短編集
二つ首
目覚まし時計の無機質な音が鳴り響く。閉めっぱなしのカーテンをちらりと覗き、変わらない灰色の曇り空を確かめた。洗面所で顔を洗い、雑に歯を磨く。時間をかけようとかけまいと変わらない。髭は面倒だから剃らない。着たままのスーツについた埃を叩き落とし、傾いたネクタイを整える。
コンロの上に置かれたままの焦げ付いたフライパンに卵を割って落とす。ガスは二回ひねらないと火が点かない。俺は慣れた手つきでガスの元栓を二回続けてひねる。時間がないから火は強火だ。生焼けで完成した目玉焼きを皿に移して食べ始める。卵の殻が入っている。どんなに丁寧に割ろうと意味なんて無い。俺は白飯が欲しいと思った。何回繰り返したかわからない思考。
革製のボロついた鞄を手に取り、玄関で靴を履く。この時いつも左足のかかとを踏んでしまう。左に目をやると、姿見の向こうの俺がじっとこちらを見つめている。最近はそれを無視して踏んだかかとを直すようにしている。玄関の扉の鍵は開いている、開いてても誰も入ってきやしない。俺は扉を開き、地面を見つめた。
変わらないはずの地面には、一つ生首が落ちていた。あまりに異様だった。そいつの顔は俺と瓜二つだった。懐かしい焦燥感と感じたことの無い不安。気付けば俺は生首を抱えて玄関の扉を内側から閉じていた。そして久しぶりに玄関の鍵を閉めた。処理しきれない情報量。右を向いて姿見を確認すると焦った顔の俺が俺の顔した生首を持っている。俺は家に上がり急いで生首をベッドの中に隠した。なんとなく人に見られてはいけない気がした。時計を確認するともう電車の時間を過ぎている。やっていた習慣が崩れてやるせなさに満ちた。とりあえずこのまま会社に向かうことにする。
次の電車の待ち時間は5分。しかし実際にはこれ以上に時間がかかる。そろそろ俺の隣に女性がやってくる。それでこの時間になると電車への飛び込みを図る。そのせいで電車が遅れるから俺はいつも早めに電車に乗っているんだ。そんなことを考えている内に女性がやってきて、こう言った。
「こんな毎日、もう嫌!」
ドン。電車のドアが指定の位置と少しズレて停止する。響き渡る悲鳴と罵詈雑言。これを聞きたくないからいつも早く乗っているんだが、今日は予定が狂ってしまった。俺のスーツのポケットから電話が鳴り響く。これに出るタイミングが少しでも狂うと理不尽に怒られることになるので、きっちり4コール目で電話に出る。
「ああ、さっき人身事故があったようだが、君は大丈夫かい」
「今乗った電車の次で危なかったですね。ああ会社にはちゃんと向かいますので、ご心配なく」
「そうか」
プツン。電話が切れる。これが何万回と繰り返した日々で獲得した効率的な対応。それから俺はタクシー乗り場に向かう。その時ちょうどタクシーの前でたむろしていたゴロツキ達が去っていく。俺はタクシーに乗り、会社への道のりを伝えた。この運転手はクイズを出すのが大好きだ。何百回も聞けば流石に飽きる内容ではあるが。
「そういえば兄ちゃん、こんな話知ってるかい?」
「知っている、実家近くの南アルプスに行ったお宅の息子がイエティに会ったんだろ」
「……いやーそこまで噂になってるとは」
「いいから前見ろよ、横からバイク来てるぞ」
信号無視で飛ばしてくる改造バイク。一瞬かけられたブレーキによってこちらとの衝突は免れ、その代わりにバイクは電柱に激突する。運転手はその様子にひどく怯えている。
「ひええ事故だ事故だぁ……」
「俺たちに当たらなくてよかったな。あんな馬鹿が俺たちを巻き込んで殺すだなんてあってはならない、だろう?」
俺は怯える運転手を慰め続ける。正直こいつは事故に合わないように誘導さえすれば、あとはどうでもいい。それからは無事に会社に着いた。他に金の使い道を思いつかないので、運転手に適当にチップを渡してタクシーから降りる。会社の前に向かうと途中で上司が声をかけてくる。
