マレビトとして来ちゃった島で奇跡を起こすまで

「────で?」
「だから私、今日は事務仕事優先なんですっ!」

研究所内にて、早朝から業務を進めていると豪月がいなかったので、それを良いことに適当な嘘をでっち上げた。

(外に出たら、誰に会うかわからないし…しばらくは大人しく事務仕事で篭っていたい)

今、誰かに会って気が緩んだら、泣いてしまいそうだった。
頭から離れない、あの病室での出来事を忘れたくて、でも忘れてはいけないと思って。
眠れなくて、とても眠いのに頭だけはずっと考え事をしていて、とにかく仕事のことで頭をいっぱいにしたかった。
そうしていれば、いつか眠くなって寝られると思った。

「何嘘言ってやがる。行くぞセツカ。とっとと用意しろノロマ」
「……最後の一言ほんと余計です」

豪月が出勤してくるまでは、平和に事務仕事を勧められていたのだが、彼が来てすぐに誰かが私の言ったことを彼に告げたのだろう。
顎で呼ばれた。

(筒抜けかよちくしょう…)

仕方なく、今日も黄泉に街にと、彼の仕事の荷物持ちとして一緒に行動する羽目になった。



案の定、黄泉にも商品を運ばなければならず、仕方なくクナドの鳥居を抜けて黄泉へと降る。
手形を見せようと懐から取り出して見せた相手が璃空だったことに気付き、慌てて目を逸らしてしまった。

(そういえば、豪月といるところを見られて……彼はそれがあまり良くないような、焦って私に何かを言おうとしていた気がする……それも結局聞けてないし…)

何か怒られる、または言われると思い視線を逸らしたまま身構えていたが、いつになっても彼は何も言ってこない。
それどころか、他人行儀に「どうぞ」と手形を返された。

(あ、れ……?)

何か言われたかったわけではないが、あまりにも無愛想で無表情な他人行儀な態度を取られたことに、少なからず驚く。
彼はもっと、真面目で堅物だけど相手を大事にしてくれる人だと思っていた。

(うわ……私、自分勝手だ。何も言われないことにホッとしながら、彼が笑ってくれないことにムッとしてる…………最悪だ)

自分のダメさ加減に小さくため息をつきながら、彼から手形を受け撮ろうと手を伸ばした。
すると、グッと強く手形を押し付けられる形で手を握られてギョッとする。

「なっ……!?」
「静かに。朱砂から、貴女に何かあったのではと聞いています……研究所の人たちを信用しないでください。彼らは、不正に手を染めている可能性がある」

(朱砂の情報伝達力は半端ないな。メール並みに早い……)

早口で告げられた言葉に、静かに頷くと彼はゆっくりと手を離していった。

「俺が貴女に友好的な態度を取ると、彼らはきっと良く思わない。無礼な態度を取ってしまい、申し訳ない。しばらくの間は、我慢して欲しい」

彼の小さな声が耳元から、脳へ響き渡る。
彼のこの言葉で、私はすっかり安心してしまった。
璃空が、病院で起きた絵出来事を知らないことも、研究所で働く私を心配して、こんな態度をとってくれたことも。

「……ありがとう」

離れていく手に少しだけ触れて、私は彼と同じように小さい声で言った。
彼の手は温かくて、病院で亡くなったあの人と違って、ちゃんと生きているんだなと強く感じた。







その後も、いつも通りに仕事を終えて帰ろうとしていると、研究所の門の外に朱砂がいた。

「偶然だな。少しいいか」

一応尋ねてくれてはいるものの、拒否を許さないような声音と視線に、私は頷くしかなかった。
彼の後ろをついていきながら、どこへ連れて行かれるのかと内心ビクビクしていたが、彼が連れてきたのは海だった。
ゆっくりと浜辺に座り込んだ彼は、ふと私を見る。
何を言われたわけでもないが、私も隣に腰を下ろした。
静かな波音と、遠くを飛ぶ鳥の鳴き声。
沈みかけの太陽が海を赤く照らしていて、とても綺麗だった。

