大将組で小学生パロディ
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「なんで」
「アンタそれ何回目よ。いい加減にしてちょうだい、お母さんだって好きで田舎に行くわけじゃないんだから」
ピシャリと助手席から冷たい声が刺さり、さに子はむすっとした顔のまま車窓へ目を逸らした。
黄色、赤色とカラフルな木々は益々彼女にここは以前の場所とは違うのだと思い知らせた。
以前は、家の近くの公園に行っても紅葉なんて見られなかった。
畑もなく、整備された道路、夜になってもネオン輝く歓楽街。
夜に出歩くことはなくても、窓の景色からマンションや色んなお店の明かりがついて、キラキラして見えていた世界が、ここにはない。
高い建物はなく、山や川、海、畑。
自然いっぱいのここは、少女にとってまるで異国の地のように感じられた。
「全く、何だってこんなド田舎に……」
さに子の母が、忌々しそうに呟く。
母と娘は、互いに思考が一致していた。
娘がそれを言う事に対しては怒ったが。
彼女の父親が仕事で左遷されたと、申し訳なさそうに深夜に帰宅して早々に母に告げていた弱い背中を思い出し、彼女は一つため息をついた。
「ちょっと、幸せ逃げるわよさに子」
今は何をしても母をイラつかせると理解した娘は、呆れ顔で息をひそめることにした。
(せっかく、小学校最後の一年なのに……)
本来であれば、仲の良かった子たちと同じ中学に進級するはずだった。
何人かは私立受験するとの話だったが、それでも遠くない。
中学になったら制服で、帰りにバーガーでも食べようね。
そんな話が思い出されて、さに子は悲しくなった。
(この見渡す限りの畑に、バーガー屋さんとかあるのかな……)
あったとしても、彼女が会いたいと願う友人たちが簡単に来られる場所ではない。
また、彼女が簡単に元いた場所へ行けることもない。
まだ義務教育期間中のさに子に、遠出に行けるだけの道順を知る術も金もなかった。
さに子は、ちらりと隣に座る兄を見た。
剣道部で全国大会へ出場したこともある兄は、室内競技なのに何故か日焼けした黒い肌。
普段から無口で何を考えているか分からない兄だったが、今回の引っ越しで彼女は更に兄の考えが分からなくなった。
高校二年で全国大会へ出場した兄は、今年の三年も当然のようにレギュラーで試合を待ち望んでいたはずだった。
だが、突然の引っ越しに彼は表情を変えず頷き、次の日には部活を辞めていた。
(そんな簡単に、諦められるものなのかな…………すごい、頑張ってると思ってたのに)
だが、本人にそれを聞いても何も言わなかった。
それは諦めも悔しさも気持ちとして言葉にしていないだけで、彼の本心は家族の誰にも分からない事だったのだが、さに子は言わないのは意見がないことなのだと思っていた。
『くりちゃんはねぇ、意外と負けず嫌いなんだよ』
兄をくりちゃんと呼ぶ仲の良いイケメンは、さに子にこっそり教えてくれたことがあった。
けれど今は、そのイケメンの言葉が本当だったのか彼女には分からない。
(どっちにしろ、イケメンさんとはもう会えないし聞けないよね……)
そんなことを考えていると、車がゆっくりと停車した。
住宅が点在していた場所から少し車で走ったところにある、割と大きな家だった。
少し洋風チックな白い柵に、雑草が生え放題の庭。
赤レンガの屋根に白の壁が薄汚れていて、如何にも昔の洋館に憧れていた人が作った家、と言わんばかりの外観だった。
だが、小学生の彼女にとってはそこはキラキラと輝いて見えた。
灰色やクリーム色の高いビルがぎゅうぎゅうに押し込まれた場所とは違い、そこは緑と青空を背景に建つ異国情緒溢れる外観は日本家屋のマンションしか知らない子どもの目を強く惹きつけた。
さに子は、昔買ってもらったお人形の家に似ていると思い、嬉しさに飛び跳ねた。
「家だーっ! マンションじゃない!」
一戸建てに自分の部屋がある生活に憧れていたさに子にとって、それはまず一軒家な時点でキラキラして見えたのだろう。
飛び跳ねて喜ぶ娘の姿に、左遷されてから右肩下がりで俯きがちだった父がようやく笑みを見せた。
「さぁ、入ろうか」
「すぐ潰れそうな中古住宅よ」
母の嫌味も、ワクワクとしているさに子には聞こえなかった。
以前住んでいたマンションは狭く、全員が同じ部屋に布団を敷いて寝ているような状態だったが、新しい家には畳がない。
さに子には、その時点でこの家は古くない!と喜んだ。
彼女の中では畳があるのが古い家、だった。
そうでないことを母が教えていないだけだ。
彼女もまた、同じ考えなのだろう。
晴れてマイルームが出来た彼女は、喜んで一日を終えた。
なんてことはない。
一つ良いことさえあれば、気分はすっかり晴れやかになる。
まだ新しく通う学校がどのような場所か知らないさに子は、明日を楽しみにスヤスヤと眠りについた。
次の日、お気に入りのワンピースを着て新しい小学校へ行ったさに子は、口をあんぐりと開けて目の前の光景を見た。
「……なんで」
「「「ようこそ!! 本丸小学校へ!」」」
全校生徒、合わせて十人。
同学年の六年生は、さに子ともう一人転入生がいるが合わせても六人。
しかも、女子はさに子ともう一人だけ。
彼女は明るい性格なのか、ニコニコと満面の笑みでさに子へ手を振っている。
教師も、全員で三人。しかもそのうち一人は校長先生らしく、よぼよぼとおぼつかない足取りで低学年の生徒に手を貸してもらって歩いている。
(これが、小学校……?)
なんでと言わずにいられない程、彼女にとって信じられない光景だった。
彼等なりに盛大に迎えてくれたつもりなのだろうが、如何せん十人。
折り紙で作られた飾りが教室にあっても、大きな教室にある机と椅子は十組。
前の方に席が設置されており、最早窓際の席で寝るという選択肢すらない。
彼女が悶々と考えている間に、生徒達の自己紹介が終わってしまい、次は彼女と同時に転入してきた男子生徒の番だった。
「薬研藤四郎だ。よろしく頼む」
古風で大人びた話し方をする子どもだと、彼女は思った。
「よぉ、薬研! 待ってたぜー!」
彼の自己紹介後、すぐに同学年の男子達に囲まれた彼は嬉しそうに笑っていた。
(なんだ、知り合いなのか……)
自分と同類の都会っ子と思っていたが、さに子はその時点で薬研藤四郎という男子のことを違う生き物だと判断した。
彼はさに子と同じように都会から初めてこのド田舎のサニワ半島へやってきたのだが、彼女にとって重要なのはそこではなかった。
ド田舎に知り合いがいる、その時点で彼は都会っ子ではないのだ。
「次、田中」
教師に名指しされ、一歩前に出る。
引っ越してくるまでは何度も自己紹介文を考えたりもしていたさに子だが、これだけ人数が少なくては緊張も何もない。
むしろ落胆の気持ちが色濃く出ている今の彼女の心境的に、この自己紹介はどうでも良かった。
「田中さに子です。よろしくお願いします」
無難すぎる自己紹介にも、生徒たちは大きな拍手をした。
けれど、さに子は何一つ興味が持てずつまらなさそうに視線を床に向けているだけだった。
(私、この先ずっと田舎で地味につまらない人生を送るんだろうな……嫌だなぁ)
昨日の憧れた一軒家にマイルームという幸せな出来事も、彼女の脳内からは泡のように記憶が消えていき、この先ずっとここで生きていかなければならないということに彼女は絶望した。
「え、コンビニもないの?」
帰り道、先生の付き添いの元生徒達は全員固まって歩いている中、さに子は帰りにシャー芯を買おうとした。
だが、コンビニって帰り道のどこにあるか隣の女子に尋ねたところ、ないと即答されたのである。
それにさに子が驚くと、男子生徒が笑ってコンビニもデパートも、バーガーすら何もないのだと言った。
「駄菓子屋ならあるけど、千代婆が最近腰が悪いって言って開けてくれないんだよ」
(千代婆って誰)
「あー、この前本島の病院行くって言ってた」
(本島ってなに)
「なー、薬研。お前ん家今日言っていい? 名主の家買い取ったんだろ、お前んとこ」
(名主ってなに……何か、知らない事ばっかり)
雰囲気的に彼らの言葉は分かるのだが、正確な意味が理解できず曖昧な理解しか出来ないのだ。
(……駄菓子屋の人は遠い病院で、薬研は金持ちの家に住んでるってこと、だよね?)
