一次
ぺったんこという言葉がこれまでで一番似合う布団でなんだか奇妙な夢を見ていたけれど、騒がしい着信音で起こされてしまった。枕もとをぺしぺし叩いて止めようとしてようやくここが合宿先の安宿だというのを思い出した。充電器は足元に置いて寝たはずだ。起き上がってもやっぱり鳴り続けているスマートフォンの画面には「先輩」とだけ書いてあった。先輩だ。
「……もしもし」
「おはよう、いい朝だね」
「俺は朝からどこぞの先輩に叩き起こされてぷんぷんなんですけど」
「それはひどい話もあったもんだ」
「あんたのことですよ」
少しの沈黙。「まあいいや」と先輩が話を再開する。謝罪は無いのかよ。
「風がめちゃめちゃ気持ちいいからさ、遊びにおいでよ。旅館の裏手のちょっと行ったところに崖あったでしょ。そこにいるから」
「それだけですか、今何時だと」
ぷつっ、ツーッツーッツーッ。電話は切れた、行くしかないのか。なんだかんだ言って俺はあの人のことを好きなので、拗ねている顔や元気の無い姿はあまり好んで見たくはないのだ。
「……行くか」
改めてスマートフォンの画面に目を落とすと、充電が二十パーセントしか残っていなかった。充電器の大本のプラグがちゃんと嵌まっていなかったようだ。今日もフィールドワークに出るので、できるだけ電池を貯めておきたい。繋ぎ直して、何も持たずに行くことにした。
先輩は崖に立っていた。「おーい」と手を振って俺を呼ぶ。あんたがこっちに来ればいいのにと思いながら近づいて、その足元を見て凍った。現実味の無いギミック、小学生の頃道徳集会で見せられたビデオの中だけのものだったそれが先輩の足元に厳然と存在していた。
先輩は地雷を踏んづけて仁王立ちしていたのだ。
「あんた、それ」
「散歩に来たんだけどね、草に隠れてて分かんなかった」
「いやいやいや死んじゃいますよ、ねえ、それ、どうしよう。どこに連絡するんですかこれ」
「こういう時ってやっぱりカントリーロード歌った方がいいのかな」
アメリカン・カントリーミュージックは苦手なんだけど、なんて言いながら先輩はのんきに発声練習を始めてしまった。普段ならば平手の一つや二つ食らわせてやるのだけれど、いかんせん彼は地雷の上だ。軽い振動でもいったい何が起こるのか予想が付かない。
「先輩」
「ふんふんふーん」
「先輩ってば」
「ふふふんふーん」
「先輩!」
「なに、コーラスしてくれるの?」
「する訳あるか! ほら、どうにかして帰りますよ。合宿で死人出すわけに行かないでしょ、俺はそんなの嫌ですから」
「俺は別に良いんだけどなぁ」
まったくもってよろしくない。警察? 自衛隊? 地雷の処理なんてごくごく普通の一般大学生には縁がない、自分で処理をするのは多分無理だということだけは分かった。連絡手段を持ってこなかった五分前の自分を恨む。
「俺が困るんですよ! スマホ部屋に置いてきちゃったから取ってきます、警察に電話するから絶対に動かないで待っててください」
「あっ、行かないで」
「……はい?」
先輩はまるで昔に絵本の挿絵で見た天使様みたいに、奇麗な顔でにっこり笑って俺の袖を掴んで、言った。
「俺の話聞いてよ。どっかに行こうとしたらこの足どかしちゃうかも」
「え」
「クールでキュートでかっこいい先輩がばらばらの肉片になって飛び散るところ、見たい?」
そんなもの見たくないに決まってる。先輩には返していない借りがたくさんあるし、何と言っても俺はこの人が好きなのだ。
「……わかりました」
「そう言ってくれると思ってたよ、俺のかわいい後輩君。それじゃあお話を始めようか」
「俺が知ってて君が知らない、なおかつ君がこれからやっていくのに役に立つことを伝えてあげたいんだよね。来年はもう三年生でしょ。俺がいなくても大丈夫なように」
まるで遺言だ。複雑な気持ちを顔に出してはみたが、そんなもので心が動くような人間じゃあないのは共に過ごした三ヶ月で理解した。そもそも気づいているかも怪しい。