「夕陽の海って、見たことなかったかも……」
「日本にも海はあるだろう?」
「いや、遊びに夢中だったから景色とか、そういうのを見てたことはなかったなぁって」

確かに、何度か海に遊びに行くことはあった。
けれど、その時はビーチバレーやら何やらで友達と遊ぶことにばかり集中していて、周りのビーチ客は見ても景色なんてこれっぽっちも見ていなかった。
日本でも、こんなに綺麗な景色が見られたのだろうか。
帰ったら、みんなで海を見に行きたい。
今度はきっと、遊びも景色も楽しめると思うから。

「すまない……思い出させてしまったか」

彼は、ぎこちない声でそう言う。
いつも冷静な彼らしくない声音に、これはかなり心配をかけてしまっているなと分かり、苦笑してしまう。

(優しい人……)

「ううん…大丈夫。友達のことは、自分の名前と一緒で記憶から抜けちゃってるんだよね」
「…………そうか」

彼は気付いただろうか。
初対面の時、色々とこの世界のことを教えてくれた彼に、信用ができないから記憶に関しての話はしないと言ったことを。
その時、彼があっさり引いてくれたことは、私にとってとてもありがたい事だった。
でも、今は違う。
彼には、伊舎那天での恩もあるし、手形のことや黄泉を案内してくれたことなど、数え切れないくらい親切にしてもらった。
これで、彼を信用しない方がどうかしている。
だから話した。

(でも……病院でのことは…聞かないで欲しい…………やばい、涙出そう)

何の感情で泣きそうになっているのか、自分のことなのに自分でも分からない。

「話してくれて、ありがとう」

今までで聞いた、彼の声の中で一番優しい声。
心が震えるように、彼の方を見ると彼もまた私を見ていた。
目を細めて、そっと私に手を伸ばす。

「…………」

波の音しか、耳に入らない。
目の前の彼しか、見えない。
朱砂は、そっと私の目からいつの間にか流れていた涙を拭い、静かに笑った。

「セツカの泣き顔を、初めて見た」
「……」
「綺麗だ」
「そんなわけないでしょ……」
「綺麗だ」

二度言われた言葉に、心臓が跳ねる。
彼の言い方が悪いんだ。
そんな、大事そうに見つめながら言わないでほしい。

「ごめん……なんで泣いてるのか、自分でもよく……」
「あぁ」

涙を拭った手が、私の頭に触れる。
何度も何度も頭を撫でられる。

「……」

それから、私が泣き止むまで彼は何も言わず、ずっと私の頭を撫で続けていた。








次の日、幾分かすっきりとした頭で私は今日も仕事に勤しんでいた。
昨日泣いたからか、疲れてよく眠れたからかもしれない。
朱砂には恥ずかしいところを見られてしまったが、彼の性格なら特に気にはしないだろうと開き直ることもできた。
何も悩みや問題が解決できたわけではないけれど、今ここでグダグダ考えていても解決しないことには気付けた。
それだけでも、良しとする。

「おい、セツカ。これを死菫城へ持っていけ。あそこならお前一人でも大丈夫だろう」

そう言って渡されたのは、何かの粉が入った袋だった。

「あそこにも、商品化前のものを?」
「これは依頼品だ。頼んだぞ」

一人で荷物を届けるのは、黄泉では初めてだった。
場所が場所なのもあるが、少しは豪月に信頼してもらえているのかもしれないと思うと、少し嬉しくなった。
足取り軽く、黄泉への道を下っていく。




「やぁ、セツカ。いらっしゃい」
「こんにちは、縁。研究所から、死菫城宛へご依頼の商品をお届けに参りました」
「仕事中だからって、ここでは態度を変えなくても大丈夫だよ」
「そう言うわけには……っ!?」

いかないでしょう、普通。そう言おうとした言葉を彼の人差し指で止められる。
口元に彼の指が触れていて、思わず声が出せなくなる。

(な、さ、さわっ……当たってるんだけど!?)

