コンパスはおしえてくれない
6
朝早く起きるのは苦手ではない。村にいた時も母さんは僕より先に起きて仕事の支度をしていたから、自分で起きられるようにしつけられていたし、学校でもそれが役に立って寝坊したことは一度もない。
この日も僕はロビンよりも先に目を覚まして、まず着替えを済ませた。それからベッドで寝息を立てているロビンの顔を覗き込むとまだ気持ちよさそうに眠っていた。
「ねえ、ロビン起きてよ。本屋探してくれるんでしょ」
別に僕一人で行ったっていいんだけど。一人で知らない土地を歩き回って面倒に巻き込まれるのは嫌だ。それは苦しい建前だと分かっていたけど、そう考えずにはいられなかった。
声をかけるだけではロビンは起きない。僕はロビンの肩を軽くゆすってみる。
「ロビン」
「んー……」
今度は反応があった。しかしロビンは逃げるように寝返りを打つ。
「もう少し寝かせてくれよ」
「市場開いちゃうし。朝ごはんも食べなきゃだし。寝てたらもったいないでしょ」
ロビンは僕の仲間うちでは一番朝に弱い。小さいころにマイセンさんとアルムの家に修業に通っていた時も、ロビンはよく遅刻していた。弟や妹たちの面倒を見て、両親の手伝いもしていたから夜更かしに慣れてしまったのもあるんだろうけど、それにしたって充分寝ているだろうに。
「先にご飯食べに行っちゃうよ?」
「待てって。起きるから」
肩をゆする手を放すとさすがに焦ったのか、ロビンが布団の中で伸びをした。
「お前、毎晩遅くまで本読んでてよく寝坊しないな」
ロビンが着替えている間、僕は荷物の中から手放す本を選んだ。僕は今日は本屋でこれを売って、新しい本を手に入れたいと思っているのだ。
「毎朝同じ時間に起きていればロビンも自然に目が覚めるようになるよ」
何気ない会話をしながら、僕は選んだ本を鞄に詰めた。ロビンは着替え終わると、いつもの習慣で弓の手入れを始める。
「起こしてくれるやつがいるとどうしても甘えちまうなー。うちでは弟たちが集団で起こしにかかってきてたからな」
「行軍中は嫌でもフォルスに起こされてたしね。さすがに僕も戦いの最中はいつ寝ていつ起きてたかは覚えてないや」
それから二人とも作業に集中して少しの間黙る。
ロビンが弓と矢筒を肩に背負って立ち上がるのと、僕が選んだ本を詰めた鞄を持って立ち上がるのはほぼ同時だった。
「じゃ、飯食って出かけるか」
「うん」
僕は朝食のあと、ロビンと一緒に港の市場へと出かけた。
朝早くに行くと、とれたての魚や野菜たちが安く手に入るということで港が賑わうのだ。
しかし、僕の目当ては新鮮な食べ物ではなくて、朝市に便乗するように店を広げている行商人たちの方だ。
ほかの地方からやってきた彼らは、各地で仕入れた珍しい品を並べて売っているはずなのだ。
「うまそーな物がいっぱい売ってんなー」
ロビンの方の興味は食べ物の方に向いているので、目当ての物がない僕よりも足取りが少しだけ遅い。
「ロビン、ここに来てから食べてばっかじゃん」
「しょうがねーだろ、食べたことないものがいっぱいあるんだから」
通りに麻布を広げて、その上に野菜や魚を並べている商人たちに声をかけながらロビンは歩く。僕が挨拶に疲れているのが伝わったようで、ロビンは僕を振り返って肩をすくめた。
「本屋探すか?」
「う、うん」
自分の見たいものを好きに見て回っていたかと思ったら、ロビンが急に気の利いたことを言うので驚く。
「じゃー多分こっちだな」
そう言うと、ロビンは僕の数歩前をさっさと歩いていってしまう。僕は慌ててロビンの後を追った。
「なんで分かるの?」
迷いなく速足で歩いていくロビン。まるで本屋の場所が分かっているみたいだった。
ロビンは、魚の市で賑わう海側とは反対側へと歩いていく。
「昨日一人で歩いてる時にな、本屋っぽい看板を見つけたんだ。クリフが見に行きたいかと思って場所を覚えておいたんだ」
「ロビンにしては気が利くね」
「一言余計だ」
くだらない問答をしながら海から少し離れた路地に出ると、雑貨屋の屋台が並ぶ通りへと出た。
なるほど、ここなら商品が潮風にさらされる影響を少しは緩和できる。
本や雑貨はこっちで売っているというわけだ。
昨日、ジェニーが買い物をしていたのは町の中央広場のあたりだった。その辺りにも華やかなお店は多かったけれど、掘り出し物を雑多に並べるような市や屋台は見かけなかった。
旅の商人達が思い思いの品物を持って集まっているのはここというわけだ。
雑貨屋は後でゆっくり見ることにして、僕は早速ロビンが見つけてくれたという本屋の場所を聞いた。
ロビンは僕の手首を掴んでまた歩き出す。
「ちょっとロビン、引っ張らなくてもついて行くから!」
「ここ!ほら、本屋じゃないか?」
「え?」
ロビンが連れてきてくれたのは、古いレンガ造りの小さな建物だった。いかにも隠れ家のような佇まいのその建物は、屋台の並ぶ通りの一番端に位置していた。
