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コンパスはおしえてくれない





 どこまでも続く空と海。風は遮られることなく視界の果てまで吹き抜けていく。
 学校ではいろんなことを勉強したけれど、実際に世界を旅して見るものは、どれも期待を上回る。
 自分の足で歩くほうが、本を読むよりずっと色んな場所を知ることができる。
 自分の目で見るほうが、先生の話を聞くよりも世界をよく理解できる。

 だから僕は、今回の船旅にも少しわくわくしていた。
 船に乗るのは初めてだった。馬車から見る景色も好きだけれど、海の真ん中で海を眺めるのは初めてだから。

 アルムやセリカたち、そして僕たちは今、バレンシア大陸の港を出て、アカネイア大陸へと向かっている。港で船の護衛の依頼を受けたアルムがそれを承諾するかを迷っていたら、クレーベとルカが快く背中を押してくれたみたいだ。
 ついでにテーベの迷宮でも探索しましょうか、なんてスケールの大きい気の使い方に、アルムも肩の力を抜いていた。
 アルムがセリカと再会して間もないし、いずれバレンシアが統一された折には、アルムはやんごとなき地位に着くはずだから、その前に二人で自由な旅をするのもいいだろうと、マチルダさんが言っていた。
 そんなわけで、アルムとセリカは僕たちのようなたくさんのおまけを引き連れて、アカネイア大陸へと旅をできることになったのだ。

 正直僕は、仕事のことにはあまり興味がなかった。
 ただ、船に乗って海を旅できることがうれしかった。
 アカネイア大陸とはどんなところだろう。テーベの地下迷宮の探索なんて、聞いただけでわくわくする。

 けれど。

「……気持ち悪い」
 僕は一人、デッキで風にあたりながら座り込んでいた。
 人生初の船酔いだった。当たり前だ。人生初の船旅なんだから。

 馬車に揺られて酔った時と比べものにならない。
 馬車と違って止めてもらうこともできないし、穏やかとはいえ船は常に揺れている。
 そんなことを考えるだけでまた気分が悪くなってきた。
 大好きな本も読めやしない。僕は、深呼吸をして、空を見上げていた。

 僕はさっきまで部屋にいて、戦いのことや旅のこと、食べた美味しいものの話で盛り上がるグレイとロビンの会話を遠めに聞きながら、二人の近くで本を読んでいた。
 二人とも僕が本を読んでいるときは必要以上に声はかけてこないけれど、たまに「クリフはどう思う?」とか、くだらないことに意見を求められて適当に答えることはあった。
 宿屋や天幕で過ごしているときと、なんら変わらない日常だった。船ごと、その部屋が揺れていること以外は。
「これは、慣れるのに時間がかかりそうだ」
 船に酔ったと自覚した途端、グレイとロビンのおしゃべりがうるさく聞こえるようになって、読んでいる本の文字も追えなくなった。平衡感覚がずれたようにふらつく足取りに気付かれないよう、僕はグレイとロビンを残して部屋を出た。
 廊下ですれちがったアルムには、「ちょっと船酔いしたみたいだからデッキに行く」と正直に伝えた。アルムは心配そうに声をかけてくれた後、僕が出てきた部屋に入っていった。

 デッキで風に吹かれていると心地が良い。
 じっとしていればいくらか酔いが治まりそうだ。
 だからといって読書を再開したらまた逆戻りなのは想像がつく。
 早くこの揺れに慣れないといけない。

「…ねえ、あなた大丈夫?」

 デッキに設置されていた丸太の椅子で俯いていたら、頭の上から声がした。
 やけに音の高い声だった。エフィの声じゃない。知らない女の子の声だ。
 いらないお節介の気配がしたけれど、無視するわけにもいかないので顔を上げる。
 そこには桃色の髪に桃色の法衣を着た、いかにも女の子らしい女の子が立っていた。
「……大丈夫。少し酔っただけ」
 答えながら、僕はこの子についての情報を頭の中から探し出す。確かこの子は、セリカと一緒にいた女の子のうちの一人だ。確かシスターだったはずだ。
 戦いの最中にアルムとセリカが合流し、名前もわからないまま共闘した、ソフィア王女軍。
 その中の一人が、わざわざ僕に声をかけにきたようだ。
「あなた、確かクリフくんだよね?……待ってて、お水とってくるから」
「えっ」
 大丈夫だと言ったのに聞いていなかったのか、桃色の髪の女の子は走って船室のほうへと行ってしまった。
 やっぱり、シスターの仕事はお節介を焼くことらしい。
 数分のうちに彼女が戻ってきて、僕にグラスに入った冷たい水をくれる。
 食堂でもらってきたのだろうか。
 水を必要としていたわけではないが、目の前に渡されると急に体に良いものに見える。
「………ありがとう」
 僕はとりあえず礼を言うと、一口飲んで、彼女を見た。
「どうしたの?」
 視線を向けられたことに、彼女がそう聞き返す。
 いつか、どこかで見た花の色に似ている紫色の瞳が、じっと僕を見た。
 水を運んできて、僕に飲ませたのだからもう用は無いだろうに、彼女は僕の目の前に立ったまま動かない。
「……いや、どうもしない。そういえば、名前なんだっけ」
 悪いけど、僕は向こうの軍のひとの名前をほとんど覚えていない。
 彼女はなぜか僕の名前を知っていたというのにだ。
「わたしはジェニーっていうの。そうだ、せっかくだからお話しましょう」
「え?」
「あなたの気分がよくなるまで、ここにいるね」
 僕が答える前に、よいしょ、と小さく呟いて、ジェニーは僕の隣に腰かけた。
 それも、お互いの衣服が触れそうなほど近くに。
 距離感の近い子だ。この時点で少し、苦手なタイプだった。
「別に放っておいてくれていいけど」
「だって、こうやってお話してるのも何かの縁だもん。アルム様の軍のみんなのことも、もっと知りたいなって思って」
「他をあたってくれる?」
「どうして?」
 無垢そうな表情で首をかしげられた。
「どうしてって言われても」
 察してくれ。僕は一人が好きなんた。
 こんなにわかりやすく態度に出しているのに動じない。
 触れそうなほど近くに詰め寄ってくるような子に、そんなこと察しろというほうが無理な話だろうか。ロビンじゃないんだから空気読んでよ。
 やっぱりこの子、僕の苦手なタイプだ。

