一口話
部長はこまめに部室の掃除をしている。机の上に散らばった紙片も、床で砕けた試験管の残骸も、生き物たちを入れる水槽も週に一回ほど綺麗に手入れをしているのだ。たまに他の部員が手伝っているところを見るが、なぜだか副部長と作業をしているところは見かけない。
そんな彼が今日はより熱心に清掃をしている。本来は考査期間なのだが、部室に教科書を忘れてきたのに気付いて取りに行ったところ、床に這いつくばってガムテープでほこりを取り除く部長を見つけたのだ。先輩を放って一人で帰る訳にもいかず、僕もぞうきんを抱えて参戦する次第となった。
部長は一通りラックの影になった箇所のゴミを取り終わると、次は水道へ向かってシンクの水垢をこそげ始めた。十分に綺麗に見えたが、まだ足りないらしい。一方僕はひたすらに棚と机を拭いて磨き上げている。これは部長の指示によるものだ。機械的に手を動かしながら部長を観察していると、今度は壁際の実験スペースに並んだ試験管立てやぺとり皿やビーカーを整え始めた。その手つきがあまりにも慎重で、僕は徐々に違和感を覚え始めた。
普段から部員が使う部室だ。ここまで美しく整頓する必要は無いのではないだろうか?
そんなことを考えながら部長をじっと見つめていたら、部長が振り返って眼が合った。無表情で見返される。身がすくんで手が動かなくなった。怖い。中身を見透かされるようで心臓がどきりと跳ねた。
「付き合わせちゃってごめんね。でもこれは必要な事なんだ」
部長は少し微笑んでそういった。必要な事。先ほども言ったように部室は普段部員によって使われているだけだ。普通の部員は床を転げ回ってガラスの破片でけがをしたりしないし、机を舐めて食中毒を起こしたりもしない。当たり前だ。しかし部長はその『当たり前』から逸脱するものがいるかのように、一種病的に隅々まで煤払いをしている。それは何故か。それは――
『当たり前』でないものがいるから。
自分で達した結論に総毛立った。生理的な反応で手足の体温が下がる。きっと瞳孔も開いているに違いない。部長の顔が見られない。視界を動かすこともできない。もしもそこに何か、なんでもいい、恐怖を呼び起こす何かを見つけてしまったら、もう戻ってこれない気がするのだ。
「ああごめん、怖がらせちゃったね」
気付くと部長が肩に手を置いて、僕の顔を覗き込んでいた。少し困ったような笑顔で心配されている。邪魔をしてしまった。
「これは僕がやってることなのに、お願いして悪かったね。やっぱり僕が一人でやるからもう帰った方がいい。顔色がすさまじいことになってるよ」
「でも」
「大丈夫だから、ね?」
言いながら部長は僕にかばんを手渡し、背中を押して部屋の出口まで連れて行った。そこまで言われてしまったらさすがに帰ったほうがいいと思って、部長に挨拶をする。廊下を歩き始めたとき、背後から部長の声が降ってきた。
「ああ、そうだ。明日の朝は何があっても部室に入ってはいけないよ」
言いつけ通り、次の朝は部室に行かなかった。放課後になってから小部屋に入ってみると、普段は使っていない水槽になみなみと水が張られて、シンクの中に置いてあった。その側に汚れたシャーレがぽつりと放置されているのを見て、なぜだか背筋がすくむような感覚を覚えたので、僕はその日も早く帰ることにした。
この出来事と関係があるのかは果たして謎だが、それから一週間ほど、部室に生臭い匂いが染みついて落ちなかったことをここに記しておく。
そんな彼が今日はより熱心に清掃をしている。本来は考査期間なのだが、部室に教科書を忘れてきたのに気付いて取りに行ったところ、床に這いつくばってガムテープでほこりを取り除く部長を見つけたのだ。先輩を放って一人で帰る訳にもいかず、僕もぞうきんを抱えて参戦する次第となった。
部長は一通りラックの影になった箇所のゴミを取り終わると、次は水道へ向かってシンクの水垢をこそげ始めた。十分に綺麗に見えたが、まだ足りないらしい。一方僕はひたすらに棚と机を拭いて磨き上げている。これは部長の指示によるものだ。機械的に手を動かしながら部長を観察していると、今度は壁際の実験スペースに並んだ試験管立てやぺとり皿やビーカーを整え始めた。その手つきがあまりにも慎重で、僕は徐々に違和感を覚え始めた。
普段から部員が使う部室だ。ここまで美しく整頓する必要は無いのではないだろうか?
そんなことを考えながら部長をじっと見つめていたら、部長が振り返って眼が合った。無表情で見返される。身がすくんで手が動かなくなった。怖い。中身を見透かされるようで心臓がどきりと跳ねた。
「付き合わせちゃってごめんね。でもこれは必要な事なんだ」
部長は少し微笑んでそういった。必要な事。先ほども言ったように部室は普段部員によって使われているだけだ。普通の部員は床を転げ回ってガラスの破片でけがをしたりしないし、机を舐めて食中毒を起こしたりもしない。当たり前だ。しかし部長はその『当たり前』から逸脱するものがいるかのように、一種病的に隅々まで煤払いをしている。それは何故か。それは――
『当たり前』でないものがいるから。
自分で達した結論に総毛立った。生理的な反応で手足の体温が下がる。きっと瞳孔も開いているに違いない。部長の顔が見られない。視界を動かすこともできない。もしもそこに何か、なんでもいい、恐怖を呼び起こす何かを見つけてしまったら、もう戻ってこれない気がするのだ。
「ああごめん、怖がらせちゃったね」
気付くと部長が肩に手を置いて、僕の顔を覗き込んでいた。少し困ったような笑顔で心配されている。邪魔をしてしまった。
「これは僕がやってることなのに、お願いして悪かったね。やっぱり僕が一人でやるからもう帰った方がいい。顔色がすさまじいことになってるよ」
「でも」
「大丈夫だから、ね?」
言いながら部長は僕にかばんを手渡し、背中を押して部屋の出口まで連れて行った。そこまで言われてしまったらさすがに帰ったほうがいいと思って、部長に挨拶をする。廊下を歩き始めたとき、背後から部長の声が降ってきた。
「ああ、そうだ。明日の朝は何があっても部室に入ってはいけないよ」
言いつけ通り、次の朝は部室に行かなかった。放課後になってから小部屋に入ってみると、普段は使っていない水槽になみなみと水が張られて、シンクの中に置いてあった。その側に汚れたシャーレがぽつりと放置されているのを見て、なぜだか背筋がすくむような感覚を覚えたので、僕はその日も早く帰ることにした。
この出来事と関係があるのかは果たして謎だが、それから一週間ほど、部室に生臭い匂いが染みついて落ちなかったことをここに記しておく。