短編集
同一性
ふと目を開くとそこは真白な空間だった。私はそこに横たわり、真上を見ているという形になるのだろうか。手をこれまた真白な地面につけてみれば、地面が確かに存在することが確認できた。私はうつぶせになって両手を地面につけ、ぐっと力を入れて上体を起こした。この場所は平衡感覚が狂うほどにどこまでも白色だった。自分の周りを見ても、影すら存在しない。ただ自分がそこにぽつんと置かれているようだった。こんな状態で立ち上がっては足元がおぼつかずにすぐ倒れてしまうことが容易に予想できたので、私は上体をまた地面に横たわらせた。
「いつまでそこで寝ているつもりですか」
どこからか声が聞こえてきた。女性とも男性ともとれないような声質。そしてこの空間全体を響き渡るような、頭に直接響いてもくるような、不思議な感覚だった。この視界の異常に聴覚も狂わされたのかもしれない。どうやらあの声は私に語りかけてきたらしいので、仕方なく返事をする。
「はい」
そうするとまた声が響いてくる。
「はあ。あなた、こんな場所で一生を過ごすつもりで?」
もちろんそんなつもりはさらさらなかった。しかしここで自分から動かないと事が動かないのだろう。彼(彼女?)の言葉でそう気づかされた。
「じゃあ、立ちます」
はあ。とため息が聞こえた後に言葉が続く。
「じゃあ、ってなんですか。とりあえず立ち上がってください。そこからは自分が案内します」
“自分”というのは一人称だろう。口調に似合わない一人称ではあるが、さっきから透けて見えるあの性格には合っているな、とか考えてしまった。
「早く」
いけない。私は考え事をしていると手が止まるタイプなのだ。あまりに白すぎる空間のどこに崖や穴があるかと怯えつつ立ち上がり、生まれたての小鹿のようなステップで歩き始めた。
「見てらんないですね」
再び声が響くと、何者かにいきなり手を掴まれた。これは、私と同じ人間の手。恐る恐る振り向くと、紛れもない人間が立っている。こいつがさっきから私に語りかけてきたやつだろう。姿もまた性別を特定できないような、少し神秘的にも見える容姿をしていた。ただ目つきの方は悪いようだ。一つ違和感を感じるのは、手が骨の浮いた男のものだったこと。
「ジロジロ見てないで早く歩いてください」
それにしてもここは一体どこなのだ。まずはそれが知りたかった。誰かに聞こうにも相手は彼(仮)しかいないので、とりあえず聞いてみる。
「あの、ここって一体どこでしょう」
「え、知らないで来たんですか。それとも覚えていない?」
彼は質問にそっけなく返す。しかし、私はこの返答に引っかかる部分を感じた。
(……覚えていない)
そう、ここに来るまでの記憶が何もない。自分の名前や容姿すらもわからない。この真っ白な空間では自分の姿など確認できないだろう。かろうじてわかるのは彼に引っ張られているこの手だけだ。
「……記憶が抜け落ちているとかなら面倒ですね」
彼は少し面倒くさそうにそう言った。いや、その通りなんだ。しかしそんな彼の態度を見るとこちらからも言い出しにくくなった。
「いえ、ここが何なのかわからないだけで特に問題はないです」
私はとっさに嘘をついた。この嘘に意味があるとすれば、私が臆病だったからだ。たったそれだけのために嘘をついた。
(記憶が抜ける前の私はとんでもない大嘘つきだったかもな)
彼はまたため息をつき、何も言わずに私を連れていった。
歩いていくうちにだんだんと白い空間が暗くなってきた。時間の経過によるものなのか、歩いたことによるものなのかはわからない。ただこんな場所にたった一人だったら私は気が狂っていたことだろう。そういう意味では、あまり友好的でない彼も頼りにはできるかな。
「そろそろ抜けるんで、構えといてください」
抜ける、とは?