「やっぱり最初は愛の話かな。恋してる? 好きな子いるの? それとも許嫁がいたり」
「ばっ、バッカじゃないんですか?」
もっと速攻役に立つ、例えば休み明けの復習確認テストの対策とか、明日から食堂で使える裏技とか、そういう風なものを期待していたのに、どうしてそうなったとしか言いようがない変化球が顔面にクリーンヒットした。先輩はチェシャキャットのにやにや笑いでこちらを見ている。
「合宿に来たらそりゃ恋バナだって古事記にもヴェーダにもエヌマ・エリシュにも書いてあるんだよ、紀元前からの伝統ですよこれは」
「んなわけありますか、バカなんですか?」
「まあいいから先輩にお話してごらん? 気になる子とかあの子かわいいな~とかそういうのでもいいから! 俺が恋のキューピッドデビューを果たす日も近い」
「近くないです、黙秘します」
「爆発」
「ヒッ」
絶対に爆死したくない! 俺は脳をぎりぎり絞って最近見かけた女の子のことを考える。俺の行動範囲はそう広くはない、講義室、食堂、購買、図書館……。記憶を掘り返した隙間のところに、気になっているというかなんというか。一見でも高そうだとわかるスカートをたくし上げて赤い首輪の猫を構っていた学生をこの間見かけたのだ。楽しそうというよりも照れているような、有体に言えばツンデレっぽい感じだったのが印象に残っていた。
「あの……」
「おっとぉ? いい感じの子がいるのかな?」
「ちょうど時間が合うみたいで、図書館の自習ブースでよく見るんですけど、肩くらいの茶髪で大きめの眼鏡の背が高い子」
「ほーん」
「美術史と国際政治学のテキスト一緒に持ってるところ見たことあるんで、たぶん国際教養の子だと思うんですけど」
「ああ~、はい、うん。俺その子知ってる。つーか幼馴染」
「マジですか?」
思わず腹の底からの悲鳴が出た。思い返すと、この先輩に友達、ましてや幼馴染なんて存在が付随するわけがないと思い込んでいた節がある。孤高、というべきか。少し考えれば自明、こんなに陽気で素敵でお人よしな先輩が人気でないわけがないのだ。それはそれとしてあの子と知り合うチャンスは欲しい。もしお付き合いを始めることになったりすれば先輩に死ぬほどからかわれるだろうけど。
「しょ、紹介とか……」
「別にいいけど、あいつ男だよ? めちゃめちゃにカワイイからよく勘違いされてるけど。それに好きな人がいるってこの前言ってたからワンチャン狙いも厳しいんじゃないかな」
「男なんですか? あんなにかわいいのに?」
「そりゃあかわいく保つ努力のたまものでしょ。もしも機会があったら伝えておくよ、あいつも喜ぶだろ」
「……そうですね、よろしくお願いします」
好きな人、というのが男なのか女なのかは聞けなかった。俺は女の子が好きだから、先輩の幼馴染だというその素敵な人に今後恋愛感情を抱くことはないだろう。それでもその人に、幸せになってほしいと思った。感傷に浸っている俺を先輩の声が引きずり戻す。
「そうしたら次はもっと即物的なお役立ち情報だ。題して購買のお得な使い方、知りたいでしょ?」
「それはもう、もちろんです」
芽生えてすらいない愛は金策に勝てなかった。こちとら食べ盛りの貧乏学生だ。
「あそこは学生からバイトを採ってるっていうのは知ってるだろ、それがちょうど三年前、俺たちが入学したときからなんだよ。それで、学生バイトの中でも一番の古参なのが我らが部長サマってわけ」
「それが?」
「つれないなぁ。それで、あいつは闇市を始めた」
「闇市って……大丈夫なんですかそれ」
「大丈夫大丈夫、合法だから。一定の仕入れ数を保つのに在庫をはけさせる必要があるんだな。日持ちのする食べ物とか、型落ちの文房具とかを仕入れ値ぎりぎりで大放出するんだけど、商品の中でも電子機器系の割引率が半端じゃない。USBメモリもマイクロSDもいっぱい使うだろ、お前理系だし」
