片翼の天使
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「……ねえ、ちょっと。出久のこと、見てきてくれない?」
声をかけられ、次のページをめくろうとしていた指を彷徨わせる。僅かに厳しい表情を浮かべた母が、手を揉みながらこちらを見ていた。はあ、と小さなため息を一つ、パタンと読みかけの本を閉じる。愛用の栞がすこしだけ、閉じた本から覗いていた。黄色がまるでブイの字のように、ぴょこんと出ている。
最近、弟が何やらおかしい。それは母は勿論、家族である名前も感じていた。変化は約二週間前、泣き腫らした顔で帰ってきてからのことである。
自他共に認める泣き虫である弟が、そんな顔をしているのは別段珍しいことではない。初めは敵(ヴィラン)に遭遇し、事件に巻き込まれたショックなのだと思った。聞くところによると、弟の幼馴染である子が被害者らしいし。だがそれにしても不可解な点が多く、何か隠しているのは明白だった。
弟も、もう中学三年生。家族に言えない秘密の一つや二つくらい、あるだろう。しかし心配をかけていいかというとーーそれは違う気がするのだ。
(お母さんも大概、心配性だけど……出久も出久だよ、まったく)
まだまだ春の陽気が続いているとはいえ、時間は夕方。名前は上着をとると、袖を通す。そしてスマホと多少の小銭が入った財布を、上着のポケットに突っ込んだ。軽く髪型を手櫛で直し、靴を履いて家を出る。行く先は聞いているので、足運びに迷いはない。だがもし、それも嘘だったらーー流石にガツンと怒ってやろうと心に決めて。
朝早く家を出て、学校から帰ってきたと思えばまたすぐ出かける。彼は、帰宅部のはずなのに。加えて隠しているつもりなのだろうが、日に日に増える擦り傷。気づかないとでも思ったか、まったく舐められたものである。
昨夜、ついに堪らず母が問いただした。何か、隠していないかと。すると弟は何やら小難しい顔で逡巡した様子だったがーー
「何も隠してなんかないよ。ただちょっと……トレーニングしてて」
はは、と冷や汗を流しながら浮かべる笑いのどこに、説得力があるというのか。その時も名前はため息を一つ、読書の手を止めた。母に続いて、弟を糾弾しようとして。だがその言葉はついぞ発されず、今に至っている。
(……何をしてるか知らないけど、いい顔してた)
最近、弟が何やらおかしい。それもどうやら、良い方向に。家族として、姉として、これほど嬉しいことはない。あの子の境遇を考えれば、とくにだ。お姉ちゃんに教えてくれないのは、すこし寂しいけれど。
ふふ、と漏れた笑い声は、誰に聞こえることもなく、夕空に溶けていく。だんだんと潮のにおいが濃くなってきた。目的地はもうすぐそこである。
*
最初、その場所を聞いた時。そういえばそんなところあったなあ、というのが名前の感想だった。自宅からそこそこの距離というのもあり、行ったことはあったが、記憶からすっぽり抜けていたのである。それにたしか、あの場所はーー
(うわ。相変わらず、すごいゴミの量……)
本来、このような場所は地域の人たちの憩いの場になる。しかしこの海浜公園は海流の影響か漂着物が多く、またそれに合わせて不法投棄の温床になっていた。景観が悪ければ、人が来る訳もなく。
いつからそうなっているのかは、知らない。だが砂浜に降りると水平線が見えないだなんて、クレームは入らないのだろうか。
砂浜から幾分か高さがある歩道から、名前は目を凝らした。話ではトレーニングということだが、それなら別にこんな場所でなくてもよい。わざわざ家族にまで秘密にしている何かが、きっとここにはあるのだ。多少の好奇心が胸をくすぐるのを自覚しつつ、見つけた人影に声をかける。
「……あっ、おーい! 出久!」
手を振って存在をアピールすると、砂浜にいた弟と目があう。よほど驚いたのか、こちらからでも分かるくらいに肩を跳ねさせた。
両腕で抱えていた旧式のテレビが、滑り落ちる。そのまま重力に従い、出久の足へとクリーンヒット。見ている側も思わず、目を瞑ってしまうほどの衝撃だった。
「姉ちゃ……いってええ!」
うおおお、と唸りながら弟こと、緑谷出久は砂浜を転がった。名前はため息を一つ、歩道から砂浜へと降りる。転ばぬように気をつけながら、廃棄物を避けて出久に近づいた。
「ごめん、急に声かけて。怪我してない?」
「だ、大丈夫。たぶん……」
目尻に涙を溜めつつ、出久は答える。一般的に、それは大丈夫ではない顔だ。名前は竦めたくなる肩をぐっと堪え(悪いとは思っている)いまだ座り込んだままの出久に、手を差し出した。
「ほら、立てる? 足、動かせる?」
手を掴んだ出久を、ゆっくりと引っ張り立ち上がらせる。出久は何も答えない。ぐすぐすと今にも泣き出しそうだが、それでもなんとか堪えていた。名前はふ、と小さく笑みを一つ、頬についた砂を優しく拭ってやる。一息ついたのか、出久が問いかけてきた。
「ね、姉ちゃん。何でここに……?」
そう恐々と半泣きで聞くものだから、怒りというか呆れというか、なんとも言えない気分になった。聡い君なら、もう分かっているくせに。普段から加虐心を煽られる弟だとは思っていたが、今日は特別らしい。
「さあ、何ででしょうねえ?」
テレビよりは柔い人間の足が、再びクリーンヒットし。出久はまた絶叫を上げた。合間合間に、くすくすという抑えた笑い声が公園に響く。
名前は、やはり杞憂であったと人知れず安堵した。こんな出久に限って、心配事など何もーーしかしその時は、知る由もなかった。そんな自分たちを、誰かが見ていたなんて。