看板には本の絵だけが書いてあって、お店の名前などはどこにも書いていない。
店の扉が開いていたので、ロビンは嬉しそうにドアを指差す。
「昨日来た時は開いてなかったんだ」
ほら行こう、とロビンが僕を振り返る。僕は頷くと、その小さな本屋に足を踏み入れた。
その本屋は、古ぼけた外観から想像した通り、狭くて暗く、木の匂いや紙の匂いが充満していた。
ロビンは店に入った瞬間に少しむせたけれど、僕はこの匂いが好きで、すぐに気分が高揚した。
店は古いがよく掃除されていた。所狭しと並ぶ本棚にぎっしり詰まった本も、どれも一冊一冊丁寧に手入れされている。
店の奥の椅子にこしかけている老人が店主だろう。
店主は僕とロビンを見ると一言「いらっしゃい」と言って、手元にある一冊の本のページに視線を落とした。
この店の部屋の本は全て読了していそうなその店主に近づき、僕は鞄の中から二冊の本を取り出す。
「これを売りたいんだけど」
老人はゆっくりと顔を上げて、僕の本を見た。
「おお、珍しい。バレンシアの歴史書じゃないか」
老人はシワで細くなっていた目をできるだけまるくしたような表情で、楽しそうに僕の本を受け取った。
「すぐに鑑定は終わるよ。ちょっと店を見ているといい」
そう言うと店主は店の入口や本棚の並ぶ店内がよく見渡せる位置にあるカウンターに立った。
そこで僕が持ってきた本を眺めたり、ページをめくったりしながら吟味している。
信頼できそうな人だから、僕は鑑定を任せて店内を見て回った。
「難しい本ばっかりだなあ」
本棚を眺めながらロビンが言う。
「ロビンにとっては、子ども向けの絵本以外は全部難しい本なんじゃないの」
「あはは、そうかもなー。うちは絵本なんてなかなか買ってもらえなかったし、一冊の本を繰り返し読んで過ごしてたな」
ロビンは懐かしそうに目を細めた。きっと、ラムの村に置いてきた家族の事を思い出しているんだろう。もう長く帰っていないから。
「クリフは給金はほとんど本に使ってんだろ?」
僕が本棚の下の段を見るためにしゃがんでいたら、上からそんな言葉が降ってきた。
「必要なものを買って、余ったお金をね? それに、読み終わった本を売って違う本を買っているから、実はそんなに使ってないよ」
他をかえりみないで本ばっかりにお金を費やしているみたいな言い方をされて、ちょっとムキになってしまった。立ち上がる時に自分の頭の高さがロビンの頭の高さまで届かない事にまたムッとする。
本を並んで眺めていると、すぐ隣に立つロビンが僕よりも背が高いのが分かる。
ちょっと悔しい。そんなに変わらないと思っていたけど、並んで立つとやっぱりロビンは僕より背が高かった。
本棚に並ぶ背表紙を眺め、僕はこの町で購入する本を選ぶ。
作りのしっかりした本のほうが内容が充実していて面白く、また次の本を買うための資金にも替えやすいから、本を買うときは装丁と値段も重視する。大量にある本の中から一冊の本を選び取るための最初の絞り込みになる。
高い本には、高いなりにためになることが書いてあるものだ。
「この本……」
そんな目で本を見ていたら、数多ある本の中で一冊が目に留まった。それは紺色の布張りの本で、背表紙にも表紙にも白い花がたくさん刺繍されている。
手触りの気持ちのいい本だった。
「それ、宿屋の花壇に咲いてた花に似てねーか?」
ロビンが、僕の考えてることを口にした。表紙に刺繍された白い花。頭を垂れてうつむいているように見える、おとなしい印象の冬に咲く花だ。この町に来てからよく見かける白い花。
「スノードロップ」
「ん?」
「この花の名前。知りたがってたでしょ、昨日」
「ああ、知ってたならなんで昨日教えてくれなかったんだよ」
ロビンが怪訝そうな顔でそう言う。僕はスノードロップの花壇に座っているジェニーの姿を思い出した。
「……別に、なんとなくだよ」
言いながら、僕はその本を開いてみた。ページの端は埃焼けをして茶色くなっているが、中は綺麗で、大切に読み継がれて来たことがわかる。
「各地の民話をまとめた本みたい」
「民話って、昔ばなしみたいなもんか?」
ロビンが知ってる言葉で聞き返してきたので、僕は頷く。
「まあ、そうだね。子どもが読む絵本にも、民話や神話を噛み砕いたものが多いでしょ」
バレンシアで一番有名なのは、ドーマとミラの争いから大陸が二分されるまでの神話を絵本にしたものだ。
その絵本を読むことで、子どもたちはなんとなく「神様が喧嘩をして大陸を半分こした」ことを学ぶのだ。
けれど大陸が二分された時代はアルムの代で終わる。これから先の未来、子どもたちが読む絵本はきっと、アルムを主人公にした英雄譚だろう。
「そうそう、昔クリフが俺んちにくれた絵本、弟達みんな喜んでたんだぜ」
ロビンは昔話を始めた。何の話だと思いを巡らせてみると、確かに僕は昔、ロビンの弟や妹たちに絵本を譲った事があった。うちの母さんが処分に困った母さんが押し付けるような形だったけれど。