 ジェニーは僕の態度にはお構いなしに、いろいろと質問をしてきた。
 簡単な自己紹介から趣味、得意なこと、先の戦いではどんな経験をしたか、なんてあたりさわりのない、この船で会った人にはいつ聞かれてもおかしくないようなことを聞かれた。
 今後同じようなことがあったときのために、僕は回答を用意するようなつもりで、彼女の質問に答える。
 結局、船酔いのせいで腰が重い僕は彼女の側から逃げることを諦めていて、会話を続けざるを得なかった。
そして、話しているうちに船に酔っていたことなど忘れていた。
 知らず知らずのうちに、彼女と話していることによって気分が回復していたようだ。
「なんか知らないけど船酔い治まったみたいだ。……とりあえず、お礼は言っておくね、ありがとう」
「ほんと? わたし何もしてないけど、どういたしまして」
 柔らかな笑顔が真っ直ぐにこちらに向けられて、僕は思わず目を逸らしていた。
 頼んでもいないのに明かりをつけられるような、少し迷惑で、お節介な笑顔だったからだ。
 僕は昔から、こういう笑顔が苦手なのだ。

「あ、いたいた!おーいクリフ、大丈夫か?」
 ああほら、いつものお節介が来た。
 振り返らないでいても、声の主は構わずに僕の隣に立った。
「アルムに聞いたぜ、お前気分悪いんだって?」
 声の主はロビン。部屋に戻ったアルムが事情を話しただろうから、そのうち探されるだろうと思っていた。本当にお人よしなんだから。
「やっと回復したところだったのに余計気分悪くなるでしょ。静かにしてよ」
 いつもの調子で皮肉を返すが、ロビンは怒る様子はなく、少し呆れたように頭をかいた。
「お前そりゃないだろ。……あ、お前ありがとな。えっと、セリカんとこの……」
 僕の隣にいるジェニーが、ロビンに声をかけられて立ち上がった。ぺこりと、小さくお辞儀をする。
「ジェニーっていうの。あなたは、確かロビンくんね。よろしくね」
「ああ、名前覚えてくれてありがとな、ジェニー」
 ロビンが片手を差し出して、座ったままの僕の目の前で、二人が握手を交わした。
「で、何しに来たの」
 僕はロビンの顔も見ずにそう聞いた。ロビンが肩をすくめたのが雰囲気でわかる。
「何って、お前の様子を見に来たんだよ。アルムも心配してたからさ」
 いらないお節介だけれど、今は丁度良かった。ジェニーというほぼ初対面の女の子に、隣で質問責めにされていて少し気疲れしていたから。逃げるタイミングもなかったし。
「部屋に戻るよ」
「あ、コップもらうね」
 水を飲み終わって空になったコップを僕の手から取ろうとするジェニー。僕は彼女の手から逃げるように、コップを振り上げた。
「いいよ、自分で片付ける。食堂のでしょ」
 何から何まで世話をしようとするのはこの子の性格なのか、シスターはみんなそうなのか分からないけれど、必要以上に手を貸してもらうのは苦手だ。僕はこの子に何かしてあげる予定もないし。
「そう?じゃあまたお食事のときにね。ロビンくんも」
 そんな僕の心境など何も知らないで、ジェニーは僕とロビンに手を振ってセリカの船室のほうへと戻っていった。