「君、こんなしわしわな服を着ていちゃいけないよ。身なりはきちんと整えなさい」
以降、俺の服装について触れる人物は誰もいない。上司と一緒にオフィスへ向かう。デスクにはいつもの仕事仲間がいる。
「おはようございます……事故があったそうですね」
「電車に飛び込みだなんて嫌な事故だね。おはよう」
同僚のデスクを見ると、置いてある茶封筒がいつもより少しズレている。俺は何も言わずに茶封筒を元の位置に戻した。同僚は静かにお辞儀をした。それからしばらく経つと一本の電話が来る。いつものクレーマーだ。同僚は顔を顰めながら電話を取る。
「はい、はい、そうですね、はい、ですから先日説明しました通り、はい、はい、すみませんでした。はい」
同僚は電話を置くと、静かに愚痴をこぼす。
「どうして毎日同じことを繰り返すの……」
いつの日からか、空は灰色の雲で覆われ続けるようになった。一週間経っても空は灰色のまま、それどころか一ヶ月、一年と空が晴れることも無ければ雨が降ることも無い。そんな日々を過ごしていく内に、人々は少しずつ狂い始めた。毎日変わらぬ日々を再現し続けて、あの曇り空に耐えようとした。
ある日俺の隣で一人の女性が電車に飛び込んで死んだ。変わり映えのない毎日に耐えられなかったのだ。次の日、その女性がまた俺の隣に立っていた。彼女の顔は絶望に満ちていた。人々の思い込みが現実に変わってしまったのだろうか、それは俺にもよくわからない次元の話だ。ただ俺は変わることのない日々を過ごすしかなかった。
変わらぬ日々の中でも人々の個性はあった。俺のようにただ漠然として毎日を過ごす奴もいれば、完璧に同じでないと怒り出す奴もいる。既に解決方法を知っている問題についてのクレームを毎日入れ続ける奴もいるし、死なないのを良いことに成功する見込みのない挑戦をして死に続ける奴もいた。中にはさっきの運転手のようにひたすらに怯えて毎日を過ごすような可哀想な奴もいる。ただ、この変わらない日々を変えようとする奴は誰一人としていなかった。
午前の仕事が終わり、昼食の時間になった。ここでいつも俺に話しかけてくる奴がいる。
「おや、君なんだか顔色が悪いね。今日は早退したほうがいいよ」
俺には顔色が悪い日もあれば悪くない日もある。どちらにせよ仕事は続けるし、何より今日は悪くない日だ。
「いえ、大丈夫です。それより昼食を食べに行きましょう」
この日々が繰り返されるようになって間もない頃、その日の前日は俺の顔色が悪かった日だった。俺はさっきのように顔色を指摘され、その日は早退した。しかし次の日もあいつは俺の顔色について言ってきた。俺は調子が良かったので、早退を断った。それから毎日午後になると俺の顔色について言及するようになった。そして俺もそれを断り続けるようになった。俺の顔色が良くてもあいつはそれを聞いてくるし、俺が早退したいような気分でも、俺はそれを断る。どんなに意味の無いやりとりでも、自分の心の支えとして役に立ってはくれていた。
いつも行く喫茶店へ向かっている途中、俺はふと今朝の生首のことを思い出した。たまには気の狂った奴が俺の家の前で自殺していることもあったが、自分の顔をした生首なんて見たこともない。何より鏡越しでも写真越しでもない自分の顔を見るのは気味が悪かった。俺は考え込む内に歩みを止めてしまっていた。道行く人たちが知らないふりをしながらこちらを奇異なものを見る目で見つめていた。俺は急いで歩みを速め、喫茶店に着く時間に合わせた。喫茶店では店主が俺を待っていた。
「いらっしゃい、最近の調子はどうですか?」
「まずまずだよ。いつものブレンドを頼む」
店主が作ったコーヒーを差し出すと、傍を飛んでいたハエを素早くつまんで俺のコーヒーに突っ込む。
「おいおい、このコーヒーハエが入ってしまっているよ」
