1、血の契約
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ブラックパール号が森に囲まれた入り江に着くと、そこからはボートで先を進むこととなった。エステルはジャックの後ろに座り、訝しげに尋ねた。
「ねぇ。一体何をする気なの?」
「黙ってろ。皆、今から会うやつを怒らせるなよ。エステル、お前は特に黙ってろ」
どうして、と言う前に桟橋に着いた。ボートから降りたエステルは、辺りを見回した。見渡す限りに呪術道具が飾られており、異様な空気だ。それよりも気になったのは、誰に会うかという問題だった。
教えてくれそうもない父の後ろについていくと、入り口で褐色の肌を持つ魅力的な雰囲気の女性が出迎えてくれた。彼女はため息混じりに、ジャックへ挨拶した。
「ジャック……久しぶりじゃあないか」
「あぁ、ティア・ダルマ」
ティア・ダルマと呼ばれた女性は、ジャックを迎えたのとは真逆の鋭い目付きでエステルを見た。恐れることはほとんどない彼女だったが、この呪術師の眼差しには畏怖の念を掻き立てられる。
「────あんたは……」
ティア・ダルマはエステルに近づくと、目を細めながら観察を始めた。その念入りさは、まるで商品を見極めるかのようだ。
「どうだ?悪くないだろう?」
「ああ。で、この子は誰なんだい?あんたの新しい────」
「娘だ」
あっさりと答えるジャックに驚いたのは、エステルも同じだった。ティア・ダルマは彼女から離れると、家に入るように促した。
「ふぅん……そういえば、海の祭司と契約したんだって?契約をし過ぎるのは余り好かないねぇ」
何が入っているのかよくわからないお茶を出しながら、呪術師はジャックを諌めた。彼が契約という言葉に過剰な反応を見せていることに、エステルも気づいた。
「さて、ここには何をしに来たんだい?理由があるだろう?」
ジャックはためらい、おもむろに左手を隠した。ティア・ダルマはすかさず彼の手を引き戻し、巻いてある布を剥がした。
ジャックの掌を見て、エステルを除くその場にいた全員が息をのんだ。黒い染みのような印が出来ていたのだ。唯一意味を知らないエステルは、父の手を取って細部を観察し始めた。
「治りっこないよ。それは血の契約の証さ」
「血の契約って……お父様、ただの借金じゃなかったの?」
口ごもるジャックを置いて、ティア・ダルマが説明を始めた。
「ジャック────あんたのお父さんはね、過去にブラック・パール号を失ったのさ。で、それを引き上げてもらうために海の悪霊と契約した」
「契約の代償は……?」
「悪霊の船で乗組員として100年間働くことさ」
さらっと言われたものの、エステルは事の重大さを充分に理解していた。呪術師は続けた。
「悪霊の名は、デイヴィ・ジョーンズって言うんだ。冷酷で慈悲の欠片もない、どんな勇敢な船乗りでも恐れる男さ」
ティア・ダルマは何故かエステルを見ながら、物憂げに微笑んだ。ジャックは相変わらず沈黙を続けている。
「だけど、ジョーンズは誰でも一度は持ったことのある悩みを抱えていた」
「悩み……?」
「失恋だよ。奴は失恋したんだ。そしてその失恋の痛手に耐えきれず、奴は自分の心臓を抉り出し、どこかの島に箱ごと鍵をかけて埋めた」
ジャックはそう言うと、しびれを切らした様子でティア・ダルマに詰め寄った。
「で、ジョーンズはどこにいる?」
「あんたが海に出ればすぐにでも現れるさ。これを持っていきな」
ティア・ダルマは砂の入った大きな瓶を投げた。エステルは訝しげにそれを見ている。
「ジョーンズは、10年に一度しか陸に上がれないんだよ。だから、お守り代わりだね」
「ありがとよ、ティア・ダルマ」
