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短編集

他者

 俺は誰かに言うことが難しい秘密を持っている。そんな大それたことじゃないんだ。犯罪まがいのことをしたとか、反社会的な思想を胸の内に秘めているわけじゃない。ただ誰にも言うことはできない、そう思っている。
 自分の秘密を誰かに打ち明けてしまいたいと、そう考えることも少なくはなかった。しかし伝えたところで全てを汲み取ってくれるとは限らない。それはわかっている。そして必ずしも捻じ曲がって伝わることもないと。俺はそう何度も自分に言い聞かせてきた。そう思いながら俺は俺の秘密を打ち明けられたことはない。

 まただ。目の前にいる人間、いや誰だろうなこいつは。俺は今他者との会話を嗜んでいたはずだったが、いつの間にか自分の思考にのめり込んでいた。これは最近のよくないクセだ。とにかく目の前のこいつとは話を合わせておかなければならないだろう。
「……ぼーっとしてたな? お前」
「そこに虫が飛んでいたんだよ。どこかに行ってしまったが」
 我ながらひどい返事だが、現時点で俺は何の話をしていたのかすら覚えていないのだから、これでも上出来ではある。しかし自分の中では明らかな動揺が生まれていた。それを相手に気付かれたらどうなることか。
「虫を気にしてちゃ駄目だぞ。無視しろ。あ、虫をな?」
「虫の話なんかしなきゃよかったな」
「キツい冗談を言ってくれる。ほんの少しだけだが、傷付いたぞ」
 相手が軽くジョークを言っているのか、本気で傷付いて俺との付き合いを考え始めているのか、今の俺には判断できなかった。こうなると話を逸らすしかない。話を逸らすことくらいさっきもやったしな。
「それとは関係ないが、ここはどこだ? 教えてくれ」
「部屋だよ。俺のジョークで寒いなら暖房をつけてやるからな。それとホットココアでも飲んでろ」
 部屋、というのはわかったが、どこの部屋だとか、そもそもここはどこの施設なんだよとかの具体的な情報は得られなかった。それにあいつはさっきの話を引きずっていた、つまりこの質問は失敗だ。
「その、さっきはすまん」
「何故謝るんだお前は。で、ココア飲むのか?」
 相手は全く気にしていない素振りを見せてはいるが、まだわからない。少なくとも俺に対して攻撃的になってはいないので、問題ないと判断していいのか。
「じゃあココア貰うよ」
「ココアはミルクから作るか? それともお湯から? お前は確か猫舌だったな? 氷入れるのとミルク注ぎ足すのではどっちが好きだ?」
 俺はどっちが好きだったかよく思い出せない。
「全部ミルクで作ってくれ」
 そう、確かそうだったはず。
「わかった」

 自分の中にずっと秘めていなければならない、一生理解されないままでいなければならないことへの大きな恐怖。俺が感じているのは恐怖よりもっと嫌な何かかもしれない。
 それに誰かに打ち明けたところで、それに理解を示されたところで、その先に何かあるのか? 恐怖は解消されるのか?
 わからない。

「なんだ、頼んでおいて飲まないのか」
 まるで気絶していたかのように時間は過ぎていた。気絶なんかしてないはずだが、不思議なことだ。もちろん気絶していたなんて言ったら変に見られるので、適当な言い訳でごまかすしかない。
「まだ熱いんだ」
 確かに俺の隣に置かれたココアから暖かな湯気が立っている。熱いと言うまでそれの把握はしていなかったが、出任せでも案外どうにかなるものだ。
「お前は舌の芯に氷を使っているのか? 猫でもぬるいと文句を言うくらいだぞ」
 一口も飲まないで言うのは少々苦しかったかもしれない。しかしここで自分の主張を崩したら流石に一貫性が無さ過ぎるな。
「ミルク足してくれ」
「なるほど俺が手間かけて作り出したこの絶妙な比率を崩せと。嫌だね」
 また険悪な空気が流れ始めた。ここで困るのは相手が本当に怒っているのか、それともちょっと意地悪を言っているのか、今の俺には全くわからないことだ。前の自分なら容易に判別してそれに合った対応をしていたはずだが、ひょっとして自分は今、精神状態があまり良くないのだろうか。
「ごめん」
「ん、どうしたんだ今日。調子悪いのか」
 ああまた。今回もちょっとした意地悪だったようだ。なんてヤツ。
「さっきから顔色悪いぞ。何か言いたいことがあるなら言ってくれ」
 何故か自分の言葉がよく聞こえなかったんだ。確かに自分で言ったはずなのに、自分の言葉でない気がする。俺は一体何を言ったのだろう。
 
 俺が苦しんだ末に打ち明けたとしても、得られるものは表面的な同情だけだ。それはわかりきっている。俺を理解できる奴なんて誰一人としていないのだから。
 それにあいつらは理解できたつもりになって、一人愉悦に浸るつもりだ。俺をダシにして自分が特別だと勘違いしやがって。俺はちっとも異常なんかじゃないのに、あいつらが捻じ曲げていくせいで俺がどれだけ苦しんだことか。きっとそんなこと知りやしない、知ろうともしない。

「お前なんか、嫌いだ」
「……そうか」
 あいつは目を伏せた。
「待て、違う。今のは違うんだ」
 表面上の俺はかなり焦っているが、思考は妙に冷静だ。自分が二人いて別々に言葉と思考を担当しているかのようだ。この状態が気持ち悪い反面、何故だか心地よくもあった。どっちにしろ今の自分はどうしようもないということは確かだ。
「すまん、一人にしてくれ。今の俺はどうかしている」
「何か悩みがあるなら打ち明けて欲しい。何を言おうと俺はお前を受け入れる」
 今言うことなのだろうか、それは。
 ……ああ、またそうやって。
「なあ、ゆっくりでいいから話してくれ」
「永遠に喋るな!!」

 激昂した俺が台所のナイフを探し出すことにはそう時間はかからなかっただろう。何故なら俺は知らない内にガムを噛んでいた。早い話それはガムじゃなく、誰かの舌だったんだ。目の前で倒れてるあいつは恐らく舌を失っているので、怒った勢いで舌を切ってしまったんだろうな。
 何にせよ、これで俺が最も恐れていたものとは決別できたわけだ。俺は真っ白な部屋の中、弱い自分に別れを告げた。
「これで俺も念願叶って二枚舌だ。なんて。俺も二枚舌なんてごめんだからな」
 あいつは最期、謝罪の言葉代わりに口から血をだくだく出した。

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