闇市という言葉の響きに騙されていたが、どうやらやっていることはごく普通のバーゲンセールらしい。合法ならばお財布の救世主だ、間違いない。
「それは確かにありがたいですね。でもそんな目立ちそうな行事、いつやってるんですか?」
「年に二回、七月の中ごろと一月の頭だな。会議室を貸し切ってやってるから知名度も低いだろ、俺は部長の友達と彼女以外知ってるやつ見たことない。しかも彼女のほうは会議室貸し出しの手続きを手伝ってるだけ。ほら、彼女ボランティアサークルに入ってて上に顔が利くから」
「じゃあ次は一月ですね、行ってみようかな」
「それがいいよ」
先輩はにこにこ笑っている。膝くらいまで茂っている草の上をなでるように風がさあっと吹いた。気持ちがいい海風だ。明日も早起きして散歩に行こうかな、と思って、先輩が地雷を踏んでいるのを思い出した。先輩が話し飽きたら宿に戻って警察を呼んで、いやその前に朝の点呼で俺たちがいないことに気付いて警察に連絡がいくかもしれない、とにかくプロが呼ばれて、地雷は処理されて、合宿は中止になるけれども怪我人は出ずにハッピーエンド、そうあるべきだ。生きていれば海にはいつだって来られるし。そう、生きて帰らなくちゃいけないんだ。
「……先輩」
「なぁに?」
「先輩、俺に隠してることがありますね」
違うと言ってほしかった。笑ってそんなわけないじゃんと言ってくれると思っていた。希望的観測と言われたらそれまでだったけれど、先輩が俺を苦しめるようなことをするはずがないとどこかで思っていたのも本当だ。
「そっか、わかっちゃったか。どこで気が付いたの?」
だから先輩がそう言ったとき、息ができなくなった。耳の奥でどくどくと鼓動の音が響いている。怖い、怖い、理解するのが怖くて、なにより怖かったのは先輩がいつもと同じ顔で笑っていることだった。喉から言葉を絞り出す。
「どことかじゃなくて、勘です」
「ならしょうがないなぁ。ごめんね隠してて」
「いいです、気にしてない。それより何を隠してたのか、教えてください」
智慧の実を食べたアダムは破滅する、ずっと前から規定された事実に俺は抗えなかった。聞いてしまったら戻れない。それでも先輩を一人でそこに、引きずり込まれた泥沼に置いておくなんてできるわけがなかったのだ。
「まあここまで来て教えないわけにはいかないよな。お前、変なところで賢いし。しょうがないからわかりやすく説明してあげる」
「話が終わったら警察呼びますからね」
先輩は答えなかった。答えないまま口を開く。
「さて――」
「一つ、闇市に放出された物品はその時点で生協の手を離れて管理されなくなる」
「一つ、ボランティアサークルでは小動物愛護活動にも手を広げてる、例えば学内の猫の去勢だとか首輪付けだとか」
「一つ、会議室の貸し出しを担当してるのは事務長だ。会場のチェックだとか、適当な言い訳をつければ出入りは自由だろ」
「最後に、ここ数年で単位を落とす学生が減ってる。これはまあ、周りを見てればわかるだろ」
条件を並べたてて、最後に飛び切りの笑顔でせがまれた。
「これでもうわかったよな? 聞かせてくれよ、お前の解答編を」
わかってしまった。ばかみたいに口を閉じて何にも気づかないでいればよかったのに、俺が話すたび褒めてくれた先輩の優しい声が欲しくてたまらない。愚かな俺は先輩の思うまま、まるで先輩の子機みたいに推理を口から垂れ流す。
「試験問題の漏洩……ですね?」
「正解!」
「始まりは事務長だ。金庫の鍵を開ける権限を持ってる数少ない人間の一人だからね。闇市を開催する前日、設備の確認の名目で会場に入って、荷物にデータの入ったメモリを紛れ込ませる。闇市の当日に部長はデータを受け取って、自前のパソコンで売り物のメモリにデータを移植する。試験問題が欲しい連中はこぞって闇市に参加して、会計の時に上乗せした金を払って試験問題を手に入れる権利を買う。買ったやつをリストにして、そいつらのところに問題を届けるのに、あいつは彼女を使ったんだよ」