声をかけられ、次のページをめくろうとしていた指を彷徨わせる。僅かに厳しい表情を浮かべた母が、手を揉みながらこちらを見ていた。はあ、と小さなため息を一つ、パタンと読みかけの本を閉じる。愛用の栞がすこしだけ、閉じた本から覗いていた。黄色がまるでブイの字のように、ぴょこんと出ている。
最近、弟が何やらおかしい。それは母は勿論、家族である名前も感じていた。変化は約二週間前、泣き腫らした顔で帰ってきてからのことである。
自他共に認める泣き虫である弟が、そんな顔をしているのは別段珍しいことではない。初めは敵(ヴィラン)に遭遇し、事件に巻き込まれたショックなのだと思った。聞くところによると、弟の幼馴染である子が被害者らしいし。だがそれにしても不可解な点が多く、何か隠しているのは明白だった。
弟も、もう中学三年生。家族に言えない秘密の一つや二つくらい、あるだろう。しかし心配をかけていいかというとーーそれは違う気がするのだ。
(お母さんも大概、心配性だけど……出久も出久だよ、まったく)
まだまだ春の陽気が続いているとはいえ、時間は夕方。名前は上着をとると、袖を通す。そしてスマホと多少の小銭が入った財布を、上着のポケットに突っ込んだ。軽く髪型を手櫛で直し、靴を履いて家を出る。行く先は聞いているので、足運びに迷いはない。だがもし、それも嘘だったらーー流石にガツンと怒ってやろうと心に決めて。
朝早く家を出て、学校から帰ってきたと思えばまたすぐ出かける。彼は、帰宅部のはずなのに。加えて隠しているつもりなのだろうが、日に日に増える擦り傷。気づかないとでも思ったか、まったく舐められたものである。
昨夜、ついに堪らず母が問いただした。何か、隠していないかと。すると弟は何やら小難しい顔で逡巡した様子だったがーー
「何も隠してなんかないよ。ただちょっと……トレーニングしてて」
はは、と冷や汗を流しながら浮かべる笑いのどこに、説得力があるというのか。その時も名前はため息を一つ、読書の手を止めた。母に続いて、弟を糾弾しようとして。だがその言葉はついぞ発されず、今に至っている。
(……何をしてるか知らないけど、いい顔してた)
最近、弟が何やらおかしい。それもどうやら、良い方向に。家族として、姉として、これほど嬉しいことはない。あの子の境遇を考えれば、とくにだ。お姉ちゃんに教えてくれないのは、すこし寂しいけれど。
ふふ、と漏れた笑い声は、誰に聞こえることもなく、夕空に溶けていく。だんだんと潮のにおいが濃くなってきた。目的地はもうすぐそこである。
*
最初、その場所を聞いた時。そういえばそんなところあったなあ、というのが名前の感想だった。自宅からそこそこの距離というのもあり、行ったことはあったが、記憶からすっぽり抜けていたのである。それにたしか、あの場所はーー
(うわ。相変わらず、すごいゴミの量……)
本来、このような場所は地域の人たちの憩いの場になる。しかしこの海浜公園は海流の影響か漂着物が多く、またそれに合わせて不法投棄の温床になっていた。景観が悪ければ、人が来る訳もなく。
いつからそうなっているのかは、知らない。だが砂浜に降りると水平線が見えないだなんて、クレームは入らないのだろうか。
砂浜から幾分か高さがある歩道から、名前は目を凝らした。話ではトレーニングということだが、それなら別にこんな場所でなくてもよい。わざわざ家族にまで秘密にしている何かが、きっとここにはあるのだ。多少の好奇心が胸をくすぐるのを自覚しつつ、見つけた人影に声をかける。
「……あっ、おーい! 出久!」
手を振って存在をアピールすると、砂浜にいた弟と目があう。よほど驚いたのか、こちらからでも分かるくらいに肩を跳ねさせた。
両腕で抱えていた旧式のテレビが、滑り落ちる。そのまま重力に従い、出久の足へとクリーンヒット。見ている側も思わず、目を瞑ってしまうほどの衝撃だった。
「姉ちゃ……いってええ!」
うおおお、と唸りながら弟こと、緑谷出久は砂浜を転がった。名前はため息を一つ、歩道から砂浜へと降りる。転ばぬように気をつけながら、廃棄物を避けて出久に近づいた。
「ごめん、急に声かけて。怪我してない?」
「だ、大丈夫。たぶん……」
目尻に涙を溜めつつ、出久は答える。一般的に、それは大丈夫ではない顔だ。名前は竦めたくなる肩をぐっと堪え(悪いとは思っている)いまだ座り込んだままの出久に、手を差し出した。
「ほら、立てる? 足、動かせる?」
手を掴んだ出久を、ゆっくりと引っ張り立ち上がらせる。出久は何も答えない。ぐすぐすと今にも泣き出しそうだが、それでもなんとか堪えていた。名前はふ、と小さく笑みを一つ、頬についた砂を優しく拭ってやる。一息ついたのか、出久が問いかけてきた。
「ね、姉ちゃん。何でここに……?」
そう恐々と半泣きで聞くものだから、怒りというか呆れというか、なんとも言えない気分になった。聡い君なら、もう分かっているくせに。普段から加虐心を煽られる弟だとは思っていたが、今日は特別らしい。
「さあ、何ででしょうねえ?」
テレビよりは柔い人間の足が、再びクリーンヒットし。出久はまた絶叫を上げた。合間合間に、くすくすという抑えた笑い声が公園に響く。
名前は、やはり杞憂であったと人知れず安堵した。こんな出久に限って、心配事など何もーーしかしその時は、知る由もなかった。そんな自分たちを、誰かが見ていたなんて。
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