ジャックは一礼すると、瓶をしっかりと抱き締めて乗組員たちと共に家を後にしようとした。だが、再びティア・ダルマが彼の手をつかんだ。彼女は横目でエステルを見ながら、眉をひそめて小声で言った。
「────昔の男のあんたがどうなろうと知ったこっちゃないけど、一体どういうつもりなんだい?え?あの娘に何をさせようと言うのさ」
「それは……」
ジャックは娘の横顔を眺めながら、遠い目をして一言だけ答えた。
「────今にわかるさ」
エステルがジャックのことを催促する声が聞こえてくる。彼はじゃあなと肩に手を置いて別れを告げると、ジョーンズとの対峙へと向かうのだった。
夜が来る頃には海は荒れ狂い、脅威と化していた。エステルは船室で嵐が過ぎるのを待っている。するとジャックがその場に現れた。
「大丈夫か?随分と今日は揺れが激しいな」
「ええ、大丈夫。ありがとう」
珍しく気遣ってくれる父の優しさが嬉しくて、エステルは微笑んだ。
「悪いけど、船の明かりを消しに回ってくれないか?」
「ええ。でも、何のために……?」
「まぁ、理由は聞くな。時間の無駄だ」
彼女は快く承諾すると、ランタン片手に火を消して回り始めた。既に全員が甲板に出ているようで、船内に人影は残されていなかった。エステルが歩く度に一つずつ明かりが消え、暗闇が背後を侵食している。ランタンの明かりが唯一の道しるべとなった船内で、彼女は次に明かりを消す場所を探した。
その頃、甲板ではデイヴィ・ジョーンズとジャックの取引が行われていた。顔が蛸の姿に覆われ、髭のように生えているそれぞれの触手は、各々が意思を持っているかのように蠢いている。ジャックはいつもの冷静さを失わないように心掛けつつ、ジョーンズに話し続けている。悪霊は深淵から沸き上がるような声で彼に言った。
「お前の代わりになるとすれば……まぁ、乗組員100人といったところだな」
ジャックはそれを聞いて、目を輝かせた。
「既にあっちに若造を送っただろ?」
「ああ。それがどうした?」
「あれは返してくれ」
若造とは、ウィル・ターナーのことだ。彼はこの男にある頼みをしていた。それはジョーンズの心臓が入った箱の鍵を取ってくることだった。心臓さえ手に入れれば、ジョーンズは大人しくなる。ジャックは笑みを崩さないように頷くと、ジョーンズに承諾を求めた。だが、彼はそこまで甘くはなかった。
「ふぅん……断る。あいつは手付金だ。だからあと99人だな」
悪態をつきたくなるのを堪えて、ジャックは別の手段に出た。情に訴える方法だ。
「そうか。知ってるか?あいつは今婚約中だ。綺麗な婚約者に恋してる。あんたも分かるだろう?その気持ちが」
ウィルは、エリザベス・スワンという貴族の娘と婚約していた。ジョーンズの表情が一瞬だけ綻んだ。しかしそれもすぐに無意味に変わる。
「愛など所詮は幻だ。下らん。それにその男が担保になるとは思えんな」
ジャックはため息をついた。それでもあの計画────ティア・ダルマが警告していた事を実行することだけは避けたい。だが、先にジョーンズの方が何かに気づいた。
「────まだ、船内に誰かいるのか?」
ジャックは心臓が飛び上がりそうになった。一つだけ、ランタンの明かりが揺らめいているではないか。
「見張りの水夫だよ」
「そうか」
ジョーンズは信じていないようで、船室への扉に手をかけようとした。すかさずジャックが、扉のすぐ後ろにいるエステルに聞こえるように大声で言った。
「なぁ、ジョーンズ!いいだろう?約束は守る」
「いいや、お前は信用できん。決め手に欠ける」
「待て待て待て。それはないだろう?他にどうしようもないじゃないか」
エステルはそのやり取りを聞きながら、交渉が難航していることを悟った。そしてこんな考えがよぎった。
────私が担保になれば、交渉が成立するのでは?
