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短編集

美術展

 僕は20歳の時から東京の郊外に住んでいる。郊外とはいえ東京ではあるので、岩手とかの田舎に比べたら断然都会と言える。岩手行ったことないけど。
 東京住みでも、新宿だとか池袋だとかは怖くて行けない。あそこはハロウィンの日に馬鹿たちが集まって暴動起こしてる場所だ。あんなの僕なんかが行く場所じゃない。行ったらきっと殺される。
 しかし、あろうことか僕は東京都東京市に足を運ぶことになった。きっかけは友人の誘いだ。あいつもまた、僕と同じように友達が少ないもんだから、あいつの思いつきは全部僕が背負うことになる。あいつの突飛なアイデアにはわりと慣れたつもりでいたんだが、今回はそれが仇となったらしい。
「東京のどっかで美術展が開かれるらしいから、インドア好きのお前もたまにはこーゆー所で刺激を得ていこうぜ」
 そう、あの提案を二つ返事で承諾したのが良くなかった。美術展は東京のひっそりとした場所で開かれると思っていたが、まさかの都心だ。それも2日前に言うなよな。断ろうにも既にチケットを買ってきてくれていた友人に申し訳なく感じ、僕は東京市へその友人と二人で向かうことになった。

「ほら、都心も行ってみれば、思ったよりワクワクするだろ?」
「今電車酔いしてるから話しかけるな」
 僕は元々車酔いしやすい人間だが、電車内に人がぎゅうぎゅう詰めだと余計に酔う。しかも正面に立っている無精ヒゲ生やした野郎から変な臭いがしてくるから尚更、気分が悪い。誰か助けてくれ。
「顔面蒼白ってこのことを言うんだな。俺、お前のこんな顔初めてだよ」
 友人の慰めにもならない言葉が僕を現実の外にある世界へ連れていく。そういえば子どもの頃、車酔いした時には無理やり眠って酔いから逃げていたな。ああ懐かしい。今まさにそんな感じだ。
「東京着いたぞ。おい、おい!」
 あいつの声で約1時間の悪夢から目を覚ました。悪夢から起きてもまた悪夢であることには変わりないが……。

 僕は地図が読めない。だから遠出するのが嫌いなのだ。逆に、友人はある程度地図を読むことができ、方向音痴の僕を助けてくれる存在でもある。だから遠出をする時は大抵、あいつと一緒に向かうことにしている。友人は今日も地図読みの才能をいかんなく発揮してくれた。
 それにしても東京は人が多い。そのお陰で電車から降りても人酔いがやってくる。早く静かな場所に行きたい。できることなら今すぐにでも家に帰りたい。
「美術展に着いたぞ」
「あ、もう?」
 歩いている最中はずっと下を向いていたので、自分がどこにいるのかもわからなかった。上を向いてみれば、確かにそれっぽい垂れ幕がぶらさがっている。しかし、垂れ幕に“美術展”としか書かれていないのが妙に引っかかる。
「なあ。この美術展、タイトルとかないのか?」
「……さあ? 確かにないな」
 これじゃ何が展示されているのかわからない。美術展までの地図が美術展から発行されたなら、そこにタイトルも載っているはずだ。なら、確認する他ない。
「ちょっとその地図、貸してくれ」
「なんだ珍しい。ほら」
 広げられた地図を折りたたみ、表紙を見る。そこには“美術展”とだけ書かれていた。やっぱり少しおかしい。
「なあこれ、どっから手に入れた?」
「家のポストに投函されていたんだ」
 うーん、僕を無理やり東京に連れて行くためにわざわざ仕組んだのだろうか。いや、こんなまわりくどいことをしないでも、あいつは僕を東京まで引っ張っていくことはできただろう。それに美術展は確かに目の前に用意されている。つまり誰かのいたずらである可能性はないんだ。
「変なこと聞いてごめんな。美術展に入ろう」
 あいつをちょっと疑いすぎたな。あれもこれも全部、満員電車によるストレスが悪い。