「ああ、僕が小さい時に読んでたやつ」
「そーそー、母ちゃんも張り切って読み聞かせててさ。一番下のチビももう大きいし、今はもうどっかにしまってそうだけどな」
「しまってるくらいなら誰かにあげたらいいのに。本は誰かに読まれてこそ価値があるんだからさ」
僕の目の前に並ぶこの本たちもそうだ。誰かに読まれなければただの紙の束。本を選ぶときはいつも、その寂しい本たちを自分が救ってやっているような気持ちになる。
「その通りだよ。君は本当に本が好きなんだな」
僕たちの会話に別の声が加わった。店主が僕を呼ぶために本棚の間まで来ていたのだ。
「鑑定が終わった。バレンシアの本はここでは珍しいからね、高く買い取ってあげるよ」
「ありがとう」
僕は店主についてカウンターへ行き、本の代金を受け取った。買ったときとほぼ同額戻ってきたのには驚いた。
「何か買っていくかい?」
「うん、しばらく見ていていい?」
「もちろん」
僕はもう一度、先ほど眺めていた本棚の前に戻る。ロビンがぼーっと本を眺めていた。
とても、つまらなさそうな顔をしていた。
「ロビン、その……退屈だったら外で雑貨を見ていてもいいけど」
僕が思わずそう声をかけると、ロビンは噴出して笑った。
「なんだよ、珍しく気遣うなって」
「珍しくは余計なんだけど」
「さっきの仕返し」
向けられた笑顔はいたずらが成功したときの顔だった。僕は悔しくてそっぽを向いて、ロビンの事は放っておいて本選びに没頭した。
結局ずっと手に持ったまま棚に戻さずにいた民話の本と、アカネイアの魔道の研究書を買った。
「このお店、毎日開いてるのか? 俺が昨日見たときは閉まってたけど」
僕が会計を済ませると、ロビンが店主に聞いた。僕も気になっていたことだったので、僕も目線で店主に同じ質問をしたい意を伝えた。
「ああ、最近物騒だからな、午前中しか開けていないんだ」
「物騒?」
店主が頷いた。
「この通りは朝市の時以外は人通りが少なくてな。前に夕方に強盗に入られてからは、朝市の間だけ営業することにしたんだ」
午後には、いつでも人通りの多い広場や宿屋に出向いて、旅人向けに何冊かの本を持って宣伝するのだそうだ。
本に興味を持ってくれる人がいたら、朝なら開いているからと本屋を案内したり、急ぎの人には特別に店に案内して開けてあげたりするのだそうだ。
本当に本が好きな人は目を見ればわかると店主は言った。
「ここには高価な本も多いからね、営業時間の案内も出していないんだよ。悪かったねえ」
店主が申し訳なさそうに声も頭も落ち込ませてしまったので、僕は少し困って、ロビンを目を合わせた。責めるつもりはなかったのに謝らせてしまった。
「……大変だね」
「どこにでも賊ってのはいるんだなあ」
気の利いた言葉が見つからない僕たちは、そう声をかけて黙った。
店主は入口まで僕らを見送ってくれた。店を出る直前、店主がもう一度僕たちを呼び止める。
「お前さんたち、昨日から来ているバレンシアの軍人さんだろう」
「なんで分かるんだ?」
ロビンが店主の質問を質問で肯定した。うかつに身分がバレてしまっていることをロビンは気づいていない。相手が人の好さそうなおじいさんだったから良かったけど。
店主はやっぱりか、と目じりのしわを深くして笑った。
「最近陸路には山賊がよく出るのでな。護衛を従えた商人しか抜けられん。最近海から渡ってきた人らといえばバレンシアの軍人さんか貿易船だけじゃ。お前さんたちは見たところ商人じゃなさそうだからな」
店主のその語りっぷりから、長くこの地で店を構えているという歴史を感じた。
僕たちの何倍も生きて、ここで本を売って、多くの旅人や商人を見てきたのだろう。
「海でも海賊に会っちまったけどな」
ロビンが言うと、店主がやれやれと首を振った。
「ここはアカネイアの端だからなあ。都心のお偉いさんの目が届かずに、治安もあまりよくないんだよ。おかげで観光に来る旅人も減っちまった。集まるのはお宝目当ての賊ばかりさ」
そう語った店主は、今度こそ僕たちを見送った。店を出た僕とロビンが石段をすべて降りると、もう一度「ありがとう」とお礼を言って店の中へ戻って行った。
「他に何か買うもんあんのか?」
本屋を出て通りの雑貨屋を眺めながらなんとなく歩いていたら、ロビンがそう聞いてきた。
なんで今日はそんなに気を遣うんだろう。珍しい。いつもなら自分の行きたいところに強引に連れて行くくせに。
「僕は新しい本が手に入ったから目的は達成したけど、ロビンは? せっかくだし、装備品とか保存食とか見ていく?」
ちょうど今いるのは珍しい雑貨が多く並んでいるであろう通りだ。もう朝市とは呼べない時間になってしまったけど、まだ店は出ている。
「うーん、そうだな。新しい装備も見たいけど」
「見たいけど?」