彼女はランタンを置き、扉を自らの手で開けた。ジャックは顔を手で覆っている。そして目の前にいた悪霊、デイヴィ・ジョーンズは何故か唖然としている。エステルは毅然と彼に向かって告げた。
「パーレイ。私はここで宣言する」
「エステル、やめろ」
「だって、私が言わないと終わらない」
ジャックの言葉を聞いてその名を知ったジョーンズは、興味深い物でも見ているかのようにエステルの周囲を観察し始めた。
「────エステルと言ったな。随分と威勢のいい小娘だが、スパロウの女か?」
「違う。娘よ」
「娘がいたのか?初耳だな」
「海の祭司をやってる一族の末裔と契約結婚をして……いいや、あんたに話す必要はない。どうでもいいからな」
「そうだな。で、お嬢さん。あんたは何を望む?この俺と契約するか?」
エステルはうっすら微笑んでジョーンズを見た。暗くてよくわからなかったが、顔は蛸だ。
「契約はしない。したいのは取引。────私を担保にして」
「エステル!」
「この俺と取引だと!」
ジョーンズは高らかに嘲笑したものの、内心では驚きを覚えていた。
────この女、とんでもない度量の持ち主だな。
「で、応じるの?応じないの?」
射抜くような眼差しで見据えてくるエステルの隣で立ち止まると、ジョーンズはジャックに微笑んだ。
「いいだろう。その代わり、3日以内にお前の父親が条件を満たせなければ、お前は────」
海の墓場に送ると言おうとして、彼は何気なくエステルを見た。そして、月明かりを背に受けているせいで見えづらかった顔立ちを知ってしまった。
芯が通っているものの、どこか物憂げで悲しげな瞳。光の届かない深海のような漆黒の髪。固く閉ざされている唇は、正に鮮血のように紅い。
いつのまにか、無意識にジョーンズはその手を伸ばしていた。エステルは我を忘れている悪霊を前に、戸惑いを隠せない。
だが次の瞬間、ジョーンズは何かに気づいた様子で我に返ると、ジャックに告げた。
「この小娘は担保としてもらっていく。あと99人探してこい」
「で、俺が約束を果たせなかったらエステルはどうする気だ?」
「さぁな。少なくとも永遠に陸をみることは無いだろう」
ジョーンズはそう言いながら、ジャックの手に付けた黒丸を取り除き、去っていってしまった。エステルはボートに乗せられ、ブラックパールを去ろうとしている。
「エステル」
その背にジャックは声をかけた。エステルが振り返る。
「……絶対に、ジョーンズからの借りは返してみせる。信じて待っていてくれ」
すると、エステルはその言葉に満面の笑みを返した。
「うん。お父様はいつも、約束は守る人だから」
そう言って、彼女はボートをこぎ出した。徐々にフライング・ダッチマン号に近づいていくその姿を見送りながら、ジャックは何としてでも計画を成功させなければと思うのだった。
ダッチマン号はとても巨大で、そして不気味な船だった。至るところにフジツボや海草がへばりついている様子をみて、エステルはすぐに掃除をまともにしていないことを悟った。彼女は垂らされたロープを使い、甲板へと登った。ワンピースを履いていたものの慣れている作業だったため、易々とその身体は船の縁までたどり着いた。そしてあと一歩で甲板というところまで来た時だった。船に付いている海草ですべったエステルは、ロープを手から離してしまったのだ。荒れる海面へと真っ直ぐ落ちていく身体は、鉛のように重い。叫ぶ間もなく、彼女の手は空を切っている。
だが、寸でのところで誰かがその手を掴んだ。エステルは冷たく、そして力強いその手一本にぶら下がった状態で、船腹にある僅かな突起に足をかけてよじ登った。
再び縁まで登りながら、エステルは不思議に思っていた。
────どうして、両手で引き上げないのかしら?
片手で引き上げる方が大変そうに思える。しかもお世辞にもさらりとした手ではない。海洋生物独特のぬめりがある手だ。それでも落ちない理由を、エステルは自分の手を見て知った。がっしりと掴まれた手の中指は、長い蛸の触手の形をしていた。それが手首と肘近くまで巻き付いているお陰で滑らないのだ。
こうしてなんとか甲板まで上ることができたエステルだったが、縁に手をかけて上半身を上げた瞬間、助けてくれた相手の顔をみて驚いた。目の前に現れたのは、なんとデイヴィ・ジョーンズだったのだ。
「あ……あなたは……」
間近で見ると、青い瞳はとても澄んでいる。人間離れした────所謂怪物的な外見と、あまりに対照的な美しさだ。エステルが思わず見とれていると、その身体は乱暴に甲板へ投げつけられた。
「痛っ…!」
「こいつを牢に入れろ。絶対に、この小娘を出すな」
「わかりました、船長」
乗組員に連れていかれたエステルは、船底にある牢に入れられた。およそ数十年ぶりに女性を見た乗組員ばかりらしく、最初は色めき立っている者も多かった。だが、彼女の誰も寄せ付けない視線に戦き、いつの間にかそんな者は居なくなっていた。
