加州清光

審神者は、仕事の手を止めガックリと項垂れた。


「……あー、壊れた」

「何が?」

「ウェブサイト開いてたんだけど、上のタブ出てこない。壊れた」


かちゃかちゃと、色んなキーボードを叩く審神者。

すると斜めでパソコン操作をしていた加州が立ち上がり、審神者の真横へしゃがんだ。

執務室は畳部屋であり、大きなテーブルの角で二人は斜め向かいになる形でパソコン操作をするのが通常となっている。

何かわからないことがあった時、すぐに聞ける距離だからだ。

審神者の左側にしゃがんだ加州は審神者のパソコンを真剣な眼差しで見つめた。


「……うーん、ちょっと触っていい?」

「お願いします」


マウスが右側にあるため退こうとすると、加州は審神者にそのままで良いと告げ、スッと手を伸ばしマウスを触り始める。


「…………っ?!」


彼が腕を伸ばし反対側にあるマウスを触ることで、彼との距離がぐっと近付いたことに驚いた審神者。

意識している。

これぐらいのこと、他の刀剣男子となら平気だったし、彼もまたそうだったはずだった。

なぜこんなに彼が近付くだけで、彼と話すだけでこんなに熱くなるようになったのか。

彼の修行後以降、審神者はおかしい。


「……本当だ。出ないね」


彼の声が、近い。

少し肩が震え、顔が熱くなるのが分かる。

加州にバレないよう、彼女は慌てて返事をした。


「でしょ?! 壊れたんだよきっと! 修理出さなきゃ」

「ちょっと待って」


オーバー気味な審神者のリアクションにも、加州は気付いていないのか画面を見たままだ。

タンッ、と彼がキーボードを一つ押すと画面上にツールバーが表示された。


「あ! 出た!」

「一時的だけどねー」


マウスで出てきたツールバーの中の何かを探す加州。


「これかも?」


彼がそれを押すと、上のタブが表示された。


「これーっ! やった! ありがと加州天才!」

「主より俺の方が機械詳しくなっちゃったからねー」

「さすが! 頼れる助かる完璧!」

「凄い褒めてくるね」

「可愛いしカッコいいし言うことないね!」

「褒め殺しじゃん」


画面に釘付けになり、どうやって直したのか確認する審神者。

加州は、その審神者の顔をちらりと盗み見ていた。





(主、顔赤いな…………)




「どのボタン押してたの?」

「……これ、Altだよ。これで一時的にだけどツールバーを表示させてから、表示のところでツールバーで出したいものをクリックするの」


彼の説明と動作で、どのボタンでどこにそれがあるのか理解した審神者は嬉しそうに何度も頷いた。


「なるほどねー。さすが加州」


彼女がそう言い終わると、加州の右手が審神者の頭上へ持ち上がり、彼女は目の前で加州が腕を上げた一瞬、動きが止まった。





「ぎゅーっ」





彼の声と、体が包まれる感覚。

ふんわりと、彼が好んで焚き染める香の香りがした。

包まれるそれは骨張っていて、同じ皮膚と皮でもこんなに固さが違うのかと、体が離れてから審神者は思った。

一瞬だったのか、何秒かだったのか、彼女には時間感覚がわからなくなった。


「へへ、主熱いね」

「…………そりゃあ、ね」


夏だから。と言葉を続けたつもりが、止まっていた。


(自分でも分かる。熱い。顔真っ赤だ絶対)


元の場所に戻り、パソコンへ視線を向けている加州。

カタカタと、彼がキーボードを打つ音だけが響く。

審神者は、よろよろとした動きで両手をキーボードに乗せるが頭が追いつかないから、体も動かない。


(ど、どうしよう……何がどうなって、なんで?)