「まずは美味いもん食いてーな」
ロビンの腹時計は正確なようで、僕は思わず笑ってしまった。
「……わかった、いいよそれで」
真剣に本を選んでいたから僕も少し疲れたし。
「いいのか?やったー!」
それにロビンを長い時間本屋に付き合わせてしまったこともあるし。時間もちょうどいい。
ロビンは嬉しそうに笑って、歩く速度を上げた。不意に向けられた無防備な笑顔に、僕は一瞬圧倒されてしまった。大したことなんて何もしてあげていないのに、ロビンは心の底から笑ってくれる。
だから僕はいつも、その笑顔に惑わされてしまう。心臓がやけに速くなって、顔が熱くなるような気がしていた。
『本当にロビンくんの事が好きなのね』
ジェニーの声が頭の中によぎった。違う、ととっさに否定する言葉が浮かぶも、自分の心に嘘を吐きとおすことができなくて、僕は下唇を噛んだ。
「あっちに飯屋があるぞ! 行こうぜクリフ!」
ロビンが突然声を上げて僕の手首を掴んだ。急に歩く速度を上げたロビンに、僕は慌ててついて行く。足がもつれそうになったのを何とか持ちこたえると、目線の先には、昼間から酒と肉をふるまっている料理屋があった。
「ここで昼飯食おうぜ!」
「い、いいけどお酒はダメだからね!」
「わかってるって!」
ロビンが選んだその店は、肉屋と食堂を兼ねている店で、干し肉や生肉の並ぶ店頭の他、食事をすることができるテーブルも並んでいる。店内だけでなく、外にもいくつか席があった。ロビンは、今日は天気がいいからと店の外の席を選ぶ。
賑やかな街並みを眺めながら食事ができるというのは、とても趣味のいい店だと思うけど。仲間たちに見つからないかどうかと考えてしまう自分がいた。
そして、仲間同士二人でこうして食事をしていたところで、誰も何とも思わないだろうという考えに行きついて、頭を抱える。ダメだ、どうしても意識してしまっている。僕がひとりで余計なことを考えているだけで、こんなの全然大したことじゃないのに。
気を取り直して、僕はチキンとサラダとパンを、ロビンはステーキを注文した。
「昼間からステーキなんてよく食べられるよね」
「別に普通だろ。せっかく肉屋に来たんだから、肉食わねえとな」
皿の上でまだジュージューと音をあげている、鉄板からあげられたばかりの肉に、ロビンが乱雑にナイフとフォークを突き立てた。
「それはそうだけど、明日はテーベに向かって出発するんだよ?帰ったら少しは訓練しておかないと」
「だろ?ならたくさん食って力つけねーと」
「そういうことじゃなくてね……」
ロビンは、食べすぎるとお腹がいっぱいになって動けなくなるっていう発想はないんだろうか。そう言おうとしてふと、通りの方へ人の気配があることに気づいた。視線を感じてそちらへ目をやると、そこにはもう見慣れてしまっている女の子が立っていた。
「ロビンくん、クリフくん」
ふわふわと踊るピンクの髪。ジェニーだ。ひとりで買い物か散歩でもしていたのだろうか。
しまった、この現場を一番見られたくない人に見られてしまった。
「お、ジェニーじゃねーか。お前も一緒に昼飯どうだ?」
僕の心境なんて知る由もなく、人のいいロビンはそう声をかける。
「ううん、私は……その、向こうでボーイとメイと約束してるの!」
ジェニーはぶんぶんと頭を横に振った。明らかに不自然な断り文句だった。気を遣うのが下手な子だと思う。ジェニーは頬を赤らめ、でも目を輝かせて僕を見た。まるで、「大丈夫、全部分かってるわ」と言わんばかりの熱い視線だった。
何を期待しているのか知らないけれど、僕たちはただふつうに昼食をとっているだけなのだ。
「じゃ、じゃあ、二人ともまたね!明日はがんばろうね!」
ジェニーは満足そうな笑顔で手を振って、雑踏の中へと消えて行った。
「どうしたんだろうな、あんな楽しそうに。あっちに何か面白いものでもあるのか?」
「さあ、女の子が楽しいお店でもあるんじゃない?」
僕は適当に返事をして、目の前の食事に集中した。ジェニーが走って行った方向はもう閉まりかけの市場だ。待ち合わせがあるっていうのは絶対に嘘だ。
まあ、それでも。ジェニーが僕とロビンのことを期待のまなざしで見ていることは不本意ではあっても、彼女が少し茶化してくれたおかげで、ロビンと二人で食事をしているこの状況に変に緊張しなくて済んだ。
僕とロビンは昼食を済ませ、その後はまっすぐに宿屋に戻った。それからは念入りに装備品や武器の確認をし、アルムやグレイ、エフィも一緒に宿屋の庭を借りて訓練を行った。
いよいよ明日はテーベの遺跡に向かって出発する。本を読むことも大好きだけれど、見たことのないものを実際にこの目で見られるという経験は、どんな書物や伝承で伝え聞くことを上回る喜びだった。
この日は明日からの遠征に備えて早めに眠ることになった。僕は隣のベッドで先に眠ったロビンの寝息を聞きながら、自然にやってきた眠気に任せて目を閉じた。