牢屋にずっと拘束されるというのは、非常に退屈なものだった。自由と人生を愛するジャック・スパロウの血を継いでいるエステルにとっても、それは苦痛に近かった。そして天井を見上げた彼女は、セイレーンのように美麗な声でハミングを始めた。
偶然その曲を聞いていたジョーンズは、遠目から様子を見に行こうとしていたことも忘れて格子に詰め寄った。
「小娘!その曲をどこで知った!?」
突然の問いかけに、エステルは目を丸くした。そして静かに首を横に振った。
「……知らない。どこで知ったのかも、忘れてしまった」
「そうか……なら、別に構わんのだ」
どこか哀しげなジョーンズの声に、彼女は首をかしげた。艶やかな黒髪が揺れる。
「────どうして、知りたいの?」
「別に……お前には関係ない!」
そう言って、ジョーンズは荒々しい足音を立てて戻っていってしまった。だがその数分後、エステルは何故彼がそれを尋ねたかを悟った。
どこからか、先程彼女がハミングしていた曲がオルガンの音で流れてきたのだ。旋律は悲しげで、そして痛々しいものだった。エステルは不思議に思い、近くにいた乗組員────ビル・ターナーに尋ねた。
「ねぇ、そこのお方」
「ビルだ」
「あぁ、ビル。このオルガンは誰が弾いているの?」
「船長さ。いつもこんな調子だよ」
驚くエステルに対し、隣で雑用をしていた他の男が笑った。
「たまには違う曲も弾けよって思うけどな!」
ビルが男を諌める声を聞きながら、エステルは目を閉じてオルガンの音に耳を傾けた。その旋律は、ジョーンズそのものなのかもしれない。あのとき見た瞳の奥に、彼女は何かがあることを感じていた。それは恐らく、過去の傷。
「デイヴィ・ジョーンズ……」
波の心地よい揺れを感じながら、エステルは旋律に身を委ねて眠りについた。
デイヴィ・ジョーンズは、苦悶の表情でオルガンを弾いていた。片手が蟹の爪になったせいで、一時は弾くことを断念しようとしていたこともあったが、現在は顔に生えている触手を使っているので不自由はない。
その胸中は、とても穏やかとは言い難かった。今までに感じたことのないざわめきが、彼の心────あるはずのない心を支配していた。
────何故……何故だ。何故……
答えのでない問いを投げ掛けながら、彼はオルガンを弾き続けた。それはまるで、遠い昔に姿を現さなかった愛する人に対する怒りを轟かせるように、激しく虚しい音だった。
「ねぇ。一体何をする気なの?」
「黙ってろ。皆、今から会うやつを怒らせるなよ。エステル、お前は特に黙ってろ」
どうして、と言う前に桟橋に着いた。ボートから降りたエステルは、辺りを見回した。見渡す限りに呪術道具が飾られており、異様な空気だ。それよりも気になったのは、誰に会うかという問題だった。
教えてくれそうもない父の後ろについていくと、入り口で褐色の肌を持つ魅力的な雰囲気の女性が出迎えてくれた。彼女はため息混じりに、ジャックへ挨拶した。
「ジャック……久しぶりじゃあないか」
「あぁ、ティア・ダルマ」
ティア・ダルマと呼ばれた女性は、ジャックを迎えたのとは真逆の鋭い目付きでエステルを見た。恐れることはほとんどない彼女だったが、この呪術師の眼差しには畏怖の念を掻き立てられる。
「────あんたは……」
ティア・ダルマはエステルに近づくと、目を細めながら観察を始めた。その念入りさは、まるで商品を見極めるかのようだ。
「どうだ?悪くないだろう?」
「ああ。で、この子は誰なんだい?あんたの新しい────」
「娘だ」
あっさりと答えるジャックに驚いたのは、エステルも同じだった。ティア・ダルマは彼女から離れると、家に入るように促した。
「ふぅん……そういえば、海の祭司と契約したんだって?契約をし過ぎるのは余り好かないねぇ」
何が入っているのかよくわからないお茶を出しながら、呪術師はジャックを諌めた。彼が契約という言葉に過剰な反応を見せていることに、エステルも気づいた。
「さて、ここには何をしに来たんだい?理由があるだろう?」
ジャックはためらい、おもむろに左手を隠した。ティア・ダルマはすかさず彼の手を引き戻し、巻いてある布を剥がした。
ジャックの掌を見て、エステルを除くその場にいた全員が息をのんだ。黒い染みのような印が出来ていたのだ。唯一意味を知らないエステルは、父の手を取って細部を観察し始めた。
「治りっこないよ。それは血の契約の証さ」
「血の契約って……お父様、ただの借金じゃなかったの?」
口ごもるジャックを置いて、ティア・ダルマが説明を始めた。
「ジャック────あんたのお父さんはね、過去にブラック・パール号を失ったのさ。で、それを引き上げてもらうために海の悪霊と契約した」
「契約の代償は……?」
「悪霊の船で乗組員として100年間働くことさ」