「え?」
彼の背丈が急に低くなったかと思えば、それは彼自身の落下による高低差が生み出したものだった。慌てて握られた手を振り払おうとするも、恐らく遠いであろう地面に背を向けた彼に睨まれつつそのまま落下に付き合わされることになった。
ああ、これはよく知っている。夢で落ちていくときの感覚。落ちる感覚とともに周りがどんどん暗くなっていくのを見て、明度の変化のトリガーはやはり距離だったかと心の中でうなずく。そんなことよりも私は高所恐怖症であり、心臓のバクバクが止まらない。あれ、俺って本当に高所恐怖症だったっけ。
「ちゃんと地面を見据えてくださいよ。自分もわからないヒト」
それは私のことを言っているのか? 確かに今はわからないが、記憶を取り戻せばいつもの自分がかえってくるはずだ。今の私はそれをただ待つのみ。それにしたってこの場所は異世界なのだろうか。死後の世界だったりしないだろうな。だとしたらこれは転生するための儀式か。
ドスッ!
「ア゛ッ!」
全身に激痛が走る。見事に地面に腹の方から着地してしまったようだ。脳が震えて、色々な内臓が踊りだし、骨が四散するような痛みが。実際そうなってるんだろうな。私を案内してくれている彼はというと両足をバレリーナのように突き立ててふわりと着地していた。こいついつの間に俺の手を離していたんだ。
「あー失敗しましたね。痛いでしょう。そりゃ痛くないヒトはいませんね。自分、言ったと思うんですけどね。地面を見据えろって」
ああ、それでか。できるかそんなの。ここは全部真っ暗でどこで着地するかが全くわからない。それに私は現実出身だから、ここはあまりに非現実的すぎてついていけないんだ。待てよ、非現実なのだとしたら、この全身の激痛も消せるのではないのか。
「……」
私は全身にパワーをみなぎらせた。これぞ自己治癒能力だ。これでこの世界でも渡っていける。明晰夢を操るかのように、自分の体も思いのままに……。
「何してるんですか。これ、全治何ヵ月でしょーね」
痛みは全く引かないし、むしろ精神を体に集中させたせいでもっと痛みが増した。泣きっ面に蜂、いやただの自業自得だな。
「自分の姿も覚えてないのに自分の状態を操ろうなんて滑稽ですよ」
私の中に一瞬の動揺、それからすぐに来る納得と諦め。
「バレてたか」
記憶がないことはちゃんと見抜かれていたようだ。あの時は混乱してて気にも留めなかったが、さっき「自分もわからないヒト」とか言われたし、もうとっくにバレてたんだな。
「はあ。バレてたかって、アンタ嘘そんなに得意じゃないでしょ」
この言葉を聞いて私は何故か安堵した。
(ああ、私は嘘が得意でない人間だったんだな)
私が考えているうちに彼がまた話し始めた。
「これ自然治癒でどんだけかかるか。面倒くさいな本当」
「え、これそのまま放置で治すのか」
私が落下した時と同じぐらい動揺しながら話すと、彼は悪びれる様子もなく淡々と言う。
「当たり前じゃん?」
……そういうところだけリアリティなくてもいいんじゃないの。
この異質な空間で時間感覚さえも狂ったのか、あれから3分経ったか3ヵ月経ったかわからない。わかるのは彼がちょっと眠そうにしていることだけ。全身の痛みがほとんど消え、やっとの思いで立ち上がる。今度は別の意味で足が震えていた。そんな私を見て、彼は小さくため息をつくとまた私の手を握った。
「じゃっ行きますよ」
ここで私の中に一つの疑問が浮かんだ。本当にしょうもない疑問なのだが。
「なあ、手は繋がなきゃ駄目なのか?」
それに対し意外なほどにサラっと返される。
「駄目なんですか?」
その態度に何とも言い返すことはできず、彼によってわりかし強めに握られた手が私の病み上がりの体を引っ張っていくのだった。
真っ暗だった空間にトンネルの出口のような光が見えてくる。そういえば、さっきまで私たちの話し声と足音以外全くの無音だったが、なんだか騒がしいような。