「しーっ……商品ね、ちょっと他のお客さんの前で受け取るわけにはいかないから、部屋を用意してあるんだ。それは、その部屋で受け取らせてもらうよ」


さぁ、こっちへおいで。



彼の指が離れて、私はようやく自分が息をしていないことに気付き、ぷはっと大きく息を吐いて、慌てて酸素を吸い込んだ。

「ふふっ、息止めちゃって。セツカ、可愛いね」
「誰のせいだと……」
「僕? 僕の指があったから、息が当たらないように止めてくれていたの?」

(どう答えても彼が笑う未来しか見えない)

そうだと言えば、また可愛いなどと揶揄われてしまう。
そうではないと息巻いても、素直じゃないねと揶揄われてしまう。
勝てないと気付いた私は、無言で彼の横を通り過ぎて階段を一二段上り、縁の方へ振り返った。

「……お部屋、どこですか」

ぶっきらぼうに放った声で、彼も諦めてくれるだろうと思ったら、彼は吹き出すように笑った。

「前に玄葉たちと食事した時も思ったけど、セツカって意外と素直だよね」
「……うるさい」

彼の行動の全てが恥ずかしい。
これ以上揶揄われてなるものかと、縁をひと睨みしておいたが、彼に効果があるようには思えなかった。
その後、ゆったりと歩く彼の後ろを続き部屋に入ると、そこはお湯屋らしいお風呂場がついた個室だった。

「さて、と……」











彼は部屋の中央にある席に、ゆっくりと腰掛けてこちらを見て手招きする。

「ここ…どう考えても、個室のお湯屋さんらしい部屋だけど……」
「そうだよ。個室じゃないと、他のお客さんにはまだ商品として使ってもらうか決めてないからね。見せられないんだよ」
「だからって……しかも、なんでお湯溜めてあるの」

どう考えても、これから誰かが利用するかのような準備万端のお部屋だ。

「それはね……」

ゆっくりと、足取り重く彼の向かい側の席に着く。
すると彼は、左手を私の方へ伸ばしてきた。
縁が、あまりにも私を真っ直ぐに見つめながら手を伸ばしてくるものだから、咄嗟に私は両腕で自分の顔をガードするように彼の視線を外した。
バッと顔をガードした私を見て、彼はどう思っただろう。
そう思い、少し隙間を開けて彼を覗き見ると、ばっちりと目が合った。
瞬間、彼は吹き出すようにして笑った。

「ぷっ……あはははははっ! からかい過ぎちゃったかな」

彼は、笑いながら伸ばした左手で私が持ってきた商品を掴み取る。
手のひらより少し大きいぐらいの箱を手に取った縁は、箱を開けながらチラリと私を見てクスッと笑う。

「セツカは、何を勘違いして顔を守ってるの?」

彼の言葉に、顔がカッと赤くなる。

(恥ずかしい! だってあまりにも真っ直ぐに縁がこっち見て手を伸ばしてくるから、私はてっきり…………てっきり、キスされるのかと……あぁ、もうっ!! 私はそんなこと微塵も思ってない!)

「男性と二人きりで近付いて来られたら、そりゃ防御ぐらいします……」
「ふぅ〜ん、そうなんだ……」

彼の方を見ることができない。
こんなことを言ってしまっては、私の本心はきっと彼にバレバレなのだろう。
でも一応言葉にはしてない。
キスされるかと思って、咄嗟にビビったなんて一言も言ってない。

湯気が出るお風呂を見て、自分も顔から湯気が出そうだと意味もなく顔を手で扇いだ。

「……それより、もし良ければその商品が何なのか教えて? 私は中身を教えてもらっていないから」
「あぁ、いいよ。というか、君に試してもらおうと思って待っていたんだ」
「は?」
「はいこれ。これに着替えてきて」
「何で?」

渡されたのは、薄い生地の浴衣。
この世界では湯帷子ユカタビラというらしい。
そういえば、この前時貞に聞いた時には江戸時代では温泉などお風呂に入る時には湯帷子を着て入浴していたとか。

(肌着と認識してるけど……何で異性から肌着渡されて、しかも着替えてきて? 何で?)

