務大臣の娘さん」
「えっ?こっ、国務大臣の!?」
端的、というより簡素で雑然とした説明でも、やはり国務大臣の娘というのはインパクトが強いらしい。ヘラクレスが素っ頓狂な声を上げていると、向こうから半人半ヤギの男――――ピロクテテスことフィルが現れた。彼はメグを見て少しだけ嫌そうな顔をしたが、隣に立っているラティーファが好みらしくすかさずアタックを始めた。
「お嬢さん、初めまして!とっても可憐で愛らしい人だ……」
「あらま。そんなに褒めてくれるなんて、ありがとう」
「いやはや、良かったらご一緒に観劇など…………」
フィルの意図を理解していないラティーファを見て、メグはため息をついた。そして二人の間に割って入ると、厳しい口調で告げた。
「ヤギオヤジ、既婚者にアタックするのは止めなさい」
既婚者、と聞いてフィルの思考が止まる。ラティーファはようやく何が起きたのか理解すると、苦笑いしながら補足した。
「私、結婚してるの」
その言葉に、フィルはいつかの時に出会ったアラビアのお姫様のことを思い出した。彼はげんなりした顔で肩を落としながら呟いた。
「またコレか…………」
「え、またってどういうこと?」
不思議そうに首をかしげるラティーファを置いて、フィルは絶叫した。
「アラビアの美女は、みんな結婚してるのか……?あーっ、羨ましい!旦那の顔が見てみたいわ」
そんなフィルの言葉に、メグは何かを思いついたようか顔をした。そしていつもより少しだけ明るい声でこう言った。
「ねえ。観劇じゃなくて、マジックショーにしない?」
ラティーファは複雑な気分でマジックショーの受付に並んでいた。ヘラクレスが全員分のチケットを買おうとして身を乗り出すと、中からターバンを巻いたコブラが現れた。反射的に悲鳴を上げて殴り倒そうとするヘラクレスを慌てて止めると、ラティーファはヘビ――――ベキートに手を振った。
「ベキート、大人4人でお願い。ヘラクレスさん、今日は私からチケットをプレゼントさせて」
「なんだ、ラティーファか。営業ご苦労さん」
マジックショーの呼び込み営業だと思い込んでいるベキートに、彼女は慌てて首を横に振った。
「違う違う、友達よ」
「友達ぃ!?良くも悪くも、アンタの社交性は親父さん譲りだな」
ベキートが感心する一方、ヘラクレスたちは当惑していた。何しろ、喋るヘビを目の前で見ているわけだ。驚くなと言う方が難しいだろう。
「メッ、メグ。僕、なんか見間違えた?」
「ううん、たしかにヘビが喋ってる。……ちょっと喋り方が知人に似て、複雑な気分かも」
「喋るヘビだと!!?あれも怪物か!?」
好き勝手に色々言われているベキートは、ついに牙を剥き出しにして怒鳴った。その傍らで、ラティーファは粛々とチケット発行を自身で行っている。
「おーい、ぜんぶ聞こえてるぞぉ。少なくとも、下半身ヤギのおっさんにはとやかく言われたかぁねぇよ!」
よく考えると、ベキートの意見も一理ある。ヘラクレスは自身の師と喋るヘビを見比べて納得したように頷いた。
「たしかに。フィルもヤギだ」
「おい、ハーク。そりゃどういう意味だ」
さて、そんな風に外で騒いでいるところに、休憩のために散歩していたクリストフ・ゴールデン・クロイツが通りかかった。シャバーンという騒がしい男と一緒に居るせいで耐性がついたのか、彼は何事もなかったかのように挨拶をした。
「どうも、クリストフです。夕方の回のお客さんかな?」
「そうよ」
ラティーファの淡泊な返事に振り返ったクロイツは、形相を変えて肩を揺さぶった。どうやら彼女のことをずっと探していたらしい。
「どっ、どこ行ってたのラティーファちゃん!」
「え、何。どうしたの?」
