コンパスはおしえてくれない
3
船の中は退屈だ。最初のうちは楽しかった。船の上から眺める景色に感動するのに、とにかく忙しかった。
どこまでも続く水と波、水平線で空と雲が一緒になって、どこまでも青いその景色。そんなすごい景色は毎日見ても飽きないと思った。
けど、飽きないと思っていたのは最初の三日だけで、俺たちは……いや、特に俺は、すぐに船旅に退屈した。
ついこの間まで戦争の真っただ中で戦っていた。戦争が終わってバレンシアが統一されることになっても、戦いによって壊れた建物や畑の復興作業に、北へ南へ駆り出されて、忙しくしていたんだ。
そんな俺たちが急に穏やかな海に出てくると、暇すぎて時間を持て余す。
一応、これは商船の護衛の仕事なんだから、もし海賊が襲ってきたときは俺も戦わないといけないんだけど。非常時でもない限り、交代で見張りをする以外は自由にしていいってことらしい。
「ああー、暇だなあ」
「ロビンお前、それ何回目だ」
船室のベッドの上で両手両足を広げて天井を見上げ、そうぼやいたら幼馴染のグレイがすかさず溜息をついた。俺を窘めながらも、グレイだって自分のベッドに横になっている。そっちだって退屈なんだろ。
「毎日やることなさ過ぎて、逆に不安になるっていうか。海賊にでも襲われたほうがそれっぽいっつーか」
「言いたいことはわかるけどよ、無事にアカネイアに渡れたらそれが一番じゃねーか。でもまあ、確かにこう何日も船の上にいると暇だな」
他のやつらは部屋でゲームをしたり、デッキで釣りをしたりして過ごしているみたいだ。でも、それも最初の三日で飽きた。ゲームは全然勝てないし、釣りも全然ダメだった。俺の釣り竿には、魚は一匹もかからなかった。
「そういえば、アルムとクリフは?」
俺は、一緒にこの部屋を使っている幼馴染の居所をグレイに聞いた。グレイは決まり文句を返すかのように即答する。
「アルムはセリカんとこ。クリフはいつものとこじゃね」
グレイは面倒そうだった。それくらい当たり前の事だからだ。
二人はグレイの言った通りの場所にいるだろう。
アルムが部屋から出ていく時は大抵セリカのところだ。クリフも最近、部屋で本を読むと船酔いするからって、デッキまで出ていってしまう。
今見張り当番はフォルスとパイソンがやってるはずだから、アルムとクリフが仕事中という可能性は低そうだ。
二人の居所に見当がついたところで、俺が退屈なのは変わらない。俺もなんかしようかな。そう思って、なんとなく立ち上がった。
「どっか行くのか?」
俺が立ち上がると、グレイは仰向けになって目を閉じたままそう聞いた。
「んー、散歩かな」
「夜の見張り当番、俺らだから。休むのも忘れんなよ」
グレイはあくびをひとつした。
部屋にひとりになったら寝るつもりなんだろう。
「わかってるって」
俺は適当に返事をして部屋を出て、船内を歩き回った。何か面白いものはないか、誰か面白いことをしていないかと探してみる。
けれど、毎日同じ船に乗っているのだから、いくら歩いても景色は同じだ。船の中は探検し尽くしてしまった。
フォルスとパイソンは仕事だし、ルカが暇そうだったら声をかけてみるか、とも考えたが、ルカは高確率で勉強か訓練かチェスを勧めてくるからやめておいた。
チェスは誰とやっても勝ったことがない。
俺、多分この軍で一番チェスが弱い気がする。
兄弟が多い俺は昔からひとり遊びが下手だった。家では弟や妹の遊び相手をしていたし、外に出れば幼馴染たちと自然につるんでいたんだ。
クリフの読書みたいに、ひとりで楽しめる趣味は俺にはないし。
歩いていても何も思いつかなくて、結局デッキまで来てしまった。いつもここで本を読んでいるはずのクリフを探す。
特に用はないけれど、友達の姿は確認しておきたかった。