 中は程よく冷房が効いていて、快適だった。外とは違って人もそれほどいないし、案外居心地がいいかもしれない。新しい場所やものは好きじゃないんだが、ここに限っては奇妙な心地よさを感じる。肝心の美術品はさっぱりとも理解できないが。
 室内の快適さに気が抜け、溜まっていた疲れがどっとやってきた。ちょうど近くに座り心地のいいソファがあったので、そこに深く腰かけた。友人はというと、美術品を巡ってうろうろしている。と、思うと今度はこちらに近寄ってくる。
「ちょっとあっち行ってくるわ」
「ああ」
「……あのさ。いつも連れまわしてごめんな」
 ずっとソファに座りっぱなしの僕に気を遣ってくれたのか、申し訳なさそうに言う。それに対していつものように「お前が悪い」、なんて言えなかった。なんだかいつものあいつらしくない感じがして、逆にこちらが不甲斐なく思ってしまうくらいだった。
「大丈夫だよ。僕はもう少し休むから、先に見てってくれよな」
「そっか。じゃ、またな」
 僕はいつもあいつのわがままに振り回されていると思っていたが、本当は僕がわがままなのかもしれない。あいつはただ、僕を楽しませようとしていて、それをつっぱねているのは僕だ。僕は人の気持ちを無下にして……。
 いや、こうやって悪い方向に考えて、楽しめなくなるのもあいつに失礼だ。今は飾られた美術品を楽しむ時間だ。作品の何がいいのかはわからないが、この空間は気に入った。十分楽しむ余地はあるだろう。
「よし、そろそろ行くか」
 僕は腰を上げて、友人の後を追うように作品を見に行った。

 絵の飾られた廊下を歩いていくと、一人の女性が絵を眺めていた。女優帽で目元が隠れているが、それを加味しても彼女は間違いなく美人だ。それにモデルのごとくスタイルがいい。僕はあろうことか、初対面の女性の全身をじろじろと見つめてしまった。彼女にバレる前にすっと目を逸らす。
「ふふふ、子どもが泣いてる」
 彼女の透き通るような声が聴こえた。確かに近くで子どもが泣いている。そして子どもの目の前にはすごい形相をした肖像画が飾られている。こりゃ、僕も子どもだったら泣いてるに違いない。そう考えると、ちょっとおかしくなってしまった。
「くっ、ふふふ」
 あ、まずい。彼女に気づかれてしまう。彼女は綺麗過ぎて、話しかけるのも戸惑ってしまうくらいだ。できることならスルーしたかったのだが、つい笑ってしまった。
「あら、こんにちは」
「あっその、こんにちは」
 いけない。女性は意地悪だからと毛嫌いしているのだが、こんなに綺麗で清らかな人には初めて会う。僕の知っている女性はもっとギャアギャアうるさくて、物を隠したりするような人間なのに。彼女にはそのイメージを帳消しするインパクトがあった。
「えと、あなたもこの美術展に?」
 ばか。僕はさっさとこの場を去って永遠の思い出にするのが最善だというのに、彼女との会話を試みてしまった。これでは変な奴だと思われてしまうじゃないか。さっき笑ってしまった時点でだいぶ変ではあるが。
「ねえ、見て。この子、絵の額縁が怖くて泣いてるのね」
 彼女の指差す先を確認すると、先ほどの怖い肖像画が飾られている。絵の額縁はいたって普通であり、むしろ品格の漂う綺麗なものだった。彼女はちょっと変わった人間なのだろう。
「そうですね。そういえばこの子、親はどこかにいないのかな。迷子かも」
「ひょっとしてそれで泣いているのかしら」
 彼女はニコニコした顔から心配そうな顔に変わった。
「この子、心配ね。家族がいないか一緒に探してきます」
「それなら僕も一緒に探しますよ」
「大丈夫ですよ。あなたはゆっくり作品を見ていってください。こういうの、お好きなんでしょう?」
 これには返答しづらかった。芸術はわかっているつもりでいたが、この美術展の作品には何とも言い難いものがあった。よく見てみると全部不気味というか、理解に及ばないということが理解できるというか。子どもを泣かした肖像画も、よく見ると大人である僕をも泣かしてくる怖さがある。
 思考停止している間に彼女は子どもと一緒に美術展の奥へと消えてしまった。一人になって感じるのは、妙な胸の高鳴り。彼女と出会ってからずっとそうだ。ひょっとしてこれは恋ってやつなのか?