「おや、すみません。今取り替えますので……」
それから店主がコーヒーを取替え、俺はやっと美味いコーヒーにありつける。できればゆっくりと味わいたいが、ここでの時間は守らなくてはならない。そろそろシュガーが入ったものも飲みたいと感じつつ、コーヒーを飲み干す。店主に対しては特に言うことも無く、金を払ってさっさと店を出る。
「ありがとうございました」
そして俺が店から出た瞬間、烏が一匹俺の目の前に落ちてくる。周囲の人々はひどく動揺していた。こんなこと予定にはないのだ。俺は烏を道の端に蹴飛ばして、さっさと会社に戻った。人々も烏の死体を無視した。まるで何も無かったかのように、時間が過ぎていった。
午後にもまた同じような内容でクレームが来た。このクレームの数は定まっておらず、職場の空気を左右する重要な要素でもあった。クレームがこれで終われば上出来、三回以上来たのなら最悪。幸い今日は二回だけで済んだ。ひょっとしたら今日はクレーマーの機嫌が良かったのかもしれない。そう考えると繰り返される日々の中でも悪質さが際立っていた。それから今日の仕事が終わったので、俺は帰りの電車に乗り込む。俺の会社は夕方には仕事が終わるからいいものの、中にはずっと同じ内容の仕事で残業し続けている奴らもいる。俺はそいつらを気の毒に思うが、俺の日常と比べてみても大して変わらないのかもしれない。苦しみの本質は毎日が繰り返されるってだけで、その点は皆平等なのだろう。ただ受け取り方の問題だけだ。
俺は家に着き、それから一段落しようと思った。家の中では俺の場合人の目が無いのである程度自由にできる。この時間は俺が一番安らげる時間だ。戸棚のカップラーメンを取り出して、お湯を沸かす。この間にフライパンを洗おうかと考えたが、どうせ朝には戻っているので洗うのをやめた。お湯を沸かしている間に生首のことを思い出す。あの生首は幻覚か何かだったのだろうか。それに今日烏が落ちてきたのは一体何なんだ。俺は少し恐ろしくなった。俺は仕事をしている内にあれは幻覚だったと決め付けていた。ベッドにできた盛り上がりをじっと見つめる。あそこに生首を隠したのなら、今もそこにあるはずだ。
俺は震える手を伸ばし、布団をはがしていく。生首が幻覚であったのならば、そうであったのならば。そう願いながら手を動かした。不意に布団の膨らみに手が当たり、そこがふわりと潰れた。一瞬の動揺を感じ、改めてそこを確認しても何も無かった。あれは本当に幻覚だったのか。それとも夢でも見ていたのだろうか。安堵と共に少し残念に思う気持ちも混じった。久しぶりに感じた冒険心が無かったことにされてしまったのだから。
俺は自分から生首の記憶を消し去ったつもりになり、カーテンを開く。空は雲に覆われた影響で真っ暗だ。元々この都会では星なんて見えなかったが、夜空に一つだけ輝く美しい月が見れないのは寂しいものだ。しかし月のことを思い出したのもいつぶりか。俺は周りと比べて昔のことをよく覚えている気でいたが、知らない内に忘れてしまっていたことに気付いた。
ただ同じ日々を繰り返し続けているだけなのに、失ったものは覚えていられないほどに増えていた。それもそうか、同じ一日の記憶しか必要ないのだから。俺に明日がないなら、覚える必要もない。
カーテンを閉めると俺の足元に何かが当たる感覚。俺は無意識にそれを蹴飛ばした。こんなこと予定に無い。こんなもの必要ない。俺は今日を生き続けるだけだ。例えそれを死んだ目で遂行するにしても、それが俺にできる役目の全てだ。蹴飛ばしたものが壁にぶち当たり、音が鳴り響く。その瞬間頭痛が俺を襲った。音の方向を見ると、俺の生首が落ちている。
何故だ。頭が取れたのかと思ったが、俺の目線はしっかりと俺の頭を捉えている。じゃあ何故なんだ。あれは幻覚であったはずで、いや、幻覚ではなかった。でなければ生首を持ち上げたこの感触に説明がつかない。