「それは……」
「猫の首輪にマイクロSDを仕込んで放して、彼女の手にデータが渡るようにしてた。足が付かないようになんだろうな。彼女はそれを取り出して、リストの人間に渡して取引終了ってわけだ。よくやるよ」
「そんな、そんなの不正じゃないですか!」
「そうだよ、不正だ。あいつらは不正を働いて、金をもらってた最悪のやつらだよ」
「どこに相談したらいいんだろ、俺わかんないですけどとにかく放っとくわけにいかないですよ。先輩、帰りましょ。先輩の口から言ってもらわないと。俺一人じゃできないです、たぶん」
「ごめんな」
「……は?」
「ごめん。俺は帰らない。一緒にも行けない。全部お前に渡しちまう。ごめん、ごめんな」
「何言ってるんですか!」
「あとは頼んだよ。次の部長は、たぶんお前だ」
先輩がその長い脚を上げて、足元の丸い塊を、地雷を、海に向かって蹴り飛ばすのが分かった。先輩がこっちを向いて、薄くて形の整ったくちびるを動かすのも。その動きが「さ、よ、な、ら」の形を作ったのも。時間が引き延ばされて、一秒が何時間にも思えて、最後に先輩がきゅっと口角を上げてチャーミングな笑顔を作ったのが切り替えスイッチだったみたいに、急に時間の流れが戻った。
「先輩? ……先輩! 先輩何やってるんですか! ねえ!」
崖のふちに駆け寄って下をのぞき込む。先輩が死ぬわけがない、ドッキリに違いない、崖下で看板を持ってにやにや笑っているに違いないんだ。視線の先にはただ岸壁に打ち付けられて泡立つ白波と、岩だらけの磯しか見えなくて、これは嘘だ、嘘です、先輩は生きてる、俺の後ろに立ってたりして、車の前のひかれそうな子猫を助け出しても無傷で笑ってた先輩が死ぬわけなんてなくて、俺の先輩、俺の先輩はあほみたいなやつらの責任を取って死んだりなんて、俺を一人で置いて行くわけがないんですよ、ねえ先輩、先輩、俺の先輩、
「ウワーッ!」
……なんだ、夢か。ぺったんこという言葉がこれまでで一番似合う布団でなんだか奇妙な夢を見ていたけれど、騒がしい着信音で起こされてしまった。枕もとをぺしぺし叩いて止めようとしてようやくここが合宿先の安宿だというのを思い出した。充電器は足元だ。起き上がってもやっぱり鳴り続けているスマートフォンの画面には「先輩」とだけ書いてあった。先輩だ。
「……もしもし」
「おはよう、いい朝だね」
「俺は朝からどこぞの先輩に叩き起こされてぷんぷんなんですけど」
「それはひどい話もあったもんだ」
「あんたのことですよ」
少しの沈黙。「まあいいや」と先輩が話を再開する。謝罪は無いのかよ。
「風がめちゃめちゃ気持ちいいからさ、遊びにおいでよ。旅館の裏手のちょっと行ったところに崖あったでしょ。そこにいるから」
「それだけですか、今何時だと」
ぷつっ、ツーッツーッツーッ。電話は切れた、行くしかないのか。なんだかんだ言って俺はあの人のことを好きなので、拗ねている顔や元気の無い姿は見たくないのだ。
「……行くか」
改めてスマートフォンの画面に目を落とすと、充電が二十パーセントしか残っていなかった。二十パーセントもあれば電話が五本は掛けられる。警察、消防署、地雷処理なんて馬鹿げた相談をどこにすれば良いのかも調べられるだろう。文明の利器万々歳だ。ズボンのポケットにそれを入れて部屋を見渡す。机の上にあめ玉やらせんべいやらの入ったかごが置いてあった、先輩はイチゴ味のおおきなザラメ玉が大好きなのだ。ポケットに入れる。お腹が空くと死にたくなるって、まえにあんた言ってましたよね。水のペットボトルも持った。ぬるくなってしまったけれども、きっと無いよりマシなはずだ。
貸したトランプをまだ返してもらってない、奢ってもらう約束をした映画にも連れてってもらってない、探偵役はみんなの前でお話しなくちゃって言っていたでしょ、なにより俺はキュートでクールな先輩のことが好きだから死なれちゃめちゃめちゃ困るんですよと、にっこりわらって言ってやろう。もしかしたらあの人のことだ、本当にただ風が気持ちよかっただけかもしれないし、それならそれで一緒に潮風に吹かれてやってもいいなと俺は思うのだ。