さらっと言われたものの、エステルは事の重大さを充分に理解していた。呪術師は続けた。
「悪霊の名は、デイヴィ・ジョーンズって言うんだ。冷酷で慈悲の欠片もない、どんな勇敢な船乗りでも恐れる男さ」
ティア・ダルマは何故かエステルを見ながら、物憂げに微笑んだ。ジャックは相変わらず沈黙を続けている。
「だけど、ジョーンズは誰でも一度は持ったことのある悩みを抱えていた」
「悩み……?」
「失恋だよ。奴は失恋したんだ。そしてその失恋の痛手に耐えきれず、奴は自分の心臓を抉り出し、どこかの島に箱ごと鍵をかけて埋めた」
ジャックはそう言うと、しびれを切らした様子でティア・ダルマに詰め寄った。
「で、ジョーンズはどこにいる?」
「あんたが海に出ればすぐにでも現れるさ。これを持っていきな」
ティア・ダルマは砂の入った大きな瓶を投げた。エステルは訝しげにそれを見ている。
「ジョーンズは、10年に一度しか陸に上がれないんだよ。だから、お守り代わりだね」
「ありがとよ、ティア・ダルマ」
ジャックは一礼すると、瓶をしっかりと抱き締めて乗組員たちと共に家を後にしようとした。だが、再びティア・ダルマが彼の手をつかんだ。彼女は横目でエステルを見ながら、眉をひそめて小声で言った。
「────昔の男のあんたがどうなろうと知ったこっちゃないけど、一体どういうつもりなんだい?え?あの娘に何をさせようと言うのさ」
「それは……」
ジャックは娘の横顔を眺めながら、遠い目をして一言だけ答えた。
「────今にわかるさ」
エステルがジャックのことを催促する声が聞こえてくる。彼はじゃあなと肩に手を置いて別れを告げると、ジョーンズとの対峙へと向かうのだった。
夜が来る頃には海は荒れ狂い、脅威と化していた。エステルは船室で嵐が過ぎるのを待っている。するとジャックがその場に現れた。
「大丈夫か?随分と今日は揺れが激しいな」
「ええ、大丈夫。ありがとう」
珍しく気遣ってくれる父の優しさが嬉しくて、エステルは微笑んだ。
「悪いけど、船の明かりを消しに回ってくれないか?」
「ええ。でも、何のために……?」
「まぁ、理由は聞くな。時間の無駄だ」
彼女は快く承諾すると、ランタン片手に火を消して回り始めた。既に全員が甲板に出ているようで、船内に人影は残されていなかった。エステルが歩く度に一つずつ明かりが消え、暗闇が背後を侵食している。ランタンの明かりが唯一の道しるべとなった船内で、彼女は次に明かりを消す場所を探した。
その頃、甲板ではデイヴィ・ジョーンズとジャックの取引が行われていた。顔が蛸の姿に覆われ、髭のように生えているそれぞれの触手は、各々が意思を持っているかのように蠢いている。ジャックはいつもの冷静さを失わないように心掛けつつ、ジョーンズに話し続けている。悪霊は深淵から沸き上がるような声で彼に言った。
「お前の代わりになるとすれば……まぁ、乗組員100人といったところだな」
ジャックはそれを聞いて、目を輝かせた。
「既にあっちに若造を送っただろ?」
「ああ。それがどうした?」
「あれは返してくれ」
若造とは、ウィル・ターナーのことだ。彼はこの男にある頼みをしていた。それはジョーンズの心臓が入った箱の鍵を取ってくることだった。心臓さえ手に入れれば、ジョーンズは大人しくなる。ジャックは笑みを崩さないように頷くと、ジョーンズに承諾を求めた。だが、彼はそこまで甘くはなかった。
「ふぅん……断る。あいつは手付金だ。だからあと99人だな」
悪態をつきたくなるのを堪えて、ジャックは別の手段に出た。情に訴える方法だ。
「そうか。知ってるか?あいつは今婚約中だ。綺麗な婚約者に恋してる。あんたも分かるだろう?その気持ちが」
ウィルは、エリザベス・スワンという貴族の娘と婚約していた。ジョーンズの表情が一瞬だけ綻んだ。しかしそれもすぐに無意味に変わる。
「愛など所詮は幻だ。下らん。それにその男が担保になるとは思えんな」
ジャックはため息をついた。それでもあの計画────ティア・ダルマが警告していた事を実行することだけは避けたい。だが、先にジョーンズの方が何かに気づいた。
「────まだ、船内に誰かいるのか?」
ジャックは心臓が飛び上がりそうになった。一つだけ、ランタンの明かりが揺らめいているではないか。
「見張りの水夫だよ」
「そうか」
ジョーンズは信じていないようで、船室への扉に手をかけようとした。すかさずジャックが、扉のすぐ後ろにいるエステルに聞こえるように大声で言った。
「なぁ、ジョーンズ!いいだろう?約束は守る」
「いいや、お前は信用できん。決め手に欠ける」
「待て待て待て。それはないだろう?他にどうしようもないじゃないか」
エステルはそのやり取りを聞きながら、交渉が難航していることを悟った。そしてこんな考えがよぎった。
────私が担保になれば、交渉が成立するのでは?