当惑しているラティーファを置いて、クロイツは今にも泣きそうな声で続けた。メグたちは最早一言も発せず唖然としている。
「君の旦那がずーっと探してたよ!もー、あいつの機嫌治すの大変だったんだから!」
「……私のせいじゃないし、あの人も大人になってほしいものね」
クロイツを冷たくあしらうと、ラティーファは肩を竦めた。それから元の笑顔に戻ると、チケットをメグたちに渡した。
「はい、チケット。まだ前の方残ってたから取っといたわ」
「あー……ありがとう」
良く言えば表情豊か、悪く言うと表情の使い分けが見え隠れするラティーファに、メグは少し当惑した。新しい友達の不安に気づいたラティーファは、そっとその肩に触れて微笑んだ。
「ごめんなさい、不安にさせちゃったわね」
「ううん、大丈夫。なんか、大変そうね」
「そうね、でも気にしないで。いつものことだから」
ラティーファはにこりと笑うと、テントの入り口に手をかけた。
「さ、どうぞ。素敵な時間になりますように」
促されるまま、メグたちはテントの中に足を踏み入れた。ラティーファは3人にチャイとラッシーどれが飲みたいか確認してから、それぞれにドリンクを手渡した。メグはチャイの味がすっかり気に入ったらしく、上機嫌に自席へ着いた。ヘラクレスとフィルはラッシーとナンサンドを齧りながら、豪奢なテントを見回してため息をついている。
やがて席は徐々に満席となり、いよいよショーの時間がやってきた。ラティーファはメグの隣に座ると、久々に観客席に座る気分を味わった。一方、メグはどれがラティーファの夫なのかと、いろいろな人を見つけては尋ねる動作を繰り返している。
「ねぇ、あのメガネの子は?ちょっと若すぎ?」
「アシームかしら?夫のアシスタントよ」
「惜しい……!ねぇ、旦那さんが出てきたら私に教えてよね。約束よ」
ラティーファはジャスミンティーを一口飲んでから、無言で頷いた。結局一度も説明するチャンスが無かったことは一抹の不安だが、メグなら分かってくれる。何となくそんな気がしていた。
その時、ちょうどベキートのアナウンスが響いた。いよいよショーが開始するのだ。
「レディース・アンド・ジェントルマン!いよいよ、アラビアのマジシャンたちの登場です!」
そう言われて最初に出てきたのは、クロイツとレイハーネだった。彼は相変わらず大道芸をしているが、そのレベルの高さはギリシャでも通用するらしい。
続いて現れたのは、フリードとナウラだ。ここでメグがラティーファに耳打ちした。
「ねぇ、あの人でしょ。絶対そうでしょ」
「あ、フリードね。彼は夫の友達よ」
「あの人も違うの?えー、じゃあもう分かんないわ」
メグがため息をついたその時だった。良い声なのに間の抜けた喋りがその場に響き渡る。
「はいはいどうも、サラーム!とうとうこのシャバーン、ギリシャまで来ちゃったよ」
…………あら、可愛らしいおじさんじゃない。
まさか、と思いながらメグはため息混じりに尋ねた。ありえない、と思いつつも念の為聞いておいたほうがいいだろうと考えたのだ。
「なんか、すごく…………可愛いおじさんね。まさか、あの人が――――」
横を向いたメグは、目を丸くした。ラティーファがその可愛いおじさんを、心の底から愛しそうに見つめているからだ。
大好きなのね、その人のこと。
一途に相手を思うラティーファの姿を、少しだけメグは遠く感じた。同時に彼女のように素直になれたらと思いながら、メグはチラリと隣に座っているヘラクレスを見た。
「…………もう恋なんて、したくないのに」
その呟きは万雷の拍手にかき消され、届くことは無かった。