探すのに特に苦労しないうちに、いつものベンチにクリフがいるのを見つけた。あいつ、本当に本を読むのが好きだな。俺もクリフに読み終わった本を貸してもらったことがあるけど、少し読んだだけで眠くなってしまった。
クリフに、俺が一番読めそうなやつを選んでもらったのにだ。全然読まずに返したら、クリフに呆れられたっけ。
クリフ、今日は何を読んでいるんだ? そう声をかけようとして、立ち止まった。すぐに、クリフの隣に誰かが座っていることに気づいた。
ピンクの髪の女の子。名前はジェニーだ。セリカの友達で、つい最近俺ともお互いに顔と名前を覚えた。
そんな知り合って間もない子が、クリフと楽しそうに話している。
なぜか、俺の心臓がどきっと跳ねた。なんだろう、この感じ。
いつもならここで二人に声をかけて俺も仲間に入れてもらうんだけど、俺はなぜか、二人が何を話しているのか分かりそうで分からない距離で動けなくなってしまって、声をかけることが出来ないでいた。
ジェニーは楽しそうに笑っている。指先でクリフのシャツを掴んで、肩を寄せ合って話している。クリフの傍であんな風に話す女の子を、俺は初めて見た。
俺は二人に声をかけるのを諦めて、船室の方へと引き返した。
よくわかんないんだけど、なんだか、二人を邪魔してはいけないような。
そこに俺が混ざってはいけないような。そんな気がした。
夜、俺とグレイは見張りの当番だった。
夜中の間、しっかり起きているために少し仮眠をとったけど、頭はあまりすっきりしなかった。原因は、昼間見かけたクリフのことだと思う。
クリフとは食堂を利用する時間がすれ違ってしまったし、俺が仮眠から目が覚めると、クリフは自分のベッドで眠っていた。
いつも夜更かしして読書をしているクリフには珍しく早めの就寝だった。
昼間本を読み疲れたのか、デッキで本を読めない夜が退屈なのか、おそらくその両方だろうと思う。海賊船に見つからないように、夜は船員の手元のカンテラ以外の明かりはすべて消えるのだ。
俺はクリフの枕元に落ちている本を、備え付けの机の上に置いてやって、クリフの毛布を、肩までちゃんとかけてやった。
部屋は明るいのに、ぐっすり眠っている。
さっきまでジェニーと何話してたんだ?
そんな風に声をかけてみたかったけれど、クリフが起きる気配がないまま、見張りの交代の時間になった。
俺とグレイは、眠るクリフを部屋に残して、船の見張り台へと登った。
この時間まで見張りに立っていたフォルスとパイソンから、カンテラと毛布を預かる。ここからは、俺とグレイが見張り台に立つ。
風を遮るものがない見張り台は寒い。何度かこうして見張りをしているけど、アカネイアに近づくにつれて、だんだん寒くなっている気がする。
アカネイアは今確か乾季だって聞いた。リゲルとどっちが寒いんだろう。
毛布に自分の体温が移って温まってくると、寒さのことを考えていた頭の中は、自然と別のことを考えるようになった。
どうしても、昼間見たクリフの姿が忘れられなかった。
「なあ、グレイ」
俺は北と東、グレイは西と南を見張ることにしたから、俺は背中合わせのまま、グレイに声をかけた。
「なんだよ」
風に声が紛れてしまいそうだったけど、グレイは確かに返事をしてくれた。
俺は言葉を選ぶ余裕がないまま、続ける。
「最近さ……クリフが、女の子と一緒にいるんだ」
見たまんまを話すことしかできなかった。
「お? なんだよ、あいつも隅におけねーな」
思ったより面白い話題だったとでも思ったんだろう。グレイの声は返事をしたときより楽しそうだった。
「……」
けれど、俺はその言葉の続きをうまく話すことができなかった。俺は何をグレイに話そうとしていたんだっけ。
「どうした」
当然グレイが話の続きを促すから、俺は頭の中がまとまらないまま、とりあえず話すことにする。
「んん、なんだろ、なんか変な感じするんだ。クリフに新しい友達ができて仲良くしてんの、すげー嬉しいことなのに、なんか」