首は半目開きで俺のほうを向いている。しかし視線は遠くを見つめているようだ。俺に対して興味を持っていないようにも感じる。いや目が見えていないのだ。首だけになって生きているはずがない、そうだった。こいつは死んでいるんだ。
俺は生首の顔を壁に向けて玄関に置き、その日は寝ることにした。
眠れなかった。
玄関からノックが響いてくる。俺以外に家を出入りする奴はいないのに。仕方がないので無視し続けると、音はじきに去っていった。玄関を確認すればそこには生首と鍵の開いた扉がある。扉を開き空を見上げると、空は今にも雨が降りそうだった。横からは冷たい風が吹いている。まるで夢でも見ているかのようだった。夢の感覚なんてとっくに忘れてしまっていたが、他に上手く例えられるものが無かった。
なんとなく散歩をしてみようと思い、しわくちゃのスーツ姿で歩き出す。ただ昨日とは明らかに違う出来事が多かった。それに街の人々の姿もいつもよりまばらで、皆目がギョロギョロとしていた。俺にとって外の冷たい空気はあまりに刺激が強くて、常に身が震える。寒さに耐えかねポケットに手を突っ込むと、中で携帯電話も震えていた。
「ああ、さっき人身事故があったようだが、君は大丈夫かい」
電話からはいつもと同じ声が聞こえた。しかし奥のほうでは騒がしい声が聞こえる。
「昨日は……昨日は、金曜です。今日は土曜です」
俺はそれだけを言って電話を切った。切る直前に人のものとは思えない悲鳴が聞こえた。
「ハエがいない、ハエはどこだ」
喫茶店の店主はうわ言を言い続ける。コーピーカップの割れ目にはハエトリグサが根を張っており、そのハエトリグサは何かをくちゃくちゃと咀嚼していて、隙間から小さな卵のようなものが覗いていた。
駅には誰もおらず、代わりに線路上を大量の生首が多い尽くしている。それらはどれも見覚えの無い顔で、どこから来たのかも想像できない。定時にやってくる電車が生首を掻き分けて通過し、通った跡にはまた新しい生首がぽこぽこと湧いてくるだけだった。俺はここでようやく異常さを少し理解できた、そんな気がする。生首がホームにまで溢れてきた頃に俺は駅から逃げ出した。そして家に閉じこもった。部屋の様子は何も変わってはいなかった。あるとすれば、俺の生首が一つだけ。そいつはいつにも増して、顔色が悪い。
「会社を休んだ。早退するくらいなら、最初から休んでおこうか……」
生憎この言葉は誰も聞いてくれていなかった。しかし、俺の生首だけはそれを聞いてくれる。黙って見つめてくれている。
絶対の日常が突如として変質してしまったのには、わけがあるのだろうか。原因の一考としてはこの生首。思い当たる節はこれしかないだろう。光を吸収する太陽は、街に夜を与えていた。いつまでも降り注ぐ雨水は、巨大な柱を作り出していた。生首を掻き分けて進む足も、家では平穏を感じぐったりと動かなくなる。これは眠りの時間へと移行するしかないだろう。動かなくなった両足を引きずり、片方の腕で生首を抱えてベッドに潜る。俺の体は冷えてしまっていたが、足は熱くてたまらなかった。まるで溶けてベッドにこびりついてしまっているような感覚がある。これは眠気のせいだと言い聞かせて、何度も目を閉じて開くを繰り返した。
生首がこちらを見つめている。閉じた目を通過して、俺の目玉を吟味していた。もしかしたら俺の目玉がひっくり返ったのかもしれない。目玉だけじゃなく、顔全部が。何が反対で、何が元のままなのかもわからない。ただ俺から流れる涙の甘みはいつも通りだった。俺自身はなんともないのなら、この生首は変わってしまった俺なのだろうか。俺は変わることを拒否し、変質した自分の首を切り落としたのか。
俺は俺の唇にキスをした。柔らかに溶ける感覚を経て、頭が元に戻ったような気分になったが、現実俺の首は二つ首のままだった。
終
5/13ページ