「……主」


パタン、と彼がパソコンを閉じる。

そしてゆっくり、ゆっくりと両手を彼女の方へ広げる。


「…………おいで?」



これは誰だ。

こんな加州を、彼女は知らない。


いつもゲラゲラと大口あけて笑い合い、喧嘩腰に会話していた彼と違う。

戦場で真剣な眼差しで戦い、帰還してなお戦場へ戻ることを省みない真剣な彼とも違う。


耳に通り抜けた彼の甘く優しい声に、背中の下が疼いた。


「え、あ…………でも……」


仕事中であること、ここが誰でも入れる執務室であること。

これらは当然今の彼の言葉を退ける理由になる。

また、なぜ今彼が突然こんなことをしようとしているのか、真意が掴めていないのに動くことは彼女にとって不安でしかない。


「ん?」


彼は座ったまま広げた両手を少し彼女の方へ近付ける。

思わず審神者は、彼を見た。

目を見れば、彼の真意がわかるかも知れないと。

遊んでいるだけなら、茶化して終わりだと。



彼は、とても優しい目をしていた。


その目に見つめられるだけで、彼女は思考を奪われていく。

今していた仕事も、ここがどこかも分からなくなっていく。


「……あ、わ………」


私は、仕事の続きを。

言おうとした言葉は、果たして言葉になっていたのか。

審神者にはそれすら分からない。


「主」


心臓が、呼ばれるだけでバクバクする。

頭が強く脈打つ。





(……もう、どうにでもなれ!)





審神者は、思考を捨てた。


「………………し、失礼します!」


そして、加州の腕の中へと飛び込んだ。


(うわぁ! うわわわ!!)


異性に抱きつくことなど、そうそう無い。

彼女の脳内は混乱していた。

抱きついてしまったという事実と、付き合ってないのにという不安、何より彼の気持ちが言葉として紡がれていないのに、彼の目に吸い込まれてしまったこと。

後悔より自分のしたことが大胆過ぎたのではないかという恥じらいが優っていた。

それらの感情が、脳内ですら言葉にならない。

加州に抱きついてから、二人は一言も交わしていない。

審神者も勢いは良かったものの、抱きつく手や腕はやんわりと彼に触れる程度で、彼もまた同様だった。

抱きついて少ししてから彼は胡座をかき、足の間に審神者を迎え入れる。

着物で足が広げられない審神者は彼の間に座り、足を揃えて彼の左側へ下ろしていた。

座った状態だが、所謂お姫様抱っこの格好である。

どのくらい、そうしていただろう。

抱きついている状況に慣れてきて思考が追いついてきた審神者は、羞恥心に耐え切れず彼から離れようと身動ぎした。


(ごめーん、やってみたかったのー。これで切り抜けよう。今なら冗談で終われるはず! まだ!)


恥じるぐらいなら笑いに変えて終わりたい。

まだ、彼と距離感の保てる関係に戻れる。

そんな思いを、彼は一言で砕いて見せた。


「口吸い、して?」


審神者は泣きそうになった。

先程から、彼の一挙一動に思考も行動も全て破壊されるような衝撃。

困ったことに、彼のそんな一面を見ても審神者は嫌悪感を抱けない。

羞恥心は増すばかり。


(出来るか! と叫べる雰囲気じゃないが、するのは……いや無理!)


「…………主、お願い」


ボンッ、と自身の頭が爆発する音を審神者は確かに聞いた。


(どこからそんな甘い声出してるの?! 駄目だ、クラクラしてきた)


実際には、審神者の顔は抱きつく前から真っ赤なので音も特になく変わらないのだが、審神者の脳内は最早それどころではない。


「だ、でっ、わ…………」


だって、でも、私からなんてそんなこと。


「…………」


互いの背に手を添えた状態で、少し体が離れているせいで、ずっと近くに互いの顔がある。

審神者より少し高い加州は、少し顔を傾けて彼女へ左頬を向けた。


「じゃあ、頬。ね?」


彼は、長い睫毛を下げて目を閉じた。

微動だにしない彼に、もう審神者は覚悟を決める以外道がなくなる。


(頬ならまだ……そう! 欧米! ここは欧米! なら、頬でも口でもキスは普通!! アメリカンスタイルなのよ!)