マジックショーが終わると、ラティーファは片付けに勤しむアシームたちを手伝っていた。メグたちもタダで招待してくれたお礼にと、チケットの集計を手伝ってくれている。だが、突然その場にやってきたシャバーンが、ラティーファの手を掴んで怒り始めた。
「この大馬鹿!どこ行ってたんだ!知らない土地で勝手に出歩くなんて、危なすぎるだろ」
自分の不安を顕にしてぶつける、シャバーンの悪い癖だ。ラティーファは丁寧に手を振り払うと、腕を組んで小首を傾げた。
「心配してくれてありがとう。だけど、その前に謝ったらどう?」
射られるような眼差しに負けたシャバーンは、我に返ると狼狽した。まるで子猫のようだ、とメグは思った。
「今朝のことはわしも言い過ぎたけど……けど、わしを置いてどっか行くなんて思わんじゃん!」
そう言うと、シャバーンは人目も憚らずラティーファを抱き締めた。どうやら単に寂しかっただけらしい。
「うえーん、ラティーファ…………お前は可愛いし綺麗だし目立つから、変なやつに絡まれたらと思うと心配だったんだ…………」
「ちょっ、ちょっと。人が見てるから止めなさい、ほら離れて…………!」
ラティーファはシャバーンを引き剥がすと、肩で息をしながら苦笑いを浮かべた。周囲は安堵のため息を漏らしている。どうやら、この二人の仲直りはいつもこんな感じらしい。シャバーンはようやく落ち着いたのか、ヘラクレスたちに向き直って礼を述べた。
「わざわざ手伝ってくれるなんて、ありがとね」
ヘラクレスは大きなマジック道具をやすやすと持ち上げながら、はにかんだ笑みを零した。彼は片手を空けると、握手をするためにシャバーンに手を差し出した。何も知らないマジシャンは、躊躇せずその手を握っている。
「ラティーファさんに招待してもらえたんですから、これくらい当然ですよ!それより、怪物とか倒す仕事は無いですか?僕、職業がヒーローなので」
「ひ、ヒーロー?」
素っ頓狂な声を上げるシャバーンに、メグが説明を加えた。
「この子、ヒーローなの。ゼウスの息子で、怪力なのよ」
「怪力……」
シャバーンはハッとして、ヘラクレスから手を離した。すかさずラティーファがその手を叩く。
「シャバーン様、失礼よ」
「だっ、だってわし非力だもん」
…………ハークと真反対な人ね。
メグはすっかり萎縮しているシャバーンを見て、何となくそんな事を考えていた。ラティーファはシャバーンを叩き起こすと、改めて自分の友達を紹介し始めた。
「改めまして、こちらメガラ。今日は都をたくさん案内してくれたの。私の友達!」
シャバーンはメグの方を見ると、非常に薄いリアクションで返答した。どうやらラティーファ以外の女性に頓と興味がないらしい。
「初めまして、シャバーンです」
「どうも、メグって呼んでください」
刹那、2人の目が合う。握手を交わしながら、シャバーンは小声でつぶやいた。
「…………君、嘘は止めといたほうが良いよ」
「えっ――――」
手を離すと、シャバーンはいつもの明るい表情に戻っていた。彼は何事も無かったようにこう言った。
「じゃ、せっかくなんでカレーでも食べていってよ。香辛料とか大丈夫なタイプ?」
「カレー?」
初めて聞く名前の食べ物に、ヘラクレスが首を傾げる。シャバーンは彼の肩に手を回すと、嬉しそうに説明を始めた。
「そうそう。アグラバーの伝統料理!わしの大好きな食べ物です」
「もー!別に良いけど、作るのはアシームと私なんだから。勝手に決めないでよね」
ラティーファがため息をつく。けれども心の底から怒ってはいなさそうだ。
さてそんな中、一人大層落ち込んでいる人物がいた。フィルである。ヘラクレスは師匠の近くに寄ると、そっと背中を擦りながら尋ねた。