 僕はロビンの斜め後ろを歩いて部屋に向かう。昔からいつも、人の後ろについていく癖が染みついていた。
 僕は人を引っ張るような性格じゃないし、誰かをどこかへ連れていくのにも向いていない。
 それに、相手の視界に入らず、目が合わないのは楽だから、自然とこの位置を歩いてしまう。
「なあ、さっきの子ってセリカの友達だろ?」
 それなのに、ロビンはわざわざこちらを振り返りながら歩く。そのまま躓いて転べばいいのに。
「……僕たちの軍にあんな子いなかったはずだから、そうなんじゃない?」
「そうじゃない?ってお前なあ、せっかくこうして知り合ったんだし友達になろうぜ」
「……いいよ別に、必要ないし」
 ロビンが歩く速度をゆるめて、僕の隣に並んで歩いた。頭に視線を感じて、ロビンのほうを見ることができない。見たら絶対に目が合う。
 するとロビンの手が、ぽんと頭に乗るのがわかった。
「気分はもういいのか?」
「……大丈夫だから、頭さわんないでよ」
「悪い。でも心配したんだぜ? 具合悪そうにしてたってアルムが言うからさ」
 昔から何かとこうして気にかけてくれて、世話を焼いてくる。ロビンのこういうところ、本当に……。
「僕もう子どもじゃないし、そういうのやめてよ」
 そうだな、とロビンが呟く。
 そうしているうちに僕たちの部屋に着いた。部屋の四隅にひとつずつベッドのある部屋。
 アルムとロビンとグレイと、僕が使っている部屋だ。
「やあクリフ。具合はどう?」
 部屋に入ると、アルムが気づいて声をかけてくれた。
「大丈夫、風に当たってきたから」
 そう言って、僕はさっまで自分が座っていたベッドに腰かけた。枕元に置いてあった読みかけの本を手に取る。
「こらクリフ!また船酔いするだろ。部屋で本は読むな」
 それに気づいたロビンが、僕の手から本を取り上げた。思わず見上げると、まるで弟を窘めるように眉間にしわを寄せたロビンが立っていた。
「わ、分かってるってば!片付けようとしたの。返して!」
 本当はちょっと読もうと思っていたのだけれど、そう言われてしまっては言い訳するしかない。
「……ったく、お前は馬車でもよく酔ってたんだから気を付けろよな」
「分ってるってば……うるさいな」
 返してもらった本を、僕は枕の下に片づけた。見えるところに置いておくと、うっかり手に取ってしまいそうだからだ。
「その辺にしておけよ。狭い部屋で言い合うなって」
 ここまで傍観していたグレイが言った。ロビンと僕が騒いで、グレイが仲裁に入るのはいつものことだ。
「二人は小さいころからずっと仲がいいよね」
 そして、アルムが少しズレた一言をかけるのが僕たちのいつもの日常だ。
「どこが?」
 僕が顔をしかめて、
「そりゃねーだろクリフ」
 ロビンが呆れたように笑う。
「そういう所がだよ」
 そしてアルムが笑った。

 本を読むのを制されてすることがなくなった僕の隣に、ロビンが座った。僕が船酔いをする前とは違って、今度は最初から、ロビンの話に僕も巻き込まれた。
 ロビンは昔からそうだ。いつも気が付いたら側にいて、世話を焼いてきたり、心配してきたりする。ロビンには弟や妹がたくさんいるから癖みたいなものなんだろうけど、特に僕に対してやたらお節介なんだ。
 世話され慣れてない僕は人に心配されるのが苦手だし、必要だとも思ってない。確かに僕はこの四人の中では年下だけれど、年上に頼って生きなきゃならないほど小さくない。
 それなのに、ロビンは昔からの癖が抜けないのか、僕のことを放っておいてくれない。
 ロビンのそういうところが昔から本当に嫌で、実をいうとちょっと羨ましいのだ。

 僕は誰かに優しくできないし、みんなから頼られるような存在じゃない。ロビンは僕のことを頭がいいって褒めてくれるけど、こんなの、ちょっと人より本を読むのが好きなだけだ。
 誰にでも分け隔てなく懐いて仲良くなるあのロビンの性格は、勉強して身に着くものじゃない。
 ロビンの周りにはいつも人が集まっている。僕にはとても、真似できないことだ。

 羨ましいと思っていたら、いつの間にかロビンのことが気になっていた。それを認めたくなくて、つい冷たく当たってしまったこともあるんだけど。
 それでもロビンは僕に歩み寄ってきた。いくら冷たくしても、連れない態度をとっても、めげなかった。
 僕のことを信頼してくれているみたいだった。

 だから僕は、一度だけロビンに本音を話した。
 ロビンを見ていると自分がみじめになるって。ロビンみたいにできないって。
 けれどロビンは、自分も同じだって言ってくれた。誰だって他人が羨ましくなるものだって。
 僕はその言葉で気持ちが少し楽になったけれど、やっぱりロビンはすごいなって思ってしまった。

 ロビンはグレイやアルムと他愛のない話をしながら、律儀に僕にも話を振る。適当に答えているうちに、いつの間にか僕のほうから積極的に話に参加していた。
 こうやって、僕はいつも巻き込まれていく。ロビンがいつも巻き込んでくれる。
 ロビンのこういうところ、お節介だけれど、実はそんなに嫌いじゃない。



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