短編集
反対ならば
頭をうつ。それは人になんらかの影響を与える。脳細胞が死んだり、記憶を失ったり。記憶を失いはしなかったが、脳細胞を殺す代償に謎の声を得た。そう、ぼくの脳を少し借りて居座る謎の声。
頭をうつ前日。帰り道に同級生のちょっと変な女子が話しかけてきた。
「ねえ。もしあなたの見ている赤色が、ほかの人の赤色と違うとしたら?」
どこかで聞いたことがあるような話。正直、ぼくにとってはかなりどうでもいい話だった。でも彼女はとても真剣そうな顔でこちらを見る。なんでもいいから返答をしたほうがよさそうでもあった。
「え、わかんないかな」
とてもくだらない、ぼくの頭の悪さがわかる返し。彼女は落胆した顔で「ふーん」と言って去っていった。もっとひねりを加えればよかったな、と後になって後悔した。
彼女が話しかけてきた次の日、ぼくは落としたエンピツを探してベッドの下を探っているときに頭をうってしまった。それから少しして、ぼそぼそとした話し声が聞こえてくる。
「お前の見る赤色は他者の見る緑色だ」
一番最初にはっきりと聞き取れた言葉。男性のようなとても低い声色をしている。この声はいきなりぼくに謎の意見を押し付けてきたわけだが、言い返そうにも声に出して返事するのはまずい。声が聞こえることによってすでにおかしい頭が、さらにおかしくなってしまうから。
声に対して何も返さないでいると、あのときの「ふーん」が思い出されてしまった。そう、あの子は「ふーん、その程度の答えしかないんですね」と言わんばかりにぼくを見つめて!
いやなことを思い出したことへの八つ当たりとして、ぼくは誰も見ていないことを念入りに確かめ、自室で静かに暴れ狂った。そのせいでさらに頭をうった。ばかですね。
朝、家の玄関で靴を履こうとした瞬間に、また聞こえた。
「お前は右足を出すとき、左足を出している」
それでぼくは飛び上がり、履きかけの靴を玄関のドアにぶつけた。足元に残ったのは、左の靴。靴の片割れ拾って揃え、ぼくは脳内で謎の声に話しかけた。
「あなたは誰ですか」
……返事はなかった。一方的に語りかけてくるあの声に返事を期待するだけ無意味と気づかされるだけ。ぼくは二言目を発した。
「出ていってください」
これにも返事はない。ただ、声は言いたいことを言うだけだ。
晴れ晴れとした空、白い雲がまばらに浮かぶ。暖かい日差しがぼくの住む町を包みこみ、ぼくの荒んだ心さえも暖かく照らしてくれる。
「お前の“暑さ”の感覚は、他の人間からする“寒い”である」
この声も太陽の熱で蒸発しないものか。しつこくはないが、たまにやってきて茶々を入れてくるのがとてもうっとうしい。
好物であるいちご大福を食べる。
「お前が甘いと思っているものは、苦い」
大好きな歌を歌う。
「お前が高い声を出すとき、実際は低い声が出ている」
お気に入りの小説を読んで、感動する。
「お前の感動は、他者の怒りの衝動と同じ」
……頭がおかしくなるぞ。謎の声から逃れようと自室の隅でわけのわからない言葉を発していたら、家族の手によって精神科に無理やり連れられた。
「脳に異常はありませんでした。思春期特有の妄想である可能性が高いので、とりあえずは様子見で」
それを聞いた両親は眉間にしわを寄せて医者のほうを見ていた。これだけ言ってぼくを病院から追い出したのだ。ぼくだっておかしいと思うし、いっそ何かの病気であってくれればそれで気が楽になると思った。別の病院に行って、ちゃんと診断を下してもらわないといけないかもしれない。それを両親に話すと、「いや……」「でも……」を繰り返した。自分の子どもが精神病だと困る、という気持ちもあるのだろう。精神病をわずらった子どもと、おかしなひとり言ばかり口ばしる子ども。そこに大した違いはないと思うけど。
両親が深刻な顔をして話し合いばかりするようになった。今日ももあの声はぼくに意味の薄い言葉を投げかけてくる。そろそろ学校に行くどころではなくなってきたので、休みの連絡をしてもらった。自室で布団にくるまって目を見開いていると、父の怒鳴り声が聞こえてくる。それと一緒に母も怒鳴る。ぼくは笑う。
「そんなにピリピリしなくても、変な声が聞こえてくるよりずっとマシなのにね」
「お前の見る右は、左だ。左は、右だ」
声は茶々を入れてくる。そうだ、最近こいつに名前をつけたんだ。
「うるさい、女子」
あの日、ぼくに話しかけてきた女子。あの子に対するぼくの返答に、ぼく自身が満足していなくて、それが気になりすぎた結果生まれてしまったのがこの声なら、この名前にするのが妥当だ。本当はその子の名前にすべきだけど、それはちょっと違うかなと思ったので、こうなった。
「お前の見るピンクは、緑だ」
「わかったよ女子。……おやすみ」
ぼくは真昼に眠る人間になった。
「あの子不登校になって、人生これからだっていうのにどうするのよ」
「じきによくなるよ。おまえは心配しすぎだ」
「あなたは楽観視しすぎ」