「こら後藤ー、そんな人様の家の事情ペラペラ話すなー」
「んだよー、でっけぇ家だったから一回入ってみたかったんだって!」
「いいぜ」
「よっしゃ!」
集団で帰るのは、彼等にとって通常で毎日こうだという。
六年生は下級生と手を繋ぎ、最後尾を先生がついてくる。
家では親に、学校では教師に、帰るときすら監視状態なのかと彼女はうんざりした。
(つまんない、つまんないつまんない……やってらんないよ、こんなとこ)
「ねぇ、さに子ちゃん?」
「……なに?」
同学年唯一の女子が先ほどからさに子の隣を歩いていたのだが、もうすぐ家に着くころになってようやく声をかけてきた。
だが、彼女はそれに対し嬉しくも何とも感じなくなっていた。
転校生、と言う言葉に少し浮ついていた気持ちも、引っ越してきた時に見た田舎の殺風景さと生徒の少なさが彼女の学校に対する期待を全て消し去ってしまった。
さに子は、この小学校で誰とも仲良くする気が無くなってしまっていたのだ。
当然、この女子とも仲良くしようなんて気持ちはこれっぽっちもないさに子は、素っ気ない態度で女子を見た。
「コンビニはないけど、文房具屋なら帰り道にあるよ? 案内しようか?」
「…………あー、うーん」
正直、コンビニでフラフラして帰りたいというか、この集団の輪から抜けて帰るための口実だったためにさに子はどう返事をしようか迷ったが、辻褄は合わせておくべきかと自身の財布の中身を念のため確認した。
(足りるかな……大丈夫そう)
「……うん」
彼女が首を縦に振ると、女子は嬉しそうに笑った。
「うんうん! じゃあ行こう! せんせー、さよーならっ!」
頷いた途端、女子は嬉しそうにさに子の手を取り集団の輪から走り去っていった。
当然、手を取られたさに子も全力疾走でその場から去っていくことになった。
「ごめんね、 急に引っ張っちゃって」
文房具屋へ連れて来てくれた女子は、シャー芯を探すさに子を見ながら消えそうな声でそう言った。
それに彼女が首を横に振ると、ようやく彼女はほっとしたように肩の力を抜いた。
一方、さに子はこの文房具屋の小ささにあまり驚いていなかった。
品揃えの少なさや、店内の小ささは彼女の予想通りだったとも言える。
(期待しなければ、ダメージも少ないもんね)
数は少ないながら、さに子がいつも使用しているものがあり、彼女はそれを手に取り一つだけ購入した。
いつも買うところより安かったことに気付き、今と前の場所と違うところを探してしまっている自分がいることをさに子は知った。
(……嫌になる理由ばっかり、目についちゃう…………よく考えたら、この子も私のこと考えて、さっき走ってくれたかもしれないのに……態度、悪かったよね。謝るべきかな? 今更かな……)
既に店の外に出ている女子の元へ行くと、彼女はいつの間にか何か買っていたらしい。
笑顔で、さに子に一つの袋を手渡した。
「これ! ここで文房具買う時はコレ食べて! 美味しいんだよ!」
彼女が渡してきたのは、棒アイスだった。
「キャラメル味好き?」
「うん、好き。いくらだった?」
お金を払おうと財布を出すと、女子はアイスを加えながら慌てて首を横に振った。
「いいよいいよ! 今日はね、嬉しいから!」
「嬉しいの?」
「そりゃもう!」
彼女の満面の笑みにつられて、さに子も笑った。
消え去っていた期待や、前の学校とは全く違う場所に戸惑っていた気持ちや寂しさが、少し暖かくなるのをさに子は感じた。
「…………私も」
「ほんと!? そうなら嬉しい! この島なーんにもないから、なんでも出来るんだよ!」
彼女の言葉に、さに子は声を出して笑った。
「普通逆じゃない? 何にもないのに、何でも出来るの?」
「やりたい放題だよ! 皆ウワサ好きだから、それさえ気を付けたら大丈夫!」
「ウワサ好きなの?」
「大人がね!」
「さっきの、後藤君とか?」
「あれはただの親の受け売り。薬研君家、前は名主さんが住んでたらしくって大人が金持ちが来たって噂してたのを聞いたんだよ」
(名主って、そんな凄いのかな……金持ちは何となく雰囲気でそうかと思ってたけど)
さに子は、後で名主を検索しなきゃと思った。
でも学校にいた時より、帰宅途中より、知らない言葉が出ても悲壮感に苛まれない自分がいることに、彼女は少しほっとした。
「なんて呼んだらいい?」
「皆あっこって呼ぶよ。さに子ちゃんは?」
「そのまんまが多いかなぁ。あっちゃん、って呼んでいい?」
「いい! そっちのが可愛い!」
さに子とあっちゃんは、二人して棒アイスを食べながらのんびりと歩く。
夏と違い、暑さは残るものの日が沈むのは早くなった。
夕陽がどんどん沈んでいき、二人の影が伸びていく。
その陰の距離は近く、二人の楽しそうな声が道々に響いていた。
その日の夜、あっちゃんと早速連絡を取っていたさに子。
テレビ電話をしながら、明日から始まる授業の範囲を聞いていたのだ。
教科書は既に届いていたため、新品らしい糊のような臭いがキツイ参考書に折り目をつけていく。
「国語はねー、この三行目のところがなんか大事みたいでマーカー引いてる」
「おっけー、なんか大事」
言いながら、さに子はあっちゃんの参考書と同じようにマーカーを引いていく。
「……そういえばさ、ここの子たちって皆中学はどこに行くの?」
兄が船に乗り高校へ通っていると聞き、さに子はまだ次が中学だがどこになるのだろうかと問うと、あっちゃんは一つしかないと言った。
「自転車で行くんだよ。さに子ちゃんの家からだと三十分ぐらいかなぁ」
「自転車で三十分!? 遠くない!?」
「そう?」
ここでさに子は、田舎の三十分は短いのだと認識した。
(きっと体力が違う……やばっ)
「あ、もー九時じゃん。続きはまた学校でやる?」
「うん、じゃーねー」
「おやすみー」
スマホの画面が暗くなり、さに子は別にそれほど嫌ではなくなりつつある明日の学校のために、早目にベッドに入った。
それから暫く、一か月もすれば彼女なりにここの生活にも慣れてきていた。
「薬研ー、先生呼んでたよ」
「おう」
彼女は、未だに彼の第一印象が途端に下がった経緯から、あまり彼が好きではなかった。
線の細い体に白い肌、その見た目とは裏腹に彼は実行力と行動力に溢れ、さに子と同時に転入してきたのにもう学級委員にもなっていた。
さに子は、何だか彼がいつも自分の想像する彼の見た目との人物像との差を見せられていて、それが気に食わないという思いが強かった。
(同じ転入生と思ったら、既に知り合いがいるし……弱そうに見えるのに、たくましかったり…………変な奴)
教室から出ていく彼の姿をぼーっと見送っていると、あっちゃんがさに子の元へ突撃してきた。
「ぐふはっ! ど、どうしたの……」
昼前の空きっ腹に突撃されたさに子は机に腹をぶつけられ、声と共に腹の虫も鳴った。
だが幸いなことに、人数が少なくとも賑やかな教室では音は誰にも聞かれなかった。
「今、薬研君と何話してたの?」
「先生に呼ばれてたよって伝えたんだけど」
「それだけ?」
「うん……なんで?」
「え? 別に!?」
チャイムが鳴り、あっちゃんが慌てて席へ戻っていく。
それを不思議に思いながら、さに子は次の授業の教科書を机の上に出した。
「おー、授業始めるぞー。チャンバラしてんじゃねぇぞ後藤! 厚!」
「チャンバラって言い方だせぇ!」
「つか俺等だけじゃねぇよ先生! 信濃も怒れよ!」
「僕もう座ってるもんねー」
「あー! きったねぇーっ!!」
「おら座れお前らーっ!!」
先生の檄が飛び、二人はしおらしく席に着く。
それを見ていた信濃がニヤニヤと二人を見ていたことで第二ラウンドが始まる。
授業が当分始まりそうにないいつもの光景に、さに子はぼんやりと黒板を見つめていた。
(あー、何か考えようと思ってたんだけど……何だったんだろう)
「いっつもぼーっとしてるな」
いつの間にか教室に戻っていた薬研に、顔を覗き込まれる。
「…………そうかな?」
「さっき、教えてくれてサンキュ」
「んー」
「先生、授業前に一個だけ言わせてくれ」
薬研はさに子から視線を外し、挙手をして先生にそう一言告げてから席を立った。
「皆、今日は放課後に運動会のこと決めるから残ってくれ」
彼の言葉に、男子達がワッと盛り上がった。
「っしゃー! 来た来た来た! 俺の一年で唯一の輝ける大会が!」
「後藤ー、先生はお前が勉強でも輝いて欲しいと切に願ってるぞー」
「やってやろうぜ! 今年も大人たちに負けねぇぞ!!」
後藤には残念ながら先生の言葉は届いていないようだったが、さに子はその後の厚の言葉に脳内ではてなマークを浮かべた。
「なんで、大人?」
「私達の学校は人数が少ないから、毎年運動会は島の大人対私達子どもなの」
「そうなの?! 勝てないじゃん!?」
「それがそうでもないの。競技によっては多少のハンデがつくし、走るのは子どもの方が早かったりするんだ」
「なんで?」
「大人は運動しないからだろー」
後藤は椅子を斜めにグラグラと揺らしながら、暢気にそんなことを言う。
「実際、去年は俺等徒競走は全部大人に勝ったもんな!」
「そうそう! ハンデなしだったんだよ!」
信濃の嬉しそうな声に、さに子はギョッとした。
(お、大人に勝てる脚力って……やっぱり田舎っ子恐ろしい)
生徒の少ない子どもたちにも楽しめるよう、島の大人たちが考えた案だったが近年リゾート開発などにより土地が減り、住民が激減した影響で若い大人たちがほとんどいなくなり、近年運動会に参加していたのは若くても四十代後半以降の人たちばかり。
中には七十歳で徒競走に出て、途中でこけて骨折したという事件もあったぐらいだ。
体力的には、子どもの方が断然ある。
結果、去年は勝てたわけなのだが。
「おー、お前ら。今年は油断すんなよ」
「なんだよ先生、去年負けたからって」
「今年はリゾート開発で来てる若社長が社員数人連れて参加してくれる、って話が出ていてな。嘘か本当かまだわからんが、そいつらがいりゃお前ら負けんぞー!」
「ふざけんな! そんなナヨナヨしてそうな奴等に俺等が負けっかよ!」
「そうだそうだ! 自然破壊してるような奴等になんか、ぜってぇ負けねぇぞ!」
先生の言葉は、良くも悪くも彼等の心に火をつけたらしい。
俄然運動会に燃え始めた彼等を見て、さに子は楽な競技に出たいと、心底嫌そうな顔をしていた。
「ちょっと今から作戦会議しようぜ!」
「何言ってんだ授業だよ授業!!」
何度も先生に怒られる後藤に、皆は笑った。
授業が始まると、前の席に座る薬研がちらりとさに子の方を向いた。
「…………なに?」
先生や周囲の生徒にバレないよう、自然と小声になる。
ぽいっと小さく折り畳まれた紙が投げられ、両手でキャッチする。
直ぐに前を向いてしまった彼に、ペンケースで先生から隠す様にして紙を開いた。
『運動会、嫌いなのか?』
さっきの嫌そうな顔を見られたのだろうかと、さに子は少し考えたが別に嫌いでも良いだろうと素直に返す。
すると、また紙が返ってきた。
『田舎、嫌い?』
『ヒマなの?』
好かれたいと思う相手でない時、人は自然体になる。
それは良くも悪くもリラックスした状態と言える。
『 ヒ マ 』
大きく書かれた字に、小さく笑う。
そんな強調表示しなくても、と思いながらも授業中はやっぱり暇なものだ。
さに子は周りにバレないよう表情をすぐに戻し、大きく書かれて他に書けないメモをペンケースに折り畳み隠してから、新しくノートの切れ端に文字を書いた。
『キライっていうか、つまんない』
『ふーん。田中って、兄弟いる?』
『いるよ。薬研は?』
『いる』
『何人? 私は一人お兄ちゃんがいる』
金持ちだという噂をあっちゃんから聞いたため、彼女の中では金持ちは大家族のイメージがあった。
家で見るドラマやアニメの影響だったのだろうが、普通に尋ねたそれに彼から返ってくる返事がやたらと遅いことが気にかかった。
授業はゆったりとしたペースで進んでおり、特にバレそうな気配もない。
それでも遅いメモに、さに子は少し不安に思った。
(なんで、遅いの?)
だが、そう思っているとメモが返ってきた。
何故だが、さに子は慌ててそれを開いた。
何が書かれているのか、何故今メモが遅かったのか。
何か深い理由があって、さに子は自分がそれに踏み込んでしまったのかもしれないと、漠然と不安に思ったからだ。
『たくさん』
だが、書かれていた紙に書かれた文字は人数でも、長い時間かけて書いたような文字数でもなかった。
(兄弟何人って聞かれて、答えがたくさん? 普通人数で答えない? 大家族ってこと?)