 美術展の中を歩いてまわる。こうして見ると中々の作品数だ。これの良さを理解できる感性があればどれほどよかったことか。むしろ奥の作品になるほど不気味さが増していく。
 そういえば僕の友人はどこまで見たのだろうか。もう全部見て、今頃ソファに座っているかもしれない。そう思うとちょっと焦った。僕は全ての作品を見るのを諦め、早足で進むことにした。
 ここで僕は奇妙なことに気がついた。さっき会った女性と子ども、そして僕の友人以外に一切人を見かけない。こんなに美術品を飾っているのだから、警備員もいなくてはいけないだろう。それなのに人の気配はない。そもそも美術展は東京の中心で開いているのに、客をあの二人しか見ないのは明らかにおかしいことだった。
 それに気づいてしまった瞬間、さっきまで居心地良かった空間が変わってしまった。子どもの頃の悪夢を見ている気分。絵の中の人物が一斉にこちらを見ている気さえしてくる。作品と無音が僕を囲む。あいつはどこに行ったんだ。こんなところさっさと帰って、家で眠りたい。
 しかし道を戻ったところで、このまま進むのと、どちらの方が出口に早く着くかわからなかった。それに僕は友人を探さなくてはならない。絵に囲まれた廊下を東京の街中を歩くように、下を向いてただひたすらに歩き続けた。だが目の前を見ていなかったために、僕はぶつかってしまう。
「きゃあ!」
「うわっ!」
 ぶつかったのは先ほどの女性だった。
「すみません。本当にごめんなさい」
 僕がぶつかった瞬間痛かったように、衝撃で床に倒れこんだ彼女はもっと痛かっただろう。
「いえ、大丈夫です。あの」
「ああ、全然平気です。僕なんか気にしないでください」
 また彼女に会えたことによって、僕は安心していた。彼女のお陰で少しは恐怖が紛れるとも思った。それに彼女もここを変だと思っているかもしれない。
「すみません。この美術展、何かおかしいと――――」
「子どもが、子どもがいなくなってしまったんです」
 それは絵を見て泣いていた子のことだろうか? やっぱり何かおかしいんだ。
「子どもがいなくなるとき、何かおかしな点はありませんでしたか?」
「わからないんです、目を離したらいなくなってしまっていて……。ごめんなさい。ごめんなさい……」
 彼女は手で顔を覆い、泣き崩れた。子どもから目を離してしまった責任感に押し潰されてしまったのだろう。彼女を慰める言葉をかけるよりまず、子どもを捜すことが大事だと直感した。
「僕も一緒に探します。大丈夫、きっと見つかります」
「はい、ありがとうございます……」
 彼女は顔が見えなくなるほど帽子を深く被り、僕の後をついていく。崩れてしまった顔を人に見せたくないのだろう。僕は何も言わずに歩いた。これほど勇敢な気持ちになることは、これからの人生、たぶんないだろう。