頭に疑問点ばかり浮かぶ。
というか、よく平然とした顔でこれを渡してこれるね、縁。
やはり湯屋の人間だから、人の肌着や裸姿なんかも見慣れているということなのだろうか。
彼の第一印象がホストっぽいだけに、女性客にも「お背中お流ししましょうか?」とか言ってそうな妄想が頭に浮かびかけて、慌ててその妄想を打ち消す。

(ないないないない、そんなの。流石に客と従業員として、そういうのはないでしょ)

仕事の切り盛りをしっかりしていると、あの朱砂が太鼓判を押していたぐらいの人物が、そんなことまでしているとは到底思えない。

「で、何で?」
「着替えてきてくれたら、教えてあげる」
「…………じゃあ、いい。帰る」
「待って待って!」

勿体をつける縁に、言ってしまえばこの世界の下着を縁から渡されたのを身に付けて、彼の前に現れてまで教えてもらいたいかと言われると、そんな恥ずかしい思いをしてまで知りたいわけではない。
答えはノーだ。
さっさと席を立ち、扉の方へ向かおうと歩き出すと手を掴まれる。

「セツカ、元気なかったでしょ? 豪月にもそれ相談したらさ、「お前んとこの風呂でも入れてやれよ」って」
「声真似、似てないよ?」
「そうだね……前に、朱砂にも伝えて…彼はそれから何も言ってきてないけど、君はまだ元気がなさそうだし」

心配なんだよ。
その言葉に、目の奥が熱くなる。
どうして、ここにいる人たちは皆…いつもこんなに優しくしてくれるんだろう。
私はただの一般人で、彼らに何も返せていないのに。

「勝手に言ったこと、怒ってる?」
「…………怒ってる」
「そうだよね。ごめんね」
「……だめ」

いつか、縁にもちゃんと恩を返そう。
璃空や朱砂だけじゃない。
私は、この島に生きる色んな人たちに支えてもらって生きている。
マレビトだとか、そういうのじゃなくて……そんなの関係なく、私はここの人たちに優しくしてもらった分、何か返さなきゃいけないんだ。

「満足いくまで、お風呂入らせて」

ストン、と自分の中で考えが腑に落ちた。
今まで、周りの人の言葉に勝手に流されて、勝手に焦って、落ち込んでいた。
私はどんな期待をされても、ただの一般人だから誰も助けられないとか、そういうことじゃないんだと。
だから、今は縁の優しさに遠慮なく甘えさせてもらおう。
睨むように、振り返りながら彼を見れば、彼は私を見て優しく微笑んだ。

「仰せのままに」

恭しく湯帷子を渡され、それを受け取る。

「そういえば、最近カメリアが貸してくれた日本の本に書いてあったよ。素直じゃなくてつっけんどんな態度だけど、時々甘えてくるのをツンデレっていうんでしょ?」
「っ!?」

どこでそれを。そう言いかけた声は、彼が私の頭をゆっくり撫で始めたせいで言葉が飛んでしまった。

「セツカって、ツンデレだったんだねぇ。可愛い」

頭を撫でながら、縁は私の耳元に顔を近付けながら、ふっと笑う。
その息で、少し私の髪の毛が揺れて、どれほど彼が近い距離にいるのかと焦った。
だけど、それよりも最後の言葉で、突然ガスコンロを強火マックスで火をつけたようにボッと顔が熱くなる。

「ばっ!? ち、がっ! 〜〜っ! 着替えてくる!!」
(なにあれ、なにあれなにあれなにあれ!?)

ろくに反論の言葉も出ないまま、私は着替え部屋へダッシュで逃げ出した。
だって、あんなのってない!
あんな風に言われたら、誰だって勘違いするでしょ!
ていうか、縁って本当に湯屋経営してるの!?

やっぱりホストの間違いではないかと、クラクラする頭で私は着ていた服のボタンを外した。












服を脱ぎ、縁から渡された湯帷子(ゆかたびら)を着る。

(これからお風呂入るんだし……下着、も脱がなきゃおかしいよね? 一応、小花柄だし、色もついてるから大丈夫、だよね?)