だが、ここでチャイムが鳴り授業が終了してしまい、さに子はそれについて詳しく聞き返すことが出来なかった。
(なんで? って、聞きにくい…………気になるのに、なんでだろう……)
さに子は、余白だらけのそのメモをそっとペンケースに隠した。
その後、放課後の運動会について話し合っている時に何度も薬研の方をさに子は見たが、とくに彼に真剣そうな雰囲気も、悲しそうな雰囲気も感じられず、彼女は余計に分からなくなった。
(なんでか分からないけど、なんで…………)
家に帰ってからも、宿題をしようと開けたペンケースから出てきた紙に書かれた『たくさん』という小学生らしからぬ達筆な文字は、さに子を混乱させた。
「……っていうか宿題! 宿題やらなきゃ!」
わざとらしく声を出して、メモは自分の机の引き出しの一番下に入れた。
何となく、彼女はそのメモを誰にも見せない方が良い、と思ったのだった。
それから数日後。
秋も深まる10月後半は、少し涼しい晴れやかな日。
絶好の運動会日和である。
「っしゃー! 行けーっ!! ンな奴に負けんな信濃ー!」
徒競走を走る信濃と、若いスーツの男性。
前を走るのは信濃なのに、男性より彼の方が走っていてツラそうだった。
そして終盤、最後のカーブに差し掛かったところで、男性は外から大回りして信濃を抜き去り一着。
人数の少ない運動会では、徒競走は走る組が二人。
つまり一対一の勝負である。
「くそーっ! 負けたあああああ!」
悔しそうに地面を叩き膝をつく信濃。
「良い勝負だった。その速さでまだ小学生とは、凄いな」
一着を取った男性がそう褒めたことで、信濃はいつものテンションを取り戻したのだが、彼の負けは他の男子達にも影響していた。
「やるな、あのリゾート連中」
厚のいうリゾート連中とは、このサニワ半島に半年ほど前から大々的なリゾート施設の開発が進行し始めており、その開発を進める大手グループのことだ。
大企業の御曹司がいるやら、彼らが土地を買い占めたせいで住民が大幅に減ったなど、島民にとって良くない噂ばかりが流れており、彼等リゾート開発に携わる人達は嫌われていた。
「校長の野郎、良い歳して負けず嫌いかよ! 何もあんな奴ら連れて来ることはないだろ!?」
男子連中がワイワイ騒ぐ中、さに子はテント下の日陰からみんなの状況をぼんやりと眺めていた。
「さに子ちゃん、次私達も出る番だよ」
あっちゃんの言葉に、さに子はキッチリと赤白帽を被った。
「次、何だっけ?」
近くに彼女がいると思い尋ねたさに子だが、あっちゃんは既に次の競技場所へ向かっていた。
「全員参加の玉入れだろ?」
さに子に答えたのは、薬研だった。
「あ、そうだっけ?」
「お前、プログラム見てねぇな?」
「……そんなこと、ないよ」
「目が泳いでるぞ」
「…………じゃ! 行こう、薬研」
彼の手を取り、無理やり引っ張って歩き出す。
どうせ彼にはさに子自身が運動会に興味のないことなんて知られているのだから、隠す必要はないと彼女の中では割り切っていた。
「お? 薬研じゃないか。女の子に手を引かれるなんて、情けないな?」
突然後ろから降ってきた声に二人が振り返ると、そこには運動会にふさわしくない真っ白なスーツを着た綺麗な男性が立っていた。
白のスーツなんて、普通ヤクザにでも見られそうなものだが、彼の場合は線が細く儚げな雰囲気が漂い似合っている。
彼に一瞬見惚れてしまったさに子と違い、薬研は深くため息をついた。
「……アンタまで来てたのか、鶴丸の旦那」
(…………薬研、また知り合い?)
また、とは以前転入初日から後藤達と知り合いであったことを指していた。
「こんな楽しそうなこと、長谷部にだけやらせてたまるか!? しっかし懐かしいなー運動会。こんな小規模は初めてだが、これはこれでいいな、うん」
見た目の儚げな雰囲気とは裏腹に、軽快明瞭な声で話す彼の姿にさに子は度肝を抜かれて声も出なかった。
(この人も変な人だ!)
さに子の中で描いた第一印象のイメージと違う人は、彼女の中では全て変な人である。
「その子は、お前の彼女か? 初々しいねぇ」
「勘違いするな、次の競技に行く途中なだけだ」
「……ふーん、まぁいいさ。薬研、お前の親父によろしく伝えてくれよ?」
「あぁ、勿論伝えるさ」
そんな会話をして、白スーツの鶴丸と呼ばれた男は校内へ入って行ってしまった。
「じゃあな、可愛らしいお嬢さん」
去り際に、彼は赤白帽を被った彼女の頭を優しく撫でていった。
(変な人なのに手がお父さんより大きくて、なんか優しい……)
そしてまた一つ、薬研の謎がさに子に増えた。
(ていうか、なんでお父さんの仕事関係の人と知り合いなの? 普通そんなことなくない? 私ないし、皆もある子なんていなかったのに……しかもこれも、なんか聞きづらいし)
ぐぬぬ、と唸るようにさに子は次の競技に、その言い表せない気持ちをぶつけた。
結果、球は明後日の方へばかり飛んで行きさ大いに足を引っ張ったが、後藤と厚、信濃が三人縦に肩車をして玉を入れるという反則技で失格となり負けた。
「そりゃ怒られるだろうよ」
こってり担任から怒られた三人がショボくれて戻り愚痴を零すと、薬研が呆れたようにそう言って三人を宥めている。
そんな様子をあっちゃんとさに子が見ていたのだが、ふとあっちゃんが小声でさに子に言った。
「薬研君ってあの三人より、なんか大人っぽいよね」
嬉しそうに聞こえたその声に、さに子はキョトンと首を傾げた。
「そうなの?」
「そうだよ! さっきの徒競走も薬研君は勝ってたし!」
それが大人っぽいのかどうか彼女には判断できなかったが、あっちゃんの言葉に取り敢えずさに子が頷く。
すると、あっちゃんの目がキラキラと輝き出した。
「だよね!」
嬉しそうに、本当に嬉しそうに言ったあっちゃんは、次の障害物競争に出るため席を立った。
それを見送ったさに子は、やっぱり首を傾げた。
(……変なあっちゃん)
そうして午前の部が終わり、さに子が教室に帰ろうとすると担任に呼び止められる。
「田中、お前の親御さんは? 見当たらなくてまだ挨拶出来てなかったんだよ」
「来てませんけど?」
さに子がそう言うと、担任はひどく驚いた顔をした後に眉をハの字にした。
「お前もか……じゃあ、昼は?」
「普通に教室で食べますけど?」
皆もそうだろうと、周囲を見てさに子は驚いた。
皆、親と一緒に座り色とりどりのシートが点々とグラウンド外周に敷かれ、個人個人の家族達で昼を食べているようだったからだ。
さに子の前の学校では、教室で皆食べていた。
それが普通だった。
だが、ここでは違うのだろう。
彼女はそこで、教師が驚いた後困った顔をした理由に気付いた。
(あぁ、親来なくて可哀想だと思われてるんだ……)
毎年両親は仕事で行事には不参加なのは決まっていて、それに困ったことはなかった。
他の子も、そうだったからだ。
だが、ここでそれは浮いてしまうのだろう。
今まで気にならなかったことを気にし出してしまうのは、さに子にはかなりのストレスだった。
(私、可哀想なの? 悲しくないけど、可哀想なの?)
担任にそう尋ねたくなる思いをぐっと堪え、さに子は担任に一礼して教室へ走った。
(ちがう、ちがうっ! 普通だよ、私普通だよ!)
教室の鍵は閉まっていたが、後ろの扉が開いているのは知っていたさに子は、そっとそこから教室へ入った。
カーテンが閉まっていて、少し薄暗い教室には誰もいなくて少し彼女はホッとした。
電気も付けず、数少ない席から自分の席につき弁当を広げ食べ始める。
彼女は上を向いて、冷凍おかずを口に含んだ。
下を向くと目にたまった涙が落ちてしまいそうで、とても嫌だった。
もぐもぐと静かに食べていると、段々複数の足音が近付いてきているのが分かりさに子は慌ててハンカチで目元を拭った。
すると、鍵がかかっていた前の扉がガチャガチャと動き開いた。
「あ? 電気も付けずに何やってんだ?」
入ってきたのは、厚藤四郎。
続けて信濃、後藤、薬研の三人も入ってきていつもの四人組だとさに子は少し息を吐いた。
彼等の後ろに親がついてきていないことが分かり、彼女はホッとしていた。
「面倒で……」
目が赤くなってないか気にしながら、さに子は彼らから視線を外しながらボソリと呟くように言った。
少し鼻声なことに自分で気付き、さに子は音が鳴らないように静かに鼻を啜った。
「しかも鍵開けてねぇし、後ろから入ったのかよ」
「だって面倒くさかったし」
「どんだけズボラなんだよ」
面倒、面倒と連呼していれば厚や後藤は聞きながら笑った。
四人はいつもの自分の席につくと、弁当を広げ始める。
「げっ…………ここで食べるの? 四人とも?」
「げってなんだよ、げって」
「親と食べる年じゃないし~」
最後の信濃の言葉に笑ったのは、薬研だ。
「こいつ等は、親が来てない俺が一人で食べんの寂しいだろう、って勝手についてきたんだよ」
薬研の言葉に、さに子は目を見開いた。
(先生が言ってたお前もか、って……薬研のことだったんだ…………)
「ちげぇしっ! いい加減俺等だって大人だし、親と食べなくても良いだろって話しただろ!?」
「ハイハイ、後藤は大人だなー」
「厚! てめぇは最後までどうするか悩んでた癖に!」
「ウダウダしてたのは後藤だろ!?」
「二人とも子どもだなー」
「「親からキャラ弁貰って喜んでる信濃に言われたくねぇよ」」
「キャラ弁可愛いじゃんっ!!」
言い合いがどんどんヒートアップしていき、さに子は呆れて彼等から視線を弁当へ戻した。
(あ、そういえば……下向いても平気だ…………馬鹿な会話聞いたからかな)
四人に失礼な考えを抱きつつも、さに子は鮭のふりかけがかかったご飯を頬張った。
「田中も俺と同じ、だろ?」
弁当を食べ終えた頃、前の席に座っていた薬研が賑やかな三人に目を向けながらふとそう言った。
彼の顔は、さに子からは見えなかったが彼女は静かに「うん」とだけ返事を返した。
「…………そうか」
それが何に対しての問いだったのか、彼女は言われずとも理解していた。