「フィル、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもあるかっ!あんな可愛い娘の旦那が、なんでアレなんだ!?どうなったらそんな話になるんだよぉ……」
シャバーンはフィルのぼやきを拾うと、ラティーファをチラリと見た。それから心のなかでこう思った。
ほらやっぱり。変なのに絡まれてたじゃないか。
シャバーンはヘラクレスがメグのもとに戻ったことを確認した。それから笑顔を作りながらフィルに近づくと、あっけらかんとした声でこう言った。
「わしの女にちょっかい掛けるな、このヤギ男」
シャバーンの言葉に明確な殺意を感じたフィルは、一瞬身震いした。ローストゴートになる覚悟は出来ていないフィルは、苦笑いを浮かべながら手を擦った。
「既婚者だなんて知らなかったんだよ!別にもう、なんとも思ってないから安心してくれ」
「そりゃどうも。まぁそもそも……わしとラティーファは相思相愛だから、隙もないけどね」
「こいつ…………!!」
シャバーンはとびきり意地悪な笑顔を向けた。あからさまに煽られたフィルは、眉をつり上げながら睨みつけた。二人の間には、何故か熾烈な火花が散っている。そして、ラティーファがそんな二人を置いて、カレーの準備を始めようとしたその時だった。
「きゃーっ!」
突然外から悲鳴が聞こえてきた。ラティーファたちが駆けつけると、そこには大きなヘビの怪物がいるではないか。もちろん闘えないシャバーンは、震えながらラティーファの後ろに下がった。流石に情けないと思ったのか、メグがシャバーンを叱責する。
「ちょっと何やってんのよ」
「だっ、だってわし非力だもん…………」
「だとしても、奥さんの後ろに隠れるなんて滅茶苦茶よ!」
2人が言い争いをしているうちに、ヘラクレスが颯爽と怪物に立ち向かっていく。噂通りの怪力で、彼はヘビの怪物を倒してしまった。しかし、それは囮であることに、その場にいる誰もが気づいていない。
そう、ただ一人メグだけを除いて。彼女は実は訳あってハデスと契約しており、その手下として働いているのだ。
そうこうしているうちに騒ぎは収まったが、フリード、クロイツ、そしてアシームたちまで外にやって来た。彼らは大きな怪物を軽々持ち上げているヘラクレスを見て、唖然とした。もちろんアシームは悲鳴を上げながらも、妻の後ろに隠れている主人を怒鳴りつけた。
「シャバーン様!何やってるんですか!!」
「だって怖いんだもん」
まだ震えているシャバーンに、フリードがため息をつく。
「怖いからって奥さんを盾にするのは違うだろ」
「シャバーン様ひどーい」
「よくないよそういうの」
ナウラとレイハーネも、眉をひそめながら小言を口にしている。その間、メグはハデスに言われたとおりに準備を始めていた。だが、どうも乗り気がしない。
そんなふうにもたついていると、とうとう痺れを切らしたボス――――冥界の王ハデスが現れた。彼は一頻り深い溜息を吐くと、変身が解けてヘラクレスに捻られている部下のペインとパニックを睨みつけた。どうやら先ほどの怪物は、この二人が変身していたようだ。
「おい、お前たち…………またこのザマか。もう良い、下がれ」
ハデスは顔を上げると、視線の先に立っているラティーファと目が合った。頭から爪先までじっくりと観察しながら、彼は肩を竦めた。
あー、可愛いけど幼気な子だね。あれに手ぇ出す男っていんのかな。たぶん良心が無いんだろうね。
そんなことを考えながら、彼は静かに首を横に振った。それから大人の女性と言うには少々無邪気すぎるラティーファを一瞥し、ハデスは宿敵ヘラクレスを睨みつけた。
「さーて、ヘラクレスくん。悪いんだけど、ちょっと眠ってもらおうかな」
――――――ダメ!!