……やっぱりうまく話せない。俺自身がこの落ち着かない感じを、どういう言葉にしたらいいのか分かっていないんだから、当たり前だ。
「……なんか変な気分でさ」
「変な気分じゃわかんねーよ」
グレイにうまく説明したくて、俺は昼間のことをもう一度思い出す。デッキの丸太のベンチに並んで座って、話していたクリフとジェニーの姿を。
ジェニーは、アルムと話しているときのエフィみたいに、ふわーって笑ってたけど、俺からは、クリフの表情は見えなかった。クリフはどんな顔をしてあの子の話を聞いていたんだろう。
そう考えると、気持ちが落ち込んだ。
「クリフがあの子と話してるの、俺としては、面白くない気がして」
目の前には、ただ暗い夜の海が広がっている。海と星空以外、何も見えない。
いや、何か見えても困るんだけど。
「お前はその子のこと苦手なのか」
言葉探しに困っている俺を、グレイが質問で助けてくれた。俺は、グレイがこっちを向いていないのをわかっていながら、首を横に振る。
「いや、すげーいい子だと思う。クリフが船に酔ってた時、助けてくれたし」
俺がそう言うと、グレイは黙った。しばらく風の音と、波の音が静かに流れる時間が過ぎた。強い風に煽られて、マストがはためく音がやけに大きく聞こえる。
グレイは次になんて言うだろうか。気になったけど、見張るべき方向から目を放すわけにはいかなくて、グレイの方を振り返ることができない。
「お前それ、もしかして……」
グレイがやっと口を開いた。
「え?」
「いや、なんでもない」
「なんだよ、ふざけてんのか?」
やっと何か言ってくれると思ったらはぐらかされた。俺は思わず、怒ったように声を張り上げてしまった。グレイは、面倒くさそうに言い直す。
「ちげーよ、俺が想像で勝手なこと言うもんじゃねーと思っただけだ。……気になるなら本人に声掛けてみたらいいじゃねーか、その子と何話してんだって」
「そうなんだけどさ」
いつもの俺なら、あそこで躊躇せずに声をかけていたはずだ。それで、「空気読んでよね」なんて、クリフに言われたりして。
「すぐ傍で唸られてたらこっちが滅入るっつーの」
「ごめん…」
クリフに怒られてでも、声をかけておけばよかった。そうすれば今、こんなに気にならないで済んだのに。
後ろで、大きな溜息が聞こえた。しばらく考えるような間があった後、グレイは言った。
「さっき言いかけたことだけどな」
「ん?」
やれやれ、とグレイが肩を竦めるのが分かった。そっちを見なくても分かる。
物心ついた時からの付き合いだ。グレイの溜息には、いくつか種類がある。さっきのため息は、面倒見がいいときと、世話を焼いてくれる時の溜息だ。
そんな呆れたような溜息のあと、グレイは言った。
「お前のそれ、たぶん嫉妬だぜ」
グレイのその一言が、俺の心にすっと入ってきた。俺は波と星明りが溶け込む水平線を眺めながら、眼を見開いた。
ざあっと風が波の音を立てながら、俺たちの船を通り過ぎていく。
*
夜が明けると見張りの仕事は終わった。
船はまもなく、アカネイア大陸へと到着するらしい。
途中、何度か海賊船らしき船と会敵したが、弓隊が並んで構えただけで、その船は俺たちの船に近づくことを辞めた。
大陸へと近づく船を狙う海賊たちが、港から見える位置まで追ってくることはない。そうアルムとルカは判断したようだけど、一応の警戒のために、弓隊と魔道隊は武装しての待機になった。
俺は矢筒を背にかけ、弓と弦を張り直し、船の周囲を歩き回った。
じっとしていると落ち着かなかった。俺は待機命令が出た後迷わず、クリフの姿を探した。
昨日、グレイが言っていたことが気になった。俺が、クリフとジェニーに嫉妬しているんだっていう、話。
グレイは、俺が友達を誰かに取られると思って不安になっているんだと言った。