朝早く起きるのは苦手ではない。村にいた時も母さんは僕より先に起きて仕事の支度をしていたから、自分で起きられるようにしつけられていたし、学校でもそれが役に立って寝坊したことは一度もない。
この日も僕はロビンよりも先に目を覚まして、まず着替えを済ませた。それからベッドで寝息を立てているロビンの顔を覗き込むとまだ気持ちよさそうに眠っていた。
「ねえ、ロビン起きてよ。本屋探してくれるんでしょ」
別に僕一人で行ったっていいんだけど。一人で知らない土地を歩き回って面倒に巻き込まれるのは嫌だ。それは苦しい建前だと分かっていたけど、そう考えずにはいられなかった。
声をかけるだけではロビンは起きない。僕はロビンの肩を軽くゆすってみる。
「ロビン」
「んー……」
今度は反応があった。しかしロビンは逃げるように寝返りを打つ。
「もう少し寝かせてくれよ」
「市場開いちゃうし。朝ごはんも食べなきゃだし。寝てたらもったいないでしょ」
ロビンは僕の仲間うちでは一番朝に弱い。小さいころにマイセンさんとアルムの家に修業に通っていた時も、ロビンはよく遅刻していた。弟や妹たちの面倒を見て、両親の手伝いもしていたから夜更かしに慣れてしまったのもあるんだろうけど、それにしたって充分寝ているだろうに。
「先にご飯食べに行っちゃうよ?」
「待てって。起きるから」
肩をゆする手を放すとさすがに焦ったのか、ロビンが布団の中で伸びをした。
「お前、毎晩遅くまで本読んでてよく寝坊しないな」
ロビンが着替えている間、僕は荷物の中から手放す本を選んだ。僕は今日は本屋でこれを売って、新しい本を手に入れたいと思っているのだ。
「毎朝同じ時間に起きていればロビンも自然に目が覚めるようになるよ」
何気ない会話をしながら、僕は選んだ本を鞄に詰めた。ロビンは着替え終わると、いつもの習慣で弓の手入れを始める。
「起こしてくれるやつがいるとどうしても甘えちまうなー。うちでは弟たちが集団で起こしにかかってきてたからな」
「行軍中は嫌でもフォルスに起こされてたしね。さすがに僕も戦いの最中はいつ寝ていつ起きてたかは覚えてないや」
それから二人とも作業に集中して少しの間黙る。
ロビンが弓と矢筒を肩に背負って立ち上がるのと、僕が選んだ本を詰めた鞄を持って立ち上がるのはほぼ同時だった。
「じゃ、飯食って出かけるか」
「うん」
僕は朝食のあと、ロビンと一緒に港の市場へと出かけた。
朝早くに行くと、とれたての魚や野菜たちが安く手に入るということで港が賑わうのだ。
しかし、僕の目当ては新鮮な食べ物ではなくて、朝市に便乗するように店を広げている行商人たちの方だ。
ほかの地方からやってきた彼らは、各地で仕入れた珍しい品を並べて売っているはずなのだ。
「うまそーな物がいっぱい売ってんなー」
ロビンの方の興味は食べ物の方に向いているので、目当ての物がない僕よりも足取りが少しだけ遅い。
「ロビン、ここに来てから食べてばっかじゃん」
「しょうがねーだろ、食べたことないものがいっぱいあるんだから」
通りに麻布を広げて、その上に野菜や魚を並べている商人たちに声をかけながらロビンは歩く。僕が挨拶に疲れているのが伝わったようで、ロビンは僕を振り返って肩をすくめた。
「本屋探すか?」
「う、うん」
自分の見たいものを好きに見て回っていたかと思ったら、ロビンが急に気の利いたことを言うので驚く。
「じゃー多分こっちだな」
そう言うと、ロビンは僕の数歩前をさっさと歩いていってしまう。僕は慌ててロビンの後を追った。
「なんで分かるの?」
迷いなく速足で歩いていくロビン。まるで本屋の場所が分かっているみたいだった。
ロビンは、魚の市で賑わう海側とは反対側へと歩いていく。
「昨日一人で歩いてる時にな、本屋っぽい看板を見つけたんだ。クリフが見に行きたいかと思って場所を覚えておいたんだ」
「ロビンにしては気が利くね」
「一言余計だ」
くだらない問答をしながら海から少し離れた路地に出ると、雑貨屋の屋台が並ぶ通りへと出た。
なるほど、ここなら商品が潮風にさらされる影響を少しは緩和できる。
本や雑貨はこっちで売っているというわけだ。
昨日、ジェニーが買い物をしていたのは町の中央広場のあたりだった。その辺りにも華やかなお店は多かったけれど、掘り出し物を雑多に並べるような市や屋台は見かけなかった。
旅の商人達が思い思いの品物を持って集まっているのはここというわけだ。
雑貨屋は後でゆっくり見ることにして、僕は早速ロビンが見つけてくれたという本屋の場所を聞いた。
ロビンは僕の手首を掴んでまた歩き出す。
「ちょっとロビン、引っ張らなくてもついて行くから!」
「ここ!ほら、本屋じゃないか?」
「え?」
ロビンが連れてきてくれたのは、古いレンガ造りの小さな建物だった。いかにも隠れ家のような佇まいのその建物は、屋台の並ぶ通りの一番端に位置していた。