さに子は、薬研が自分と同じように転入してきてから違うところばかり見てきたのに、ここにきて初めて同じ部分を見た気がした。
それは、彼女にとってあまり良いと思えない同類だったが、それでも何が同じなのか二人には分かっていた。
行事に親が来ない。
それを悲しんでるわけでもなく、親の事情を理解している。
だが、それは他人にとって理解されない。
この学校で、二人だけがその気持ちを分かり合えるのだと二人は気付いた。
不思議なことに、さに子は薬研が同じ気持ちなんだと分かった途端肩が少し軽くなるような、そんな感覚になった。
(変なの……変だと思ってた薬研と同じって、私も変なのかな……それは嫌だな)
そんなことを考え、少し笑う。
薬研との会話はもう終わり、彼は信濃から弁当の具を一つ貰っている。
そんな四人に目を向けた。
いつも言い合って笑っている四人を、どこか呆れた目で見ていたはずなのに、今日のさに子には四人が純粋に楽しそうに見えて羨ましく思えた。
「…………午後、の部」
さに子の言葉に、四人は笑っていた声を止めて彼女を見た。
「なに?」
信濃の声に、面と向かって言うのは恥ずかしくなってきて、慌てて弁当を片付けて教室の扉までさに子は走った。
「午後の部、頑張ってね!!」
そしてガラガラと大きな音を立てて教室の扉を開き、走る。
言い逃げだ。
しかし、走って一階まで降りた頃廊下まで響く大きな声で四人の「おぉっ! 任せとけーっ!!」という雄叫びのような声が聞こえて、さに子は足を止めて後ろを振り返る。
「声でかっ」
さに子にとって四人は純粋で眩しくて、ちょっと羨ましい。
そんな彼等を応援出来た自分が今までの自分とは違う気がして、さに子は笑った。
『それでは結果を発表します————勝者、大人チーム!!』
おっしゃー! と野太い男たちの声がグラウンドに響き、小学生たちは大人げないと彼等に盛大なブーイングを飛ばして、さに子の小学生最後の運動会は幕を下ろした。
「負けちゃったねー」
「そうだねー」
あっちゃんと片付けながら、でも面白かったねと感想を言い合う二人。
観覧席の椅子を重ねて片付けようとしていると、ふとさに子の後ろから大きな手が伸びてきた。
「よぉ、また会ったな」
白いスーツで、すぐにさに子はその人が薬研の知合いの人だと気付いた。
「どうも……」
「女の子には重いだろ? 俺等がやろう、長谷部手伝ってくれ」
長谷部、と呼ばれた男は丁寧な所作であっちゃんの持とうとしていた椅子を軽々と抱えて下駄箱の方へ歩いていく。
あっちゃんは慌てて道案内をしようと、彼を追いかけた。
「ほらほら」
さに子が持とうとしていた椅子もまた、彼に奪われる。
「いいですよ、私達のやることだから」
そう言えば、彼はきょとんと首を傾げてからニッコリと笑った。
「女の子は、男がやってくれると言ったら可愛く笑ってありがとう、と言えばいいんだ。それだけで男は代わり甲斐があるってもんだ」
「……甲斐がなくても良い場合はどうすれば?」
「…………ははっ! 俺が甲斐性なしになってもいいと?」
こくりと首を縦に振ると、男は盛大に笑った。
(? 甲斐がある、ってやった意味があるってことだよね? そんな必要ないって言いたかったんだけど、伝わってるのかな……笑われたけど)
「フラれたなー、悲しいぜ」
「では、半分持ちます」
「…………それじゃ俺が力なしみたいだな」
「それは「鶴丸の旦那、なーにしてやがる」」
この椅子を運ぶだけでこの問答。
どうすれば彼は引いてくれるのだろうかと悩んでいたさに子の元へやってきたのは、薬研だ。
すっとさに子を後ろに下がらせて、彼は男の正面に立った。
まるで庇われたようで、さに子は目を見開く。
「椅子を運んであげようと思ってな。だが女の子が中々うんと言ってくれないんだ」
「なんだそんなことかよ……俺はてっきりアンタがまた余計なことでもしてるのかと思ったぜ」
「余計なこととはなんだ」
「年関係なく口説いてんだと思った」
「口説かれると困るか?」
「旦那、年考えろよ。ロリコンは訴えられて終わるぜ?」
「うーん、けん制にしては甘いんじゃないか?」
「けん制なんかじゃねぇよ。アンタが捕まって頓挫したら、俺も困るだろ」
「相変わらず可愛げがないなぁ、薬研」
また何か変な会話を始めた二人に、完全に置いてけぼりにされたさに子はとにかく椅子を片付けたいのに進まないどころか、話が変わっていく状況に耐えられず手を上げた。
「あの! 椅子、片付けたいんです!」
「……あははははっ! 挙手されてしまったか、すまない」
丁寧に割り込んだつもりのさに子は、男にも薬研にも笑われて居心地が悪い。
「…………だって」
「悪かった悪かった。一緒に運ぼうな、それを一つもって俺を案内してくれ」
「俺が代わりに行くか?」
薬研が、さに子に代わり行こうかと打診してくれたが首を振る。
「ううん、大丈夫。こっちです…………えっと、鶴丸、さん?」
「あぁ、名乗ってなかったな。鶴丸で合ってるぜ」
鶴丸を椅子を保管しておく多目的室まで案内すると、部屋は開いていたが既にあっちゃんと長谷部という人はいなかった。
「えっと、椅子の数が……」
椅子の数は全部で四十あれば、これで戻すのは最後だ。
数えていると途中まで数えているとその手を取られる。
「今いくつだ?」
「え、あ、十七……」
「その下まで数えて二十三だったから、合わせて四十か。あといくついる?」
「四十で全部、です」
「なら終わりだな。よし、次の片付けに行くぞ」
さっさと部屋を出ていく鶴丸の後姿をぼんやり見ていたさに子は、父とも兄とも違う温かい手に、先回りして数を数えてくれたり、椅子を沢山持ってくれたりと、優しくしてくれる男の姿に戸惑った。
そんなことをされたことはないし、前住んでいた場所にもこんなに整った容姿の大人はいなかった。
(……そっか、これが大人っぽいとか、カッコいいなのか……なんか頭がぼんやりする)
「どうした?」
教室の扉から手招きされ、行くぞと楽しそうな鶴丸の声に彼女は笑って彼の後ろを追いかけた。
それから帰宅してお風呂に入っていても、布団に寝転がっても何度も何度も鶴丸がしてくれたことをさに子は脳内で再生していた。
(初めに会ったときは、頭撫でてくれて……椅子もってくれて、数数えてくれて…………私がしようとすること、先に分かって動いてくれてた……断っても、やってくれた)
温かく、キラキラするような嬉しい思いが、さに子の心を満たしていく。
(知らなかった。大人っぽいとかカッコいいって、何回思い出してもカッコいいんだ……鶴丸さんは見た目が綺麗で、でも細くて弱そうに見えたのに、カッコいい人なんだ)
段々と目が閉じていく中で、彼女はゆっくりと眠りについていく。
(運動会……去年と全然違うかったけど、楽しかったかも……)
友達の数が段違いに減ったり、親が来てくれないことを初めて嫌だと感じたことを含めても、皆と騒ぎ走った運動会は楽しかったと彼女は思った。
だが、その二日後の夕方さに子が帰宅すると、リビングが荒れていた。
まるで泥棒に入られたかのような惨状に、さに子がひっ、と小さく叫ぶ。
飾られていた母のお気に入りのランタンが床に落ち、バラバラになった場所を踏み付けるように母が立っている。
そして、それに向かい合うように立つ父は鬼のような形相をしていた。
「…………さに子は、二階にいなさい」
父の冷静な声も、さに子はこの時初めて聞いた。
いつも弱々しく、優しい声しか聞いたことのなかった父の冷たい声にさに子はバタバタと走って自室へ駆け込んだ。
暫くすると聞こえてきた喧騒や、何かが割れる音。
どれも酷く響き、さに子はベッドの布団に潜り込みイヤホンで音楽をガンガンにかけた。
それでも、音楽の合間には聞こえる親の叫ぶような怒鳴り声に、彼女は体を震わせながら耐えた。
どれ程そうしていただろうか。
彼女の震えが止まらないまま、日が完全に落ちた頃、ガチャリと扉が開いた。
「……起きてるか」
兄の落ち着いた声に、さに子はバサッと布団を剥いだ。
布団と一緒にイヤホンが耳から外れる。
起き上がるのと同時にボロボロと涙が溢れて止まらない。
「お、お兄ちゃ……」
泣き声が下に聞こえないよう、声を押し殺してなくさに子を、兄はゆっくりベッドへと腰掛け声が漏れないようぎゅっと妹を抱きしめた。
「……大丈夫だ。もう怖くない」
とん、とん、とぎこちなく背中を撫でられ、さに子は何度も頷いた。
「…………大丈夫だ」
兄は、何度も何度もそう繰り返した。
言われる度、さに子も頷いた。
何度も、何度も頷いているうちに、彼女は眠ってしまった。
完全に眠ったさに子をベッドに寝かせると、兄はスマホで誰かに電話をかけた。
『おぉ、どうした? 受ける気になったか?』
どこか楽しそうな声音の男性に、彼はチッと舌打ちをする。
『なんで怒ってるんだ? 受けるからかけてきたんじゃないのか?』
「…………いつからだ」
『……どんな心境の変化かは知らんが、大歓迎だぜ。明後日10時に、俺の会社に来い』
その言葉を聞き、彼は電話を切った。
まだ何か話したそうにしていた男の声は消え、彼にはさに子の寝息だけが聞こえる。
(あの親は駄目だ……もうもたない)
兄には、両親がうまくいっていないことが分かっていた。
ここに来て、母が爆発するであろうことも理解していた。
だから、彼は大学に行く気が初めからなかった。
高卒で働ける場所を探していたのだ。
(こいつだけは……)
さに子の前髪が目にかかっていたので、そっと払い退けてやりながら兄は優しく微笑んだ。
次の日、さに子が目を覚ますと兄が一緒に寝ていた。
「えー、一緒に寝る普通? お兄ちゃん、起きてよ」
さに子はベッドから降りて、雑魚寝している兄に声をかけた。
何度も声をかけ、ようやく目を擦りながら彼が起きたが、その目はぼんやりしたままだ。
「お兄ちゃん! 昨日はありがと! でも女の子の部屋にお兄ちゃんが寝てちゃ駄目だからね! 聞いてる?!」
パンパン! と手を叩きながら言うと、兄はぼんやりしたまま立っているさに子を見上げた。
「……兄妹だろう」
「性別の問題でしょ?!」
「………………別に襲わないから安心しろ」