彼女はランタンを置き、扉を自らの手で開けた。ジャックは顔を手で覆っている。そして目の前にいた悪霊、デイヴィ・ジョーンズは何故か唖然としている。エステルは毅然と彼に向かって告げた。
「パーレイ。私はここで宣言する」
「エステル、やめろ」
「だって、私が言わないと終わらない」
ジャックの言葉を聞いてその名を知ったジョーンズは、興味深い物でも見ているかのようにエステルの周囲を観察し始めた。
「────エステルと言ったな。随分と威勢のいい小娘だが、スパロウの女か?」
「違う。娘よ」
「娘がいたのか?初耳だな」
「海の祭司をやってる一族の末裔と契約結婚をして……いいや、あんたに話す必要はない。どうでもいいからな」
「そうだな。で、お嬢さん。あんたは何を望む?この俺と契約するか?」
エステルはうっすら微笑んでジョーンズを見た。暗くてよくわからなかったが、顔は蛸だ。
「契約はしない。したいのは取引。────私を担保にして」
「エステル!」
「この俺と取引だと!」
ジョーンズは高らかに嘲笑したものの、内心では驚きを覚えていた。
────この女、とんでもない度量の持ち主だな。
「で、応じるの?応じないの?」
射抜くような眼差しで見据えてくるエステルの隣で立ち止まると、ジョーンズはジャックに微笑んだ。
「いいだろう。その代わり、3日以内にお前の父親が条件を満たせなければ、お前は────」
海の墓場に送ると言おうとして、彼は何気なくエステルを見た。そして、月明かりを背に受けているせいで見えづらかった顔立ちを知ってしまった。
芯が通っているものの、どこか物憂げで悲しげな瞳。光の届かない深海のような漆黒の髪。固く閉ざされている唇は、正に鮮血のように紅い。
いつのまにか、無意識にジョーンズはその手を伸ばしていた。エステルは我を忘れている悪霊を前に、戸惑いを隠せない。
だが次の瞬間、ジョーンズは何かに気づいた様子で我に返ると、ジャックに告げた。
「この小娘は担保としてもらっていく。あと99人探してこい」
「で、俺が約束を果たせなかったらエステルはどうする気だ?」
「さぁな。少なくとも永遠に陸をみることは無いだろう」
ジョーンズはそう言いながら、ジャックの手に付けた黒丸を取り除き、去っていってしまった。エステルはボートに乗せられ、ブラックパールを去ろうとしている。
「エステル」
その背にジャックは声をかけた。エステルが振り返る。
「……絶対に、ジョーンズからの借りは返してみせる。信じて待っていてくれ」
すると、エステルはその言葉に満面の笑みを返した。
「うん。お父様はいつも、約束は守る人だから」
そう言って、彼女はボートをこぎ出した。徐々にフライング・ダッチマン号に近づいていくその姿を見送りながら、ジャックは何としてでも計画を成功させなければと思うのだった。
ダッチマン号はとても巨大で、そして不気味な船だった。至るところにフジツボや海草がへばりついている様子をみて、エステルはすぐに掃除をまともにしていないことを悟った。彼女は垂らされたロープを使い、甲板へと登った。ワンピースを履いていたものの慣れている作業だったため、易々とその身体は船の縁までたどり着いた。そしてあと一歩で甲板というところまで来た時だった。船に付いている海草ですべったエステルは、ロープを手から離してしまったのだ。荒れる海面へと真っ直ぐ落ちていく身体は、鉛のように重い。叫ぶ間もなく、彼女の手は空を切っている。
だが、寸でのところで誰かがその手を掴んだ。エステルは冷たく、そして力強いその手一本にぶら下がった状態で、船腹にある僅かな突起に足をかけてよじ登った。
再び縁まで登りながら、エステルは不思議に思っていた。
────どうして、両手で引き上げないのかしら?