両親はこんな会話ばっかりになった。でも、これは全部部屋の外で起きることだ。だからぼくには関係のないことだ。太陽の出ている時間に暗い部屋に閉じこもって、ずっと一人でぶつぶつ言うだけの毎日。それに少し加わるスパイスとしての怒鳴り声。いつしかこれがぼくにとっての“普通”になった。
「お前にとっての普通は、異常だ」
「そーだね」
うん、異常なんだろうね。きっと。
ピンポーン。と外から音がした。家に誰かが来たのだ。少し遅れてくる母の声。
「女の子がお見舞いに来てくれたよ」
その女の子、もしかして。ぼくは久しぶりに部屋から出た。そこにいたのは、やっぱりあの子だ。
「その、久しぶり」
あの日、ぼくに質問してきた子。そしてぼくの脳内に住み着いてる子。
「キミは久しぶり、だね」
「え? うん」
彼女は何もわかってなさそうに返事をした。当たり前だけど。
「あのさ、キミのことみんなが話してたんだ」
「そうだね」
「それでさ、わたし、悪かったなって思ってるの」
「うん?」
「このあいだ変な質問してさ、キミのこと困らせたからさ。ごめんなさい」
あのときの質問。元はと言えば、あの質問から派生した存在かもしれないこの声。原因は彼女にあると言って、過言。
「大丈夫だよ、気にしてないからさ」
「そう? ……それで、いいかな?」
「うん」
「あの時の質問、もう一度するね」
もう一度する。何故。悪いと思っているなら、繰り返したりしないだろうに。不思議な人だ。
「あなたの見ている赤色。それが他の人と違うものだとしたら、どうする?」
「…………」
あの日の質問に、ぼくはまだ正解を見つけていなかった。その時の自分にとってはあまりに難しすぎるような気がして、逃げてしまった。その結果、今苦しんでいるわけですが。
「……わからないよ」
「うん、やっぱりそうだよね。ごめんね」
今日もまた逃げた。これからも逃げるんだろうな。
「あの質問、わたしもわかんなくて、キミなら答え見つけてるかもしれないって思って」
「なんで?」
「……だって聞いた時、すごく真剣そうな顔してたから」
確かに、ぼくもあの質問に対して真面目に考えようとした瞬間がどこかにあった。今はどうだ? 逃げたわけだ。彼女もまた、これに関して真剣に考えているだろうに、まだ逃げるのか?
「うん、ちょっと待ってね」
ぼくは考えることにした。あの声に対してちゃんと返答してやらないといけなかった。理不尽な言葉に聞こえるけど、実は大したことはないのかもしれないんだ。
「うーん……」
彼女もまた真剣に考えているようだった。今この瞬間まで、彼女は真剣に考えていたのだろう。ぼくと違ってね。だったらぼくはその倍考える。
考え込んでいると急に母の声が聞こえてきた。
「ねえ、パパが明日から急に出張行くって。何なの本当」
「出張?」
「ねえ、お見舞いが済んだなら帰ってちょうだい」
母はとてもイライラしている様子だった。今イライラしているというより、前からずっとイライラしていた。その証拠にすぐ怒鳴りだす。だとしても、ぼくと一緒に考えてくれていたあの子まで巻き込むのは……。
「……関係ないよ」
「はあ?」
「ママには関係ないよ」
関係ない。ぼくの家族でも、この考え事に母は関係なかった。邪魔をしないでほしい。
「ぼくたちはぼくの部屋で話すから」
「……あー、ごめんね、大事なお話をしてたのね」
母は悲しそうな顔をしてリビングへ消えた。
「関係ない、関係ない、そう、関係ないんだ」
「あの、ずっとここにいて迷惑よね。明日また話していい?」
ぼくは気がついてしまった。答えに気がついた。
「関係ないよ!」
「えっ?」
「たとえぼくの色彩がおかしいとしても、味覚がほかの人と違うとしても、関係ない。他の人と入れ替わるわけじゃないんだ。ぼくはぼくでしかない。それは死ぬまでずっと変わらないし、ほかの人にはまったく関係のないことなんだ。もしほかの人と入れ替わることができて、それによってぼくの視界が鏡写しになったとしても、ぼくはぼくなんだ。ほかの人になることなんかできない。ぼくはぼくのものなんだ」
彼女はぼくを見て、ニコっと笑った。
「ありがとう。わたし、ずっと不安だった。キミに質問する前から、ずっとずっと。一人でいるときは、あのことばかり考えてた。でも今平気になった」
「それはよかった」
「もう帰るね。病気、よくなるといいね」
「うん、ありがとう」
彼女は帰っていった。ぼくは部屋のカーテンを開けて、久しぶりに夕焼けを見た。
「女子、聞いてた?」
あの声はもう聞こえない。
次の日からぼくはまた学校に通いだした。クラス中にぼくの変なうわさが立っていて、仲良くはできなかった。でも代わりにあの子がぼくと仲良くしてくれた。彼女もまた、学校で一人ぼっちだった。他の人からしたらぼくたちはおかしいかもしれないけど、これがぼくにとっての普通で、ぼくだ。
終
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