看板には本の絵だけが書いてあって、お店の名前などはどこにも書いていない。
店の扉が開いていたので、ロビンは嬉しそうにドアを指差す。
「昨日来た時は開いてなかったんだ」
ほら行こう、とロビンが僕を振り返る。僕は頷くと、その小さな本屋に足を踏み入れた。
その本屋は、古ぼけた外観から想像した通り、狭くて暗く、木の匂いや紙の匂いが充満していた。
ロビンは店に入った瞬間に少しむせたけれど、僕はこの匂いが好きで、すぐに気分が高揚した。
店は古いがよく掃除されていた。所狭しと並ぶ本棚にぎっしり詰まった本も、どれも一冊一冊丁寧に手入れされている。
店の奥の椅子にこしかけている老人が店主だろう。
店主は僕とロビンを見ると一言「いらっしゃい」と言って、手元にある一冊の本のページに視線を落とした。
この店の部屋の本は全て読了していそうなその店主に近づき、僕は鞄の中から二冊の本を取り出す。
「これを売りたいんだけど」
老人はゆっくりと顔を上げて、僕の本を見た。
「おお、珍しい。バレンシアの歴史書じゃないか」
老人はシワで細くなっていた目をできるだけまるくしたような表情で、楽しそうに僕の本を受け取った。
「すぐに鑑定は終わるよ。ちょっと店を見ているといい」
そう言うと店主は店の入口や本棚の並ぶ店内がよく見渡せる位置にあるカウンターに立った。
そこで僕が持ってきた本を眺めたり、ページをめくったりしながら吟味している。
信頼できそうな人だから、僕は鑑定を任せて店内を見て回った。
「難しい本ばっかりだなあ」
本棚を眺めながらロビンが言う。
「ロビンにとっては、子ども向けの絵本以外は全部難しい本なんじゃないの」
「あはは、そうかもなー。うちは絵本なんてなかなか買ってもらえなかったし、一冊の本を繰り返し読んで過ごしてたな」
ロビンは懐かしそうに目を細めた。きっと、ラムの村に置いてきた家族の事を思い出しているんだろう。もう長く帰っていないから。
「クリフは給金はほとんど本に使ってんだろ?」
僕が本棚の下の段を見るためにしゃがんでいたら、上からそんな言葉が降ってきた。
「必要なものを買って、余ったお金をね? それに、読み終わった本を売って違う本を買っているから、実はそんなに使ってないよ」
他をかえりみないで本ばっかりにお金を費やしているみたいな言い方をされて、ちょっとムキになってしまった。立ち上がる時に自分の頭の高さがロビンの頭の高さまで届かない事にまたムッとする。
本を並んで眺めていると、すぐ隣に立つロビンが僕よりも背が高いのが分かる。
ちょっと悔しい。そんなに変わらないと思っていたけど、並んで立つとやっぱりロビンは僕より背が高かった。
本棚に並ぶ背表紙を眺め、僕はこの町で購入する本を選ぶ。
作りのしっかりした本のほうが内容が充実していて面白く、また次の本を買うための資金にも替えやすいから、本を買うときは装丁と値段も重視する。大量にある本の中から一冊の本を選び取るための最初の絞り込みになる。
高い本には、高いなりにためになることが書いてあるものだ。
「この本……」
そんな目で本を見ていたら、数多ある本の中で一冊が目に留まった。それは紺色の布張りの本で、背表紙にも表紙にも白い花がたくさん刺繍されている。
手触りの気持ちのいい本だった。
「それ、宿屋の花壇に咲いてた花に似てねーか?」
ロビンが、僕の考えてることを口にした。表紙に刺繍された白い花。頭を垂れてうつむいているように見える、おとなしい印象の冬に咲く花だ。この町に来てからよく見かける白い花。
「スノードロップ」
「ん?」
「この花の名前。知りたがってたでしょ、昨日」
「ああ、知ってたならなんで昨日教えてくれなかったんだよ」
ロビンが怪訝そうな顔でそう言う。僕はスノードロップの花壇に座っているジェニーの姿を思い出した。
「……別に、なんとなくだよ」
言いながら、僕はその本を開いてみた。ページの端は埃焼けをして茶色くなっているが、中は綺麗で、大切に読み継がれて来たことがわかる。
「各地の民話をまとめた本みたい」
「民話って、昔ばなしみたいなもんか?」
ロビンが知ってる言葉で聞き返してきたので、僕は頷く。
「まあ、そうだね。子どもが読む絵本にも、民話や神話を噛み砕いたものが多いでしょ」
バレンシアで一番有名なのは、ドーマとミラの争いから大陸が二分されるまでの神話を絵本にしたものだ。
その絵本を読むことで、子どもたちはなんとなく「神様が喧嘩をして大陸を半分こした」ことを学ぶのだ。
けれど大陸が二分された時代はアルムの代で終わる。これから先の未来、子どもたちが読む絵本はきっと、アルムを主人公にした英雄譚だろう。
「そうそう、昔クリフが俺んちにくれた絵本、弟達みんな喜んでたんだぜ」
ロビンは昔話を始めた。何の話だと思いを巡らせてみると、確かに僕は昔、ロビンの弟や妹たちに絵本を譲った事があった。うちの母さんが処分に困った母さんが押し付けるような形だったけれど。