確かに、クレアがグレイを選んだときも、俺は振られたショックよりも、グレイが俺たち幼馴染のそばから、どこかに行ってしまうんじゃないかっていう不安のほうが大きかった。
そもそも、俺は村の外の女の子、それも貴族のお嬢様を目の前にして舞い上がっていただけで、本気で彼女を口説いていたのはグレイのほうだ。初めから勝つ気なんて、実は全然なかった。
だから今度はクリフがジェニーと仲良くしているのを見て、同じ不安を感じているんじゃないかってことらしい。 グレイの考えは、間違ってはいなさそうだった。
俺は自分のこのもやもやとした感情に答えを見つけるためにクリフを探した。ひとりであれこれ悩むより、クリフのそばにいたほうが、きっと考えもまとまるだろう。
「クリフ!」
船の外側を一周して、船尾に一人で立っているクリフを見つけた。マストの支柱にもたれて立って、本を読んでいる。
クリフは今では、俺たちの軍で一、二を争う魔導士の一人だ。船尾に一人でいても心配にならないくらい腕が立つ。
デューテとどっちが強いのかちょっと気になるくらいだ。
「なに?」
クリフの手には本があった。俺が声をかけても、本から目線を離さない。
皆武器の手入れをしながらウロウロしてるっていうのに、胆が据わっている。
「もう酔わなくなったか?」
「まあね、風のある日は読んでなくても酔うけど……」
「そういう日は無理して読むなよ」
「分かってるよ。……ところで、何か用?」
突き放すような物言いだけど、これでも最近は少し柔らかくなった方だ。昔は「用が無いなら声かけないで」とか「うるさい、読書の邪魔」なんて理不尽に無視されることもあったけど、今は一応話を聞いてくれる。
「え? あ、ああ……クリフ、最近あんま部屋にいなくて話できないからさ。どうしてるかなーと思って」
「……何わざわざ。毎日顔みてんのに」
「そ、そうだよな……」
だめだ、何を話していいか分からない。いつもなら、言いたい事とか話したいこととか、考えなくてもどんどん出てくるっていうのに。
聞きたいことは決まっている。気になっていることを直接聞いてみろとグレイは言っていた。
それを実行に移すためにここに来たのに、肝心のクリフを目の前にしてうまく言葉が出てこない。
「ロビン?」
さすがにクリフも気になったのか、やっと本から顔を上げた。
花の色みたいな、赤紫色をした目が俺を見る。緊張で、心臓が跳ね上がった。なんで友達と話すのに、こんなに緊張しているんだ、俺。
「なあクリフ、ちょっと気になったんだけどさ、最近ジェニーって子と仲良いのか?」
「はあ? いいわけないでしょ」
クリフが即答した。意外な返事だった。
「ジェニーが勝手に僕に話しかけてくるだけだよ」
仲がいいわけじゃないのか?どういうことだ。少なくとも、クリフの返答に少し安心している俺が嫌になりそうだった。
「何の話、してるんだ?」
クリフは素直じゃないから、相手のことが好きでもそれを口にしたりはしない。むしろ嫌いだ、嫌だと逆の言葉が出てくるような、ひねくれたやつだ。
クリフが仲がいいわけじゃないなんて言ってても、それが本当かどうかはわからない。
小さいころからクリフを見てきたからよく分かる。その物言いで相手に誤解されて、トラブルに巻き込まれることもよくあるんだ。
クリフは俺の質問を聞いた途端、とっさに目を逸らした。さっきまでと同じ、本を読む姿勢に戻る。
「……忘れた。どうでもいいことばっかりだよ」
俺の不安を肯定するみたいに、クリフの言葉の歯切れが悪くなった。やっぱり何か隠している。
「そりゃねーだろクリフ、そんな言い方したらジェニーが可哀想だ」
いつものお節介を焼いてみる。
「なんでもいいでしょ!ロビンには関係ないから!」
やっぱり、いつものクリフらしい、素直じゃない言葉が返ってきた。
ここまではいつも通り。だけど。
気のせいだろうか。クリフの顔が、赤かった気がしたんだ。