「……もしもし」
「おはよう、いい朝だね」
「俺は朝からどこぞの先輩に叩き起こされてぷんぷんなんですけど」
「それはひどい話もあったもんだ」
「あんたのことですよ」
少しの沈黙。「まあいいや」と先輩が話を再開する。謝罪は無いのかよ。
「風がめちゃめちゃ気持ちいいからさ、遊びにおいでよ。旅館の裏手のちょっと行ったところに崖あったでしょ。そこにいるから」
「それだけですか、今何時だと」
ぷつっ、ツーッツーッツーッ。電話は切れた、行くしかないのか。なんだかんだ言って俺はあの人のことを好きなので、拗ねている顔や元気の無い姿はあまり好んで見たくはないのだ。
「……行くか」
改めてスマートフォンの画面に目を落とすと、充電が二十パーセントしか残っていなかった。充電器の大本のプラグがちゃんと嵌まっていなかったようだ。今日もフィールドワークに出るので、できるだけ電池を貯めておきたい。繋ぎ直して、何も持たずに行くことにした。
先輩は崖に立っていた。「おーい」と手を振って俺を呼ぶ。あんたがこっちに来ればいいのにと思いながら近づいて、その足元を見て凍った。現実味の無いギミック、小学生の頃道徳集会で見せられたビデオの中だけのものだったそれが先輩の足元に厳然と存在していた。
先輩は地雷を踏んづけて仁王立ちしていたのだ。
「あんた、それ」
「散歩に来たんだけどね、草に隠れてて分かんなかった」
「いやいやいや死んじゃいますよ、ねえ、それ、どうしよう。どこに連絡するんですかこれ」
「こういう時ってやっぱりカントリーロード歌った方がいいのかな」
アメリカン・カントリーミュージックは苦手なんだけど、なんて言いながら先輩はのんきに発声練習を始めてしまった。普段ならば平手の一つや二つ食らわせてやるのだけれど、いかんせん彼は地雷の上だ。軽い振動でもいったい何が起こるのか予想が付かない。
「先輩」
「ふんふんふーん」
「先輩ってば」
「ふふふんふーん」
「先輩!」
「なに、コーラスしてくれるの?」
「する訳あるか! ほら、どうにかして帰りますよ。合宿で死人出すわけに行かないでしょ、俺はそんなの嫌ですから」
「俺は別に良いんだけどなぁ」
まったくもってよろしくない。警察? 自衛隊? 地雷の処理なんてごくごく普通の一般大学生には縁がない、自分で処理をするのは多分無理だということだけは分かった。連絡手段を持ってこなかった五分前の自分を恨む。
「俺が困るんですよ! スマホ部屋に置いてきちゃったから取ってきます、警察に電話するから絶対に動かないで待っててください」
「あっ、行かないで」
「……はい?」
先輩はまるで昔に絵本の挿絵で見た天使様みたいに、奇麗な顔でにっこり笑って俺の袖を掴んで、言った。
「俺の話聞いてよ。どっかに行こうとしたらこの足どかしちゃうかも」
「え」
「クールでキュートでかっこいい先輩がばらばらの肉片になって飛び散るところ、見たい?」
そんなもの見たくないに決まってる。先輩には返していない借りがたくさんあるし、何と言っても俺はこの人が好きなのだ。
「……わかりました」
「そう言ってくれると思ってたよ、俺のかわいい後輩君。それじゃあお話を始めようか」
「俺が知ってて君が知らない、なおかつ君がこれからやっていくのに役に立つことを伝えてあげたいんだよね。来年はもう三年生でしょ。俺がいなくても大丈夫なように」
まるで遺言だ。複雑な気持ちを顔に出してはみたが、そんなもので心が動くような人間じゃあないのは共に過ごした三ヶ月で理解した。そもそも気づいているかも怪しい。
「やっぱり最初は愛の話かな。恋してる? 好きな子いるの? それとも許嫁がいたり」
「ばっ、バッカじゃないんですか?」