「ああ、僕が小さい時に読んでたやつ」
「そーそー、母ちゃんも張り切って読み聞かせててさ。一番下のチビももう大きいし、今はもうどっかにしまってそうだけどな」
「しまってるくらいなら誰かにあげたらいいのに。本は誰かに読まれてこそ価値があるんだからさ」
僕の目の前に並ぶこの本たちもそうだ。誰かに読まれなければただの紙の束。本を選ぶときはいつも、その寂しい本たちを自分が救ってやっているような気持ちになる。
「その通りだよ。君は本当に本が好きなんだな」
僕たちの会話に別の声が加わった。店主が僕を呼ぶために本棚の間まで来ていたのだ。
「鑑定が終わった。バレンシアの本はここでは珍しいからね、高く買い取ってあげるよ」
「ありがとう」
僕は店主についてカウンターへ行き、本の代金を受け取った。買ったときとほぼ同額戻ってきたのには驚いた。
「何か買っていくかい?」
「うん、しばらく見ていていい?」
「もちろん」
僕はもう一度、先ほど眺めていた本棚の前に戻る。ロビンがぼーっと本を眺めていた。
とても、つまらなさそうな顔をしていた。
「ロビン、その……退屈だったら外で雑貨を見ていてもいいけど」
僕が思わずそう声をかけると、ロビンは噴出して笑った。
「なんだよ、珍しく気遣うなって」
「珍しくは余計なんだけど」
「さっきの仕返し」
向けられた笑顔はいたずらが成功したときの顔だった。僕は悔しくてそっぽを向いて、ロビンの事は放っておいて本選びに没頭した。
結局ずっと手に持ったまま棚に戻さずにいた民話の本と、アカネイアの魔道の研究書を買った。
「このお店、毎日開いてるのか? 俺が昨日見たときは閉まってたけど」
僕が会計を済ませると、ロビンが店主に聞いた。僕も気になっていたことだったので、僕も目線で店主に同じ質問をしたい意を伝えた。
「ああ、最近物騒だからな、午前中しか開けていないんだ」
「物騒?」
店主が頷いた。
「この通りは朝市の時以外は人通りが少なくてな。前に夕方に強盗に入られてからは、朝市の間だけ営業することにしたんだ」
午後には、いつでも人通りの多い広場や宿屋に出向いて、旅人向けに何冊かの本を持って宣伝するのだそうだ。
本に興味を持ってくれる人がいたら、朝なら開いているからと本屋を案内したり、急ぎの人には特別に店に案内して開けてあげたりするのだそうだ。
本当に本が好きな人は目を見ればわかると店主は言った。
「ここには高価な本も多いからね、営業時間の案内も出していないんだよ。悪かったねえ」
店主が申し訳なさそうに声も頭も落ち込ませてしまったので、僕は少し困って、ロビンを目を合わせた。責めるつもりはなかったのに謝らせてしまった。
「……大変だね」
「どこにでも賊ってのはいるんだなあ」
気の利いた言葉が見つからない僕たちは、そう声をかけて黙った。
店主は入口まで僕らを見送ってくれた。店を出る直前、店主がもう一度僕たちを呼び止める。
「お前さんたち、昨日から来ているバレンシアの軍人さんだろう」
「なんで分かるんだ?」
ロビンが店主の質問を質問で肯定した。うかつに身分がバレてしまっていることをロビンは気づいていない。相手が人の好さそうなおじいさんだったから良かったけど。
店主はやっぱりか、と目じりのしわを深くして笑った。
「最近陸路には山賊がよく出るのでな。護衛を従えた商人しか抜けられん。最近海から渡ってきた人らといえばバレンシアの軍人さんか貿易船だけじゃ。お前さんたちは見たところ商人じゃなさそうだからな」
店主のその語りっぷりから、長くこの地で店を構えているという歴史を感じた。
僕たちの何倍も生きて、ここで本を売って、多くの旅人や商人を見てきたのだろう。
「海でも海賊に会っちまったけどな」
ロビンが言うと、店主がやれやれと首を振った。
「ここはアカネイアの端だからなあ。都心のお偉いさんの目が届かずに、治安もあまりよくないんだよ。おかげで観光に来る旅人も減っちまった。集まるのはお宝目当ての賊ばかりさ」
そう語った店主は、今度こそ僕たちを見送った。店を出た僕とロビンが石段をすべて降りると、もう一度「ありがとう」とお礼を言って店の中へ戻って行った。
「他に何か買うもんあんのか?」
本屋を出て通りの雑貨屋を眺めながらなんとなく歩いていたら、ロビンがそう聞いてきた。
なんで今日はそんなに気を遣うんだろう。珍しい。いつもなら自分の行きたいところに強引に連れて行くくせに。
「僕は新しい本が手に入ったから目的は達成したけど、ロビンは? せっかくだし、装備品とか保存食とか見ていく?」
ちょうど今いるのは珍しい雑貨が多く並んでいるであろう通りだ。もう朝市とは呼べない時間になってしまったけど、まだ店は出ている。
「うーん、そうだな。新しい装備も見たいけど」
「見たいけど?」