船の中は退屈だ。最初のうちは楽しかった。船の上から眺める景色に感動するのに、とにかく忙しかった。
どこまでも続く水と波、水平線で空と雲が一緒になって、どこまでも青いその景色。そんなすごい景色は毎日見ても飽きないと思った。
けど、飽きないと思っていたのは最初の三日だけで、俺たちは……いや、特に俺は、すぐに船旅に退屈した。
ついこの間まで戦争の真っただ中で戦っていた。戦争が終わってバレンシアが統一されることになっても、戦いによって壊れた建物や畑の復興作業に、北へ南へ駆り出されて、忙しくしていたんだ。
そんな俺たちが急に穏やかな海に出てくると、暇すぎて時間を持て余す。
一応、これは商船の護衛の仕事なんだから、もし海賊が襲ってきたときは俺も戦わないといけないんだけど。非常時でもない限り、交代で見張りをする以外は自由にしていいってことらしい。
「ああー、暇だなあ」
「ロビンお前、それ何回目だ」
船室のベッドの上で両手両足を広げて天井を見上げ、そうぼやいたら幼馴染のグレイがすかさず溜息をついた。俺を窘めながらも、グレイだって自分のベッドに横になっている。そっちだって退屈なんだろ。
「毎日やることなさ過ぎて、逆に不安になるっていうか。海賊にでも襲われたほうがそれっぽいっつーか」
「言いたいことはわかるけどよ、無事にアカネイアに渡れたらそれが一番じゃねーか。でもまあ、確かにこう何日も船の上にいると暇だな」
他のやつらは部屋でゲームをしたり、デッキで釣りをしたりして過ごしているみたいだ。でも、それも最初の三日で飽きた。ゲームは全然勝てないし、釣りも全然ダメだった。俺の釣り竿には、魚は一匹もかからなかった。
「そういえば、アルムとクリフは?」
俺は、一緒にこの部屋を使っている幼馴染の居所をグレイに聞いた。グレイは決まり文句を返すかのように即答する。
「アルムはセリカんとこ。クリフはいつものとこじゃね」
グレイは面倒そうだった。それくらい当たり前の事だからだ。
二人はグレイの言った通りの場所にいるだろう。
アルムが部屋から出ていく時は大抵セリカのところだ。クリフも最近、部屋で本を読むと船酔いするからって、デッキまで出ていってしまう。
今見張り当番はフォルスとパイソンがやってるはずだから、アルムとクリフが仕事中という可能性は低そうだ。
二人の居所に見当がついたところで、俺が退屈なのは変わらない。俺もなんかしようかな。そう思って、なんとなく立ち上がった。
「どっか行くのか?」
俺が立ち上がると、グレイは仰向けになって目を閉じたままそう聞いた。
「んー、散歩かな」
「夜の見張り当番、俺らだから。休むのも忘れんなよ」
グレイはあくびをひとつした。
部屋にひとりになったら寝るつもりなんだろう。
「わかってるって」
俺は適当に返事をして部屋を出て、船内を歩き回った。何か面白いものはないか、誰か面白いことをしていないかと探してみる。
けれど、毎日同じ船に乗っているのだから、いくら歩いても景色は同じだ。船の中は探検し尽くしてしまった。
フォルスとパイソンは仕事だし、ルカが暇そうだったら声をかけてみるか、とも考えたが、ルカは高確率で勉強か訓練かチェスを勧めてくるからやめておいた。
チェスは誰とやっても勝ったことがない。
俺、多分この軍で一番チェスが弱い気がする。
兄弟が多い俺は昔からひとり遊びが下手だった。家では弟や妹の遊び相手をしていたし、外に出れば幼馴染たちと自然につるんでいたんだ。
クリフの読書みたいに、ひとりで楽しめる趣味は俺にはないし。
歩いていても何も思いつかなくて、結局デッキまで来てしまった。いつもここで本を読んでいるはずのクリフを探す。
特に用はないけれど、友達の姿は確認しておきたかった。