 僕らは出入口に辿りついた。内心この美術展に出口があったのかと驚愕してしまった。体感で2時間くらい彷徨っていた気がする。しかし子どもも僕の友人も見つけられないままだった。これには乾いた笑いが出る。
「はは、みんなどこに行っちゃったんでしょうね」
 返事はない。まさかと思い、後ろを振り向くと、誰もいない。彼女もどこかへ消えてしまった。もう何が起こっているのか理解できない。ひょっとしたら僕はまだ電車の中で夢を見ているんじゃないのか。これは全部夢。きっとそうだ。僕は一体何をやっているんだ、ははは。
 僕は美術展の出口へと向かう。扉を開いて、外の空気を味わおうとした。実際は扉の先に外の世界はなく、真っ白な絵が一つだけ飾られた部屋があった。
「なんだ、これ」
 思わず絵に手を触れて確認してしまった。警備員がいたら間違いなく怒られているだろう。もちろん怒鳴り声も聞こえることなく、耳鳴りだけが僕の耳をキーンと鳴らした。それと一緒に、少しずつ絵に色味がついていく。変わった仕掛けの絵だ。この美術展の作品は軒並み理解できなかったが、これは気に入った。
「まだ、ここに?」
 さっきいなくなった彼女の声が背後から聴こえる。急なことでビビってしまい、足がすくむ。
「この美術展、あまり気に入ってくれませんでしたね。でも、この絵はどうですか」
 真っ白だった絵に模様が生まれ、次第に人の形になっていった。次には僕は絶句していた。絵は友人の形になり、こちらを見つめてくる。
「あなたのご友人は芸術品がお好きなようで、すぐに気に入ってくださりました。今では素敵な『肖像画』です」
「……これは、一体」
 彼女は帽子を取ってみせた。目元が真っ黒に塗り潰されている。
「私は絵です。絵、でした。目は描かれていないので、存在しないんです」
 やはり僕は夢を見ていた。こんなこと、あり得ないのだから。僕の一番の友人が絵になって、初めて恋した人が、絵で。
「あなたが私に恋をしていることは気づいています。あなたには絵を好きになってほしい。そう願って、ご友人を肖像画にしたんです」
「僕の友達を、人間に戻してやってください」
「できません」
 それを聞いて血管がちぎれそうなほどに興奮状態になった。今の自分はあまり冷静じゃない。ただ、あいつをどうにか助けてやりたい一心だった。
「戻す方法を教えろ。ないならないとはっきり言え」
「わかっているんですか? 絵の世界にのめり込んでしまった以上、戻れないんですよ」
「あるのかないのか言えと――――」
「あなたのことを言っているんですよ。絵になったご友人をこんなに想っているのは、あなたの方です」
 ああ、そういうことか。あいつはもう絵だから、僕は絵のことを友達だと思い込んでいる人間になってしまうのか。
「あなたは『肖像画』です。私と同じ、ね」

 彼女は僕の目の前で、優雅にティータイムを過ごしていた。周囲には美しい草原が広がる。
「素敵でしょう。絵の世界も、悪くないんですよ」
 確かに僕が今まで見たどんな夢よりも美しかった。美しいと思ってしまうほどに、この世界に吸い込まれるようだ。
「一目惚れでした。夢の中にあなたが出てきて、その手で私を外の世界へ連れて行ってくれたんです」
 夢……? 覚えがない。夢はすぐに忘れてしまうと言うから、忘れているだけなのかもしれない。絵が夢を見るとは知らなかったが。
「私、あなたと一緒にいれて嬉しい。ずっといてね」
 ああ、絵の世界も案外悪くないかもしれない。心残りがあるとするなら、あいつのことだけ。
「俺の友達はどうなるんだ?」
「絵のままです。こことは別の場所にありますが、会おうと思えばいつでも会えますよ」
「あいつを元に戻してくれ」
 彼女は少しうつむきながらこう言った。
「あなたはご友人と一緒にいたいのでしょう」
 はあ。こう言う時、男は口先だけのずるい手段を使うのだろうな。やるか。
「お前だけいればいいよ」
 彼女は頬を赤らめ、両手で顔を覆い隠す。
「そんな……」
 目がないこと以外は本当に可愛らしい。
「だが、友達も大切なんだ。大切だからこそ、元いた世界に返してほしい」
「……わかりました。ただ一つ、条件を」

「この絵、いいな」
 まるで常にこちらを見つめてくるかのような絵。こういうトリックアートもあるようだが、そういった仕掛けは見受けられなかった。不思議な絵だ。
「じゃあな」
 俺はなんと、絵に対して挨拶をしてしまった。しなきゃいけない気がしたんだ。そういうこともあるさ、うん。
 そういえば、誰かと一緒に来た気がするんだ。一緒に都心に行ける友達なんて一人もいないのにな。人生寂しすぎてそういう妄想をしちゃったのかもしれない。そろそろ閉館する時間みたいだし、家、帰るか。

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