さも当然のように言われた言葉の意味が分からないほど、さに子は子どもではない。
何しろ多感な時期、ふんわり習った保健体育が頭を過りさに子は顔を真っ赤にして兄の肩を強く叩いた。
「そう言う意味じゃないっ!! お兄ちゃんの馬鹿!!」
バタバタと部屋から出て階段を降りていく荒々しい音に、兄は小さく笑った。
「……元気みたいだな」
心配していたならそう言えばいいものを、この兄はそれを言葉にしない。
一方さに子は、朝食を食べる時も学校に行く道中もずっとプリプリ怒っていたのだが、教室に着く頃ふと思い出す。
(そう言えば、お母さん達のこと気にもしてなかった……無言、だったよね? 仲直りしてないのかな…………)
考え始めて思い出されるのは、何かが割れる音や両親の怒鳴り声。
さに子は、チクリとお腹が痛んだ。
まだHRまで時間があり、他の生徒は来ていない。
さに子は、誰もいない教室で突っ伏すことにした。
しばらくすると、何人かが登校してきたが眠いのだろうと、特に誰からも伏せていることを言及されず済んでいた。
「おはよう」
そうしていると、汗だくで薬研が登校してきた。
それを見て、さに子は少し腹痛が収まりほっとする。
理由がわからないけれど、彼女にとっては有難かった。
「おはよう。なんでそんな汗かいてるの?」
「走ったんだよ」
「……あぁ、寝坊?」
さに子に言い当てられた薬研は、ムスッとした顔でさに子を見て笑った。
「あぁ、他の奴には言うなよ」
「いやそんなこと言わないけど。意外〜」
「なんで?」
「真面目そうだから」
「俺が?」
「薬研が」
自分を指差しながら首を傾げる薬研に、彼女は薬研を指差して頷いた。
「……意外だ」
「それ私のセリフだって」
そういうと暫く薬研は沈黙していたが、後藤達がチャイムと共に登校してきたのを見てそちらと話し出したので、二人の会話は終了した。
「アンタそれ何回目よ。いい加減にしてちょうだい、お母さんだって好きで田舎に行くわけじゃないんだから」
ピシャリと助手席から冷たい声が刺さり、さに子はむすっとした顔のまま車窓へ目を逸らした。
黄色、赤色とカラフルな木々は益々彼女にここは以前の場所とは違うのだと思い知らせた。
以前は、家の近くの公園に行っても紅葉なんて見られなかった。
畑もなく、整備された道路、夜になってもネオン輝く歓楽街。
夜に出歩くことはなくても、窓の景色からマンションや色んなお店の明かりがついて、キラキラして見えていた世界が、ここにはない。
高い建物はなく、山や川、海、畑。
自然いっぱいのここは、少女にとってまるで異国の地のように感じられた。
「全く、何だってこんなド田舎に……」
さに子の母が、忌々しそうに呟く。
母と娘は、互いに思考が一致していた。
娘がそれを言う事に対しては怒ったが。
彼女の父親が仕事で左遷されたと、申し訳なさそうに深夜に帰宅して早々に母に告げていた弱い背中を思い出し、彼女は一つため息をついた。
「ちょっと、幸せ逃げるわよさに子」
今は何をしても母をイラつかせると理解した娘は、呆れ顔で息をひそめることにした。
(せっかく、小学校最後の一年なのに……)
本来であれば、仲の良かった子たちと同じ中学に進級するはずだった。
何人かは私立受験するとの話だったが、それでも遠くない。
中学になったら制服で、帰りにバーガーでも食べようね。
そんな話が思い出されて、さに子は悲しくなった。
(この見渡す限りの畑に、バーガー屋さんとかあるのかな……)
あったとしても、彼女が会いたいと願う友人たちが簡単に来られる場所ではない。
また、彼女が簡単に元いた場所へ行けることもない。
まだ義務教育期間中のさに子に、遠出に行けるだけの道順を知る術も金もなかった。
さに子は、ちらりと隣に座る兄を見た。
剣道部で全国大会へ出場したこともある兄は、室内競技なのに何故か日焼けした黒い肌。
普段から無口で何を考えているか分からない兄だったが、今回の引っ越しで彼女は更に兄の考えが分からなくなった。
高校二年で全国大会へ出場した兄は、今年の三年も当然のようにレギュラーで試合を待ち望んでいたはずだった。
だが、突然の引っ越しに彼は表情を変えず頷き、次の日には部活を辞めていた。
(そんな簡単に、諦められるものなのかな…………すごい、頑張ってると思ってたのに)
だが、本人にそれを聞いても何も言わなかった。
それは諦めも悔しさも気持ちとして言葉にしていないだけで、彼の本心は家族の誰にも分からない事だったのだが、さに子は言わないのは意見がないことなのだと思っていた。
『くりちゃんはねぇ、意外と負けず嫌いなんだよ』
兄をくりちゃんと呼ぶ仲の良いイケメンは、さに子にこっそり教えてくれたことがあった。
けれど今は、そのイケメンの言葉が本当だったのか彼女には分からない。
(どっちにしろ、イケメンさんとはもう会えないし聞けないよね……)
そんなことを考えていると、車がゆっくりと停車した。
住宅が点在していた場所から少し車で走ったところにある、割と大きな家だった。
少し洋風チックな白い柵に、雑草が生え放題の庭。
赤レンガの屋根に白の壁が薄汚れていて、如何にも昔の洋館に憧れていた人が作った家、と言わんばかりの外観だった。
だが、小学生の彼女にとってはそこはキラキラと輝いて見えた。
灰色やクリーム色の高いビルがぎゅうぎゅうに押し込まれた場所とは違い、そこは緑と青空を背景に建つ異国情緒溢れる外観は日本家屋のマンションしか知らない子どもの目を強く惹きつけた。
さに子は、昔買ってもらったお人形の家に似ていると思い、嬉しさに飛び跳ねた。
「家だーっ! マンションじゃない!」
一戸建てに自分の部屋がある生活に憧れていたさに子にとって、それはまず一軒家な時点でキラキラして見えたのだろう。
飛び跳ねて喜ぶ娘の姿に、左遷されてから右肩下がりで俯きがちだった父がようやく笑みを見せた。
「さぁ、入ろうか」
「すぐ潰れそうな中古住宅よ」
母の嫌味も、ワクワクとしているさに子には聞こえなかった。
以前住んでいたマンションは狭く、全員が同じ部屋に布団を敷いて寝ているような状態だったが、新しい家には畳がない。
さに子には、その時点でこの家は古くない!と喜んだ。
彼女の中では畳があるのが古い家、だった。
そうでないことを母が教えていないだけだ。
彼女もまた、同じ考えなのだろう。
晴れてマイルームが出来た彼女は、喜んで一日を終えた。
なんてことはない。
一つ良いことさえあれば、気分はすっかり晴れやかになる。
まだ新しく通う学校がどのような場所か知らないさに子は、明日を楽しみにスヤスヤと眠りについた。
次の日、お気に入りのワンピースを着て新しい小学校へ行ったさに子は、口をあんぐりと開けて目の前の光景を見た。
「……なんで」
「「「ようこそ!! 本丸小学校へ!」」」
全校生徒、合わせて十人。
同学年の六年生は、さに子ともう一人転入生がいるが合わせても六人。
しかも、女子はさに子ともう一人だけ。
彼女は明るい性格なのか、ニコニコと満面の笑みでさに子へ手を振っている。
教師も、全員で三人。しかもそのうち一人は校長先生らしく、よぼよぼとおぼつかない足取りで低学年の生徒に手を貸してもらって歩いている。
(これが、小学校……?)
なんでと言わずにいられない程、彼女にとって信じられない光景だった。
彼等なりに盛大に迎えてくれたつもりなのだろうが、如何せん十人。
折り紙で作られた飾りが教室にあっても、大きな教室にある机と椅子は十組。
前の方に席が設置されており、最早窓際の席で寝るという選択肢すらない。
彼女が悶々と考えている間に、生徒達の自己紹介が終わってしまい、次は彼女と同時に転入してきた男子生徒の番だった。
「薬研藤四郎だ。よろしく頼む」
古風で大人びた話し方をする子どもだと、彼女は思った。
「よぉ、薬研! 待ってたぜー!」
彼の自己紹介後、すぐに同学年の男子達に囲まれた彼は嬉しそうに笑っていた。
(なんだ、知り合いなのか……)
自分と同類の都会っ子と思っていたが、さに子はその時点で薬研藤四郎という男子のことを違う生き物だと判断した。
彼はさに子と同じように都会から初めてこのド田舎のサニワ半島へやってきたのだが、彼女にとって重要なのはそこではなかった。
ド田舎に知り合いがいる、その時点で彼は都会っ子ではないのだ。
「次、田中」
教師に名指しされ、一歩前に出る。
引っ越してくるまでは何度も自己紹介文を考えたりもしていたさに子だが、これだけ人数が少なくては緊張も何もない。
むしろ落胆の気持ちが色濃く出ている今の彼女の心境的に、この自己紹介はどうでも良かった。
「田中さに子です。よろしくお願いします」
無難すぎる自己紹介にも、生徒たちは大きな拍手をした。
けれど、さに子は何一つ興味が持てずつまらなさそうに視線を床に向けているだけだった。
(私、この先ずっと田舎で地味につまらない人生を送るんだろうな……嫌だなぁ)
昨日の憧れた一軒家にマイルームという幸せな出来事も、彼女の脳内からは泡のように記憶が消えていき、この先ずっとここで生きていかなければならないということに彼女は絶望した。
「え、コンビニもないの?」
帰り道、先生の付き添いの元生徒達は全員固まって歩いている中、さに子は帰りにシャー芯を買おうとした。
だが、コンビニって帰り道のどこにあるか隣の女子に尋ねたところ、ないと即答されたのである。
それにさに子が驚くと、男子生徒が笑ってコンビニもデパートも、バーガーすら何もないのだと言った。
「駄菓子屋ならあるけど、千代婆が最近腰が悪いって言って開けてくれないんだよ」
(千代婆って誰)
「あー、この前本島の病院行くって言ってた」
(本島ってなに)
「なー、薬研。お前ん家今日言っていい? 名主の家買い取ったんだろ、お前んとこ」
(名主ってなに……何か、知らない事ばっかり)
雰囲気的に彼らの言葉は分かるのだが、正確な意味が理解できず曖昧な理解しか出来ないのだ。
(……駄菓子屋の人は遠い病院で、薬研は金持ちの家に住んでるってこと、だよね?)