「なんか記憶思い出すといいですね」
彼は相変わらず適当な感じに話しかけてくる。彼がただ不器用な人なのか本当に適当にやってるだけなのか判断に苦しむ。握った手の強さは依然として変わらないようではあるが。そういえばこいつ手が汗ばんだりしないな。
「疲れてきたんですけども……」
ずっと歩きっぱなしだったので流石に疲れてきた。しかし彼はそんな私の言葉を無視してこう告げた。
「もうすぐ街ですよ」
「街?」
なんと、ここまでずっと無機質だった空間から解放されるというのか。ならば気分も上々。心持ち目を輝かせてこう言ってみせる。
「街か! ようやく人に会えるんだな!」
しかし彼はずっと前だけを見ていた顔をこちらに向けて、何言ってんだと言わんばかりに見つめてきた。そして少し時間を置いてまた前を向き、いつもの口調で話し始める。
「ヒトなんかいないですよ。一人も。なんなら他の生物もいない」
「そ、そう、か」
私はひどく落胆してしまった。それはきっと声色にも乗っただろう。それを聞いた彼はばつの悪そうな顔をして、こちらをちらりと見る。私のことをわりと気にしてくれているのかもしれないな。それは浅はかか。
それよりもこの場所、いやこの世界は何なのだ。それすらも未だにわからないとなると、私の自我が壊れてしまいそう。この手を掴むあからさまな男の手の温もりがなければ本当に心が決壊してしまう。何も持っていない人間はとにかく弱いんだ。もしや記憶を失う前から私は弱い人間であったか?
「……足、止まってますよ」
またやってしまった。考え事をすると無意識に体が動かなくなる。これはずっと昔からそうだったように思えるな。自分への手がかりが増えたようで安心する……。そう思うとまた無意識に胸をなで下ろしていた。すると、その安堵感をバッサリと切るように彼の言葉が。
「また過去の自分に執着してますね。やめなさい。今は歩きなさい。じゃないとこの手を離してやる」
最後の言葉、つまりは俺を一人にしてやるって意味。こんなところに一人はごめんだ! と彼の握る手を強く握り返してやる。
「お前はここのことを知っているんだろう!? 何故何も知らない何もわからない私を見捨てようとする! 薄情者が!」
私が声を荒げると、彼はこちらを見据えてあまりにもアッサリと答えた。
「ここは捨てるための場所です」
一瞬何を言っているかわからなかった。正直時間が少し経った今もわからない。私は彼の手を掴んだまま、固まってしまった。
「……今は無理ですけど、じきに捨てられるんです」
その言葉はあまりに辛く苦しかった。さっき生まれ落ちたような俺を認識してくれるのは彼しかいなかったからだ。会話していても俺のように決して声を荒げることなく、しかし感情を失っているわけでもない。男とも女ともとれるあの声、容姿。一部分だけ男のように見える手が何故か憎たらしい。
「あ、あ……」
何とか言葉を絞り出そうとするも、それは意味のない音として暗闇に消える。胸が苦しすぎて、ヒュウヒュウした息が出るぐらいだ。額を雪解けのような冷たい汗が伝う。今の自分の顔はきっと、真っ赤。
「さっさと歩けよ……」
また彼の言葉が飛び込んでくる。これも信じられない類の言葉ではあるが、意味を飲み込むことはできる。彼はただの薄情者で、なんらかの理由で私に付き合わされているだけなのかも。そう思うとさっきまでの自分の気持ちを誤魔化し、怒りというエネルギーに変えることができるようだった。本当ならあいつを殴りつけているところだが、それはできない。
彼の握る手は爪痕がつくほどに力強く、どこか小指あたりで力が抜けてしまっているようでもあった――――。
「はい、お待ちかねの街です。ちゃんと見なさいね」
彼がぱっと手を離して街を眺めはじめた。私はそれに反抗してすぐに彼の手を握る。
「見ろって言ったでしょう。さっき手を繋ぐ必要はあるか、とか聞いてきたくせに」