片手で引き上げる方が大変そうに思える。しかもお世辞にもさらりとした手ではない。海洋生物独特のぬめりがある手だ。それでも落ちない理由を、エステルは自分の手を見て知った。がっしりと掴まれた手の中指は、長い蛸の触手の形をしていた。それが手首と肘近くまで巻き付いているお陰で滑らないのだ。
こうしてなんとか甲板まで上ることができたエステルだったが、縁に手をかけて上半身を上げた瞬間、助けてくれた相手の顔をみて驚いた。目の前に現れたのは、なんとデイヴィ・ジョーンズだったのだ。
「あ……あなたは……」
間近で見ると、青い瞳はとても澄んでいる。人間離れした────所謂怪物的な外見と、あまりに対照的な美しさだ。エステルが思わず見とれていると、その身体は乱暴に甲板へ投げつけられた。
「痛っ…!」
「こいつを牢に入れろ。絶対に、この小娘を出すな」
「わかりました、船長」
乗組員に連れていかれたエステルは、船底にある牢に入れられた。およそ数十年ぶりに女性を見た乗組員ばかりらしく、最初は色めき立っている者も多かった。だが、彼女の誰も寄せ付けない視線に戦き、いつの間にかそんな者は居なくなっていた。
牢屋にずっと拘束されるというのは、非常に退屈なものだった。自由と人生を愛するジャック・スパロウの血を継いでいるエステルにとっても、それは苦痛に近かった。そして天井を見上げた彼女は、セイレーンのように美麗な声でハミングを始めた。
偶然その曲を聞いていたジョーンズは、遠目から様子を見に行こうとしていたことも忘れて格子に詰め寄った。
「小娘!その曲をどこで知った!?」
突然の問いかけに、エステルは目を丸くした。そして静かに首を横に振った。
「……知らない。どこで知ったのかも、忘れてしまった」
「そうか……なら、別に構わんのだ」
どこか哀しげなジョーンズの声に、彼女は首をかしげた。艶やかな黒髪が揺れる。
「────どうして、知りたいの?」
「別に……お前には関係ない!」
そう言って、ジョーンズは荒々しい足音を立てて戻っていってしまった。だがその数分後、エステルは何故彼がそれを尋ねたかを悟った。
どこからか、先程彼女がハミングしていた曲がオルガンの音で流れてきたのだ。旋律は悲しげで、そして痛々しいものだった。エステルは不思議に思い、近くにいた乗組員────ビル・ターナーに尋ねた。
「ねぇ、そこのお方」
「ビルだ」
「あぁ、ビル。このオルガンは誰が弾いているの?」
「船長さ。いつもこんな調子だよ」
驚くエステルに対し、隣で雑用をしていた他の男が笑った。
「たまには違う曲も弾けよって思うけどな!」
ビルが男を諌める声を聞きながら、エステルは目を閉じてオルガンの音に耳を傾けた。その旋律は、ジョーンズそのものなのかもしれない。あのとき見た瞳の奥に、彼女は何かがあることを感じていた。それは恐らく、過去の傷。
「デイヴィ・ジョーンズ……」
波の心地よい揺れを感じながら、エステルは旋律に身を委ねて眠りについた。
デイヴィ・ジョーンズは、苦悶の表情でオルガンを弾いていた。片手が蟹の爪になったせいで、一時は弾くことを断念しようとしていたこともあったが、現在は顔に生えている触手を使っているので不自由はない。
その胸中は、とても穏やかとは言い難かった。今までに感じたことのないざわめきが、彼の心────あるはずのない心を支配していた。
────何故……何故だ。何故……
答えのでない問いを投げ掛けながら、彼はオルガンを弾き続けた。それはまるで、遠い昔に姿を現さなかった愛する人に対する怒りを轟かせるように、激しく虚しい音だった。
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