「こら後藤ー、そんな人様の家の事情ペラペラ話すなー」
「んだよー、でっけぇ家だったから一回入ってみたかったんだって!」
「いいぜ」
「よっしゃ!」
集団で帰るのは、彼等にとって通常で毎日こうだという。
六年生は下級生と手を繋ぎ、最後尾を先生がついてくる。
家では親に、学校では教師に、帰るときすら監視状態なのかと彼女はうんざりした。
(つまんない、つまんないつまんない……やってらんないよ、こんなとこ)
「ねぇ、さに子ちゃん?」
「……なに?」
同学年唯一の女子が先ほどからさに子の隣を歩いていたのだが、もうすぐ家に着くころになってようやく声をかけてきた。
だが、彼女はそれに対し嬉しくも何とも感じなくなっていた。
転校生、と言う言葉に少し浮ついていた気持ちも、引っ越してきた時に見た田舎の殺風景さと生徒の少なさが彼女の学校に対する期待を全て消し去ってしまった。
さに子は、この小学校で誰とも仲良くする気が無くなってしまっていたのだ。
当然、この女子とも仲良くしようなんて気持ちはこれっぽっちもないさに子は、素っ気ない態度で女子を見た。
「コンビニはないけど、文房具屋なら帰り道にあるよ? 案内しようか?」
「…………あー、うーん」
正直、コンビニでフラフラして帰りたいというか、この集団の輪から抜けて帰るための口実だったためにさに子はどう返事をしようか迷ったが、辻褄は合わせておくべきかと自身の財布の中身を念のため確認した。
(足りるかな……大丈夫そう)
「……うん」
彼女が首を縦に振ると、女子は嬉しそうに笑った。
「うんうん! じゃあ行こう! せんせー、さよーならっ!」
頷いた途端、女子は嬉しそうにさに子の手を取り集団の輪から走り去っていった。
当然、手を取られたさに子も全力疾走でその場から去っていくことになった。
「ごめんね、 急に引っ張っちゃって」
文房具屋へ連れて来てくれた女子は、シャー芯を探すさに子を見ながら消えそうな声でそう言った。
それに彼女が首を横に振ると、ようやく彼女はほっとしたように肩の力を抜いた。
一方、さに子はこの文房具屋の小ささにあまり驚いていなかった。
品揃えの少なさや、店内の小ささは彼女の予想通りだったとも言える。
(期待しなければ、ダメージも少ないもんね)
数は少ないながら、さに子がいつも使用しているものがあり、彼女はそれを手に取り一つだけ購入した。
いつも買うところより安かったことに気付き、今と前の場所と違うところを探してしまっている自分がいることをさに子は知った。
(……嫌になる理由ばっかり、目についちゃう…………よく考えたら、この子も私のこと考えて、さっき走ってくれたかもしれないのに……態度、悪かったよね。謝るべきかな? 今更かな……)
既に店の外に出ている女子の元へ行くと、彼女はいつの間にか何か買っていたらしい。
笑顔で、さに子に一つの袋を手渡した。
「これ! ここで文房具買う時はコレ食べて! 美味しいんだよ!」
彼女が渡してきたのは、棒アイスだった。
「キャラメル味好き?」
「うん、好き。いくらだった?」
お金を払おうと財布を出すと、女子はアイスを加えながら慌てて首を横に振った。
「いいよいいよ! 今日はね、嬉しいから!」
「嬉しいの?」
「そりゃもう!」
彼女の満面の笑みにつられて、さに子も笑った。
消え去っていた期待や、前の学校とは全く違う場所に戸惑っていた気持ちや寂しさが、少し暖かくなるのをさに子は感じた。
「…………私も」
「ほんと!? そうなら嬉しい! この島なーんにもないから、なんでも出来るんだよ!」
彼女の言葉に、さに子は声を出して笑った。
「普通逆じゃない? 何にもないのに、何でも出来るの?」
「やりたい放題だよ! 皆ウワサ好きだから、それさえ気を付けたら大丈夫!」
「ウワサ好きなの?」
「大人がね!」
「さっきの、後藤君とか?」
「あれはただの親の受け売り。薬研君家、前は名主さんが住んでたらしくって大人が金持ちが来たって噂してたのを聞いたんだよ」
(名主って、そんな凄いのかな……金持ちは何となく雰囲気でそうかと思ってたけど)
さに子は、後で名主を検索しなきゃと思った。
でも学校にいた時より、帰宅途中より、知らない言葉が出ても悲壮感に苛まれない自分がいることに、彼女は少しほっとした。
「なんて呼んだらいい?」
「皆あっこって呼ぶよ。さに子ちゃんは?」
「そのまんまが多いかなぁ。あっちゃん、って呼んでいい?」
「いい! そっちのが可愛い!」
さに子とあっちゃんは、二人して棒アイスを食べながらのんびりと歩く。
夏と違い、暑さは残るものの日が沈むのは早くなった。
夕陽がどんどん沈んでいき、二人の影が伸びていく。
その陰の距離は近く、二人の楽しそうな声が道々に響いていた。
その日の夜、あっちゃんと早速連絡を取っていたさに子。
テレビ電話をしながら、明日から始まる授業の範囲を聞いていたのだ。
教科書は既に届いていたため、新品らしい糊のような臭いがキツイ参考書に折り目をつけていく。
「国語はねー、この三行目のところがなんか大事みたいでマーカー引いてる」
「おっけー、なんか大事」
言いながら、さに子はあっちゃんの参考書と同じようにマーカーを引いていく。
「……そういえばさ、ここの子たちって皆中学はどこに行くの?」
兄が船に乗り高校へ通っていると聞き、さに子はまだ次が中学だがどこになるのだろうかと問うと、あっちゃんは一つしかないと言った。
「自転車で行くんだよ。さに子ちゃんの家からだと三十分ぐらいかなぁ」
「自転車で三十分!? 遠くない!?」
「そう?」
ここでさに子は、田舎の三十分は短いのだと認識した。
(きっと体力が違う……やばっ)
「あ、もー九時じゃん。続きはまた学校でやる?」
「うん、じゃーねー」
「おやすみー」
スマホの画面が暗くなり、さに子は別にそれほど嫌ではなくなりつつある明日の学校のために、早目にベッドに入った。
それから暫く、一か月もすれば彼女なりにここの生活にも慣れてきていた。
「薬研ー、先生呼んでたよ」
「おう」
彼女は、未だに彼の第一印象が途端に下がった経緯から、あまり彼が好きではなかった。
線の細い体に白い肌、その見た目とは裏腹に彼は実行力と行動力に溢れ、さに子と同時に転入してきたのにもう学級委員にもなっていた。
さに子は、何だか彼がいつも自分の想像する彼の見た目との人物像との差を見せられていて、それが気に食わないという思いが強かった。
(同じ転入生と思ったら、既に知り合いがいるし……弱そうに見えるのに、たくましかったり…………変な奴)
教室から出ていく彼の姿をぼーっと見送っていると、あっちゃんがさに子の元へ突撃してきた。
「ぐふはっ! ど、どうしたの……」
昼前の空きっ腹に突撃されたさに子は机に腹をぶつけられ、声と共に腹の虫も鳴った。
だが幸いなことに、人数が少なくとも賑やかな教室では音は誰にも聞かれなかった。
「今、薬研君と何話してたの?」
「先生に呼ばれてたよって伝えたんだけど」
「それだけ?」
「うん……なんで?」
「え? 別に!?」
チャイムが鳴り、あっちゃんが慌てて席へ戻っていく。
それを不思議に思いながら、さに子は次の授業の教科書を机の上に出した。
「おー、授業始めるぞー。チャンバラしてんじゃねぇぞ後藤! 厚!」
「チャンバラって言い方だせぇ!」
「つか俺等だけじゃねぇよ先生! 信濃も怒れよ!」
「僕もう座ってるもんねー」
「あー! きったねぇーっ!!」
「おら座れお前らーっ!!」
先生の檄が飛び、二人はしおらしく席に着く。
それを見ていた信濃がニヤニヤと二人を見ていたことで第二ラウンドが始まる。
授業が当分始まりそうにないいつもの光景に、さに子はぼんやりと黒板を見つめていた。
(あー、何か考えようと思ってたんだけど……何だったんだろう)
「いっつもぼーっとしてるな」
いつの間にか教室に戻っていた薬研に、顔を覗き込まれる。
「…………そうかな?」
「さっき、教えてくれてサンキュ」
「んー」
「先生、授業前に一個だけ言わせてくれ」
薬研はさに子から視線を外し、挙手をして先生にそう一言告げてから席を立った。
「皆、今日は放課後に運動会のこと決めるから残ってくれ」
彼の言葉に、男子達がワッと盛り上がった。
「っしゃー! 来た来た来た! 俺の一年で唯一の輝ける大会が!」
「後藤ー、先生はお前が勉強でも輝いて欲しいと切に願ってるぞー」
「やってやろうぜ! 今年も大人たちに負けねぇぞ!!」
後藤には残念ながら先生の言葉は届いていないようだったが、さに子はその後の厚の言葉に脳内ではてなマークを浮かべた。
「なんで、大人?」
「私達の学校は人数が少ないから、毎年運動会は島の大人対私達子どもなの」
「そうなの?! 勝てないじゃん!?」
「それがそうでもないの。競技によっては多少のハンデがつくし、走るのは子どもの方が早かったりするんだ」
「なんで?」
「大人は運動しないからだろー」
後藤は椅子を斜めにグラグラと揺らしながら、暢気にそんなことを言う。
「実際、去年は俺等徒競走は全部大人に勝ったもんな!」
「そうそう! ハンデなしだったんだよ!」
信濃の嬉しそうな声に、さに子はギョッとした。
(お、大人に勝てる脚力って……やっぱり田舎っ子恐ろしい)
生徒の少ない子どもたちにも楽しめるよう、島の大人たちが考えた案だったが近年リゾート開発などにより土地が減り、住民が激減した影響で若い大人たちがほとんどいなくなり、近年運動会に参加していたのは若くても四十代後半以降の人たちばかり。
中には七十歳で徒競走に出て、途中でこけて骨折したという事件もあったぐらいだ。
体力的には、子どもの方が断然ある。
結果、去年は勝てたわけなのだが。
「おー、お前ら。今年は油断すんなよ」
「なんだよ先生、去年負けたからって」
「今年はリゾート開発で来てる若社長が社員数人連れて参加してくれる、って話が出ていてな。嘘か本当かまだわからんが、そいつらがいりゃお前ら負けんぞー!」
「ふざけんな! そんなナヨナヨしてそうな奴等に俺等が負けっかよ!」
「そうだそうだ! 自然破壊してるような奴等になんか、ぜってぇ負けねぇぞ!」
先生の言葉は、良くも悪くも彼等の心に火をつけたらしい。
俄然運動会に燃え始めた彼等を見て、さに子は楽な競技に出たいと、心底嫌そうな顔をしていた。
「ちょっと今から作戦会議しようぜ!」
「何言ってんだ授業だよ授業!!」
何度も先生に怒られる後藤に、皆は笑った。
授業が始まると、前の席に座る薬研がちらりとさに子の方を向いた。
「…………なに?」
先生や周囲の生徒にバレないよう、自然と小声になる。
ぽいっと小さく折り畳まれた紙が投げられ、両手でキャッチする。
直ぐに前を向いてしまった彼に、ペンケースで先生から隠す様にして紙を開いた。
『運動会、嫌いなのか?』
さっきの嫌そうな顔を見られたのだろうかと、さに子は少し考えたが別に嫌いでも良いだろうと素直に返す。
すると、また紙が返ってきた。
『田舎、嫌い?』
『ヒマなの?』
好かれたいと思う相手でない時、人は自然体になる。
それは良くも悪くもリラックスした状態と言える。
『 ヒ マ 』
大きく書かれた字に、小さく笑う。
そんな強調表示しなくても、と思いながらも授業中はやっぱり暇なものだ。
さに子は周りにバレないよう表情をすぐに戻し、大きく書かれて他に書けないメモをペンケースに折り畳み隠してから、新しくノートの切れ端に文字を書いた。
『キライっていうか、つまんない』
『ふーん。田中って、兄弟いる?』
『いるよ。薬研は?』
『いる』
『何人? 私は一人お兄ちゃんがいる』
金持ちだという噂をあっちゃんから聞いたため、彼女の中では金持ちは大家族のイメージがあった。
家で見るドラマやアニメの影響だったのだろうが、普通に尋ねたそれに彼から返ってくる返事がやたらと遅いことが気にかかった。
授業はゆったりとしたペースで進んでおり、特にバレそうな気配もない。
それでも遅いメモに、さに子は少し不安に思った。
(なんで、遅いの?)
だが、そう思っているとメモが返ってきた。
何故だが、さに子は慌ててそれを開いた。
何が書かれているのか、何故今メモが遅かったのか。
何か深い理由があって、さに子は自分がそれに踏み込んでしまったのかもしれないと、漠然と不安に思ったからだ。
『たくさん』
だが、書かれていた紙に書かれた文字は人数でも、長い時間かけて書いたような文字数でもなかった。
(兄弟何人って聞かれて、答えがたくさん? 普通人数で答えない? 大家族ってこと?)