もっと速攻役に立つ、例えば休み明けの復習確認テストの対策とか、明日から食堂で使える裏技とか、そういう風なものを期待していたのに、どうしてそうなったとしか言いようがない変化球が顔面にクリーンヒットした。先輩はチェシャキャットのにやにや笑いでこちらを見ている。
「合宿に来たらそりゃ恋バナだって古事記にもヴェーダにもエヌマ・エリシュにも書いてあるんだよ、紀元前からの伝統ですよこれは」
「んなわけありますか、バカなんですか?」
「まあいいから先輩にお話してごらん? 気になる子とかあの子かわいいな~とかそういうのでもいいから! 俺が恋のキューピッドデビューを果たす日も近い」
「近くないです、黙秘します」
「爆発」
「ヒッ」
絶対に爆死したくない! 俺は脳をぎりぎり絞って最近見かけた女の子のことを考える。俺の行動範囲はそう広くはない、講義室、食堂、購買、図書館……。記憶を掘り返した隙間のところに、気になっているというかなんというか。一見でも高そうだとわかるスカートをたくし上げて赤い首輪の猫を構っていた学生をこの間見かけたのだ。楽しそうというよりも照れているような、有体に言えばツンデレっぽい感じだったのが印象に残っていた。
「あの……」
「おっとぉ? いい感じの子がいるのかな?」
「ちょうど時間が合うみたいで、図書館の自習ブースでよく見るんですけど、肩くらいの茶髪で大きめの眼鏡の背が高い子」
「ほーん」
「美術史と国際政治学のテキスト一緒に持ってるところ見たことあるんで、たぶん国際教養の子だと思うんですけど」
「ああ~、はい、うん。俺その子知ってる。つーか幼馴染」
「マジですか?」
思わず腹の底からの悲鳴が出た。思い返すと、この先輩に友達、ましてや幼馴染なんて存在が付随するわけがないと思い込んでいた節がある。孤高、というべきか。少し考えれば自明、こんなに陽気で素敵でお人よしな先輩が人気でないわけがないのだ。それはそれとしてあの子と知り合うチャンスは欲しい。もしお付き合いを始めることになったりすれば先輩に死ぬほどからかわれるだろうけど。
「しょ、紹介とか……」
「別にいいけど、あいつ男だよ? めちゃめちゃにカワイイからよく勘違いされてるけど。それに好きな人がいるってこの前言ってたからワンチャン狙いも厳しいんじゃないかな」
「男なんですか? あんなにかわいいのに?」
「そりゃあかわいく保つ努力のたまものでしょ。もしも機会があったら伝えておくよ、あいつも喜ぶだろ」
「……そうですね、よろしくお願いします」
好きな人、というのが男なのか女なのかは聞けなかった。俺は女の子が好きだから、先輩の幼馴染だというその素敵な人に今後恋愛感情を抱くことはないだろう。それでもその人に、幸せになってほしいと思った。感傷に浸っている俺を先輩の声が引きずり戻す。
「そうしたら次はもっと即物的なお役立ち情報だ。題して購買のお得な使い方、知りたいでしょ?」
「それはもう、もちろんです」
芽生えてすらいない愛は金策に勝てなかった。こちとら食べ盛りの貧乏学生だ。
「あそこは学生からバイトを採ってるっていうのは知ってるだろ、それがちょうど三年前、俺たちが入学したときからなんだよ。それで、学生バイトの中でも一番の古参なのが我らが部長サマってわけ」
「それが?」
「つれないなぁ。それで、あいつは闇市を始めた」
「闇市って……大丈夫なんですかそれ」
「大丈夫大丈夫、合法だから。一定の仕入れ数を保つのに在庫をはけさせる必要があるんだな。日持ちのする食べ物とか、型落ちの文房具とかを仕入れ値ぎりぎりで大放出するんだけど、商品の中でも電子機器系の割引率が半端じゃない。USBメモリもマイクロSDもいっぱい使うだろ、お前理系だし」
闇市という言葉の響きに騙されていたが、どうやらやっていることはごく普通のバーゲンセールらしい。合法ならばお財布の救世主だ、間違いない。
「それは確かにありがたいですね。でもそんな目立ちそうな行事、いつやってるんですか?」