恐る恐る下着も脱いでから、湯帷子を着直した。
湯帷子は、想像していたよりも短い丈で、何だか心許ない。
膝上丈までしかない湯帷子を何とか下に引っ張りながら、私はお風呂場へと移動した。



「いらっしゃいませ、セツカ。お風呂、今ちょうど研究所からもらった商品の入浴剤を溶かしたところだよ」
「う、うん……」

裾が心許ない。
彼の柔らかな笑みに、顔が赤くなる。
今、彼からは私の全身の姿が見えているのだろうと思うと、背筋を伸ばして胸を張り、お腹を引っ込めて足が細く見えるように足に力も入る。
太ももの太さを少しでも隠したくて、懸命に裾を引っ張りながら一歩、彼のいる湯船に近付きながらふと思った。

(やばい……何を変に私は意識しちゃってるの!? ここは、エステだとでも思おう……いや、脱毛サロンかな……とにかく、全身裸で施術してもらうようなものよっ! 何も恥ずかしがることはないわ! 初めて受けたVIOは恥ずかしかったな……痛かったし…それに比べれば、これは一応湯帷子着てるし!!)

男性がいたようなサロンは、私は知らないけど。
女性しかいなかったけど。

(いや、というかよく考えたらこの状況ってとんでもないのでは……?)

ぐるぐる、ぐるぐる思考が回る。
頭がふわふわしてきた。

「セツカ、大丈夫? なんか、顔が赤くなったり、青くなったりしてるけど……」

パニックな思考で俯いていると、気づけば縁が顔を覗き込むぐらいに近付いて来ていた。

「うわっ!? あ、えっと……大丈夫」
「そう? 具合が悪いなら言ってね。じゃあ、ちょっと滑るから、気を付けて入ってね」

そう言って、彼に手を引かれる。
檜で作られたであろう湯船の中には、柔らかなミルクの香り。
乳白色の湯船は、ほんのりと湯気が上がっていて丁度良い湯加減に見えた。

「滑る?」

手を引かれながら尋ねると、彼はにっこりと笑った。

「そう、女性のお肌をツヤツヤのピカピカに仕上げるためのものだよ」
「お風呂に浸かるのって、久しぶり。しかもそんな女性に嬉しい効能って、最高だね」

自分の家には、お風呂はない。
【赤紫】の住宅構造の基本は、シャワーのみだ。
江戸時代のような古い木造建築だったせいか、てっきり個人宅でのお風呂はなく、銭湯のような集団でのお風呂しかないと思っていたので有り難かった。
でもやっぱりそこは日本人。
たまには湯船に浸かりたいと思っていたところに、この縁の湯屋を朱砂たちに紹介してもらったから、一度は利用してみたいと思っていた。
それが、こんな形で叶うとは思っていなかったけれど。


ちゃぷん、と水音が部屋に響く。
両足を湯船に入れると、彼はゆっくりと手を離してくれたので、湯船の端に手をついてゆっくりと体を沈めていく。
温かくて、心地よい感覚が足から腰、肩まで浸かっていく。

「ん……とっても良い湯加減。縁、ありがとう」
「いいえ、セツカが喜んでくれるのが一番だからね。それにしても……」
「それにしても?」

まだ彼とは数回しか話したことはなかったが、いつも彼は穏やかな笑みを浮かべていて優しい印象しかなかった。
だから、こんな普通なら異常な状況でも不思議と安心してお風呂に入ってしまっているわけだけど。

そう、だからこそ彼が顔を赤くして私から視線を逸らす姿に私まで恥ずかしくなった。

(なんで今そんな顔するのよ!? こっちまで、忘れていた羞恥心が……)

二人揃って、互いから顔を逸らした。
少し沈黙の時間が続き、縁がわざとらしく咳払いをした。

「いや……少し火照った頬といい、初めて僕に向けて君が笑ってくれたから…すごく、嬉しいし可愛いなと思って」

…………な。
何を突然照れ笑いしながら言ってるのこの人!?