だが、ここでチャイムが鳴り授業が終了してしまい、さに子はそれについて詳しく聞き返すことが出来なかった。
(なんで? って、聞きにくい…………気になるのに、なんでだろう……)
さに子は、余白だらけのそのメモをそっとペンケースに隠した。
その後、放課後の運動会について話し合っている時に何度も薬研の方をさに子は見たが、とくに彼に真剣そうな雰囲気も、悲しそうな雰囲気も感じられず、彼女は余計に分からなくなった。
(なんでか分からないけど、なんで…………)
家に帰ってからも、宿題をしようと開けたペンケースから出てきた紙に書かれた『たくさん』という小学生らしからぬ達筆な文字は、さに子を混乱させた。
「……っていうか宿題! 宿題やらなきゃ!」
わざとらしく声を出して、メモは自分の机の引き出しの一番下に入れた。
何となく、彼女はそのメモを誰にも見せない方が良い、と思ったのだった。
それから数日後。
秋も深まる10月後半は、少し涼しい晴れやかな日。
絶好の運動会日和である。
「っしゃー! 行けーっ!! ンな奴に負けんな信濃ー!」
徒競走を走る信濃と、若いスーツの男性。
前を走るのは信濃なのに、男性より彼の方が走っていてツラそうだった。
そして終盤、最後のカーブに差し掛かったところで、男性は外から大回りして信濃を抜き去り一着。
人数の少ない運動会では、徒競走は走る組が二人。
つまり一対一の勝負である。
「くそーっ! 負けたあああああ!」
悔しそうに地面を叩き膝をつく信濃。
「良い勝負だった。その速さでまだ小学生とは、凄いな」
一着を取った男性がそう褒めたことで、信濃はいつものテンションを取り戻したのだが、彼の負けは他の男子達にも影響していた。
「やるな、あのリゾート連中」
厚のいうリゾート連中とは、このサニワ半島に半年ほど前から大々的なリゾート施設の開発が進行し始めており、その開発を進める大手グループのことだ。
大企業の御曹司がいるやら、彼らが土地を買い占めたせいで住民が大幅に減ったなど、島民にとって良くない噂ばかりが流れており、彼等リゾート開発に携わる人達は嫌われていた。
「校長の野郎、良い歳して負けず嫌いかよ! 何もあんな奴ら連れて来ることはないだろ!?」
男子連中がワイワイ騒ぐ中、さに子はテント下の日陰からみんなの状況をぼんやりと眺めていた。
「さに子ちゃん、次私達も出る番だよ」
あっちゃんの言葉に、さに子はキッチリと赤白帽を被った。
「次、何だっけ?」
近くに彼女がいると思い尋ねたさに子だが、あっちゃんは既に次の競技場所へ向かっていた。
「全員参加の玉入れだろ?」
さに子に答えたのは、薬研だった。
「あ、そうだっけ?」
「お前、プログラム見てねぇな?」
「……そんなこと、ないよ」
「目が泳いでるぞ」
「…………じゃ! 行こう、薬研」
彼の手を取り、無理やり引っ張って歩き出す。
どうせ彼にはさに子自身が運動会に興味のないことなんて知られているのだから、隠す必要はないと彼女の中では割り切っていた。
「お? 薬研じゃないか。女の子に手を引かれるなんて、情けないな?」
突然後ろから降ってきた声に二人が振り返ると、そこには運動会にふさわしくない真っ白なスーツを着た綺麗な男性が立っていた。
白のスーツなんて、普通ヤクザにでも見られそうなものだが、彼の場合は線が細く儚げな雰囲気が漂い似合っている。
彼に一瞬見惚れてしまったさに子と違い、薬研は深くため息をついた。
「……アンタまで来てたのか、鶴丸の旦那」
(…………薬研、また知り合い?)
また、とは以前転入初日から後藤達と知り合いであったことを指していた。
「こんな楽しそうなこと、長谷部にだけやらせてたまるか!? しっかし懐かしいなー運動会。こんな小規模は初めてだが、これはこれでいいな、うん」
見た目の儚げな雰囲気とは裏腹に、軽快明瞭な声で話す彼の姿にさに子は度肝を抜かれて声も出なかった。
(この人も変な人だ!)
さに子の中で描いた第一印象のイメージと違う人は、彼女の中では全て変な人である。
「その子は、お前の彼女か? 初々しいねぇ」
「勘違いするな、次の競技に行く途中なだけだ」
「……ふーん、まぁいいさ。薬研、お前の親父によろしく伝えてくれよ?」
「あぁ、勿論伝えるさ」
そんな会話をして、白スーツの鶴丸と呼ばれた男は校内へ入って行ってしまった。
「じゃあな、可愛らしいお嬢さん」
去り際に、彼は赤白帽を被った彼女の頭を優しく撫でていった。
(変な人なのに手がお父さんより大きくて、なんか優しい……)
そしてまた一つ、薬研の謎がさに子に増えた。
(ていうか、なんでお父さんの仕事関係の人と知り合いなの? 普通そんなことなくない? 私ないし、皆もある子なんていなかったのに……しかもこれも、なんか聞きづらいし)
ぐぬぬ、と唸るようにさに子は次の競技に、その言い表せない気持ちをぶつけた。
結果、球は明後日の方へばかり飛んで行きさ大いに足を引っ張ったが、後藤と厚、信濃が三人縦に肩車をして玉を入れるという反則技で失格となり負けた。
「そりゃ怒られるだろうよ」
こってり担任から怒られた三人がショボくれて戻り愚痴を零すと、薬研が呆れたようにそう言って三人を宥めている。
そんな様子をあっちゃんとさに子が見ていたのだが、ふとあっちゃんが小声でさに子に言った。
「薬研君ってあの三人より、なんか大人っぽいよね」
嬉しそうに聞こえたその声に、さに子はキョトンと首を傾げた。
「そうなの?」
「そうだよ! さっきの徒競走も薬研君は勝ってたし!」
それが大人っぽいのかどうか彼女には判断できなかったが、あっちゃんの言葉に取り敢えずさに子が頷く。
すると、あっちゃんの目がキラキラと輝き出した。
「だよね!」
嬉しそうに、本当に嬉しそうに言ったあっちゃんは、次の障害物競争に出るため席を立った。
それを見送ったさに子は、やっぱり首を傾げた。
(……変なあっちゃん)
そうして午前の部が終わり、さに子が教室に帰ろうとすると担任に呼び止められる。
「田中、お前の親御さんは? 見当たらなくてまだ挨拶出来てなかったんだよ」
「来てませんけど?」
さに子がそう言うと、担任はひどく驚いた顔をした後に眉をハの字にした。
「お前もか……じゃあ、昼は?」
「普通に教室で食べますけど?」
皆もそうだろうと、周囲を見てさに子は驚いた。
皆、親と一緒に座り色とりどりのシートが点々とグラウンド外周に敷かれ、個人個人の家族達で昼を食べているようだったからだ。
さに子の前の学校では、教室で皆食べていた。
それが普通だった。
だが、ここでは違うのだろう。
彼女はそこで、教師が驚いた後困った顔をした理由に気付いた。
(あぁ、親来なくて可哀想だと思われてるんだ……)
毎年両親は仕事で行事には不参加なのは決まっていて、それに困ったことはなかった。
他の子も、そうだったからだ。
だが、ここでそれは浮いてしまうのだろう。
今まで気にならなかったことを気にし出してしまうのは、さに子にはかなりのストレスだった。
(私、可哀想なの? 悲しくないけど、可哀想なの?)
担任にそう尋ねたくなる思いをぐっと堪え、さに子は担任に一礼して教室へ走った。
(ちがう、ちがうっ! 普通だよ、私普通だよ!)
教室の鍵は閉まっていたが、後ろの扉が開いているのは知っていたさに子は、そっとそこから教室へ入った。
カーテンが閉まっていて、少し薄暗い教室には誰もいなくて少し彼女はホッとした。
電気も付けず、数少ない席から自分の席につき弁当を広げ食べ始める。
彼女は上を向いて、冷凍おかずを口に含んだ。
下を向くと目にたまった涙が落ちてしまいそうで、とても嫌だった。
もぐもぐと静かに食べていると、段々複数の足音が近付いてきているのが分かりさに子は慌ててハンカチで目元を拭った。
すると、鍵がかかっていた前の扉がガチャガチャと動き開いた。
「あ? 電気も付けずに何やってんだ?」
入ってきたのは、厚藤四郎。
続けて信濃、後藤、薬研の三人も入ってきていつもの四人組だとさに子は少し息を吐いた。
彼等の後ろに親がついてきていないことが分かり、彼女はホッとしていた。
「面倒で……」
目が赤くなってないか気にしながら、さに子は彼らから視線を外しながらボソリと呟くように言った。
少し鼻声なことに自分で気付き、さに子は音が鳴らないように静かに鼻を啜った。
「しかも鍵開けてねぇし、後ろから入ったのかよ」
「だって面倒くさかったし」
「どんだけズボラなんだよ」
面倒、面倒と連呼していれば厚や後藤は聞きながら笑った。
四人はいつもの自分の席につくと、弁当を広げ始める。
「げっ…………ここで食べるの? 四人とも?」
「げってなんだよ、げって」
「親と食べる年じゃないし~」
最後の信濃の言葉に笑ったのは、薬研だ。
「こいつ等は、親が来てない俺が一人で食べんの寂しいだろう、って勝手についてきたんだよ」
薬研の言葉に、さに子は目を見開いた。
(先生が言ってたお前もか、って……薬研のことだったんだ…………)
「ちげぇしっ! いい加減俺等だって大人だし、親と食べなくても良いだろって話しただろ!?」
「ハイハイ、後藤は大人だなー」
「厚! てめぇは最後までどうするか悩んでた癖に!」
「ウダウダしてたのは後藤だろ!?」
「二人とも子どもだなー」
「「親からキャラ弁貰って喜んでる信濃に言われたくねぇよ」」
「キャラ弁可愛いじゃんっ!!」
言い合いがどんどんヒートアップしていき、さに子は呆れて彼等から視線を弁当へ戻した。
(あ、そういえば……下向いても平気だ…………馬鹿な会話聞いたからかな)
四人に失礼な考えを抱きつつも、さに子は鮭のふりかけがかかったご飯を頬張った。
「田中も俺と同じ、だろ?」
弁当を食べ終えた頃、前の席に座っていた薬研が賑やかな三人に目を向けながらふとそう言った。
彼の顔は、さに子からは見えなかったが彼女は静かに「うん」とだけ返事を返した。
「…………そうか」
それが何に対しての問いだったのか、彼女は言われずとも理解していた。
さに子は、薬研が自分と同じように転入してきてから違うところばかり見てきたのに、ここにきて初めて同じ部分を見た気がした。
それは、彼女にとってあまり良いと思えない同類だったが、それでも何が同じなのか二人には分かっていた。
行事に親が来ない。
それを悲しんでるわけでもなく、親の事情を理解している。
だが、それは他人にとって理解されない。
この学校で、二人だけがその気持ちを分かり合えるのだと二人は気付いた。
不思議なことに、さに子は薬研が同じ気持ちなんだと分かった途端肩が少し軽くなるような、そんな感覚になった。
(変なの……変だと思ってた薬研と同じって、私も変なのかな……それは嫌だな)
そんなことを考え、少し笑う。
薬研との会話はもう終わり、彼は信濃から弁当の具を一つ貰っている。
そんな四人に目を向けた。
いつも言い合って笑っている四人を、どこか呆れた目で見ていたはずなのに、今日のさに子には四人が純粋に楽しそうに見えて羨ましく思えた。
「…………午後、の部」