「まずは美味いもん食いてーな」
ロビンの腹時計は正確なようで、僕は思わず笑ってしまった。
「……わかった、いいよそれで」
真剣に本を選んでいたから僕も少し疲れたし。
「いいのか?やったー!」
それにロビンを長い時間本屋に付き合わせてしまったこともあるし。時間もちょうどいい。
ロビンは嬉しそうに笑って、歩く速度を上げた。不意に向けられた無防備な笑顔に、僕は一瞬圧倒されてしまった。大したことなんて何もしてあげていないのに、ロビンは心の底から笑ってくれる。
だから僕はいつも、その笑顔に惑わされてしまう。心臓がやけに速くなって、顔が熱くなるような気がしていた。
『本当にロビンくんの事が好きなのね』
ジェニーの声が頭の中によぎった。違う、ととっさに否定する言葉が浮かぶも、自分の心に嘘を吐きとおすことができなくて、僕は下唇を噛んだ。
「あっちに飯屋があるぞ! 行こうぜクリフ!」
ロビンが突然声を上げて僕の手首を掴んだ。急に歩く速度を上げたロビンに、僕は慌ててついて行く。足がもつれそうになったのを何とか持ちこたえると、目線の先には、昼間から酒と肉をふるまっている料理屋があった。
「ここで昼飯食おうぜ!」
「い、いいけどお酒はダメだからね!」
「わかってるって!」
ロビンが選んだその店は、肉屋と食堂を兼ねている店で、干し肉や生肉の並ぶ店頭の他、食事をすることができるテーブルも並んでいる。店内だけでなく、外にもいくつか席があった。ロビンは、今日は天気がいいからと店の外の席を選ぶ。
賑やかな街並みを眺めながら食事ができるというのは、とても趣味のいい店だと思うけど。仲間たちに見つからないかどうかと考えてしまう自分がいた。
そして、仲間同士二人でこうして食事をしていたところで、誰も何とも思わないだろうという考えに行きついて、頭を抱える。ダメだ、どうしても意識してしまっている。僕がひとりで余計なことを考えているだけで、こんなの全然大したことじゃないのに。
気を取り直して、僕はチキンとサラダとパンを、ロビンはステーキを注文した。
「昼間からステーキなんてよく食べられるよね」
「別に普通だろ。せっかく肉屋に来たんだから、肉食わねえとな」
皿の上でまだジュージューと音をあげている、鉄板からあげられたばかりの肉に、ロビンが乱雑にナイフとフォークを突き立てた。
「それはそうだけど、明日はテーベに向かって出発するんだよ?帰ったら少しは訓練しておかないと」
「だろ?ならたくさん食って力つけねーと」
「そういうことじゃなくてね……」
ロビンは、食べすぎるとお腹がいっぱいになって動けなくなるっていう発想はないんだろうか。そう言おうとしてふと、通りの方へ人の気配があることに気づいた。視線を感じてそちらへ目をやると、そこにはもう見慣れてしまっている女の子が立っていた。
「ロビンくん、クリフくん」
ふわふわと踊るピンクの髪。ジェニーだ。ひとりで買い物か散歩でもしていたのだろうか。
しまった、この現場を一番見られたくない人に見られてしまった。
「お、ジェニーじゃねーか。お前も一緒に昼飯どうだ?」
僕の心境なんて知る由もなく、人のいいロビンはそう声をかける。
「ううん、私は……その、向こうでボーイとメイと約束してるの!」
ジェニーはぶんぶんと頭を横に振った。明らかに不自然な断り文句だった。気を遣うのが下手な子だと思う。ジェニーは頬を赤らめ、でも目を輝かせて僕を見た。まるで、「大丈夫、全部分かってるわ」と言わんばかりの熱い視線だった。
何を期待しているのか知らないけれど、僕たちはただふつうに昼食をとっているだけなのだ。
「じゃ、じゃあ、二人ともまたね!明日はがんばろうね!」
ジェニーは満足そうな笑顔で手を振って、雑踏の中へと消えて行った。
「どうしたんだろうな、あんな楽しそうに。あっちに何か面白いものでもあるのか?」
「さあ、女の子が楽しいお店でもあるんじゃない?」
僕は適当に返事をして、目の前の食事に集中した。ジェニーが走って行った方向はもう閉まりかけの市場だ。待ち合わせがあるっていうのは絶対に嘘だ。
まあ、それでも。ジェニーが僕とロビンのことを期待のまなざしで見ていることは不本意ではあっても、彼女が少し茶化してくれたおかげで、ロビンと二人で食事をしているこの状況に変に緊張しなくて済んだ。
僕とロビンは昼食を済ませ、その後はまっすぐに宿屋に戻った。それからは念入りに装備品や武器の確認をし、アルムやグレイ、エフィも一緒に宿屋の庭を借りて訓練を行った。
いよいよ明日はテーベの遺跡に向かって出発する。本を読むことも大好きだけれど、見たことのないものを実際にこの目で見られるという経験は、どんな書物や伝承で伝え聞くことを上回る喜びだった。
この日は明日からの遠征に備えて早めに眠ることになった。僕は隣のベッドで先に眠ったロビンの寝息を聞きながら、自然にやってきた眠気に任せて目を閉じた。