「ばっ……も、縁の言葉は心臓に悪い……」
「本心だよ」
「…………それはドーモ」

(そうやって口に出して、照れ笑いしている縁の方が可愛いと思ったなんて、そんなこと言えない……羞恥で死ぬ、私が)

本当に彼の言葉は、心臓に悪い。
一言一言が、何だか慈しまれているような気になってしまう。
彼が現代に生きる人じゃなくて良かった。

(こんな人実在したら、ホスト界のテッペン取っちゃうよ……今もなんか色気ダダ漏れだし…)

「ふふっ……あ、そうだ」

私の顔を見てひとしきり楽しんでいた彼は、不意に私の方へ一歩近寄ってきた。
ビクッと、思わず肩を揺らすとお湯も少し跳ねて水温が響いた。

「僕も一緒に入っていい? 効能、確かめたいんだよね」

彼の低音な声と、ゆったりとした口調がお風呂場なせいか余計に色気たっぷりに聞こえて困る。
私ではなく湯船に近付いてきた縁は、失礼と私に一声かけてから湯船のお湯をひと掬いした。
右手で掬うため、袖が濡れないように添えられた左手。
そのせいで、彼の右腕がチラリと覗き見える。
掬った水を戻す瞬間に手の方向が変わり、腕の外側が見える。
その際に見えたすじに、何故かドキッとした。
色気のある男性だとは思っていた。
けど、今初めてちゃんと縁が男性で、彼が今その腕で私を捕まえてしまったら私は逃げられないのだと、そう気付いて心臓が跳ねた。

それに気付いた今、一緒に入るなんてそんな羞恥には、私が耐えられない。
これはいくら服を着ているからといって無理なものは無理だ。
せめてプールみたいに広くて、他にお客さんがたくさんいるなら断らなかったが。
ここは一人用の湯船。無理。

「…じょ、女性用じゃないの?」
「男性がツルツルのピカピカになっても構わないだろう?」
「……頭しか浮かばない」
「ちょっと!? 僕はまだそんなんじゃないし、そうなる予定でもないよっ!」

慌てて言う彼が少し可愛く見えてきた。
よく考えれば服は着ているのだし、狭いソファに二人で座るようなものかもしれない。

(あ、そう考えたら別に大丈夫かも……居酒屋とかで、すごい極狭なところでサークルの人たちとぶつかりながら飲んだようなものだよね)

「……どーぞ」



ここで、上がるからどうぞ、とでも言っておけば良かったと後悔しても、後の祭りである。









「……っん」

頭がふわふわする。
体が浮いているような感覚。

(あぁ、そういえば私はお風呂に入っていたんだっけ? なんで、お風呂に……というか、私って仕事中なんじゃなかったっけ?)

よく考えてみれば、お風呂に入って体がふわふわするというのもおかしい。
背中と太ももあたりに何かが当たっているような感覚。

(当たっているというか……支えられて、いる?)

ゆっくりと目を開くと、褐色の肌が目に入り思わず瞬きをする。

「……縁?」
「はずれ。おい、縁できたか?」
「大丈夫だよ……あ、セツカ目を覚ました?」

縁の声が、違うところから聞こえる。
何度も瞬きをしている間に、ようやくピントが合ってきて私を抱えている人物が誰か分かった。

「なんで玄葉がここに?」
「黄泉に用事があってな…あ、おい動くなよ?」

降ろしてもらおうと身じろぎすると、彼はすぐに着くと言った。
どこにかと尋ねる前に、体がゆっくりと柔らかなベッドへ降ろされる。
どうやら、大きなバスタオルがベッドの上に敷かれているようで、そこで漸く事情を把握した。

「ごめん……のぼせちゃったんだね…」
「まだ頭回ってなさそうだな…水だ、飲めるか?」

玄葉から渡された水を受け取り、起き上がってそれをゆっくりと嚥下していく。
飲んだ瞬間から、胃に水分が流れていくのがよくわかる。

縁がいうには、彼も一緒に湯船に浸かろうとしたところに玄葉が部屋へやってきて、そのあと話し込んでいたところ急に湯船の方から水音がして、二人が慌ててのぼせて湯船に沈んだ私を助けてくれたのだとか。

「すみませんでした……」
「疲れもあったんだろ。横になってろ」

玄葉に背を支えられながら、ゆっくりと横になる。

「さて、じゃあ濡れた床を拭かなくちゃね」
「じゃ、俺は仕事戻るわ」
「あぁ、突然悪かったね玄葉」

そう言って、私を見ていた二人がベッド脇からそれぞれ立ち上がろうとした瞬間、私は二人の服の裾を掴んでいた。

「「……セツカ?」」

ふわふわする頭。
まるで熱が出た時の子どもみたい。

(なんで今、寂しいと思うんだろう……離れていく二人を見たら、なんか…やだ)

