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コンパスはおしえてくれない





 船に酔うようになってから、僕は部屋ではなくデッキで風にあたりながら読書をすることにした。
 馬車に乗っているときも、外を眺めているときは酔わなかったことを思い出したからだ。壁に囲まれた部屋で本に集中していると、予測できない船の揺れに身体が振り回される。
 それなら、外で波の動きを感じながら過ごしているほうが酔わないだろうと考えた。
 効果はあったようで、部屋で読書をするより随分気分がいい。ロビンやグレイの会話もなくて静かだし。
 不都合なのは、風で本のページがめくれてしまうことくらいだ。


 僕は今日も、デッキにある丸太のベンチに座って、本を読んでいた。潮風が穏やかで、日差しもちょうどよく心地いい。
 うっかりすると、眠くなってしまいそうな気候だった。
「クリフくん、こんにちは」
 聞き覚えのある声がして、顔を上げる。桃色の髪に、桃色の法衣を着た女の子、ジェニーが立っていた。危うく名前を思い出せないところだった。
「ジェニー、……何か用?」
「だめ、挨拶はちゃんとして」
 穏やかな物腰をしているのに、言うことははっきりと言う。僕は呆気に取られてしまった。
「……こんにちは」
 小さく挨拶を返すと、ジェニーは微笑んだ。
「ふふ、今日は風が気持ちいいから船をお散歩していたの。そうしたら、クリフくんが見えたから」
 人がいたから声をかけるという行為は僕には理解できない。僕はあえて自分から人に声をかけたり、人のいる場所に寄って行こうなんて考えないからだ。それなのにジェニーは、ただ僕を見かけたというだけで、僕に声をかけてきたのだ。
「この間は、大丈夫だった?」
「この間?」
「船に酔って、ここで休んでいたでしょう?」
 知っている。だってジェニーと話をするのはこれが二度目だ。ジェニーの言う「この間」がいつの事なのかくらい分かる。ちょっと意地悪を言っただけだ。
「……この通り、生きてるけど」
「もう、そうじゃないわ。クリフくん、その日食堂に来なかったから。あの時、ロビンくんがお部屋にあなたの食事を持って行ってくれたのよ。それからしばらく、クリフくんの事を見かけても、声をかけられなかったから気になっていたの」
「ご心配どうも。僕はもともと、人の多い場所は苦手なんだ」
 それに、君みたいな子もね。そうまでは言えなかったけれど、正直僕は、無意識にジェニーの事を避けていたのかもしれなかった。会えば絶対に、「大丈夫だった?」と世話を焼かれると思っていた。今みたいに。思った通りだった。
 大体、知り合ったからといって、見かけたら声をかけなきゃいけない事、ないのに。
「そう、でも良かった。元気そうで」
 そう言って、ジェニーは僕の隣に座った。結局こうなるのか。
「何を読んでいるの?」
 ジェニーが僕の肩越しに本の中身を覗いてくる。近い。
「バレンシアの歴史書だよ。それに、今は君と話しているから読めてないけど」
 僕は手の甲で彼女の肩を押して、必要以上にくっついてこないように、暗に訴えた。
「あら、ごめんなさい。でもあんまり本ばっかり読むのもよくないわ。また酔っちゃうよ?」
 分かってくれたようで、ジェニーは座っている位置を少しだけ離してくれた。僕は反対側に傾いていた体を垂直に戻す。
「酔わないようにここで読んでいるんだけど?」
 なんでこの子にまでロビンみたいなお節介を焼かれないといけないんだ。そう思ったら口をついて出る言葉がどうしても捻じれてしまう。
「せっかく海に出ているんだから、海を見るのもいいと思わない?」
「海なら毎日見てる。一日中見てる方がどうかしてる」
 僕だってもちろん船旅にはわくわくしているし、楽しんでいる。僕なりに楽しむ方法はいくらでも思いつくんだから、わざわざこの子に何かを提案されるほど退屈していない。
「じゃあ、あっちでわたしのお友達に会わない? 今は多分釣りをしていると思うの」
 こっちの気も知らないで誘い文句を並べる彼女に、僕の苛立ちは限界に達した。我ながら沸点が低いと思う。
「うるさいな」
「え?」
 思ったより声が低くなって、ジェニーが驚いた顔をした。僕は構わず続ける。
「僕は人の多い場所が嫌いなの。できれば一人でいたいわけ! 何度も言ってるよね」
「…あっ」
 こんな子、ちょっと強めに言ってやれば懲りて側に来なくなる。好かれるより嫌われる方がはるかに楽だ。
 そんなことを考えながら、僕は彼女を責めた。ジェニーは、悪いことなんて何もしていないのに。
「こんなに空気読めないやつが、ロビン以外にもいるとは思わなかった」
「……」
 この子を突き放そう、そう思ったら、言葉が止まらなくなった。
「僕はひとりで本が読みたいんだけど、邪魔しないでくれる?」
 ぽかんと口をあけて、丸い大きな瞳で僕を見つめていたジェニー。次にどう出るかと様子を伺いながら視線を返していたら、彼女の花の色をした瞳に、みるみる涙が溜まっていった。ちょっと待って。
「あ、ご……ごめんなさい。そうよね……わたし、余計なことを……」
 ジェニーはぽろぽろと涙を流して、僕の隣でうつむいた。手の甲で拭いきれなかった涙がひざの上に落ちて、彼女の法衣を濡らす。
 しまった、泣かせるつもりじゃなかったのに。怒っていなくなってくれれば、それでよかったのに。
 どこまで優しいんだろう、この子。