探すのに特に苦労しないうちに、いつものベンチにクリフがいるのを見つけた。あいつ、本当に本を読むのが好きだな。俺もクリフに読み終わった本を貸してもらったことがあるけど、少し読んだだけで眠くなってしまった。
クリフに、俺が一番読めそうなやつを選んでもらったのにだ。全然読まずに返したら、クリフに呆れられたっけ。
クリフ、今日は何を読んでいるんだ? そう声をかけようとして、立ち止まった。すぐに、クリフの隣に誰かが座っていることに気づいた。
ピンクの髪の女の子。名前はジェニーだ。セリカの友達で、つい最近俺ともお互いに顔と名前を覚えた。
そんな知り合って間もない子が、クリフと楽しそうに話している。
なぜか、俺の心臓がどきっと跳ねた。なんだろう、この感じ。
いつもならここで二人に声をかけて俺も仲間に入れてもらうんだけど、俺はなぜか、二人が何を話しているのか分かりそうで分からない距離で動けなくなってしまって、声をかけることが出来ないでいた。
ジェニーは楽しそうに笑っている。指先でクリフのシャツを掴んで、肩を寄せ合って話している。クリフの傍であんな風に話す女の子を、俺は初めて見た。
俺は二人に声をかけるのを諦めて、船室の方へと引き返した。
よくわかんないんだけど、なんだか、二人を邪魔してはいけないような。
そこに俺が混ざってはいけないような。そんな気がした。
夜、俺とグレイは見張りの当番だった。
夜中の間、しっかり起きているために少し仮眠をとったけど、頭はあまりすっきりしなかった。原因は、昼間見かけたクリフのことだと思う。
クリフとは食堂を利用する時間がすれ違ってしまったし、俺が仮眠から目が覚めると、クリフは自分のベッドで眠っていた。
いつも夜更かしして読書をしているクリフには珍しく早めの就寝だった。
昼間本を読み疲れたのか、デッキで本を読めない夜が退屈なのか、おそらくその両方だろうと思う。海賊船に見つからないように、夜は船員の手元のカンテラ以外の明かりはすべて消えるのだ。
俺はクリフの枕元に落ちている本を、備え付けの机の上に置いてやって、クリフの毛布を、肩までちゃんとかけてやった。
部屋は明るいのに、ぐっすり眠っている。
さっきまでジェニーと何話してたんだ?
そんな風に声をかけてみたかったけれど、クリフが起きる気配がないまま、見張りの交代の時間になった。
俺とグレイは、眠るクリフを部屋に残して、船の見張り台へと登った。
この時間まで見張りに立っていたフォルスとパイソンから、カンテラと毛布を預かる。ここからは、俺とグレイが見張り台に立つ。
風を遮るものがない見張り台は寒い。何度かこうして見張りをしているけど、アカネイアに近づくにつれて、だんだん寒くなっている気がする。
アカネイアは今確か乾季だって聞いた。リゲルとどっちが寒いんだろう。
毛布に自分の体温が移って温まってくると、寒さのことを考えていた頭の中は、自然と別のことを考えるようになった。
どうしても、昼間見たクリフの姿が忘れられなかった。
「なあ、グレイ」
俺は北と東、グレイは西と南を見張ることにしたから、俺は背中合わせのまま、グレイに声をかけた。
「なんだよ」
風に声が紛れてしまいそうだったけど、グレイは確かに返事をしてくれた。
俺は言葉を選ぶ余裕がないまま、続ける。
「最近さ……クリフが、女の子と一緒にいるんだ」
見たまんまを話すことしかできなかった。
「お? なんだよ、あいつも隅におけねーな」
思ったより面白い話題だったとでも思ったんだろう。グレイの声は返事をしたときより楽しそうだった。
「……」
けれど、俺はその言葉の続きをうまく話すことができなかった。俺は何をグレイに話そうとしていたんだっけ。
「どうした」
当然グレイが話の続きを促すから、俺は頭の中がまとまらないまま、とりあえず話すことにする。
「んん、なんだろ、なんか変な感じするんだ。クリフに新しい友達ができて仲良くしてんの、すげー嬉しいことなのに、なんか」