これがいつもの私なら、きっとそんなこと思わなかっただろうし、そもそもこんな恥ずかしい行動をすることもなかっただろう。
けれど、のぼせた今の私は正常ではない。
起き上がり、二人の服の裾を先ほどより、ずっと強くぎゅっと掴んだ。


「……どこにも、いかないで」


二人は、驚いた顔をして私を見ている。
でも、だって離れて行かないでほしい。
どうしてこんなに寂しいなんて思うのか、私にもわからない。

「一人にしないで」
(もう誰かが死ぬところは見たくない…)

早く、私の居場所に戻りたい。
無くなった記憶を返して。

私は帰りたいだけなのに、勝手に私に期待して失望する、あの落胆と絶望の声や顔を見たくない。
私は悪くない。

(誰でもいいから、私を助けて欲しい)

朱砂の前であんなに泣いたのに、まだ慰められ足りてないのか。
自分の弱さが嫌になる。
こんなのではダメだ。



「……ごめん、なんでもない。忘れて」



目が熱くなってきて、慌てて目を閉じる。
二十歳になった。もう大人だと思っていたのに、これではまるで子どもだ。
全然、私は大人になれていないなんて、恥ずかしすぎる。

「おいおい、待て待てセツカ」

目を閉じたまま横になり、探り探りでバスタオルを被ろうとすると、タオルを掴まれて玄葉に起こされる。
いつの間にかベッドの反対側に来た縁の大きな手に、背を支えられて仕方なく目を開ける。
潤んだ目を見られたくなくて、なるべく下を向いた。

「大丈夫、そばにいるよ」

縁の声が、左耳から聞こえる。
そっと囁くように、優しく言う彼の声に少し肩の力が抜ける。
私は今、おかしい。
そっと背に添えられた手が、優しく撫でてくれることに喜んでいる。

(こんな子どもみたいに喜んで……何でこんなに、寂しいんだろう)

ホームシックとでもいうのだろうか。
二人に迷惑をかけているのは分かっているのに、二人の顔を見たら無性に──────


「俺らはここにいるから。だから、お前は休め」

玄葉が、そっと私の頭を撫でてから瞼に手を添えられる。
それに倣い、自然に目を閉じるとすぐに私は意識を手放した。







「……寝たか…やっぱり何かおかしいな」
「そうだろう? 黄泉の方では特に何かあった様子はないみたいなんだけど」

縁は、玄葉と朱砂に連絡した後、部下たちに黄泉で仕事をしているセツカのことも調べさせていた。

「研究所で働いてるのが、訳って言うことじゃないんだろ?」
「豪月は話の分かる男だ。彼がセツカの面倒を直々に見ている限りは、そんな危ない目や嫌な目には遭わないはずだよ」
「……なら理由は他にあるってことか」
「お風呂もさ、出てけ!って怒られると思いながら一応付いてたんだけど、何にも言わなかったからつい見ちゃったんだよね」
「いや、お前そこはさすがに駄目だろ」
「そうなんだけどね、なんかつい…………でも本当に、何だろうね。一体」
「……本当にな。しっかし、何で誰にも言わねぇんだコイツは」

玄葉は、眠るセツカの頬を突く。
眠ったままの彼女が嫌そうに顔を顰めるのを見て、彼は静かに苦笑した。

「……セツカは、記憶もまだ失ったままなんだろう? 不安なことも多いんじゃないかな?」
「いや…………以前、朱砂から聞いた話だとセツカは、自分のことを話したがらないって言ってた。初対面の朱砂に信用できないから、話さないってよ」
「セツカが信用できる人物なんて、ここにはいないんじゃないか? 彼女はまだここへ来て日が浅い」
「……だから、誰にも話してないってことか……」

縁と玄葉が困った顔で、顔を顰めて眠るセツカを見下ろした。

「何とかしてあげたいね、玄葉」
「あぁ、何とかしてやろう縁。朱砂も璃空も、動いてる」

二人は同時にセツカの眠るベッドから立ち上がり、互いの顔を見て頷き合ったのだった。
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