プランBの開始に気づいたメグは、ハデスが人差し指をヘラクレスに向ける様子を見てその場に飛び込んだ。彼女がハデスに体当りすると同時に、指先から出た光線は明後日の方向に飛んでいく。
そう、ラティーファの方だ。立ち竦む彼女は、刹那の間に身を捩ることも出来ず光線を凝視することしか出来ない。
「ダメ、ラティーファ逃げて!」
メグの叫びも虚しく、ハデスの死の光線はラティーファめがけて近づいていく。
その時だった。目の前に赤い布が飛び出してきて、彼女の盾となった。その人は光線を正面から受けると、短いうめき声を上げてその場に崩れ落ちた。
ラティーファは呆然と立ち尽くしていたが、やがて何が起きたのかを悟った。我に返った彼女は、服が汚れるのも気にせず、地面に膝をついてその人――――シャバーンを揺すった。
「シャバーン様!?シャバーン様!!起きて、嫌よ。死なないで、なんで……なんで…………嫌よ、目を覚ましてよ!ねぇ!!」
潤む瞳を充血させながら、彼女は必死に愛する人の名を呼んだ。だが、返事はない。眠るように目を閉じて動かないシャバーンを見て、フリードは咄嗟に脈へ手を当てた。
「……止まってる。これは…………」
「そんな…………シャバーン様、嫌よ。お願い、目を覚まして。私のこと一人にしないって約束したじゃない…………」
すすり泣くラティーファを見て、一同は居た堪れない思いに駆られた。そして次の瞬間、全員がハデスを睨みつける。勿論誤射に気まずさを隠しきれない彼は、必死に言い訳を並べ立て始めた。
「いやちょいまち、違うんだよホント。狙いが逸れたっていうかさぁ…………」
「冥界の王かなんだか知らんが、よくもシャバーンを…………!」
そう言いながら、クロイツは武器を手に取っている。いよいよ立場が悪くなったハデスは、助けを求めるようにメグを見た。だが、彼女は全く違うことを考えていた。
私のせいよ、私が…………私が、ヘラクレスを助けるために突き飛ばしたせいで…………!
メグはラティーファのもとに駆け寄ると、その肩を抱いた。
「ラティーファ、ごめんなさい。私のせいよ、全部私が悪いの」
神様同士の諍いに巻き込んでしまって、ごめんなさい。
私と出会ってしまって、ごめんなさい。
私なんかと友達にさせてしまって、ごめんなさい。
あらゆる罪悪感がメグを支配していた。だが、ラティーファはそれでも首を横に振っている。
ああ、この子はそういう子。だから、私も気を許せた。
ますます大きくなる罪悪感を抱えながら、メグはシャバーンを見た。本当に眠っているように思えるが、彼女は友人の夫が既に永遠の眠りについていることを確信していた。
そんな中、ついにラティーファが立ち上がった。彼女は震える足取りでハデスの前まで向かうと、毅然とした態度でこう言った。
「――――お願いします。夫を、返してください」
夫?あれ、親父さんじゃないのか
基本的に言動に反省はしない主義のハデスだが、今回ばかりはやりすぎたと思っているらしく大人しい。ラティーファは悲痛な表情を湛えながら、当惑する死の神に尋ねた。
「夫を生き返らせる方法、知らないの?」
「知らないことはないけど…………えーと…………」
まずい。ここでネタバラシしちまうと、今後の作戦に使えなくなっちまう。
そんなことを逡巡していると、ラティーファがついに折れた。彼女はハデスの胸ぐらから手を離すと、地面にひれ伏して額を付けながら懇願し始めた。
「お願いします、夫を助けてください。お願いですから、あの人を生き返らせる方法を教えてください」
「あー…………」
幼気な子を土下座させちまったよ、俺。
ハデスはやれやれと首を横に振ると、渋々答えた。
「わかったよ。あいつが1番愛している人のキスがあれば生き返る」
ラティーファは顔を上げると、ハデスを見上げた。無垢な眼差しが痛かったのか、彼は目を背けた。
「本当ですか?あの人、それで助かるんですか?」
「ああ、そうだよ。…………あいつにとっての一番が、本当にあんたならな」
ラティーファはもつれる脚で駆け出すと、シャバーンの隣に戻った。彼女は震える手で夫の頬を包むと、躊躇することなく優しく口づけをした。
お願い、戻ってきて…………!