「……ああもう、分かったよ」
「えっ?」
 僕は、彼女を追い払ってひとりで本を読む事を諦めて、ひざの上のそれを閉じた。僕の負けだ。
「なんでここまで言われて怒らないわけ?お人よしなところまでロビンみたい」
 ジェニーは涙をぬぐいながら顔を上げた。
「そんな、わたしはただ、クリフくんとお話がしたかっただけよ?」
「……じゃあ、好きなだけ話していけば」
「く、クリフくん……」
 泣き止んだと思ったら、また目に涙を溜め始めた。僕は焦って、ポケットに入っていたハンカチを渡した。
「やめてよ、僕が泣かせたみたいじゃないか」
「だってそうだもん」
「……う」
 どうしてか、この子には適わない。そういえば今まで、僕の近くで泣く女の子っていなかったな。
 エフィはあの通りだし、僕たちの軍にいた女性はみんな強かった。
 ジェニーみたいな子が先の戦いを生き抜いてきたなんて、少し信じられない。きっと仲間がみんな、彼女のことを守っていたんだろう。

 ジェニーが泣き止んでくれたので、改めて僕は彼女の「お話」とやらに付き合わされることになった。
 今日は主に、僕の故郷について聞かれた。ラムの村はどんなところか、幼馴染はどんな人たちか。そして、アルムとセリカのこと。
 この子がセリカの従者なら知っておきたいだろうと思って、セリカのことは知っていることを話してあげた。
 ジェニーが質問する番になると、ジェニーは僕の幼馴染の話を聞きたがった。僕はマイセンさんの元で、皆と一緒に稽古をつけてもらっていたことを中心に話した。皆で獣の子どもを追いかけていたら体の大きな親に見つかり、怖い想いをしながら逃げ帰った話とかも。
 するとジェニーは満足そうに笑った。彼女の質問が止まる。
 やれやれ、これで少しは僕への興味が薄れるといいんだけど。早くその「お友達」とやらの所に戻ってくれないだろうか。
「お話ありがと。セリカ様の事もいっぱい知れてうれしい。あと、クリフくんの事も」
「僕のこと?」
 自分の事なんかほとんど話していないのに、僕の何が分かったと言うんだ。僕が首をかしげると、ジェニーは屈託のない笑顔で、こう言い放った。

「クリフくん、あんまり人が好きじゃないって言うけど、ロビンくんのことは大好きなのね」

「……は?」
 僕は思わず眉をひそめて聞き返していた。大きな目を丸く開いて首を傾げているジェニー。今自分がとんでもない質問をしているなんて思いもせずに、僕の答えを待っている。
「何、言ってんの」
 顔が熱くなるのを悟られないように、僕はなるべく平常心を保つ。目を逸らしそうになるのを堪えて、ジェニーの目を見た。
「だって、今の話に、ロビンくんの事もいっぱい出てきたから。それに、ご飯の時も訓練の時も、クリフくん、いつもロビンくんと一緒にいるでしょう?だからそう思ったの」
「あ、あれはロビンが勝手に僕の隣に来るだけ!」
 セリカのことを中心にしゃべっていたつもりだったのに、僕いつの間にロビンの事を話していたんだろう。確かに、小さいころから何かと世話を焼いてくるせいで、僕の話を避けるとロビンの話が多くなりそうなものだけれど。
 たったそれだけで、彼女が何を読み取ったというんだ。
「っていうか、幼馴染なのに一緒にいて何が変なの」
「変なんて言ってないわ。ごめんなさい、私はただ、仲が良くて羨ましいなって思っただけなの」
「あっ……そう」
 ……しまった、ムキになって余計なことを口走った。完全に墓穴だ。
 僕はついに、彼女から目を逸らしてしまった。顔が熱い。彼女の視線はまだ僕に注がれている。

「もしかして、本当に、好きなの?」

 ジェニーの声が、少し小さくなった。真剣な声だった。でもどこか嬉しそうだった。
 僕は思わず下唇を噛む。何でもないふりをするにはもう、遅い。
 ……見抜かれた。今までずっと、自分でも気づかないふりをして隠していたのに。
 見ないふりを、していたのに。
 よりによって、知り合ったばかりの女の子に、この気持ちを自覚させられるなんて。
 赤くなっているかもしれない顔を、隠そうとすればするほど不自然になる。
 僕は半分意地で、答えた。


「……好き、だよ。多分……昔から、ずっと」


 どうして、今まで気づかないふりをしていたことを、口にしているのだろう。
 心臓がうるさい。脳裏にロビンの顔がちらついて離れない。
 悔しい。僕が、あんな奴のことを、こんな風に。
「素敵ね」
 ジェニーがかけてくれた言葉が、お節介なお情けか、慰めに聞こえた。
 顔を上げると、目を輝かせている彼女と目があった。


 ああ、この船旅、あと何日続くんだろう。


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