短編集
むき出しの心臓
いつも通りの朝。いつも通りの通学路。そして、いつもと違った教室の雰囲気。いつからか、この世界には“奇病”が増え始めた。僕のクラスメイトであるキョウコさんも、奇病に侵されてしまった人間。すなわち、この教室の異様な雰囲気は、彼女を中心に生み出されていた。
奇病、と一口に言っても様々な症例が考えられるが、彼女の場合、それは外見に現れていた。とは言っても、彼女に異常が現れているのは一部分だけだ。しかし、その一部分はあまりに奇妙だった。彼女の左胸は異様に脹らみ、ドクンドクンと音を鳴らしている。まるで心臓が皮膚の表層まで飛び出ているかのようだ。このような状態になって、何故生きていられるのかと疑問に思う。そのくらいには、気味が悪い。
そんなキョウコさんの状態に対し、朝礼があっさりと終わってしまったことも気味悪く感じられた。先生もクラスメイトも、キョウコさんの状態には触れないでいた。避けている、と言ったほうがいいかもしれない。それだけに、僕の中から湧き出てくる“好奇心に似た感情”は表面化しないままだった。
好奇心に似た感情、とは。それは、キョウコさんの膨らんだ左胸に一体何が隠されているのか、それを知りたい気持ち。それは好奇心そのものかもしれないが、僕にとっては好奇心なんて言葉じゃ片付けられないような、もっと複雑な感情だ。僕は思春期の少年であるが故に、クラスメイトの胸部を覗きたいと思っているのか? 答えはそんなものではない。僕が世界中に蔓延る“奇病”に興味を持ち始めていたこと。そして、今までキョウコさんにそれほど興味がなかったのに、話しかけてみたくなったこと。この感情は昼休みになるまで僕の中に閉じ込めておくことにした。
昼休みのチャイムが鳴る頃。キョウコさんは教室を出て、どこかへ向かった。僕はこっそり後をつけた。着いた場所は保健室。僕は音を立てないようにドアの隙間から彼女の様子を覗いてみた。キョウコさんが保険の先生と話しているのが見える。
「今日はもう帰ったほうがいいんじゃないかな」
「せめて皆が帰るまではいたいです。部活はできなくてもいいから」
「……わかったよ。くれぐれも気をつけてね」
保険の先生がドアに向かってきたので、僕は慌ててそこを通りかかる生徒のふりをした。
「ん、何か用かな」
「いえ、通っただけなので」
上手く誤魔化せたかはわからないが、先生はそのまま去っていった。それでいいんだ。彼女と話をするチャンスがやってきたのだから。僕は保健室のドアをそっと開き、生まれて初めてキョウコさんに挨拶をした。
「こんにちは。キョウコさん」
「こんにちは。ええと、あなたは同じクラスの……」
「僕の名前なんかはいいんだ。それよりキョウコさん、少し話がしたいんだ」
僕がそう言うと、キョウコさんは不審そうに僕を見た。一度も話したことのないクラスメイトが急に話しかけてきたのだから、怪しまれるのも無理はないだろう。それでいて、僕は好奇心のような何かを抑えることができないでいた。
「……保健室に用があって?」
「あなたに用があるんです。その左胸について聞かせてほしくて」
キョウコさんは不快そうな表情を浮かべた。いや、むしろ不快に思われてしまうのは仕方のないことだ。そもそも見た目に関係する病気はデリケートな問題で、それを思春期の女子が患っているのだから尚更だ。そんな状態の彼女に、僕は無神経すぎる質問を投げかけた。もっとも、その質問を最初からしないという選択肢はとうの昔に僕の中から消え去っていた。彼女の返答も、ある意味予想通りだった。
「なんであなたに話さなきゃいけないの?」
長い期間同じ空間にいたにも関わらず言葉を一切交わしたことのない相手に、デリケートな問題を軽々しく話せるほど彼女に余裕はないようだ。例え余裕があったとしても、話してくれないかもしれないが。僕は少し落胆しながらも、言葉を続ける。
「あなたを悪く言おうとは思ってないんです。純粋な好奇心で、あなたに話を聞きたくて」
純粋な好奇心、とは言ったが、僕の中には“純粋”とはまた違ったものが蠢いている気もする。この感情は、未熟な僕にはとても表現できないものだった。何が何でも彼女の話を聞きたい。左胸がどうなっているのか、この目で見てみたい。今はそれで頭がいっぱいだった。相手の都合など考えずに。また、彼女も僕の都合を考えずに。
「嫌。話したくない」
と言う。わかりきっていたことではあるのだが、納得がいかない。僕は自分の中にある激しい感情に耐えられなくなった。幸いにも廊下には誰もおらず、保健室の中は二人きり。本来この状況で乱暴するなら他の目的があるものだが、それとは別の目的が僕にはある。僕は何も言わずに彼女の頬を一発殴った。
「い、痛い。急にやめてよ。怖い。助けて」
「左胸がどうなっているのか見せてほしいんだ。大丈夫、見るのは病気の部分だけだから」
キョウコさんを押し倒し、制服のボタンを一つずつ取っていく。彼女の目は恐怖に満ちていた。用が済んだら何を言われるかわからないが、そんなことを気にしている場合でもない。今はそこに何があるか確認するだけだ。彼女の服がはだけ、左胸にある大きな異物が見えてくる。それに対して僕は持った感想は――――。
「……綺麗だ」
左胸にあったのは、透明な大きな袋のようなもの。その形状は理科の授業で習った心臓にそっくりだった。中では赤い半透明の血が動いており、彼女が緊張しているからか、激しく脈打っている。そこに目を凝らせば彼女の血管が丸見えになる。とても気色悪くて、神秘的だ。
「お願い、触らないで……」
キョウコさんはそう言うが、僕には触らないでいることができない。それほどまでにその半透明の心臓は魅力的に感じた。はたから見れば奇妙な光景、僕にとっては貴重な体験だ。
「ごめんね、触るんだ。傷つけないようにするからさ。許してよ」
彼女のむき出しの心臓を、指先でつんとつついてみる。すると彼女は悲鳴を上げた。
「痛い! やめて、お願い!」
僕が殴ったときよりずっと大きな声だ。それほどまでにこの心臓はか弱いのだろう。僕はどこまでいけるのか、試してみたくなった。彼女が死んでしまわないように、心臓の膜をつねってみる。
「あ゛ぁ゛ぁ゛! 痛い痛い痛い!」
キョウコさんは目を見開いて、仰け反りながら叫んだ。
「ごめんね、辛い思いさせて」
罪悪感はなかった。ただ好奇心に突き動かされて、衝動に身を任せている。僕は心臓を強く握った。半透明の血液は一箇所に集まり、窮屈そうにしている。破裂してしまえ、と思った。にきびを潰してしまうように、この心臓も潰したら良いだろう、と。
「や゛め゛でぇ゛ぇ゛ぇ゛!!」
ブシャ。
と音を鳴らして、彼女の心臓は破裂した。一瞬が永遠のように思えた。赤い半透明の血液が、僕の体に飛び散る。顔についた液が、頬を伝って彼女の体に落ちていく。一つのおもちゃを壊してしまった気分だ。実際、彼女は壊れてもう動かなかった。
明日、これらの出来事が事故として扱われることになったのは、全くの幸運だった。
終
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