「年に二回、七月の中ごろと一月の頭だな。会議室を貸し切ってやってるから知名度も低いだろ、俺は部長の友達と彼女以外知ってるやつ見たことない。しかも彼女のほうは会議室貸し出しの手続きを手伝ってるだけ。ほら、彼女ボランティアサークルに入ってて上に顔が利くから」
「じゃあ次は一月ですね、行ってみようかな」
「それがいいよ」
先輩はにこにこ笑っている。膝くらいまで茂っている草の上をなでるように風がさあっと吹いた。気持ちがいい海風だ。明日も早起きして散歩に行こうかな、と思って、先輩が地雷を踏んでいるのを思い出した。先輩が話し飽きたら宿に戻って警察を呼んで、いやその前に朝の点呼で俺たちがいないことに気付いて警察に連絡がいくかもしれない、とにかくプロが呼ばれて、地雷は処理されて、合宿は中止になるけれども怪我人は出ずにハッピーエンド、そうあるべきだ。生きていれば海にはいつだって来られるし。そう、生きて帰らなくちゃいけないんだ。
「……先輩」
「なぁに?」
「先輩、俺に隠してることがありますね」
違うと言ってほしかった。笑ってそんなわけないじゃんと言ってくれると思っていた。希望的観測と言われたらそれまでだったけれど、先輩が俺を苦しめるようなことをするはずがないとどこかで思っていたのも本当だ。
「そっか、わかっちゃったか。どこで気が付いたの?」
だから先輩がそう言ったとき、息ができなくなった。耳の奥でどくどくと鼓動の音が響いている。怖い、怖い、理解するのが怖くて、なにより怖かったのは先輩がいつもと同じ顔で笑っていることだった。喉から言葉を絞り出す。
「どことかじゃなくて、勘です」
「ならしょうがないなぁ。ごめんね隠してて」
「いいです、気にしてない。それより何を隠してたのか、教えてください」
智慧の実を食べたアダムは破滅する、ずっと前から規定された事実に俺は抗えなかった。聞いてしまったら戻れない。それでも先輩を一人でそこに、引きずり込まれた泥沼に置いておくなんてできるわけがなかったのだ。
「まあここまで来て教えないわけにはいかないよな。お前、変なところで賢いし。しょうがないからわかりやすく説明してあげる」
「話が終わったら警察呼びますからね」
先輩は答えなかった。答えないまま口を開く。
「さて――」
「一つ、闇市に放出された物品はその時点で生協の手を離れて管理されなくなる」
「一つ、ボランティアサークルでは小動物愛護活動にも手を広げてる、例えば学内の猫の去勢だとか首輪付けだとか」
「一つ、会議室の貸し出しを担当してるのは事務長だ。会場のチェックだとか、適当な言い訳をつければ出入りは自由だろ」
「最後に、ここ数年で単位を落とす学生が減ってる。これはまあ、周りを見てればわかるだろ」
条件を並べたてて、最後に飛び切りの笑顔でせがまれた。
「これでもうわかったよな? 聞かせてくれよ、お前の解答編を」
わかってしまった。ばかみたいに口を閉じて何にも気づかないでいればよかったのに、俺が話すたび褒めてくれた先輩の優しい声が欲しくてたまらない。愚かな俺は先輩の思うまま、まるで先輩の子機みたいに推理を口から垂れ流す。
「試験問題の漏洩……ですね?」
「正解!」
「始まりは事務長だ。金庫の鍵を開ける権限を持ってる数少ない人間の一人だからね。闇市を開催する前日、設備の確認の名目で会場に入って、荷物にデータの入ったメモリを紛れ込ませる。闇市の当日に部長はデータを受け取って、自前のパソコンで売り物のメモリにデータを移植する。試験問題が欲しい連中はこぞって闇市に参加して、会計の時に上乗せした金を払って試験問題を手に入れる権利を買う。買ったやつをリストにして、そいつらのところに問題を届けるのに、あいつは彼女を使ったんだよ」
「それは……」
「猫の首輪にマイクロSDを仕込んで放して、彼女の手にデータが渡るようにしてた。足が付かないようになんだろうな。彼女はそれを取り出して、リストの人間に渡して取引終了ってわけだ。よくやるよ」