うるさい。あの時はここがこんなに寂しい場所だと思っていなかったのだ。街は夜のようだが星どころか月も見当たらない。街中に乱立されたビルに明かりはついているが、人の気配など全くもってなく、誰に見られることのない看板がビルに掴まって寂しそうに光っている。ところどころに止まった車に搭乗者はおらず、意味のない信号機が赤青と色を繰り返す。ただそれだけの街。
「なあ、なんで私をここに連れてきたんだ?」
最初の真白な空間。そこからどんどん暗くなっていき、今は夜の街。まさに夢の中といったところだが、妙な現実感が頭にこびりついている。あの体験したことのない全身の痛みも本当のことのようだ。それはともかく、私をここに連れてくるのはあいつぐらいしかいないのだ。私の言葉に少し間を置いてから、いつものトーンで返事がくる。
「あなたが望んだんですよ」
私が望んでここに来た。どうやらこの言葉は嘘ではないようだ。そもそも彼は嘘をつかない人間だろう。嘘が得意でない私が言うのも何だがわかってしまう。彼は珍しいことに急に一人で語りだす。
「あなたは夜の街が好きだった。自分を一人にしてくれるようだったから。でも今こうやって人のいない街を歩いて寂しさを感じている。人間は一人じゃ生きていけないんですよ」
彼の目は私の方ではなく、ビルについた看板を見つめていた。
(ゲイバー……)
あまり人の趣味に触れるべきではない。
「行こう。ここの他にも行く場所はあるんだろう」
今度は逆の立場になって私が彼の手を引っ張る。彼はそんな私に何を思うこともなく、いつも通りの返事が聞こえた。
「はぁい」
街を歩き続けると巨大な門が見えてきた。それは現代の街並みに全く似合わない、暗く重苦しいものだ。これは一体何なのだろうかと彼に話しかける。
「この門はどこに繋がっているんだ?」
彼は一瞬間を置いて答えた。
「処刑場です」
私の肝が一気に冷え込んだ。懐かしく感じる街並みを眺めてすぐに処刑場とは、ジェットコースターのような世界だ。私はどもりながら質問する。
「しょ、処刑場って、な、何を処刑する?」
はあ。とため息が聞こえた。彼はあきれた顔で私の方を向いてこう言う。
「こんなところに建ってるんだったら、人間の処刑場に決まってるじゃないですか」
やっぱりか……。だとするとひょっとして処刑されるのは自分だったりして。
「まさか私を処刑なんてことは……」
「アンタは見る側です」
食い気味の返事に驚きつつ、安心したような、まだできないような。なんて趣味の悪い所に連れていこうとしているのだキミは。
「私にそういう趣味はないんですよ。もっと別の場所行きましょう」
彼はいつもより少し声を低くしてこう答える。
「ここが終着点。終わったらあなたを元の世界に帰します」
これには拍子抜けした。この世界に終わりなんてないと思っていたから。しかしそれを聞いて私は嬉しかった。元ある場所に帰れるのだ。一つ気になるとすれば記憶のこと。
「私の記憶は戻るか?」
彼は私に向かっていたずらっぽい笑みをこぼした。
「さあ?」
そこをぼかすのは流石と言ったところ。そんなことはいいんだ。私はもうじき元の世界で人に会える。それが楽しみで仕方がない。
会いたい人なんているかも知らず。
人間一人通れるぐらいに開いた門をくぐると、黒鉄と同じ色をした処刑道具があちこちに設置されていた。興味本位で処刑道具をまじまじと見つめてみたが、どれも使われた痕跡はない。前より笑顔が増えた彼は処刑道具の庭の奥を指さしてみせた。
「一番奥のやつが一番いいんです。行きましょう」
物騒な場所ではあったが、俺たちはさながらデートのように手を繋いで歩いていた。これももうすぐ終わると考えてしまうと寂しさが胸に湧いてくる。私は楽しそうな顔をした彼を見て、そんな気持ちを必死に抑えた。
庭の一番奥にたたずんでいたのは真っ黒なギロチンだった。ギロチンの刃はほんの少し錆びているようで、黒以外の色が見える。これに近づいて事故で真っ二つにされないもんかとひやひやしつつ、自分は童心に帰っていた。