さに子の言葉に、四人は笑っていた声を止めて彼女を見た。
「なに?」
信濃の声に、面と向かって言うのは恥ずかしくなってきて、慌てて弁当を片付けて教室の扉までさに子は走った。
「午後の部、頑張ってね!!」
そしてガラガラと大きな音を立てて教室の扉を開き、走る。
言い逃げだ。
しかし、走って一階まで降りた頃廊下まで響く大きな声で四人の「おぉっ! 任せとけーっ!!」という雄叫びのような声が聞こえて、さに子は足を止めて後ろを振り返る。
「声でかっ」
さに子にとって四人は純粋で眩しくて、ちょっと羨ましい。
そんな彼等を応援出来た自分が今までの自分とは違う気がして、さに子は笑った。
『それでは結果を発表します————勝者、大人チーム!!』
おっしゃー! と野太い男たちの声がグラウンドに響き、小学生たちは大人げないと彼等に盛大なブーイングを飛ばして、さに子の小学生最後の運動会は幕を下ろした。
「負けちゃったねー」
「そうだねー」
あっちゃんと片付けながら、でも面白かったねと感想を言い合う二人。
観覧席の椅子を重ねて片付けようとしていると、ふとさに子の後ろから大きな手が伸びてきた。
「よぉ、また会ったな」
白いスーツで、すぐにさに子はその人が薬研の知合いの人だと気付いた。
「どうも……」
「女の子には重いだろ? 俺等がやろう、長谷部手伝ってくれ」
長谷部、と呼ばれた男は丁寧な所作であっちゃんの持とうとしていた椅子を軽々と抱えて下駄箱の方へ歩いていく。
あっちゃんは慌てて道案内をしようと、彼を追いかけた。
「ほらほら」
さに子が持とうとしていた椅子もまた、彼に奪われる。
「いいですよ、私達のやることだから」
そう言えば、彼はきょとんと首を傾げてからニッコリと笑った。
「女の子は、男がやってくれると言ったら可愛く笑ってありがとう、と言えばいいんだ。それだけで男は代わり甲斐があるってもんだ」
「……甲斐がなくても良い場合はどうすれば?」
「…………ははっ! 俺が甲斐性なしになってもいいと?」
こくりと首を縦に振ると、男は盛大に笑った。
(? 甲斐がある、ってやった意味があるってことだよね? そんな必要ないって言いたかったんだけど、伝わってるのかな……笑われたけど)
「フラれたなー、悲しいぜ」
「では、半分持ちます」
「…………それじゃ俺が力なしみたいだな」
「それは「鶴丸の旦那、なーにしてやがる」」
この椅子を運ぶだけでこの問答。
どうすれば彼は引いてくれるのだろうかと悩んでいたさに子の元へやってきたのは、薬研だ。
すっとさに子を後ろに下がらせて、彼は男の正面に立った。
まるで庇われたようで、さに子は目を見開く。
「椅子を運んであげようと思ってな。だが女の子が中々うんと言ってくれないんだ」
「なんだそんなことかよ……俺はてっきりアンタがまた余計なことでもしてるのかと思ったぜ」
「余計なこととはなんだ」
「年関係なく口説いてんだと思った」
「口説かれると困るか?」
「旦那、年考えろよ。ロリコンは訴えられて終わるぜ?」
「うーん、けん制にしては甘いんじゃないか?」
「けん制なんかじゃねぇよ。アンタが捕まって頓挫したら、俺も困るだろ」
「相変わらず可愛げがないなぁ、薬研」
また何か変な会話を始めた二人に、完全に置いてけぼりにされたさに子はとにかく椅子を片付けたいのに進まないどころか、話が変わっていく状況に耐えられず手を上げた。
「あの! 椅子、片付けたいんです!」
「……あははははっ! 挙手されてしまったか、すまない」
丁寧に割り込んだつもりのさに子は、男にも薬研にも笑われて居心地が悪い。
「…………だって」
「悪かった悪かった。一緒に運ぼうな、それを一つもって俺を案内してくれ」
「俺が代わりに行くか?」
薬研が、さに子に代わり行こうかと打診してくれたが首を振る。
「ううん、大丈夫。こっちです…………えっと、鶴丸、さん?」
「あぁ、名乗ってなかったな。鶴丸で合ってるぜ」
鶴丸を椅子を保管しておく多目的室まで案内すると、部屋は開いていたが既にあっちゃんと長谷部という人はいなかった。
「えっと、椅子の数が……」
椅子の数は全部で四十あれば、これで戻すのは最後だ。
数えていると途中まで数えているとその手を取られる。
「今いくつだ?」
「え、あ、十七……」
「その下まで数えて二十三だったから、合わせて四十か。あといくついる?」
「四十で全部、です」
「なら終わりだな。よし、次の片付けに行くぞ」
さっさと部屋を出ていく鶴丸の後姿をぼんやり見ていたさに子は、父とも兄とも違う温かい手に、先回りして数を数えてくれたり、椅子を沢山持ってくれたりと、優しくしてくれる男の姿に戸惑った。
そんなことをされたことはないし、前住んでいた場所にもこんなに整った容姿の大人はいなかった。
(……そっか、これが大人っぽいとか、カッコいいなのか……なんか頭がぼんやりする)
「どうした?」
教室の扉から手招きされ、行くぞと楽しそうな鶴丸の声に彼女は笑って彼の後ろを追いかけた。
それから帰宅してお風呂に入っていても、布団に寝転がっても何度も何度も鶴丸がしてくれたことをさに子は脳内で再生していた。
(初めに会ったときは、頭撫でてくれて……椅子もってくれて、数数えてくれて…………私がしようとすること、先に分かって動いてくれてた……断っても、やってくれた)
温かく、キラキラするような嬉しい思いが、さに子の心を満たしていく。
(知らなかった。大人っぽいとかカッコいいって、何回思い出してもカッコいいんだ……鶴丸さんは見た目が綺麗で、でも細くて弱そうに見えたのに、カッコいい人なんだ)
段々と目が閉じていく中で、彼女はゆっくりと眠りについていく。
(運動会……去年と全然違うかったけど、楽しかったかも……)
友達の数が段違いに減ったり、親が来てくれないことを初めて嫌だと感じたことを含めても、皆と騒ぎ走った運動会は楽しかったと彼女は思った。
だが、その二日後の夕方さに子が帰宅すると、リビングが荒れていた。
まるで泥棒に入られたかのような惨状に、さに子がひっ、と小さく叫ぶ。
飾られていた母のお気に入りのランタンが床に落ち、バラバラになった場所を踏み付けるように母が立っている。
そして、それに向かい合うように立つ父は鬼のような形相をしていた。
「…………さに子は、二階にいなさい」
父の冷静な声も、さに子はこの時初めて聞いた。
いつも弱々しく、優しい声しか聞いたことのなかった父の冷たい声にさに子はバタバタと走って自室へ駆け込んだ。
暫くすると聞こえてきた喧騒や、何かが割れる音。
どれも酷く響き、さに子はベッドの布団に潜り込みイヤホンで音楽をガンガンにかけた。
それでも、音楽の合間には聞こえる親の叫ぶような怒鳴り声に、彼女は体を震わせながら耐えた。
どれ程そうしていただろうか。
彼女の震えが止まらないまま、日が完全に落ちた頃、ガチャリと扉が開いた。
「……起きてるか」
兄の落ち着いた声に、さに子はバサッと布団を剥いだ。
布団と一緒にイヤホンが耳から外れる。
起き上がるのと同時にボロボロと涙が溢れて止まらない。
「お、お兄ちゃ……」
泣き声が下に聞こえないよう、声を押し殺してなくさに子を、兄はゆっくりベッドへと腰掛け声が漏れないようぎゅっと妹を抱きしめた。
「……大丈夫だ。もう怖くない」
とん、とん、とぎこちなく背中を撫でられ、さに子は何度も頷いた。
「…………大丈夫だ」
兄は、何度も何度もそう繰り返した。
言われる度、さに子も頷いた。
何度も、何度も頷いているうちに、彼女は眠ってしまった。
完全に眠ったさに子をベッドに寝かせると、兄はスマホで誰かに電話をかけた。
『おぉ、どうした? 受ける気になったか?』
どこか楽しそうな声音の男性に、彼はチッと舌打ちをする。
『なんで怒ってるんだ? 受けるからかけてきたんじゃないのか?』
「…………いつからだ」
『……どんな心境の変化かは知らんが、大歓迎だぜ。明後日10時に、俺の会社に来い』
その言葉を聞き、彼は電話を切った。
まだ何か話したそうにしていた男の声は消え、彼にはさに子の寝息だけが聞こえる。
(あの親は駄目だ……もうもたない)
兄には、両親がうまくいっていないことが分かっていた。
ここに来て、母が爆発するであろうことも理解していた。
だから、彼は大学に行く気が初めからなかった。
高卒で働ける場所を探していたのだ。
(こいつだけは……)
さに子の前髪が目にかかっていたので、そっと払い退けてやりながら兄は優しく微笑んだ。
次の日、さに子が目を覚ますと兄が一緒に寝ていた。
「えー、一緒に寝る普通? お兄ちゃん、起きてよ」
さに子はベッドから降りて、雑魚寝している兄に声をかけた。
何度も声をかけ、ようやく目を擦りながら彼が起きたが、その目はぼんやりしたままだ。
「お兄ちゃん! 昨日はありがと! でも女の子の部屋にお兄ちゃんが寝てちゃ駄目だからね! 聞いてる?!」
パンパン! と手を叩きながら言うと、兄はぼんやりしたまま立っているさに子を見上げた。
「……兄妹だろう」
「性別の問題でしょ?!」
「………………別に襲わないから安心しろ」
さも当然のように言われた言葉の意味が分からないほど、さに子は子どもではない。
何しろ多感な時期、ふんわり習った保健体育が頭を過りさに子は顔を真っ赤にして兄の肩を強く叩いた。
「そう言う意味じゃないっ!! お兄ちゃんの馬鹿!!」
バタバタと部屋から出て階段を降りていく荒々しい音に、兄は小さく笑った。
「……元気みたいだな」
心配していたならそう言えばいいものを、この兄はそれを言葉にしない。
一方さに子は、朝食を食べる時も学校に行く道中もずっとプリプリ怒っていたのだが、教室に着く頃ふと思い出す。
(そう言えば、お母さん達のこと気にもしてなかった……無言、だったよね? 仲直りしてないのかな…………)
考え始めて思い出されるのは、何かが割れる音や両親の怒鳴り声。
さに子は、チクリとお腹が痛んだ。
まだHRまで時間があり、他の生徒は来ていない。
さに子は、誰もいない教室で突っ伏すことにした。
しばらくすると、何人かが登校してきたが眠いのだろうと、特に誰からも伏せていることを言及されず済んでいた。
「おはよう」
そうしていると、汗だくで薬研が登校してきた。
それを見て、さに子は少し腹痛が収まりほっとする。
理由がわからないけれど、彼女にとっては有難かった。
「おはよう。なんでそんな汗かいてるの?」
「走ったんだよ」
「……あぁ、寝坊?」
さに子に言い当てられた薬研は、ムスッとした顔でさに子を見て笑った。
「あぁ、他の奴には言うなよ」
「いやそんなこと言わないけど。意外〜」
「なんで?」
「真面目そうだから」
「俺が?」
「薬研が」
自分を指差しながら首を傾げる薬研に、彼女は薬研を指差して頷いた。
「……意外だ」
「それ私のセリフだって」
そういうと暫く薬研は沈黙していたが、後藤達がチャイムと共に登校してきたのを見てそちらと話し出したので、二人の会話は終了した。
1/1ページ