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短編集

忘れ去られる時

 深緑の葉が空を覆い隠す森の中。その奥からは腐った家屋の臭いに混じり非常に甘ったるい香りが漂ってくる。その誰が嗅いでも不快に感じる臭いを、好奇心に負けてしまった者だけが追っていく。その先にはいつか絵本で見たようなお菓子の家が建っているという。
 お菓子の家と言っても子供達が思い描くそれとは程遠い。魔女が住んでいたその家は不思議なことに腐ってしまうことも水に溶かされてしまうことも無かったが、現代に魔女がいないとなるとこうもいかないのだ。砂糖でできた塗装は雨水によってほとんどが剥がされ、それによって露出したクッキーの壁はアリたちの餌場と化している。そのアリによって開けられた穴には大群が押し寄せる。例え家主の魔女が帰ってきたとしても、これでは手もつけられないだろう。
 そんな腐りきったお菓子の家には一人の少女が住んでいた。少女の肌は生きているとは思えないほどに白い。それもそうだ、彼女は全てが砂糖菓子で造られているのだから。身に着けているものは小麦の生地で、半透明の髪はゼラチン質によって形作られている。こんな少女がお菓子の家に住んでいるのなら子供達にその話を聞かせてやりたいところだが、お菓子の家があの有様では少女もどうなることか。
 少女は家の壁にもたれかかって座っていた。いつの日か取れてしまった少女の両脚にはアリが集っている。この状態では外の世界に逃げ出すことも叶わないだろう。もし自分があのアリに全身を喰らい尽くされてしまったらと考えると無意識に身が震えてしまう。現に一匹のアリが傍で餌を捜し求めているのだ、恐ろしい想像が現実になってしまうのも時間の問題だった。
 もし少女に魔法が使えたならこのような状況にはならなかっただろう。長年過ごす間に魔力が尽きてしまったのか、それとも魔法が使えないのか。魔法技術が消え去ってしまった今ではどうすることもできない。少女はふと昔のことを思い出してみようとした。思い返せばゆうに100年を越える。あの時はまだ魔法が存在している世界で、自分もとある魔法技術によって生み出された一つの生命体。お菓子の家も立派なものだった。今では在りえないことも昔は当たり前だった。
 しかし時代が変わるにつれ魔法の存在は否定され始める。世代の交代が進むにつれ、何故か魔法を信じる者が減っていったのだ。例えそれが偉大な魔法使いの息子であっても決して魔法の存在を信じることはなかった。しかし何故、次世代の若者達が魔法を断固として否定するようになったのかは今でも謎である。そのことを疑問に思い解き明かそうとする者が居なくなったというのもあるが。
 そんな現代で少女はもう救いを信じていなかった。自分を生んだ魔法を否定され、誰かが今ある自分の存在に気づくこともない。誰かが自分を見たとしてもそれは夢の話で片付けられてしまう。少なくとも今の時代には救いなんてないと少女は信じきっている。存在の否定とはこれほどまで強い力を持っているのだ。例え過去に存在していたとしても、今否定されればそれは消え去ってしまう。だからこそ人々はその記憶を形に遺そうとした。その遺物も宇宙の果てに放り投げられた後ではあるが……。
 外ではまた雨が降り始めていた。既に崩れてしまった屋根は役目を果たすことなく、雨水がビスケットの床をじっとりと濡らしていく。少女はふやけていく床を見て、自分もとうとう死ぬのだと考える。もし私が死んだらどこへ行くのだろう、そもそもお菓子に天国なんてあるのだろうか。少女の考えはうわ言のように口から漏れ出ている。次第に少女は雨に濡れ、砂糖の肌と小麦で作られた服の境界が曖昧になっていく。床にできた水溜まりで餌を食い漁っていたアリの数匹が溺れ死んだ。そして自分の流した涙と溶けた身体の区別がつかなくなる頃、少女の意識はどこかへと消えた。それは現代に残った最後の魔法が消えた時だった。
 この世に残った魔法の全てが消えてしまった今、人々の記憶から忘れ去られていくのをただ見届けることしかできない。むなしいものだがこれが今ある現実だ。

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