「ところで、ここで誰が処刑されるんだ?」
私はぼそっと呟いた。それを聞いた彼はこちらを見て、口パクをした。
「***」
読唇術は持っていないので何と言っているかわからない。それからすぐに脳に響いてくる声。それははっきりと言葉を紡いでいた。
『自分』
……これが、彼の声だとするなら。自分とは私ではなく、彼で。ここで彼が処刑される。
「……」
私はショックで動けなくなった。自分が殺されるほうがまだましな気さえする。何故彼が死ななくてはならないのだ。胸が苦しい。助けてくれ。彼を。
「同一性……」
彼が小さく囁く。さっきからずっと笑顔である彼の顔は、悲しそうにも見えた。それは私が悲しいからそう見えるだけかもしれない。
「これはあなたがこれから生きていくための儀式だ。もし、現実に帰ってきてからも自分が存在していたら、あなたはまた死を選ぶだろう……」
そう言い終えると彼は目を閉じた。そして私の握った手をすっと離す。
「やめてくれ! どうしてお前が死ななくちゃいけないんだ! なあ、どうか生きたまま帰してくれよ。できないのか!」
俺は必死に叫んだ。そんなことを言っているうちに、彼は首をギロチンにはめていた。
「処刑人はあなたしかいない。早くしないと」
あまりに残酷だ。私はいつの間に彼にここまで執着するようになったのだろう。
「なあ、せめて最後に話をさせてくれよ」
「じゃあいつまで話すつもりです? 一日中か? 一年? 一生話し続けるんだろう?」
彼の言葉がグサリと刺さる。ああそうさ。彼が死ぬぐらいなら私はずっとここに留まることを選ぶだろう。だがそれを彼自身が許してくれなかった。
「手を止めないでください。刃を繋ぐ綱は見えますよね。そこにある剣でそれ切って、刃を落としてください」
ギロチンの刃を落とせば当然彼は死ぬ。そんなことできるはずがない。
「無理だ。やめてくれ。どうして。そんな」
彼は錯乱する俺を蔑むように見つめ、こう言い捨てる。
「さっさとやれよ……」
俺は目から流れ続ける涙を無視して、床に転がっている剣を手に取った。剣はギロチンの刃と比べものにならないほどに錆びていて、あの綱を簡単には切断させてくれなさそうだ。
彼はもう目を閉じて何も言わない。私がやるまで動かないつもりだろう。あれから何時間剣を手に持ったままだったかわからないが、ついに決心した。
「許してくれ……」
ギロチンの刃を繋ぐ綱にギリギリと剣を滑らせる。剣が錆びているせいでなかなか切れない。綱が4分の1ほど切れたところで、刃の自重で綱がプチっと切れた。
その瞬間に彼は目を見開き俺に何かを伝える。
「恨むなら世界を」
スパンッ。
ふと目を開くとそこはベッドの上だった。見覚えのない天井。ここは病院のベッドか。ベッドの横に設置されたチェストの上に、丁寧な文字でメモ書きが残されている。
【自殺未遂】
たぶん俺のことだろう。そう、俺は川に飛び込んで死のうとしたんだ。何故死のうとしたかは覚えていない。しかし死ぬ直前までずっとこの世界に絶望していたことはわかる。何はともあれ生きていてよかったと今思えるのは幸せなことだ。
(ああ、俺……)
生きている実感として自分の手を眺める。その手は懐かしく感じられた。ずっと見ている自分の手ではない、誰かのもののような。
(温かい……)
自然と涙がぽろぽろと流れ落ちる。それは俺が生きているからだろうか。違うんだ。もっと他の何か、悲しさで……。
「……」
窓の外を見つめる。そこは半月の輝く星空だった。ここは都会だというのに珍しい。容態がよくなれば、俺はこの都会を歩いていることだろう。それは死のうとする前とは比べものにならないほど、足取り軽く、生きやすく。
とても心が軽いはずなのに、虚しさがずっと残る。
終
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