……やっぱりうまく話せない。俺自身がこの落ち着かない感じを、どういう言葉にしたらいいのか分かっていないんだから、当たり前だ。
「……なんか変な気分でさ」
「変な気分じゃわかんねーよ」
グレイにうまく説明したくて、俺は昼間のことをもう一度思い出す。デッキの丸太のベンチに並んで座って、話していたクリフとジェニーの姿を。
ジェニーは、アルムと話しているときのエフィみたいに、ふわーって笑ってたけど、俺からは、クリフの表情は見えなかった。クリフはどんな顔をしてあの子の話を聞いていたんだろう。
そう考えると、気持ちが落ち込んだ。
「クリフがあの子と話してるの、俺としては、面白くない気がして」
目の前には、ただ暗い夜の海が広がっている。海と星空以外、何も見えない。
いや、何か見えても困るんだけど。
「お前はその子のこと苦手なのか」
言葉探しに困っている俺を、グレイが質問で助けてくれた。俺は、グレイがこっちを向いていないのをわかっていながら、首を横に振る。
「いや、すげーいい子だと思う。クリフが船に酔ってた時、助けてくれたし」
俺がそう言うと、グレイは黙った。しばらく風の音と、波の音が静かに流れる時間が過ぎた。強い風に煽られて、マストがはためく音がやけに大きく聞こえる。
グレイは次になんて言うだろうか。気になったけど、見張るべき方向から目を放すわけにはいかなくて、グレイの方を振り返ることができない。
「お前それ、もしかして……」
グレイがやっと口を開いた。
「え?」
「いや、なんでもない」
「なんだよ、ふざけてんのか?」
やっと何か言ってくれると思ったらはぐらかされた。俺は思わず、怒ったように声を張り上げてしまった。グレイは、面倒くさそうに言い直す。
「ちげーよ、俺が想像で勝手なこと言うもんじゃねーと思っただけだ。……気になるなら本人に声掛けてみたらいいじゃねーか、その子と何話してんだって」
「そうなんだけどさ」
いつもの俺なら、あそこで躊躇せずに声をかけていたはずだ。それで、「空気読んでよね」なんて、クリフに言われたりして。
「すぐ傍で唸られてたらこっちが滅入るっつーの」
「ごめん…」
クリフに怒られてでも、声をかけておけばよかった。そうすれば今、こんなに気にならないで済んだのに。
後ろで、大きな溜息が聞こえた。しばらく考えるような間があった後、グレイは言った。
「さっき言いかけたことだけどな」
「ん?」
やれやれ、とグレイが肩を竦めるのが分かった。そっちを見なくても分かる。
物心ついた時からの付き合いだ。グレイの溜息には、いくつか種類がある。さっきのため息は、面倒見がいいときと、世話を焼いてくれる時の溜息だ。
そんな呆れたような溜息のあと、グレイは言った。
「お前のそれ、たぶん嫉妬だぜ」
グレイのその一言が、俺の心にすっと入ってきた。俺は波と星明りが溶け込む水平線を眺めながら、眼を見開いた。
ざあっと風が波の音を立てながら、俺たちの船を通り過ぎていく。
*
夜が明けると見張りの仕事は終わった。
船はまもなく、アカネイア大陸へと到着するらしい。
途中、何度か海賊船らしき船と会敵したが、弓隊が並んで構えただけで、その船は俺たちの船に近づくことを辞めた。
大陸へと近づく船を狙う海賊たちが、港から見える位置まで追ってくることはない。そうアルムとルカは判断したようだけど、一応の警戒のために、弓隊と魔道隊は武装しての待機になった。
俺は矢筒を背にかけ、弓と弦を張り直し、船の周囲を歩き回った。
じっとしていると落ち着かなかった。俺は待機命令が出た後迷わず、クリフの姿を探した。
昨日、グレイが言っていたことが気になった。俺が、クリフとジェニーに嫉妬しているんだっていう、話。
グレイは、俺が友達を誰かに取られると思って不安になっているんだと言った。