メグも心の中でそう願った。すると、みるみるうちにシャバーンの顔色が戻っていく。そして直ぐに老人のような咳をすると、彼は気怠そうに身体を起こした。目の前には泣き腫らした妻が居る。
「え、わし何してたの?寝てた?」
他人事な反応に、ラティーファは安堵のため息を漏らした。そして人目を憚らず、彼女はシャバーンに抱きついた。
「シャバーン様…………!良かった…………」
ぽかんとするシャバーンと嬉しそうなラティーファを見届けると、ハデスは怒りの矛先がぶり返す前にその場から静かに消えていった。フリードとクロイツ、そしてアシームもシャバーンが生き返ったことに喜んでいる。
「シャバーン様!良かった…………僕、シャバーン様が居なくなったら…………うわあああん…………」
「分かったから泣くな、アシーム。あと、わしのローブに鼻水を付けるな」
号泣するアシームを撫でながら、フリードも安堵の笑顔を浮かべている。少しだけ、目尻に涙が光っているような気がする。
「お前は騒がしいやつだが、居ないと……その……案外、寂しいな」
「フリード、お前…………」
シャバーンの口元が綻ぶ。続いてクロちゃんがダイナミックに抱きついてきた。心優しい彼は、アシームと同じくらいに号泣している。
「シャバーン!良かったー!お前が居ないと張り合う相手が居ないからなぁ!」
「クロちゃん…………」
ラティーファは、自分の夫がたくさんの人に愛されている事実に微笑みを零した。そして、罪悪感に沈んでいるメグの元へ駆け寄った。相手が謝罪の言葉を述べるより先に、ラティーファは力いっぱい抱き締めてこう言った。
「メグ…………!私と友達になってくれて、本当にありがとう。大好き!」
「ラティーファ…………」
その言葉にホッとしたのか、メグも今にも泣き出しそうな顔でラティーファに抱きついた。しかし、彼女はあと一人謝らなければいけない人がいることを思い出した。メグは立ち上がると、シャバーンの傍に行って頭を下げた。クロイツたちは何かを察したようにその場を離れ、ヘラクレスと共に壊れた街の掃除や怪我人の手当てへと向かった。
「あ…………あの…………ごめんなさい、本当に」
何を言えばいいかわからなかったメグは、素直な謝罪の言葉を述べた。シャバーンはふわりと笑みを零すと、華麗に立ち上がってその場で一回転してみせた。
「良いさ、別に。わしだったら、何度でもラティーファの愛のキスで目覚めるから、気にするな」
あっけらかんと答える姿に、メグはシャバーンの気遣いとほんの少しの良心を感じた。続いて、彼はチラリとヘラクレスの方を見ると、メグにこう言った。
「……素直になるっていうのは、難しいけど案外心地良いだろ」
「え…………」
「わしもラティーファに素直になれなくて、可哀想なことをしてしまったことがあってな。…………今でも、もしあのまま永遠に別れていたらと思うと、本当に自分が情けない」
そう零しながら、シャバーンは今まで見せたことない表情を浮かべた。メグはその眼差しに、彼の隠された一面を感じた。心の底からの懺悔を感じ取ったのだ。それは決して他人事ではなく、メグにとって最もあり得る未来を映し出していた。
彼女はようやく、優しく思慮深いラティーファがなぜこの男を愛したのかを理解した。そしていつかは自分も、彼のように運命を決めなければならない日が来るのだろうと思いながらため息を漏らすのだった。
ラティーファとシャバーンたちの旅立ちの日、メグはどうしても見送りに行くことが出来なかった。何故なら、例の行動をみっちりハデスに叱られるという罰が待っていたからだ。彼女はため息をつきながら、冥界の王の叱責を右から左に聞き流していた。その間考えていたのは、大切な友達の未来についてだった。
ラティーファ、幸せにね。
明らかに話を聞いていなさそうなメグに、ハデスは激怒した。青い髪は真っ赤に燃え盛っている。
「おい、聞いてんのかお前!!」
「あー、聞いてるわよ。今回はヘラクレス坊っちゃんを信じさせるための方便だったんだから、あんまり怒らないでよね」
そんな言い訳を零しながら、メグはふと夜空を見上げた。満天の星空には、逆三日月が浮かんでいる。そして、彼女は口元を綻ばせながら呟いた。
「――――ありがとう、アラビアの大親友」
例え二度と会えなくても、あなたは私の数少ない大親友だからね。
いつか本人に面と向かって伝えられる日が来ることを望みながら、メグは頬杖をついた。そして自分に来る未来の分岐点の日、何を選ぶのかを考えながら。
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