「そんな、そんなの不正じゃないですか!」
「そうだよ、不正だ。あいつらは不正を働いて、金をもらってた最悪のやつらだよ」
「どこに相談したらいいんだろ、俺わかんないですけどとにかく放っとくわけにいかないですよ。先輩、帰りましょ。先輩の口から言ってもらわないと。俺一人じゃできないです、たぶん」
「ごめんな」
「……は?」
「ごめん。俺は帰らない。一緒にも行けない。全部お前に渡しちまう。ごめん、ごめんな」
「何言ってるんですか!」
「あとは頼んだよ。次の部長は、たぶんお前だ」
先輩がその長い脚を上げて、足元の丸い塊を、地雷を、海に向かって蹴り飛ばすのが分かった。先輩がこっちを向いて、薄くて形の整ったくちびるを動かすのも。その動きが「さ、よ、な、ら」の形を作ったのも。時間が引き延ばされて、一秒が何時間にも思えて、最後に先輩がきゅっと口角を上げてチャーミングな笑顔を作ったのが切り替えスイッチだったみたいに、急に時間の流れが戻った。
「先輩? ……先輩! 先輩何やってるんですか! ねえ!」
崖のふちに駆け寄って下をのぞき込む。先輩が死ぬわけがない、ドッキリに違いない、崖下で看板を持ってにやにや笑っているに違いないんだ。視線の先にはただ岸壁に打ち付けられて泡立つ白波と、岩だらけの磯しか見えなくて、これは嘘だ、嘘です、先輩は生きてる、俺の後ろに立ってたりして、車の前のひかれそうな子猫を助け出しても無傷で笑ってた先輩が死ぬわけなんてなくて、俺の先輩、俺の先輩はあほみたいなやつらの責任を取って死んだりなんて、俺を一人で置いて行くわけがないんですよ、ねえ先輩、先輩、俺の先輩、
「ウワーッ!」
……なんだ、夢か。ぺったんこという言葉がこれまでで一番似合う布団でなんだか奇妙な夢を見ていたけれど、騒がしい着信音で起こされてしまった。枕もとをぺしぺし叩いて止めようとしてようやくここが合宿先の安宿だというのを思い出した。充電器は足元だ。起き上がってもやっぱり鳴り続けているスマートフォンの画面には「先輩」とだけ書いてあった。先輩だ。
「……もしもし」
「おはよう、いい朝だね」
「俺は朝からどこぞの先輩に叩き起こされてぷんぷんなんですけど」
「それはひどい話もあったもんだ」
「あんたのことですよ」
少しの沈黙。「まあいいや」と先輩が話を再開する。謝罪は無いのかよ。
「風がめちゃめちゃ気持ちいいからさ、遊びにおいでよ。旅館の裏手のちょっと行ったところに崖あったでしょ。そこにいるから」
「それだけですか、今何時だと」
ぷつっ、ツーッツーッツーッ。電話は切れた、行くしかないのか。なんだかんだ言って俺はあの人のことを好きなので、拗ねている顔や元気の無い姿は見たくないのだ。
「……行くか」
改めてスマートフォンの画面に目を落とすと、充電が二十パーセントしか残っていなかった。二十パーセントもあれば電話が五本は掛けられる。警察、消防署、地雷処理なんて馬鹿げた相談をどこにすれば良いのかも調べられるだろう。文明の利器万々歳だ。ズボンのポケットにそれを入れて部屋を見渡す。机の上にあめ玉やらせんべいやらの入ったかごが置いてあった、先輩はイチゴ味のおおきなザラメ玉が大好きなのだ。ポケットに入れる。お腹が空くと死にたくなるって、まえにあんた言ってましたよね。水のペットボトルも持った。ぬるくなってしまったけれども、きっと無いよりマシなはずだ。
貸したトランプをまだ返してもらってない、奢ってもらう約束をした映画にも連れてってもらってない、探偵役はみんなの前でお話しなくちゃって言っていたでしょ、なにより俺はキュートでクールな先輩のことが好きだから死なれちゃめちゃめちゃ困るんですよと、にっこりわらって言ってやろう。もしかしたらあの人のことだ、本当にただ風が気持ちよかっただけかもしれないし、それならそれで一緒に潮風に吹かれてやってもいいなと俺は思うのだ。
2/2ページ