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一口話

 「中庭の池には幽霊が出る」という噂がある。もちろんそのような事実はないが、誰がいつ広めたのかわからないフォークロアと鬱蒼と茂った常緑広葉樹、おまけにずっと昔に起こった小火で焼け落ちた木が放置されているせいで中庭に立ち寄る人は少ない。建設当初は涼しげな噴水と錦鯉に惹かれて集まる人も多かったのだろうが、百年越えの歴史の中でいつしか忘れ去られ、タイル張りの底には朽ちた葉が積もり、華やかな鯉は消えて地味な川魚に取って代わられた。なぜ僕がそんなことを知っているのかというと、中庭の池を管理しているのが生物部だからである。
 魚は主に水中を漂うプランクトンを食べて生きている。にもかかわらず副部長は時折瓶に入った餌を持って中庭を訪れている。理由は誰も知らない。
 その日もふらりと副部長は出て行った。しばし迷ったが、冷房の効かない部室と日も陰って風の吹いている野外を天秤にかけて僕は部長についていくことを決めた。
副部長は足が速い。早足で追いかけたが、昇降口に着いた時には副部長の姿は見えなくなっていた。
 靴を履いて階段を降りる。吹く風は予想していたよりも生暖かい。コンクリートの校舎で四角く区切られた空はすでに赤く染まっていて、夏どきにも関わらず随分早いな、と思った。
「ああ、来ちゃったのか」
 僕を見て開口一番副部長は言った。相変わらず読めない笑顔を浮かべている。少しムッとしたが、ほとりに立っている副部長の向こう、水面を見て言葉は出なくなった。
 水が赤い。
表面に絵の具でも流されたのかとも考えたが、水はあくまで透き通り底に堆積した砂と植物を見せている。微粒子が水中に分散しているかのような透き通った猩猩緋の中に紛紛と金茶、ジョンブリアンの影が混じる。影は滑らかに、そして相当のスピードで移動して、角度が変わるたびプリズムを通したかのようにちらちらと飛ぶ原色の光で網膜を痛めつけた。本能がじりじりと音を発している。これを、見ていては、いけない。正体が分からないものを直視する危険。まるで薄氷の上を歩くような、何が飛び出してくるか分からない危うさ。風前の灯火。
「先輩、これって」
「赤潮だよ」
 赤潮はこのような狭苦しい池でも起こりうる現象なのだろうか、いやその前にこの池にいる魚は灰色の小さい小魚だけではなかったのか。そしてまず、赤潮によってこんな、まるで燃えさかる炎を映したかのような、
中庭の火事。
唐突に脳裏に浮かんだ言葉はしかし本質を表しているように思えた。そうだ、中庭の火事。だが実際に起こった記録は無い。どこにも存在していない。そう、資料室を漁って年表を見た記憶がある。それにも書かれてはいなかった。そもそもなぜ僕はそんなことを調べようとしたのだろうか。それは誰かに言われて、言われて……。
 パァン、と景気のいい音で僕はあてどない思考の海から引きずり戻された。反射的に音の発信源を探す。目線の先に捉えたのは両手を柏手の型に構えた副部長だった。逆光で顔が見えない。
「いいかい、君が何を見ようがそれについて何を言おうが、これは赤潮だ」
 地面に置かれた小瓶を取り上げてまたひとつまみ、後ろ手で茶色い餌を撒いて副部長は言った。先程とは打って変わった爽やかな表情。そういえば急に辺りが明るくなった、気がする。
「さあ、帰ろうか」
 副部長は振り返らずに歩き始めた。僕は少しその場で立ち止まって、それから彼の後ろに続いた。
 背中で、ぱちゃり。水の跳ねる音。
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