確かに、クレアがグレイを選んだときも、俺は振られたショックよりも、グレイが俺たち幼馴染のそばから、どこかに行ってしまうんじゃないかっていう不安のほうが大きかった。
そもそも、俺は村の外の女の子、それも貴族のお嬢様を目の前にして舞い上がっていただけで、本気で彼女を口説いていたのはグレイのほうだ。初めから勝つ気なんて、実は全然なかった。
だから今度はクリフがジェニーと仲良くしているのを見て、同じ不安を感じているんじゃないかってことらしい。 グレイの考えは、間違ってはいなさそうだった。
俺は自分のこのもやもやとした感情に答えを見つけるためにクリフを探した。ひとりであれこれ悩むより、クリフのそばにいたほうが、きっと考えもまとまるだろう。
「クリフ!」
船の外側を一周して、船尾に一人で立っているクリフを見つけた。マストの支柱にもたれて立って、本を読んでいる。
クリフは今では、俺たちの軍で一、二を争う魔導士の一人だ。船尾に一人でいても心配にならないくらい腕が立つ。
デューテとどっちが強いのかちょっと気になるくらいだ。
「なに?」
クリフの手には本があった。俺が声をかけても、本から目線を離さない。
皆武器の手入れをしながらウロウロしてるっていうのに、胆が据わっている。
「もう酔わなくなったか?」
「まあね、風のある日は読んでなくても酔うけど……」
「そういう日は無理して読むなよ」
「分かってるよ。……ところで、何か用?」
突き放すような物言いだけど、これでも最近は少し柔らかくなった方だ。昔は「用が無いなら声かけないで」とか「うるさい、読書の邪魔」なんて理不尽に無視されることもあったけど、今は一応話を聞いてくれる。
「え? あ、ああ……クリフ、最近あんま部屋にいなくて話できないからさ。どうしてるかなーと思って」
「……何わざわざ。毎日顔みてんのに」
「そ、そうだよな……」
だめだ、何を話していいか分からない。いつもなら、言いたい事とか話したいこととか、考えなくてもどんどん出てくるっていうのに。
聞きたいことは決まっている。気になっていることを直接聞いてみろとグレイは言っていた。
それを実行に移すためにここに来たのに、肝心のクリフを目の前にしてうまく言葉が出てこない。
「ロビン?」
さすがにクリフも気になったのか、やっと本から顔を上げた。
花の色みたいな、赤紫色をした目が俺を見る。緊張で、心臓が跳ね上がった。なんで友達と話すのに、こんなに緊張しているんだ、俺。
「なあクリフ、ちょっと気になったんだけどさ、最近ジェニーって子と仲良いのか?」
「はあ? いいわけないでしょ」
クリフが即答した。意外な返事だった。
「ジェニーが勝手に僕に話しかけてくるだけだよ」
仲がいいわけじゃないのか?どういうことだ。少なくとも、クリフの返答に少し安心している俺が嫌になりそうだった。
「何の話、してるんだ?」
クリフは素直じゃないから、相手のことが好きでもそれを口にしたりはしない。むしろ嫌いだ、嫌だと逆の言葉が出てくるような、ひねくれたやつだ。
クリフが仲がいいわけじゃないなんて言ってても、それが本当かどうかはわからない。
小さいころからクリフを見てきたからよく分かる。その物言いで相手に誤解されて、トラブルに巻き込まれることもよくあるんだ。
クリフは俺の質問を聞いた途端、とっさに目を逸らした。さっきまでと同じ、本を読む姿勢に戻る。
「……忘れた。どうでもいいことばっかりだよ」
俺の不安を肯定するみたいに、クリフの言葉の歯切れが悪くなった。やっぱり何か隠している。
「そりゃねーだろクリフ、そんな言い方したらジェニーが可哀想だ」
いつものお節介を焼いてみる。
「なんでもいいでしょ!ロビンには関係ないから!」
やっぱり、いつものクリフらしい、素直じゃない言葉が返ってきた。
ここまではいつも通り。だけど。
気のせいだろうか。クリフの顔が、赤かった気がしたんだ。