まだおかしい審神者の脳内。

正常に戻る気配のないまま、彼女はそっと唇を加州の頬へ。

緊張のためか、少し唇が当たり離れていく。

アメリカンなリップ音は鳴らなかった。

審神者の唇が離れると、加州は傾けていた顔を戻し、目を合わせる。

そして、少し微笑むとそのまま彼女へ口付けた。


「「………………」」


互いの唇が重なる。

少しして離れると、加州は彼女の頬、鼻、額、頭へ口付けていく。


「可愛い」


とびきり甘く掠れた声が、彼女の左耳で囁かれる。

囁かれたのは耳なのに、頭から足までが痺れるような不思議な感覚を審神者は感じていた。


「……目、閉じて?」


何も考えられず、ただただ彼の言葉を聞く審神者。

だが、羞恥心がまだ残っていたのか少し顔を下げて目を閉じた審神者。

加州は少し笑って彼女の顎に手を添え、少し上へ向ける。

そしてまた、口付けられる。


何度も、何度も。


「……どうしよう、もっとしたい」


一度唇を離し、審神者を見ながら加州はうっとりと、そう言った。

その言葉に審神者は、ゴクリと唾を飲み込む。

自然と彼女は目を閉じた。

加州の右手が彼女の背を抱え込み、左手で彼女の輪郭から首にかけて優しく手を添える。

また口付けられる。そう審神者がドキドキしていると、廊下から数人の足音が聞こえてきた。

ビクッとした審神者が、目を開き目の前にいる加州から離れようと彼を押すが、彼はびくともしない。


「…………加州!」


小声で必死に訴える審神者に、加州は無表情のまま顔を近付けようとする。


「駄目だってば!!」


慌てて焦り、何とか彼から離れる瞬間、加州はニヤリと笑っていた。

その表情はすぐに消えてしまったが、審神者は確かに見た。


「残念」


そして小声でそう呟いた声が聞こえた。

だが、すぐに障子の向こうからへし切長谷部の声が聞こえ、居直り入室を許可する。


「第二部隊、只今帰還いたしました」

「……お疲れさまです。皆さんご無事で何よりです」


自分の声が震えていないか、彼女は気になって仕方なかった。

先程の今で、すぐ近くでパソコンを開き操作し始めた加州のことが見られない。


(残念ってなに? 加州は皆に見られて平気なの? なんでこんなことしたの? 私を好きなの? 私は加州を好きなの?)


グルグルと疑問ばかりが頭に浮かぶ。

へし切の報告を聞きながら生返事を繰り返していると、彼等が退室しようと動き出したのを見て、審神者は慌てて彼等と共に部屋を出た。


「加州、少しの間お願いします」


一緒の部屋で二人きりで居られなかった。

慌てて立ち上がろうとテーブルに手をついた審神者。

だが、立ち上がり手を離した瞬間、足に力が入らずよろけた。


「「「主!!」」」


刀剣達の声より早く、側にいた加州が審神者を支えた。

抱きしめるように触れられ、審神者はまたカッと顔が赤くなるのが分かった。


「ご、ごめんなさい……足が、痺れてしまったみたい」


加州含め、心配して駆け寄ろうとしてくれた他の刀剣男子にそう告げ、安心させる審神者。


「大丈夫?」


すぐ側で加州の声が響く。

本当は痺れてないことなんて、彼は知っている。

間抜けな姿を刀剣男子達に晒してしまったことも含め、二重で恥ずかしい。

審神者は何とか足に力を入れて踏ん張ろうとした。

すると、耳元に加州の顔が寄せられる。

彼が他の刀剣達に背を向けた形の為、彼が審神者に顔を近付けているようには見えない。


「腰抜けた? 立てる?」


クスクスと、小さく笑いながら彼女にだけ聞こえる声で言われ、審神者は先程の行為を思い出させられた。

足に強く力を入れ、彼の手を引き剥がす。


「……加州ありがとう、もう大丈夫です」


加州の横を通り過ぎ、他の刀剣達の元へ向かった。




「主はどちらへ?」

「……あ、えっと…………小腹が空いたので、干菓子でもと」

「では、一緒にお茶にいたしませんか? 先程遠征から帰還した鶯丸が、何やら万屋で良い香りの茶葉を手に入れたと言っておりましたので」

「ぜひ」


ウキウキと先に鶯丸へ伝えてくると去っていったへし切を見送り、トボトボと審神者は食堂へ向かった。


(ここでは全員平等に。付かず離れず程良い距離感で……をモットーにしてたのに)


言い出しっぺの自分が、加州にだけあのようなことをしてしまったことが彼女には自分でも信じられなかった。

だが、だからといって全ての刀剣に同じ事をすることも出来ない。


(……もう二度と、こんなことしないようにしなくちゃ)


そう思いながらも、加州とのキスが忘れられず暫くの間、私は悶々とした日々を送るのだった。
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